島津久基著
義経伝説と文学

第二部 義経文学(判官物)


 

第二章  義経伝説の集成としての義経文学―判官物の鼻祖『義経記』
 
第四節  作品としての『義経記』

『義経記』は無論史書ではない。純歴史小説とも呼び難い。歴史と伝説と叙事詩と小説との各々に跨っている。この点でやはり他の軍記物と性質を同じうしている。史料としての意義も岡部氏の見解の如く、全然一顧の値を有せぬとするのは少しく暴論に過ぎる。『保元』『平治』や『太平記』『曽我物語』等と同じ意味で、正史に一致する資料も相当に採られていることは、各伝説の條で考証した所によっても知られるであろう。唯『曽我物語』と共に個人の伝記中心という稍異なった形態を取ろうとしている点が他の軍記物と少し同型でないのである。今『義経記』の構成をその一生の推移を語る事件の進展という観点から概観してみると、先ず巻四の一「頼朝義経に対面の事」の終を以て、全篇は自ら前後の二期に大きく区劃せられていると言える。即ち前期は義経の生立時代、後期は義経の失意時代である(そして省かれた中期は、彼の得意、全盛の時代で、これは『平家』『盛衰記』で補はれ得る)。前期は更にそれを四小区分出来る。平治の乱に敗れた父義朝の都落に始まり、母常磐の苦節、牛若の鞍馬入、正門坊の勧告まで、即ち巻初から巻一の五「牛若貴船詣の事」までが第一段、吉次に伴われての奥州下り、元服と途中の出来事等を叙して、秀衡に対面するに至るまで、即ち巻一の六から、巻二の六までが第二段である。次に筆は遽に京に飛んで「鬼一法眼の事」(巻二の七)に移っているが、この一章は殆ど前後から遊離独立したような形をしている。次に巻三の一に入って弁慶の素性を説き出し、その誕生、幼時の乱暴、山門の脱走、洛中に千人の太刀を奪う事から、遂に義経と君臣の約を結ぶに至る巻三の六までが第三段、巻三の七、頼朝挙兵から巻四の一、義経が頼朝の軍陣に参会するまでが第四段である。

後期は硯を更めて、亡父の為兄に代って平家を討滅した凱旋将軍が、梶原の讒によって腰越に留置せられる後半生の悲劇の序幕から書き起し、ついで腰越の申状、土佐坊の堀河夜討、義経の都落、吉野山の別離、忠信の勇戦、静の鶴ヶ岡の歌舞と、次第に義経の運命の迫って来るのを覚えしめ、遂に再度の奥州下りとなり、荒乳山の嶮、三の口関、直江津の難、弁慶の智勇に辛く虎口を逃れること幾度、遙々平泉へ下著した隙もあらせず、頼みに思う秀衡の死去は、忽ち形勢を一変させ、波瀾重畳の過去の功勲も艱苦も、齊しく衣川の水泡と消え、長く高館の恨煙と立ち上るに至って、全篇の物語はクライマックスに達した。その後に添えた結尾の泰衡征伐の一章は、必然の筆の止まるところとはいえ、又父の遺託を虚しうして名主君を討ち奉った泰衡等の、時を遷さず所をも変えぬ覿面の報罰的自滅に痛快を禁じ得ず、筆誅と共に私に判官の為に欝を漏し、同時に自他を誡めた作者の用意の存するところである。

後期を段落に分けると、第一段は巻四の二から同巻の終までで、更にそれを二分して、二・三を第一、四・五・六を第二の小段にしてもよい。第二段は巻五及び巻六で、それを巻別に又前後両区分出来る。更にその前段の中、巻五の一から三までを第一小段、四・五を第二小段、六を第三小段とする。後段は巻六の一から三までが第一小段、四・五が第二小段、六・七が第三小段を成している。この第二段は唯勤修房をして義経弁護論を吐かせるだけで、筋の上では全篇に大きな関係はなく、鬼一法眼の條ほどではないが又一挿話の感がないでもない。これは同條の前後の素材を、『吾妻鏡』から採るに当って、この一條をも割愛するに忍びなかった、否作者の判官贔屓の熱意が特にこれを挿入させた為であろう。同小段の判官が南都へ忍び下ることは、全体の物語からすれば、僅々十数言で足りる筈であり、但馬の阿闍梨が斬られる一條の如きも、湛海或は弁慶との戦闘と十分に重複する。中期の戦功を省く勇気があれば、これを捨て去っても差支ないであろうと思われるのに、失意時代の判官を精叙し、且勤修房をして作者の代弁をさせたい為に、こうした構想上の組成の手腕を疑われても巳むを得ないような方図に出ているのであろう。兎も角この後段の方は第一小段は前段の第二小段を、第二小段は前段の第三小段を、そして第三小段は却って前段の第一小段を、それぞれに受けて、吉野山で三方に分散した第三小段を、そして第三小段は却って前段の第一小段を、それぞれに受けて、吉野山で三方に分散した忠信・判官・静の各々のその後の動静を叙して、それぞれの結びを附けたのである。最後に巻七の一から巻八の一までが第三段、巻八の二以下を第四段とすべきであろう(別表参照)。



『義経記』の構成と他の文学及び史実対照表

(前期)生立時代

 鞍馬入
 巻一/軍記物/謡・舞曲・狂言・御伽草子/吾妻鏡
  
1義朝都落の事/平治巻二、義朝敗北事・常磐注進・義朝青墓落著事・巻三、悪源太被誅事/
  2常磐都落の事/平治巻三、常磐被落事・常磐六波羅参事/伏見常磐(舞)/腰越状(巻四、元暦二年五月二十四日戊午)の文中所見
  3牛若鞍馬入の事/平治巻三、牛若奥州下事、盛衰記巻四六、義経始終有様事/〔附〕常磐問答(舞)笛之巻(舞)/巻一、治承四年十二月二十一日庚子、頼朝義経対面の條の文中所見
  4正門坊の事
  5牛若貴船詣の事/平治巻三、牛若奥州下事、(〔参考〕)太平記巻二九、将軍上洛事附阿保秋山河原軍事/〔附〕鞍馬天狗(謡)未来記(舞)

 奥州下
  6吉次が奥州物語の事//鞍馬出(舞)〔附〕関原与市(謡)
  7遮那王殿馬出の事/平治巻三、牛若奥州下事、盛衰記巻四二、屋島合戦・巻四六、義経始終有様事/鞍馬出(舞)〔附〕関原与市(謡)
  
巻二/
  1鏡の宿にて吉次宿に強盗入る事/平治巻三、牛若奥州下事、曽我物語巻八、太刀刀由来事
/烏帽子折(謡・舞)熊坂・現在熊坂(謡)〔附〕山中常磐(舞)山中常磐双紙(伽)
  2遮那王殿元服の事///烏帽子折(謡・舞)
  3阿野の禅師に御対面の事
  4義経陵が館を焼き給う事/平治巻三、牛若奥州下事
  5伊勢三郎義経の臣下に初めて成る事/平治同上、盛衰記巻四二、屋島合戦・巻四六、義経始終有様事
  6義経秀衡に御対面の事//秀衡入(伽)(舞?)/秀衡入(伽)(舞?)/秀衡入(伽)(舞?)

  7鬼一法眼の事//鬼一法眼(伽)湛海(謡)・皆鶴(伽)(舞?)〔附〕御曹司島渡(伽)

 弁慶伝
  巻三/
  1熊野の別当乱行の事//弁慶物語(伽)橋弁慶(伽)
  2弁慶生まるる事//弁慶物語(伽)橋弁慶(伽)
  3弁慶山門を出づる事//弁慶物語(伽)橋弁慶(伽)
  4書写山炎上の事//弁慶物語(伽)橋弁慶(伽)
  5弁慶洛中にて人の太刀を取りし事//弁慶物語(伽)橋弁慶(伽)橋弁慶(謡)
  6義経弁慶と君臣の契約の事//弁慶物語(伽)橋弁慶(伽)橋弁慶(謡)

 挙兵
  7頼朝謀叛の事/平治巻三、頼朝挙義兵事、盛衰記巻二〇、八牧夜討事・巻二二、佐殿漕会三浦事/
/巻一、治承四年八月十七日丁酉・二十三日癸卯・二四日甲辰・二十八日戊申・二十九日己酉・九月四日癸丑・
五日甲寅・六日乙卯・九日戊午・十三日壬戌・十七日丙寅・十九日戊辰・十月四日癸未・五日甲申
  8頼朝謀叛により義経奥州より出で給う事/平治巻三、頼朝挙義兵事//巻六、文治二年九月二十二日乙丑、忠信討死の條の文中所見
  巻四/
  1頼朝義経に対面の事/平治同上、盛衰記巻二三、義経軍陣来事//巻一、治承四年十月二十一日庚子
 

(後期)失意時代
 
腰越状
  2義経平家の討手に上り給う事/平家巻一一、腰越・巻一二、土佐坊被斬・剣巻/腰越(舞)/巻四、元暦二年五月十五日丁酉・二十四日戊午・九日庚申
  3腰越の申状の事/平家巻一一、腰越・巻一二、土佐坊被斬・剣巻/腰越(舞)/巻四、元暦二年五月十五日丁酉・二十四日戊午・九日庚申

 都落
  4土佐坊義経の討手に上る事/平家巻一二、土佐房被斬・剣巻、盛衰記巻四六、頼朝義経中違事・土佐房上洛事/正尊(謡)堀河夜討(舞)/巻五、文治元年十月九日戊午・十七日丙寅・二十二日辛未・二十六日乙亥
  5義経都落の事/平家巻一二、判官都落、盛衰記巻四六、義経行家出都/船弁慶・蘆屋弁慶一名四国落(謡)四国落(舞)〔附〕沼捜(謡)笈さがし(舞)/同巻、同年十一月三日壬午・五日甲申・六日乙酉・十一日庚寅・二十日己亥・二十五日甲辰
  6住吉大物二か所合戦の事/平家巻一二、判官都落、盛衰記巻四六、義経行家出都/船弁慶・蘆屋弁慶一名四国落(謡)四国落(舞)〔附〕沼捜(謡)笈さがし(舞)/同巻、同年十一月三日壬午・五日甲申・六日乙酉・十一日庚寅・二十日己亥・二十五日甲辰

 吉野山
  巻五/
  1判官吉野山に入り給う事/平家剣巻、盛衰記巻四六、義経行家出都並、義経始終有様事/吉野静(謡)/同巻、同月十七日丙申・十八日丁酉・十二月八日丁巳・十五日甲子、巻六、文治二年三月六日甲申
  2静吉野山に捨てらるる事/平家剣巻、盛衰記巻四六、義経行家出都並、義経始終有様事/吉野静(謡)二人静・法事静(謡)/同巻、同月十七日丙申・十八日丁酉・十二月八日丁巳・十五日甲子、巻六、文治二年三月六日甲申
  3義経吉野山を落ち給う事/平家剣巻、盛衰記巻四六、義経行家出都並、義経始終有様事/吉野静(謡)
  4忠信吉野に留まる事/平家(八坂本)巻一二、吉野軍/吉野静(謡)忠信一名空腹(謡)
  5忠信吉野山の合戦の事/平家(八坂本)巻一二、吉野軍/吉野静(謡)
  6吉野法師判官を追掛け奉る事///巻五、文治元年十一月二十二日辛丑

 忠信最期
  巻六/
  1忠信都へ忍び上る事/平家(八坂本)巻一二、吉野軍/愛寿忠信(謡)/巻六、同二年九月二十二日乙丑・二十九日壬申
  2忠信最期の事/平家(八坂本)巻一二、吉野軍/愛寿忠信(謡)
  3忠信が首鎌倉へ下る事

 勤修坊
  4判官南都へ忍び御出ある事///同巻、同年二月十八日丙寅・十月十日癸未・十二月十五日戊子
  5関東より勤修坊を召さるる事///巻七同三年三月八日庚戌

 鶴岡
  6静鎌倉へ下る事//静(舞)鶴岡・安達静(謡)/巻六、文治二年三月一日己卯・六日甲申・閏七月二十九日庚戌、同巻、同年四月八日乙卯・(〔参考〕五月十四日辛卯)・九月十六日己未
  7静若宮八幡へ参詣の事//静(舞)鶴岡・安達静(謡)/巻六、文治二年三月一日己卯・六日甲申・閏七月二十九日庚戌、同巻、同年四月八日乙卯・(〔参考〕五月十四日辛卯)・九月十六日己未

 奥州落
  巻七/ 
  1判官北國落の事/平家(八坂本)巻一二、吉野軍//巻七、文治三年二月十日壬午・(〔参考〕巻五、元年十一月十七日丙申)・巻八、同四年十月十七日己卯
  2荒乳山の事
  3三の口の関通り給う事
  4平泉寺御見物の事//安宅(謡)富樫(舞)
  5如意の渡にて義経を弁慶打ち奉る事//安宅(謡)富樫(舞)
  6直江の津にて笈さがされし事//笈さがし(舞)
  7亀割山にて御産の事
  8判官平泉へ御著の事/平治巻三、頼朝挙義兵事並平家退治事、盛衰記巻四六、義経始終有様事//巻七、文治三年三月五日丁未・九月四日壬寅
  巻八/
  1嗣信兄弟御弔の事/(〔参考〕平治巻三、牛若奥州下事・平家巻一一、嗣信最期・盛衰記巻四二、源平侍共軍附継信盛政孝養事)/摂待・鶴若(謡)八島(舞)/(〔参考〕巻四、元暦二年二月十九日癸酉)

 衣川合戦
  2秀衡死去の事/盛衰記巻四六、義経始終有様事/和泉が城(舞)錦戸(謡)/巻七、文治三年十月二十九日丙申
  3秀衡が子供判官殿に謀叛の事/盛衰記巻四六、義経始終有様事/和泉が城(舞)錦戸(謡)清重(謡・舞)/巻八、同四年四月九日乙亥・八月九日壬申・十月二十五日丁亥・十二月十一日壬申・巻九、同五年二月二十二日甲午・二十五日丁酉・二十六日戊戌・三月二十日壬戌・四月十九日辛卯・二十二日甲午・閏四月二十一日庚戌、巻九、文治五年六月二十六日甲寅
  4鈴木の三郎重家高館へ参る事//〔附〕語鈴木(謡)追懸鈴木(謡)生捕鈴木(狂言)
  5衣川合戦の事/平治巻三、頼朝挙義兵事並平家退治事、盛衰記巻四六、義経始終有様事平家剣巻/高館(舞)髻判官一名衣川・義経一名高館(謡)〔附〕含状(舞)野口判官(謡)/同巻、文治五年閏四月三十日己未・五月二十二日辛巳
  6判官御自害の事/平治巻三、頼朝挙義兵事並平家退治事、盛衰記巻四六、義経始終有様事平家剣巻/高館(舞)髻判官一名衣川・義経一名高館(謡)〔附〕含状(舞)野口判官(謡)/同巻、文治五年閏四月三十日己未・五月二十二日辛巳
  7兼房が最期の事
  8秀衡が子供御追討の事/平治同上・盛衰記同上(泰衡征伐物語)//同巻、同年六月七日乙未・十三日辛丑・二十四日壬子・二十五日癸丑・二十七日乙卯・七月十七日乙亥・十九日丁丑・八月七日甲午・八日乙未・九日丙申・十日丁酉・十一日戊戌・十四日辛丑・二十二日己酉・九月三日庚申・四日辛酉・六日癸亥・八日乙丑・十五日壬申・十八日乙亥・二十六日癸未等
 

備考 最上段の目次と巻数は『義経記』、下段に対照したのは同材を取扱ってあるもの。〔附〕とあるは類材又は関係ある素材を用いたもの。最下段は史実との対比。


 

以上前期では正門坊が半途立消え、鬼一法眼が遊離的に割込んでいる人物である他、吉次と弁慶とが稍主要の位置にあり、後期の前半(第一・第二段)は忠信が主で静が副となって活躍し、後半(第三・第四段)は寧ろ弁慶の独占場である。そして前半の静に代って後半には北方、久我大臣の姫君が奥州落の一行に伴って萬緑叢中一点の紅を添えているが、静ほど重な人物ではない。全篇を通じての総主人公は勿論判官義経であることを、又作者は常に忘れない。それから或一章又は数章に亘って中心となる大立物が新に出現する毎に、その人物の家系・性貌等を先ずその章の初に堂々と書き出すのは他の軍記物類と同様で、巻首の義経はもとより、正門坊・鬼一・弁慶・忠信等皆そうである。そしてこれらの副人物をすべて義経中心にそれぞれ結びつけてあり、判官の生涯に興味深く経緯させてあるので、この作品にふくまれている義経伝説を一瞥すると、既に各伝説の條にも挙げた通り、
 

常磐御前伝説。鞍馬天狗伝説暗示若しくは原形。奥州下向伝説。(巻一)
熊坂長範伝説異型。伊勢三郎出処伝説。鬼一法眼伝説(巻二)
弁慶(鬼若丸)生立伝説。橋弁慶伝説異型。(巻三)
腰越状伝説。堀河夜討伝説。不完全船弁慶伝説若しくは原形。(巻四)
吉野静伝説。忠信身替伝説。(巻五)
碁盤忠信伝説原形(愛寿忠信伝説異型)。静胎内?伝説暗示。鶴ヶ岡舞楽伝説。(巻六)
不完全安宅伝説(若しくは異型乃至原形)。笈さがし伝説。(巻七)
摂待伝説原形。弁慶立往生伝説。(巻八)


という風に、殆ど義経伝説の主要な項目を網羅している。唯これに見出し得ないのは、省略せられている部分の時代に属する鴨越え逆落伝説・逆櫓論伝説・弓流伝説・八艘飛伝説といった平家追討に関連するものと、その他に有名なものでは、『十二段草子』の内容をなす浄瑠璃姫伝説、『御曹司島渡り』に作られた島渡り伝説(〔補〕舞曲『含状』に見える含状伝説(但し『義経物語』には出ている))、それから後の発生に係る蝦夷渡伝説及び同系統に属する生脱説話群ぐらいなものである。だから夥多の義経文学中、『義経記』に許すに義経伝説の集録文学且同時に一代記風の判官物の始祖の位置を以てすることは極めて妥当でなければならない(個々としてでなく連続一括しての幸若舞曲の判官物が、同じく中期の武功時代を欠いて、殆ど異本『義経記』の観をなしている意味に於いて、これに次ぐものであろう)。

さて『義経記』は斯様に主人公義経の一生に就いて物語るのを目的としているのであるけれども、その眼目たる叙事の巧みさ或は精徹さに於て卓越しているのでもなく、或は説話構成に特に勝れた技能を示しているというのでもない。その舞の本・御伽草子式の通俗的で稚拙な文章に至っては到底『平家』『太平記』は勿論『保元』『平治』にすら追躡すべくもない。又人物にも事件にも、古今和漢を対比並叙する軍記物・謡・舞曲の慣行からやはりこれも脱せず、用語・比喩も大抵近古文学常用の定型に拠っている。敵の逃げ散るには必ず木の葉の嵐に吹き散らされるのが連想せられ(巻五・八)、意想外の行為は「如何なる天魔の勧めにやありけむ」(巻一・六)と断ぜられ、勇将の代表は常に田村・利仁・樊?・張良(巻一・二・四・五・六)、美人の典型は必ず楊貴妃・李夫人(巻一・二)と定まっている。その他前に室町時代の作品の慣用語句として挙げたような諸例を再び繰返して指摘せねばならない。

〔補〕ついでに、必ずしも稚拙というほどではないが、『義経記』の文章中一寸珍しい表現に時折遭遇する。
 

あはれこの人は源氏の大将軍にておはしますござんなれ。(巻二、鬼一法眼の事)
義経に心許しもせざりけるござんなれ。(同)


の「ござんなれ」の用例、或は
 

田原藤太秀郷は勅宣を先として、将門を追討の為に東國に下る。(同)
それは法眼のなのめならず重宝とこそ承りて候へ。(同)
法眼なのめならず寵愛の姫君。(同)


の如き、助詞「を」「と」「の」の使い方(かような用法は現行文法では誤とせられているのと、それが近来では新聞等では盛に用いられようとする傾向があるのが面白い現象である)。又単語では

我も人も世になし者の、ぢうじぢうように遇ふ事、常の習なり。(巻二、伊勢三郎義経の臣下に初めて成る事)
ちんじちうようにも遇ひ、又敵に首を取らせじとて……(巻六、忠信最期の事)
そのちうように南都を落ち給ひし間(同、関東より勤修房を召さるる事)
の「ちんじちうよう」(始の例は流布本には「ぢうじ」とあるが、恐らく「ちんじ」の転訛で、或は「珍事重用」か。『義経物語』にはやはり「ちんじちうよう」)、若しくは単に「ちうよう」(不慮の厄難の意らしい)、
……人の言う事耳のよそになして居たる大くわしよくの者なり。(巻二、鬼一法眼の事)
法眼はくわしよく世に超えたる人にて……(同)
衆徒くわしよく世に超えて、公家にも武家にも従わず。(巻五、義経吉野山を落ち給う事)
の「くわしよく」(過飾)、
 
所々に幸ひて皆上臘婿を取りて、……一人は鳥飼の中将に幸い給える……(巻二、鬼一法眼の事)


の「幸ふ」など、中世の用語・語法の好資料を提供する。

けれども割合に『義経記』には繁冗な文飾が少く、すらすらと平易にこだわりがなく、無造作な筆致のようであるが、その中に中古物語の流れを承けた抒情味と大まかな軍記物的な古典味が含まれて居り、且局部的には時折侮り難い生動した描写叙述がある。戦闘も情話もあり、教訓的な態度の間にユーモラスな軽妙も交えられ(特に弁慶に関する部分に多く、巻三の生立から義経との出会、巻四の堀河夜討、巻五の吉野落、巻七の荒乳山等はその例である)、朧げながら各人物の個性も描出されている(これも弁慶・鬼一・忠信など相当によく書かれている)。そして『曽我物語』と共に、主人公の生立から最期まで、これに絡まる事態の因由から結末まで、述べ尽される事が企図せられ、或人物を中心とする稗史的形態を略々成している点で注目せられねばならない。各人物の性格の複雑な展開、心理の精細な表現はもとより見られないけれども、作者の主人公に対する至純な終始変らぬ同情崇愛の情熱は、全篇に統轄的な力を以て臨んでいる。史実に公平冷静であることに叙述の意図を置かずして、義経の性格を完全化理想化し、その境遇の数奇を力説しようとする。だから前にも引いたように、土佐坊の斬られたのを「斬り給うこそことわりよ。現在の討手なれば」と敵の鎌倉方の侍共にまで共感させ、又頼朝の面前に勤修房と共に判官の情勇兼ね備えた大将軍である事を極言するのである。併しこの書の義経は飽くまで人間である。なお「毘沙門天わうの化身、文珠の再誕」(『御曹司島渡り』)でもなく、又、仙僧となって世を蹈晦する(謡曲『野口判官』)こともせねば、未だ北海の異域に生脱の神術を施そうともせず、勢窮り力尽きて衣川の館に骨を埋むる悲劇の英雄である。九尺の築土を中から跳び返るという離れ技だけは誇張されて記されるが、『御曹司島渡り』や『弁慶物語』に於けるほどの魔法使ではない。仁義礼智信を口にしても道徳の権化ではなくて寧ろ風流才人である。事実もそうであったろうが、静と別れを惜しみ、北方を北國落に伴う物の哀れ濃やかな優男である。而も六人の女房五人の白拍子と離れがたみ、四國落の船中に伴うを多情の人と言わば言え、「壇の浦の軍敗れて後、女院の御船に参会」(『盛衰記』巻四六)狼藉は、『義経記』作者の与らざる所である。そうしてこの叙事文学の全篇に亘って感激を以て高唱せられている人道主義的精神が、漸く目ざめかけようとしている國民の個人的自我の生活意識の中に合理化されようとする努力が、過去の物語の世界への憧憬の気分の中に消され難く動いているのが認められる。

更に最も著しい異色は、近古文学、就中軍記物特有の和漢の故事伝説の講釈挿話の殆ど無い事である。他の軍記物の中からその挿話的な故事伝説だけを拾出したら、優に新しい『著聞集』『十訓抄』を編する事の余りに容易であるほどであるばかりか、「無塩君の事」(『保元』巻三)「漢楚戦の事」(『平治』巻二)「蘇武」(『平家』巻三)「瓜生判官老母事附程嬰杵臼事」(『太平記』巻一八)「比叡山始の事」(『曽我』巻六)のように特に一章を設けて岐路
に入る事さえ珍しくないのである。而もこの点で、この意味では『流布本曽我物語』こそ最も典型的で、その弊救うべからざるものがある。巻五「五郎女に情懸けし事」から「巣父許由が事」となり「貞女が事」に移り、「鴛鴦の剣羽」の由来となり、いつの間にか物語の中心を離れて止まる所を知らず、突然「五郎が情かけし女出家の事」に還って来るかと思うと、忽ち五郎兄弟が敵を討って会稽の恥を雪ぐというところからその出典に及んで「呉越の戦の事」が又長々しく記され、更に前節の文中の一句の説明から『古今』序の文詞に附会せられた歌道伝説「鶯と蛙の歌の事」に飛ぶに至っては、読者をして呆然又倦焉たらしめる。寧ろ滑稽の極である(伝説資料として文化資料として、又物語(ナラテイヴ)の心理の多岐的な連想に遊動する素朴な無邪気な表現過程及び形態を考察し、叙事文学の史的展開を眺める上に於ての価値と興味とは自ら別であるが)。

『義経記』もやはり時代の所産として、この説法的訓蒙的風尚を脱却しているのでは決してない。併し説話としては何れも短く、而も大抵は或人物の談話中に比較的自然に採り入れられて、他の軍記物に於ける、作者の説明的故事来由の対照列記、若しくは無限の連想的流移或は飛躍による小題目の連鎖的講述ではなく、特に一節として掲げ出すような事は絶えて無いのである。物語中の人物の口を借りると言っても馬琴式の入念な煩わしさは無い。巻一「吉次が奥州物語の事」の吉次、巻五「吉野法師判官を追っ掛け奉る事」の條の弁慶、その物語講釈の適切を欠き幼稚に過ぐる嫌はあり、又巻七「三の口の関を通り給う事」の井上左衛門が下人平三郎が、『伊勢物語』の業平の「あねはの松」の歌などを引いて長々と述べ立てる歌舞伎の道化まじりの御注進もどきの案内記の如きは、愚にもつかぬ冗文ではあるが、慨して『義経記』の叙述態度は岐路に入る事が少く、全説話の統制に作者の注意が稍意識的に向けられているように感ぜられる。この点では『曽我物語』よりも一層歴史小説への歩み寄りを進めていると言われ得る。

要するに義経伝説の各々を集録且創成しつつ、一代記風の判官物の範を示し、従って後代文学に対して義経伝説の源泉淵叢たる地位を占めている一面、史伝小説の新生面を拓発しようとしたところに、『義経記』の面目と文学史的意義とが見出されると入ってよいであろう。

〔補〕  『義経記』と『義経物語』

最近高木武氏所蔵の『義経物語』というものが紹介せられた(『日本文学大辞典』「ぎけいき」の項参照)から、補説して置こうと思う。

『義経物語』は大形、江戸時代初期頃の古写八巻本であるが、併しこれとても流布本の『義経記』と全然別系統の異本と観るべき程のものではないのである。次に引用する巻頭の一節を、流布本の詞章と対比しても、その辞句の上の僅少の出入異同に過ぎないことが知られるであろう。
 

ほんてうのむかしをたづぬるに、たむら・としひと・まさかど・すみとも・ほうしやう・らいくわう・かんのはんくわひ・ちんへい・ちやうりやうは、ぶようといへども名をのみききてめには見ず。まのあたりにげいを世にほどこし、はんしのめをおどろかし給ふは、しもつけのさまのかみよしとものすえの子に、げん九郎よしつねとて、わがてうにならびなき、めいしやうぐんにてぞをはしける。


その他も特に巻八の一部と各巻時に流布本と異なる箇所のある他は、概して大同小異である。巻数も全く同じである。併しながら、この書には尚看過され得ない四五の点があることを指摘せねばならぬ。

第一は題号である。題簽に「よしつね物語 一」、内題に「義経物語巻第一」とある(毎巻同断)。この題名は全く珍しい。『義経記』が『判官物語』或は『牛若物語』という古名或は別名で呼ばれたらしいということは知られているが、『義経物語』と異称せられたという文献は未だ所見が無い。けれども『判官物語』と名づけられ、『牛若物語』と呼ばれる以上、『義経物語』とも称せられるのは極めて自然のことであろう。況や『義経記』の題号とは転換或は移植せられ得るに、一層の容易さと自然さとがおのづから存している。唯、その孰れが原名であったかは、猶即断は許されない。

第二は各巻章節を分たぬことである。この体裁上の同様式であることと、『義経物語』という題名の同型なのと、巻八の首(『義経記』では「嗣信兄弟御弔の事」の一節を欠き、同巻の結末が流布本と異なる点とによって、この書が『判官物語』の系統に属するものであることは推知し得られる。そしてこの章節を立てない体裁が、古い形のようにも一応は考えられるのであるが、一方又、『義経記』の章段の切り方も、大体に於いては当を得ていると言える上に、他の先進の物語や軍記物にも、章節が立てられているものが多いのであるから、この点のみで先後を決することも、少し早計に失するであろう。

第三はその巻八の結文である。流布本では、頼朝の奥州征討によって泰衡兄弟の滅亡した事を叙した末に、
 

親の遺言といい、君に不忠といい、悪逆無道を存じ立ちて、命も亡び子孫絶えて、代々の所領他人の宝となるこそ悲しけれ。さむらいたらん者は、忠孝を専らとせずんばあるべからず、口惜しかりし者共なり。


と擱筆して比較的単純である。然るに『義経物語』では、
 

おやのゆいごんをそむき、ひあんのまんしんにぢうして、はうぐわんをうちたてまつれば、わが身もほどなくほろび、しよりやうももつしゆのちとなりて、しんぶのぢとうめんめんになされけるこそあさましけれ。さればかいりきまさりたるおやのはからひゆいごんをたがへん人々は、けんらうぢ神にもそむけられたてまつるべきなり。


と稍冗漫な詞句になっている上、更に続けて
 

かかればかぢはらも、はうぐわんの御いきどをり□とて、一人ものこさず流人になりけると□。されば人はよくのいただきたかくして、しうをあざむけば、すなはちぢゃうごうのきはまるむくいなり。しうをあざむかず、おやのめいにしたがふ事人のためにあらず。むかしよしともを、おさだのしやうじうちたてまつれば、きよもりのくんこうに、やがてかうべをはねられける。世にはききつたへても、うんのつきぬれば、かかる心のいでくる事こそうたてしけれ。はうぐわんのばうこんあれたまひて、をんてきにくわはるもの、一人ものこさずとりころしたまふ事こそおそろしけれ。


という一節が添加せられているのである。この最後の一文は、流布本に欠けているのは脱落とも見られようが、この條の記事内容に徴する時は、少しく唐突の感がないでもなく、無理に接木したかの観すらあって、蛇足と言うも不可なきものであろう。けれどもこの一文のみを後人の加筆と見作すことは又許されない理拠が存する。この一節が判官讒言の応報としての梶原の没落に関していることそれである。即ちこれが抑もこの章の末文として唐突感を与える所以のものなのであるけれども、実は本書の作者からすれば、決して不用意に添加せられた蛇足では無くして、否、これこそ或意味では作者の言わんと欲する主要な辞句であったと思われるのである。本書製作の主動機が、恐らく其処にあったのではないか――そしてその点が流布本との相違の要点なのではなかったか――をすら思わしめる。何となればこの末文に示された作者の意図は本書の他の部分にも一貫して看取し得られるからである。例えば何と勤修坊の許に義経が滞留した條の文が『義経記』では、
 

判官申させ給ひけるは、度々仰せ蒙り候へども、今一両年もつれなき髻つけて、つらつら世の有様見んとこそ宣ひけれ。(巻六、判官南都へ忍び御出ある事)


とあるのに、本書では、
 

はうぐわん申させ給ひけるは、たびたびおほせかうぶり候へども、いま一りやうねんもつれなきもとどりをつけてこそ、つらくあたられける こそおそろしけれ。(かぢはらめに、さりともとそんじ候へと、おほせられける)


となっている。而も『義経記』の文の方が寧ろ単純且自然で、この方に却って原文らしさがあるのは如何であろう。更に事項に関連しても、上に下した推断の根拠が深められねばならない。

即ち第四に、これは結文ではないが、同じく巻八の、そして『義経記』では最終の章「秀衡が子供御追討の事」の初頭に相当する部分であるが、義経の首級が鎌倉へ到着した記事として、本書には、
 

しせつあだちの四郎きよたかは、くび共もたせてかまくら殿へはせまいる。かまくら殿はさすが御きやうだいの御事なれば、あはれとやおぼしめされけん。さてあるべきにあらざれば、くびのじつけんにさだまりぬ。され共やけたるくび共なれば、はうぐわんとのの御くびを、さうなく見わけたてまつらず。かぢはら申けるは、はたけ山殿はさりとも見わけさるべしと申ければ、いそぎめされけり。しげただ御ぜんにまいり、御まへにありけるくび共をとりあげ、つくづくと見たてまつり、あるくびをとりあげ、かうがいをぬきて御くちをおしあけて見、これこそうたがひもなきはうぐわん殿の御くびにて候へとて、はらはらとぞなかれける。さすがよりともも、御なみだをぞながされける。しかればはうぐわんの御くちのうちに、一つうの文をぞくわへ給ひける。はたけ山これをとり、御まへにかしこまり、たからかによみあげたてまつれば、そのほか大みやうせうみやう、みななみだをぞながされける。よりともいよいよ御らくるいかぎりなし。はうぐわんのけうやうには、くれぐれかぢはらふしがかうべをはねられ、よしつねがしやうりやうにくだしあづかるべし。しからずはあくりやうとなつて、たうけをほろぼしたてまつらんとかかれけれ。やがてきりてもすてばやとおぼしめしけれ共、たびたびのちうせつふかきものなれば、しざいにもおこなひ給はず。うむのきはめのかなしさは、まとのまへをとをるとて、いころされてしににけり。これひとへにはうぐわんどのの御いきどほりと人々申あひけり。


と見えている。この史実は『吾妻鏡』(巻九、文治五年六月)にも、
 

十三日辛丑。泰衡使者新田冠者高衡、持参予州首於腰越浦、言上事由。仍為加実験、遺和田太郎義盛。梶原平三景時等於彼所。各著甲直垂相具甲冑郎従二十騎。件首納黒漆柩浸美酒、高衡僕従二人荷担之。昔蘇公者自担其■(米+侯)、今高衡者令人荷彼首。観者皆拭双涙、湿両衫云々。
 
と出ているのに応ずるのではあるが、内容からも表現からも、明らかに近代的な感じが濃く、『義経記』の原形としては十分な疑惑が懸け得られる。且上の文中、高館の含状の伝説が語られてあるのが、却って原文の痕跡を稀薄ならしめる。同伝説は腰越状伝説の転化又は派生と考えるのが穏当であり、その発生は寧ろ江戸時代(少くとも室町末)に属するのではないかと思われるのであるが(〔補〕舞曲にも『含状』があり、『金平本義経記』にも含状の文詞は見えているが、梶原成敗の悃願が主部を成すことはすべて同じである)、萬一本書に原から上の一文が含まれていたとすれば、本書を以て『義経記』流布本より新しいものと見作すのでなければ、含状伝説の成形の時期を更に引上げねばならぬこととなるのである。

そしてこの部分の『義経記』の文を対比すると、前章「兼房が最期の事」の末段「……焼死するこそ無慙なれ」を受けて、僅に

かくて泰衡は判官殿の御首持たせ鎌倉へ奉る。とだけの簡単なものである。之に続けて「頼朝仰せけるは、抑もこれらは……」と頼朝が怒って泰衡の使者を斬り、奥州追討の命を下すという叙述に移るのもよく統一している。それが『義経物語』の方では、「……ほのほに入こそふびんなれ」と兼房最期の略々同文の記述から、前掲の一節に続き、更に「しかれば」という接続詞によって、「かまくら殿のたまふやう、これらはふしぎのやつぱらかな……」と、又『義経記』と略々同文の一節に連繋せられている。この梶原に関連した含状の一段が、後の挿入に係るとしても、この條の前後の記述に毫も破綻撞著を来さないのみか、却ってそう考える方に無理が無いほどに、流布本の文が整っている。「しかれば」の一句の如きも、この一段の讒入の無理を曝露しているかに見える。

なお前項にも論じたように、梶原についての報復思想が、此処でも強調せられ、この点のみは『義経物語』に於いて一貫している(『義経記』にもそれが出ていないと言うのではない。併し決して本書のように露骨で強烈ではない)。そしてこの事に触れた箇所が特に流布本と異なった詞句を含む部分であることは、本書の価値を批判する上に、相当重要な契機をなすものと考えられる。即ち判官贔屓が愈々深厚となり、げぢげぢ梶原に対する国民的憎悪の極端化した江戸時代初頃(少くとも室町中期以前ではあるまい。舞曲などから漸次この傾向は見えかけて来ている)に、この意識の下に『義経記』が更に部分的に敷衍改変せられたものが『義経物語』であるとも見られなくはないと言えるのである。

が、仮にそうであるとしても、本書の価値は又別にある。即ち第五に、仮令『義経記』が敷衍せられ、膨大して本書を成形したことが真であっても、それは現行板本乃至その底本が敷衍せられたのではない確証があることである。何となれば、本書の流布本と異同ある部分は、梶原関係以外の箇所にも亘って居り――勿論、梶原関係以外の部分は、内容的には甚だしい変動はないようで、主として脱行或は辞句の上の差異であるが――、そして坂本の誤脱を補正し得べき場合が屡々あるからである。

例えば坂本は巻一「義朝都落の事」の義朝の敗北が、「平治元年二月二十七日」となっているが、本書では「十二月二十七日」とあり、『平治物語』(巻一・二)とも一致している。而も『義経記』の古活字本及び古写本(家蔵)にも「十二月二十七日」と明記せられているから、通行板本に「十」の一字を脱していることは明白である。巻四の腰越状の文詞も坂本は『吾妻鏡』所載のものに比べると誤脱があるが、本書の方は比較的それが正しく一致している。又、巻七「大津次郎の事」の一節が坂本には
 

白鬚の明神をよそにて拝み奉り、参河の入道寂昭が詠みける、
  鶉鳴く真野の入江の浦風に尾花なみ寄る秋の夕暮
と言いけんふるき心も、今こそ思いしられけれ。


とある。「鶉鳴く」の歌は、誰も知る源俊頼の名吟で、
 

堀河院の御時、御前にておのおの題をさぐりて歌つかう奉りけるに、簿をとりて仕うまつれる


と詞書して、『金葉集』(巻三、秋)に出ている(『金葉集』には三句「浜風に」となっている)。之を入唐伝説で有名な大江定基の寂昭法師に附会したのは滑稽であるが、『義経物語』では、「参河の入道云云」でなくて、単にまののうらすぎ給へば」とあり、この方が原文らしく推測されるのである。

又、『義経記』中重要人物の一人で、巻初には相当活動している四條上人の終が、板本では少しく漠然としている憾があるが、本書では巻三に、上人は捕えられ、義経は奥州へ遁れた事を記したまでは流布本と同様であるけれども、その次に
 

さても四でうのしやうもんばう、六はらにてとかくきうもんせられけれ共、ついにおちざりければ、六でうがはらにてきられぬるこそふびんなれ。かくて九郎御ざうしは、あふしうにてとしをへ給ひけるほどに、御とし廿四にぞなりたまふ。


という一節が見えているので、首尾がよく通っている(但しこれは後の敷衍とも見られなくはない)。それから巻八「鈴木の三郎重家高館へ参る事」の起首が、板本では突如として「重家を御前に召され」とあり、前章にも重家に関して何等記載が無いのが訝しいのであるが、本書では
 

さても物のあはれをとどめしは、すずきの三郎しげいえにてとどめけり。都のかたほとりにありけるが、はうぐわんとのをこひしのびたてまつり、はるばるのみちのほどをわけくだり、七十五日にくだりつき、けふのかせんに一ばんに、うちじにつかまつりけるとかや。すずきの三郎を御まへにめし……。


とあるので、兎も角一段明瞭にはなる。巻六「静若宮八幡へ参詣の事」の静舞楽の一節に至っては、
 

鎌倉殿、白拍子は興さめたるものにてありけるや。今の舞ひやう歌ひやうけしからず。頼朝田舎に住みなれしかば、聞き知らじとて歌いける。賎のをだまき繰り返しとは、頼朝が世尽きて、九郎が世になれとや、あはれおほけなく覚えし人の跡絶えにけりと歌ひたりければ、御簾を高らかに上げさせ給ひて、軽々しくもほめさせ給ふものかな。


とある板本の文は、如何にしても意が通ぜず、明らかに脱文を思わせるが、本書では、
 

……あはれおほけなくおもひたる物かな。よし野山みねのしら雪ふみわけて入にし人のあとたえにけりとうたひたりければ、みすをたからかにあげさせ給ひて、かろがろしくもほめさせ給う物かないふかさきもあり。


とあるので初めて幾分か整備して来るのである。但し本書の文でも「……おもひたる物かな」の下に、尚脱漏があるのではないかと思われる。「いふかさきも云々」も解し難い。尚又、この次には、頼朝を始め見物の人々が、争うて禄の物を山と積み、長持六十四枝に及んだのを、静は貪らずして、判官父子の孝養に神仏に寄進したこと、堀藤次親家が頼朝の命を受けて、静母子を京まで送ったことを、長々と記した流布本に無い叙述があるが、そのままが古本にあったか多少疑問の余地もあるような文詞であり、且、この段の結文(巻六の終)静往生の條が、

つぎのとしの秋のくれには、しうんたなびき、をんがくそらにきこえて、わうじやうのそくわいをとげにけり。ほどなくとも(ぜんじも)にわうじやうしけるとかや。


と、流布本より拙劣な形になっている点からも、一概に本書の方が整っているとも定められない。上の文の如き、『義経記』の他の部分の文勢に看て、却って後世の俗悪に堕した姿態とすべきが穏当かと思われる。巻二の鬼一法眼の條の結文も流布本の方が善く、巻一の常磐の容色及び清盛との関係を叙した文も流布本より稍詳しいが、これも後の潤色とも見られるような感じがする。

以上考察した所によって、『義経物語』はその後世的著色の部分を除けば――この除去は余り大きな困難なしに可能である――少くとも、流布本と一致した記事内容の部分に就いて言えば、流布本の原形を察知し得べき手懸りを与える絶好の資料を提供しているものと言いたいのである。この書それ自身は或は比較的新しいものかも知れないが、この書の母本は――必ずしも直接的関係でなくても――必ずや又流布本『義経記』の根元をなす母本でもあるべきことが確認せしめられるのである。この意味に於いて本書の出現は慶ぶべきものと言わねばならない。

即ち『義経物語』は『義経記』の異本ではなくして、『義経記』の一本――『判官物語』の系統に属する――である。そして概して流布本より増大して居り、又文詞も流布本の方が善い箇所もあるが、本文校訂上、及び成立研究上には甚だ貴重な参考本である。唯、後世的着色と推定し得べき部分を外にしては、『義経記』の内容論には殆ど大きな影響を及ぼさないものと言ってよい。
 

第二部 義経文学(判官物 第二章  了
 
 
 
 



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2001.12.1
2002.3.9 Hsato