島津久基著
義経伝説と文学

第二部 義経文学(判官物)


 

第二章  義経伝説の集成としての義経文学―判官物の鼻祖『義経記』
 

第三節 「義経記」と他の近古文学

次に『義経記』とこれに交渉ある他の近古文学の主なもの――特にその或ものは『義経記』の成立にも密接な関係があると思われる――とを対比して、その内容・文章上の関係を考察し、同時に『義経記』の特色及び近古文学に於ける位置を明らかにしてみようと思う。

一 『義経記』と『平家物語』『源平盛衰記』及び『平治物語』(〔補〕『保元物語』)附『吾妻鏡』

『義経記』の読者は既に『平家』『盛衰記』の読者であることが明らかに予想せられてあると思われる。堀河夜討の條や吉野山忠信勇戦の條やに看ても、銭湯の叙述描写が決して全然迂拙であるが為に、二書に譲って中期の武功時代を省略したのでなく、作者の目的は寧ろ初から此等の書に無い又は詳しくない義経の前半生と後半生とを、同情と興味を以て綴り出そうとする所にあったのであるようで、この点でも両書の既存が肯定せられねばならぬが、『平家』(巻一一)『盛衰記』(巻四一)の例の逆櫓論乃至先陣争の梶原が遺恨は、前に些しもその記述が無いのに『義経記』(巻四、義経平家の討手に上り給う事)では周知の事項としてこれに言及し、且、
 

あはれこれは梶原奴が讒言ござんなれ。西國にて切りて捨つべき奴を、哀憐を垂れ助け置きて、敵となしぬるよと、後悔し給えども甲斐ぞなき。


というのは、どうしても該事件の知悉を予め読者に要求していることが看取せられる。吉野落の條で弁慶が逆さ履の講釈をする際にも、これを笑殺しようとする判官に向って「さてこそ君は、梶原が舟に逆櫓という事を申しつるに御笑い候ひつる」とも言っている(巻五、吉野法師判官を追っかけ奉る事)。

上の梶原讒言の條が『平家』『盛衰記』の記事を予想しているのみならず、同じく『平家』(巻一二)、特に『長門本』(巻一九)、『盛衰記』(巻四六)等の景時讒訴の詞辞に無関係であるとなし得ぬほどよく相応ずるものがある他、巻三(頼朝謀叛の事)の頼朝及び洲の崎瀧口大明神の歌は『盛衰記』(巻二二)、『長門本平家』(巻一〇)等に載せてあって、神詠の上句が少し違っているだけであり、又『盛衰記』(巻四六)の判官が西國落に別れを惜まうと忍んで来た折に「つらからば我もろともにさもあらで」と詠んだ平大納言時忠の息女の歌は、『義経記』(巻七、判官北國落の事)では奥州落の時一條今出川に訪れた北方(久我大臣殿の姫君)の許の障子の引手のもとに書かれて「我も心の替れかし」となっている。腰越状も『平家』(巻一一)乃至は『吾妻鏡』(巻四)、堀河夜討も『盛衰記』(巻四六)『平家』(巻一二)(或は『吾妻鏡』(巻五)も)が参考せられたに違いない。又『義経記』(巻四、義経都落の事)の菊池次郎が判官に味方せぬ為弁慶等に夜討せられて自殺する事は、『長門本』(巻一九)(『盛衰記』(巻四六)には原田太夫高直になっている)の源氏へ降人に出たけれども平家の方人であった罪科遁れ難しとて誅戮を加えられた事を潤色したとも見える。詞章だけについてでも、
 

松にかかれる藤の花、池の汀に咲きみだれ、空吹く風は山かすみ、初音ゆかしきほととぎすの聲も、折しり顔にぞおぼえける。(『義経記』巻六、静若宮八幡へ参詣の事)


が例の小原御幸に学んだろうことは直に想像がつく。但し『八坂本平家』(巻一二)の忠信吉野軍の條の如きは、『平家』の諸本中見えるものが少く(『盛衰記』にも無い)、且城方流の語り本で用語もかなり近代化している所もあり、或は内容までも後の加筆もあろうと思われるし、この條などは却って『義経記』、謡曲等から出ているのかも知れない。堀河夜討の條でも、細かな点は流布本の『平家』は『盛衰記』とは余りに遠くて、『義経記』に近接している感があるのは、原本の先後を別にして、後互に影響し合った所もあるのであろう。

次に義経の幼時に関する部分は、『盛衰記』(巻二三・四二・四三・四六)にも少しは語られている(例えば金商人に伴われての奥下り、伊勢三郎の随従等)。けれども、義朝の没落、常磐の苦衷、鞍馬入、鞍馬出、陵兵衛、鏡の宿の元服、秀衡との対面等は『平治物語』(巻二・三)に拠ったところがあるようで、既に説いた如く、奥下りの途に「一年ばかり忍び御はしけるが、武勇人に勝れて山立ち強盗を縛め給う事凡夫の業とも見えざりし」(『平治』巻三)伝説が『義経記』(巻二)の熊坂式の説話に展開したのであろう。浮島ヶ原の会見(『義』巻四、頼朝義経に対面の事)は『盛衰記』(巻二三)にも『平治物語』(巻三)にも亦『吾妻鏡』(巻一)にも見えて、地名に異同ある他、全然同じ話である(『義経記』は特に『盛衰記』のに近い)。(〔補〕又『義経記』(巻五忠信吉野山の合戦の事)に保元の戦の為朝の弓勢の事が見えるのは『保元物語』(巻二、白河殿義朝夜討に寄せらるる事)から出たのであろう)。

なおこれらの軍記物と共に、『義経記』の素材、構成の上に関係の深いものは『吾妻鏡』であると思う。その最も顕著なのは、『義経記』巻六の南都の勤修房得業の鎌倉召喚(『吾妻鏡』巻七)、巻五の吉野別離後の静(『吾』巻五・六)、巻六の鶴ヶ岡の舞楽(『吾』巻六)、巻六の忠信の最期(『吾』巻六)、巻七の判官妻子を伴って山伏姿の奥州落(『吾』巻七)等で、その他『吾妻鏡』から採ったと思われ、又は同書に一致している所が少くない。北條にだけ殿を附する事も前に述べた通りである。併し一々『吾妻鏡』に照らして書いたものとも思われない。秀衡の死去の日附も一致せず(『義経記』(巻八)では文治四年十二月二十一日、『吾妻鏡』(巻七)では文治三年十月二十九日)、静の舞に銅拍子の重忠は『義経記』では笛の役に廻って銅拍子は梶原が勤め、忠信の討手は『吾妻鏡』では糟屋有季であるが『義経記』では江間小四郎義時である。問答の体まで最もよく一致しているから確に『吾妻鏡』から採ったと思われる勤修房召下しの一條すら、その預り人の名を異にしている(『吾』は小山七郎朝光、『義』は堀藤次近家)。まして『吾妻鏡』(巻五)の都落並びに大物の難波の條に、義経の股肱として忠信・弁慶等の上に並べ記されている伊豆右衛門尉有綱・堀弥太郎景光等の名が一回も『義経記』にはあらわれず、又、得業の名は見えるのに、同じく義経に多大の好意を有して奥州落の案内兼護衛役を引受けた、そして弁慶伝説の進展に及び弁慶の伝説的人物としての完成に、或意味に於いてのモデルとして自身を提供している叡山の悪僧俊章のこと(『吾』巻八)や他の悪僧仲教・承意のこと等は見えないなどは注目に値する。即ち作者に出来る限り正確な史実に基づこうとする意志があったのではない事が認められ得ると共に、『義経記』作成に当って、記録的或は口碑的な他の伝誦の併せられた場合もあろうし、又小説的構想の纏められる為に故意に取捨せられた素材も少なくない事も想像せられ得る。俊章の如きは、或は既成の弁慶伝説を尊重した意味もあるとしても(弁慶伝説がどの程度に進展していたかは確知し得られないが)、少くとも弁慶を十分に活躍せしめる為に黙殺してしまったことは疑ないと思われる。

が、概して言えば、『義経記』の前半は『平治』(乃至『盛衰記』)、中部は『平家』『盛衰記』、それから後半は『吾妻鏡』が主としてその説話の構成に素材或は■本を供与していると見作し得ると思う。

二 『義経記』と『太平記』(〔補〕附『増鏡』)

徂徠は文体の上から『義経記』を『太平記』以前の作と推定したが、無條件に賛意を表する事に躊躇することは前にも述べた。『義経記』の粉本又は原本としての古本が在ったとして、それと『太平記』との先後は、又別の問題を生じて来るであろうが、流布本に於いては、文体論からしても必ずしも『太平記』以前と即断し難いのみか、構想上、文章上、或部分に之を範としていはせぬかとの疑すら起させるのである。例えば、道行文の詞句・地名等の類型的慣用は当代文学に共通している所であるから仮に措くとして、先ず誰でも連想し易い類似は有名な大塔宮熊野落(『太平記』巻五)と『義経記』(巻七)の判官主従北國落の一事であろう。故佐々醒雪博士の『俗曲評釈』の「勧進帳の由来」の解説(山内二郎氏の起稿と凡例には記してある)の中でも、この点に於いて両書の関係を認めようとしてある。
 

山伏姿で敵中を遁れたということは既に『太平記』五の大塔宮熊野落の條に出て居て、お供の中に武藏坊・片岡八郎などの名もある。『義経記』の作者も或はこれに倣って判官北國落の一條を作ったものかも知れぬ。(『俗曲評釈』第一編、江戸長唄)


併し義経主従が山伏姿で奥州へ落ちたという事は、既に『吾妻鏡』(巻五・七)に伝えて居り、片岡八郎・武藏坊も、共に『平家』『盛衰記』以来義経の重臣として知られ、『吾妻鏡』にすら見えている人物である。大塔宮の説話に於ける史実的分子の多少は問わず、『太平記』作者の構想の中にこそ却ってこの義経伝説が動いていたのではあるまいか。けれども、そうであったとしても、亦この條が、従って『太平記』が、『義経記』の創作に(そして又上の想像が若し中っているとしたら、原の義経伝説が二重に『義経記』に影響した事になるが)臨本を示したであろう事を、山内氏とは少し異なった意味で肯定しようと思うのである。唯これだけでもこの想像上の肯定は成立ち得ると考えられるが、更に一層的確さを認めさせられるような助証を添加する事が出来る。それは、その作り山伏の奥下りに、たかはの郡の領主たかはの太郎実房が一子の瘧病を、真の山伏と信じて招ぜられた判官主従が祈って平癒させる事(『義』巻七、直江の津にて笈さがされし事)と、戸野兵衛が妻子の物怪を、同じく真の山伏を装って宮が祈り鎮め給う事(『太』巻五、大塔宮熊野落事)との両説話が全く同型である事を指示すれば足りる。辻堂に御足を休め給う大塔宮は、とりも直さず三世の薬師堂に逗留する判官に当り、光林房玄尊は主役を宮に譲ってはいるが、先ず弁慶の位置に相応させて不都合は無い。

第二の類似の條はこれも大塔宮に関連して居り、且共に有名な吉野山の彦四郎義光と四郎兵衛忠信である。同じく君の御名を冒し、同じく召された鎧を賜り、同じく御身替に討死してその隙に後安く君を落し参らせようとする。而も処は同じ吉野の名勝である。その事既に相同じきのみならず、描写叙述の上に於いても両書の関渉をやはり肯定せねばならぬようである。唯忠信は其処で戦死しないので、その状を『義経記』には欠くのであるが、その代りに都で北條の討手と闘って自刃する段が之を補って、宛然『太平記』の村上の自害を観るようである。煩わしいが少しばかり引いてみる。
 

義光は二の木戸の高櫓に上り、遙に見送り奉って、宮の御後影の幽に隔たらせ給いぬるを見て、今はこうと思いければ、櫓のさまの板を切落して、身をあらわにして大音聲を揚げて名告りけるは、(中略)只今自害する有様見置きて、汝等が武運忽ちに尽きて、腹を切らんずる時の手本にせよと云う儘に、鎧を脱いで櫓より下へ投げ落し、(中略)白く清げなる膚に刀を突き立て、左の脇より右のそば腹まで一文字に掻切って、腸掴(?)んで櫓の板に投げつけ、太刀を口にくわえて、うつぶしに成ってぞ伏したりける。(『太』巻七、吉野城軍事)
忠信是を聞きて縁の上に立ちたるが、蔀のもとがわと突落し、手矢取ってさしはげ申しけるは、(中略)(名告を上げる事は、巻五、忠信吉野山の合戦の事の條にある)小四郎殿へ申し候。伊豆・駿河の若党の、ことの外の狼藉に見え候を、萬事を鎮めて、剛の者の腹切るやうを御覧ぜよや。東國の方へも、主に心ざしも有り、ちんじちうようにも遇ひ、又敵に首を取らせじとて、自害せんずるものの為に、これこそ末代の手本よ。鎌倉殿にも自害の様をも最期の言葉をも見参に入れてたべと申し、(中略)念仏高声に三十遍許申して、願以此功徳と回向して、大の刀を抜きて引合をふつと切って、膝をついたて居丈高になり、刀を取直し、左の脇の下にがばと刺し貫きて、右の方の脇の下へするりと引廻し、心さきに貫きて臍のもとまで掻落し、刀をおしのごひて(中略)鞘にさして膝の下におしかくいて、疵の口をつかみて引上げ、こぶしを握りて腹の中に入れて、腸を掴(?)み出し、縁の上にさんざんに打散し、冥途まで持つ刀をばかくするぞとて、柄を心もとへさしこみ、鞘は折骨の下へ突き入れて、(中略)是ぞ判官の賜びたりし御佩刀、これを御かたみにて冥途も心やすく行かんとて、抜いておきたりける太刀を取って、先を口にふくみて、膝をおさえて立ちあがり、手を放ってうつぶしに、がばと倒れけり。鍔は口にとどまり、切先は鬢の髪を分けて、うしろにするりとぞ通りける。(『義』巻六、忠信最期の事)


吉野山で初に太刀を拝領した上、後になって重ねて鎧をも賜わって主従が脱替へ、又都へ帰って、『吾妻鏡』(巻六)にも見える昔馴染んだ女を訪ねたのが手懸となって、討手を蒙った史実に拠りつつ、更に態々主君の旧館まで一度遁れさせて、其処で華々しく腹を切らせるなど、中々念入りである。前に「簾所々に切って落し、蔀あけて」敵を待ちながら、又態々「蔀のもとがはと突落」すのは、威勢を示す為でもあろうが、「櫓のさまの板を切落し」た義光を学ばせるに、唯「あけて」待つだけでは物足りなかったのではなかろうか。剛の者の腹切りの類型的な描写を軍記物に見ることが寧ろ当然であるとしても、前掲両者の文詞は酷似し過ぎていはしまいか。そして『義経記』の方が誇張されている感じを享ける。(尤も義光は身替説話の形成には紀信の漢高身替の支那伝説がその本拠をなしているだろうとの想察が可能であると同時に、前の場合と同様、伝説としての忠信が却って義光に手近いモデルを示さなかったかは保し難い所であるが、明証が無い。そして又前の場合と同様自ら別箇の問題となるのである)

以上の偶合と言い去るには余りに酷似した部分の含まれる事によって、その交渉の容認を仮定して、再び両書に対すると、『義経記』巻八「秀衡死去の事」の

文治四年十二月十日の頃より、入道重病をうけて、日数重なりて弱りゆけば、老婆・扁鵲が術だにも、あえて叶うべきとも見えざれば、秀衡、女・子息その外諸従を集めて、泣く泣く申されけるは云々

と書き起して、秀衡の遺言、死後の妻子眷族の悲しみ、野辺の送りを哀れに綴り、

あはれなりし事どもなり。
と結んでいるのと、『太平記』巻二一「先帝崩御事」の
 
南朝の年号延元三年八月九日より、吉野の主上御不予の御事有りけるが、次第に重らせ給う。医王善逝の誓約も祈るにその験なく、老婆・扁鵲が霊薬も施すにその験おはしまさず、玉体日々に消えて、晏駕の期遠からじと見え給いければ、大塔忠雲僧正御枕に近附き奉って、涙を押えて申されけるは云々


に始まり、後醍醐帝の遺勅・崩御・大葬を叙した後に、
 

哀れなりし御事也。


と記した文との間にも親近な関係を見得るような気がする。『太平記』のこの文が『平家』(巻六、入道逝去)に■したものであることは、一読瞭然で、而も『義経記』は『太平記』の方に近い。これを観ても、他の部分には『平家』の内容を採りながら、『義経記』がその條の文に倣はなかったのは、他に臨本の在ったが為である事を語っていることにならないだろうか。又同じく『義経記』巻八「衣川合戦の事」の弁慶最期の勇戦の條

鎧に矢の立つ事数を知らず、折りかけ折りかけしたりければ、蓑を逆さまに着たるようにぞありける。黒羽・白羽・染羽、いろいろの矢とも、風に吹かれて見えければ、武蔵野の尾花の秋風に吹き靡かるるに異ならず。
は、これもやはり『太平記』の前に引いた吉野軍の條の、やはり義光の
 
鎧に立つところの矢十六筋、枯野に残る冬草の、風に偃(ふ)したる如くに折懸けて、…


から出たものと推断していいのではなかろうか。

すると、『義経記』の素材としては前述の諸書が参考せられたとして、これが潤色・構想・詞章の上に『太平記』も亦範を垂れているところがあるように思われるのである。

補〕『義経記』の冒頭

 
本朝の昔を尋ぬれば、田村・利仁・将門・純友・保昌・頼光、漢の樊?・張良は、武勇といえども名をのみ聞きて目には見ず。……
という文が『平家』の巻首に倣ったものであるのは言うまでもないが、更に『増鏡』(第二、新島守巻)の起首
 
猛き武士のおこりを尋ぬれば、いにしえ田村・利仁などいいけむ将軍共の事は、耳遠ければさしおきぬ。そのかみより今まで源平二流ぞ、時により折に随いて、おおやけの御守りとはなりにける。

と比べても、両者少しく相似し過ぎているではないか。確に孰れかが一方を摸したと推し得られる。若し『義経記』が『増鏡』に倣ったとすれば、その成立が『増鏡』(これも製作年時が判明しないが、記載内容の年時から観て、建武中興以前には溯らせ得ないし、それ以後としても、さまで遠くない頃に作られたものでなければならぬことが推知し得られる)以後ということになり、製作年時を考える上に又一つの参考資料が増加することになる。但し単に文詞のみを対比した感じからすれば、『平語』に学んだ『義経記』の文を『増鏡』が更に摸して簡約したという方が自然らしくもある。『増鏡』は全巻中随処に『源氏物語』の文を殆どそのまま借用しているに観れば、その他の作品からも影響せられているべきは想像に難しくないが、他に『義経記』から採った確証は見当らない。上の文が若し『義経記』から出たのであったら、『増鏡』の製作年代が『義経記』より引下げられねばならぬであろう。但し又『義経記』の原本或は粉本が仮にあってそれに既にこの文字があり、それが『増鏡』にも影響したという事になると、又稍違った問題が呈示せられるわけである。併し在来の年代考説に仮に随うとすれば、増鏡の方が早いとするのが先ず自然であろうから、原本の問題は措いて、流布本『義経記』の巻初の一節は、『平語』と『増鏡』とから出たということに、姑くして置くことにする。なお再考の機を俟ちたい。

三 『義経記』と『曽我物語』

戦功報いられず、時運非なる英雄の一生と、微力初志を貫く遺孤の敵討と、題材は全然は同じくないけれども、創作の動機と、成立の時代と、表現の様式と、内容の性質とに於て、所謂軍記物の七篇中最も親近な位置に在ると見倣さるべきは、流布本の『曽我物語』と流布本の『義経記』であろう。が、内容上の両書の直接交渉は殆ど無いようである。『曽我物語』(巻八、太刀刀の由来の事)に義経の生立に関する叙述があり、鞍馬時代に夢想で友切丸を授かる事、十三歳の時商人に伴われて秀衡の許へ赴く途、美濃垂井宿でその太刀を以て強盗十二人を斬り、八人に手を負わせた事、十九の歳頼朝の挙兵に奥州から参会し、西國へ討手に向ふに際して、戦捷の祈願にその同じ太刀を箱根に奉献した事等が語られてはいるが、それは友切丸の宝剣説明説話として、義経伝説の一異伝が吸併せられて来ているというに過ぎない。又証空阿闍梨の身替伝説(『義』巻五、忠信吉野山の合戦の事)(『曽』巻七、三井寺の智興大師の事、同、泣不動の事)――これは『発心集』(第六)にも見える伝説で、謡曲にも『泣不動』がある――及び「とうふがせんぢょ」の身替伝説(『義』同上)(『曽』巻一、女房曽我へうつる事。但し「せいぢょ」とある)――「とうふ」は董豊であろう。『晋書』の「符融伝」の所載で、袈裟御前伝説の本拠と推定せられる東帰節女と同型の支那伝説。「せいぢょ」は「青女」かとも考えられるが「せんぢょ」は「節女」の訛で、「せい女」も亦訛音かも知れない――も当代に流布した話柄が自ら双方に引かれているだけと思われる。その他詞章・用語の上に於ても、「をさあい」(巻一・一二)、「世になし者」(巻四・七)、「世にある人々」(巻四)、「歳におきては十五なり、姿を物に譬えれば」(巻一)、「我等が有様を物に譬えれば」(巻七)など、『曽我物語』は『義経記』及び幸若舞曲・御伽草子等と共通した慣用語句を多く含むが、結局それは略々同時代の作品である証左となり得るに止まるだけである(富士の巻狩に葛井清重が馬を岩石に乗りかけた件に「上下萬民これを見て、唯あれはあれはとぞ申しける」(巻八)とか、曽我で兄弟の追善に母が悲しむのを「如何なる賤の男賤の女に至るまで、涙を流さぬは無かりけり」(巻一〇)とかいう叙述があるのは、舞曲若しくは古浄瑠璃の表現に、『義経記』よりも一段近づいていることを示して居り、又巻一一「井手の館の跡見し事」で尼姿の虎御前が十郎討死の裾野を訪う場は、老翁までワキ役に配して宛然能がかりで、明らかに謡曲に示唆せられていると思われる。『曽我物語』の異本は『義経記』よりは旧く、そして流布本は『義経記』より後ではないかといった感じが与えられる)。全一的な構想と様式及び叙事の態度に於ての意味の他、両者の直接関係は認められぬようである。

両者を対比してみると、極めて総括的な印象からすれば、『曽我物語』は仏教臭が濃密で、『義経記』はこれに比して寧ろ道学じみている。開巻「神代の始の事」に始まり、且孝道を主題とする『曽我物語』であるから、此方こそ儒教中心だけでも却って当然であるかも知れないのに、亡父の霊を慰めて孝を全うした兄弟でも、虎・少将の出家がなければ、妄執霽れて兜率の内院に生まれる事が出来ないのである。だから
 

高きも卑しきも、老少不定の世のならい、誰か無常を遁るべき。富も宝も遂には夢の中の楽なり。殊に女人は罪深きことなれば、念仏に過ぎたる事あるべからず。かようの物語見聞かん人々は、狂言綺語の縁により、あらき心を翻し、真の道に赴き、菩提を求むる便りとなるべし。その心も無からん人は、かかる事を聞きても何にかはせん。よくよく耳に留め心にそめて、永き世の苦悩を遁れ、西方浄土に生まるべきなり。(『曽我物語』巻一二)


と、この一篇の敵討譚が述べられるのも、畢竟は菩提に便り有らせんが為に他ならない由を、作者自ら巻末に附言しているが、『義経記』の結尾(巻八、秀衡が子供御追討の事)は奥州の平定九十日を出なかったのを「不思議」と驚き、これを全く泰衡兄弟の不忠不孝に因由すると懼れ誡め、
 

さむらいたらん者は、忠孝を専らとせずんばあるべからず。口惜しかりし者共なり。


と筆を止めている。又、十郎・五郎の兄弟でもなかなかの法談者で、母との対話の如きは経文をまで引いての弁舌は箱根別当の説法にも譲らない(巻七)『曽我物語』にあっては「鬼神だにも随喜すれば、此の如くの仏果の縁ありとかや」(巻一一、鬼の子捕らるる事)と法華の功徳を説き、遊君少将にまで高遠な法問をさせる(巻一二、少将法問の事)のに、「次信・忠信が孝養は候はずとも、母一人不便の仰せをこそ預かりたく候へ」(巻五、忠信吉野に留まる事)と、さしもの勇士の袖を顔に押当てさせた『義経記』はその忠信を訴えた女を非難しては頻りに無節操を慨し、「稲妻かげろう、水の上に降る雪、それよりも猶あだなるは女の心なりけるや」「すべて男の頼むまじきは女なり」(巻六、忠信都へ忍びのぼる事)と戒め訓へ、更に後の情夫梶原三郎景久をして女の不敵さに呆れて、「色をも香をも知らぬ無道の女」(同)と思いきらせただけでは飽きたらずに、「たのむ女」の心変りに対照させる為に、「常に髪けづりなどしけるはしたもの」(同)の忠実を配し、或は奥州下りに追手に引戻されでもしたら「帰らざらんにも仁義礼智信にもはづれなん(巻一、遮那王殿鞍馬いでの事)と言う遮那王を迎える秀衡にも「この殿はをさなくおはするとも、狂言綺語の戯れも仁義礼智信も正しくぞおはすらん」(巻二、義経秀衡に御対面の事)と同じ滑稽な似而非道学者じみた流行語を使わせている。

勿論、『曽我物語』と雖も儒教的口吻も決して淡いのでなく、又内典と共に『文選』『漢書』等の語句がうるさいほどに引かれ、和漢の故事伝説も屡々挿まれているし、他方『義経記』とても仏法的感化から解放されているのではないどころか、素材としての事実以上に、概念化せられた思想生活の反映としての時代色は全篇に滲透している(常磐が母を助けんが為に京へ出ようと決意したのは「親の孝養する者をば堅牢地神も納受ある」(巻一、常磐都落の事)と信じたが故であり、吉野で判官の賜う橘餅を弁慶が一同に分配するとては、先ず「一をば一乗の仏に奉る。一をば菩提の仏に奉る。一をば道の神に奉る。一をば三神午王にとて置き」(巻五、吉野法師判官を追っかけ奉る事)、忠信は最期に敵前で「念仏高聲に三十遍ばかり申し(巻六、忠信最期の事)、なお「命死にかねて世間の無常を観じ」(同上)ている)けれども、後者には説法的目的の下に構創し、或は特に法味に随喜し教化を誇示しようとする意志は殆ど認められず、前者が法話、経文の引用に満ち、終末の二巻の如き全く説法集の観をなしている――『真字本』『大石寺本』等の『異本曽我物語』は一層仏法的色彩が強い――とは自ら相同じからざるものがある。この点で作者の階級乃至教養の異なるものがあることをも思わせるのである。唯前記のように、孝心を堅牢地神も納受あると言い、又一字を習わずとも師と仰ぐ法眼を斬っては、「堅牢地神の恐れもこそあれ」(巻二、鬼一法眼の事)と義経も躊躇し、鎌倉で静の腹の男子出生の條にも、「思いの外に堅牢地神も憐み給ひけるにや、痛む事もなく、(中略)殊更御産も平安なる」(巻六、静鎌倉へ下る事)と、全篇に三ヶ所ほど堅牢地神の民間信仰が説かれてある(〔補〕『義経物語』には更に末文中にも同じ信仰が述べられている)のは注目せられ得る。併し『義経記』全体がこの信仰の宣布の為のみの述作と認められるほどの重要さは無論有してはいない。地神盲僧などに語られた為に附著して来た事を示すものか、さなくば単に時代色の一つの現れであろう。『曽我物語』(巻七、斑足王)でも、十郎が母の前で弟の為に弁ずる詞中に、
 

時致箱根に候ひし時、法華経一部読み覚え、父の御為に早二百六十部読誦す。毎日六萬遍の念仏怠らずして、父に回向申すと承り候えば、大地を戴き給う堅牢地神も、地の重き事は候ふまじ。不幸の者の踏む跡、骨髄に徹りて悲しみ給うなり。


と、やはり地神信仰が説かれている。

『義経記』と『曽我物語』との対比の興味と意義とは、何といっても、その主題が国民性に根ざす至純で尊厳な、そして充実した人間生活の理想の一面であり、且これが実現に最善の努力が捧げられ達成せられながら、而も現実のいたましい薄運に無限の憾恨と不尽の同情とが残されねばならなかった所にある点にあり、そしてそうした主題が伝説化された史上の国民的英雄(而も少年英雄としての時代をも含む)並びにこれが背景と伴奏とをなす勇士佳人の伝奇的戯曲的活動によって説述展開されて行く所にあり、従ってそれが後代文学に与えた影響も、自ら同様の意義と、略々相似た形と、相匹敵する量とに於て、亦好一対をなす点になければならぬ。

まことに九郎判官と曽我兄弟とは当代に於ける武勇伝説(ヘルデンザーゲ)の中心人物であった。そして前にも言及したように、彼に牛若丸あれば此に一萬・箱王あり、義経・弁慶の主従があれば祐成・時致の同腹がある。貞烈な静御前と虎御前、忠誠な継信・忠信と鬼王・団三郎、敵役には梶原、工藤、脇役には富樫、朝比奈、すっかり配役が出来ている。十八年の艱苦、赤沢山の怨を裾野の闇に霽らした曽我殿原ばかりか、驕る平家を西海に斫り沈めて、長田が館の露と消えた頭の殿の亡き霊を慰めた源廷尉も、亦大きな復讐の遂行者であった。しかも末路の相倶に悲壮なる、華々しい業蹟に対照して、一層痛悼の感が深い。軍記物の殿りとしての伝記体歴史小説のこの一対を生んだ上に、謡・舞曲の曽我物と判官物の量的優越、特に舞曲の両者を合せると、現存総曲目の半ば以上を占めるのも決して偶然ではない。『義経勲功記』があれば『曽我勲功記』、『義経記大全』が出れば『曽我物語大全』が出る。判官贔屓は亦曽我贔屓、歌謡に小説に諺に遺跡に、普く国民のたましいの中に生き、育まれ詩化せられつつ同時に亦それを浄め美しくしながら、一は同情崇拝の極、終に伝説的に生脱せしめられて蝦夷満蒙の外域にまで民族発展の意気を示し、他は倶に天を戴かざる復讐精神の揺籃、敵討文学の祖として永く孝子の鑑と仰がれる。特に、『吉例の対面』に『草摺曳』、『会稽山』に『敷皮』があれば、『鞍馬山のだんまり』に『橋弁慶』、『千本櫻』に『碁盤忠信』と、浄瑠璃・歌舞伎の世界に研を競い、十八番の中にも『矢の根』と『勧進帳』の大物を対立させている。だからこの両伝説、両書の内容が故意に結びつけられる運動すら既に夙く起ったのであった。

 

四  『義経記』と謡曲・舞曲及びその他の近古文学

『義経記』と謡・舞曲との関係は各伝説の條及び前章第一節・第二節に大略述べたから?には省略する。唯舞曲の義経物と『義経記』との内容上の関係は、甚だ密接ではあるが、併し舞曲の曽我物と『曽我物語』との内容が殆ど全く相一致しているそれほどではないということを一言して置くに止める。

如上比較して来た以外の近古の文学中では『御曹司島渡り』『鬼一法眼』と『義経記』の鬼一法眼の條(巻二)、『弁慶物語』『橋弁慶』と弁慶生立の條(巻三)とは、少くとも内容上伝説上の交渉のあることは否み難い。更に部分的に、内外の先進文学や伝説に素材・構想等の上で示唆を蒙っているところも少くない事は随処に触れて来たが、そしてその中に近古の他の文学、例えば説話集や歌謡等も無論含まれるが、前に挙げた外にも、『義経記』(巻四、義経都落の事)の西國落の難船に、住吉神が老翁と現形して「いざり火の昔の光」という古歌を詠ぜられるのは、『古今著聞集』(巻五、和歌)所載の歌徳説話、即ち後徳大寺大臣家所領の年貢を積んだ船が、摂津の沖で悪風に逢った際、曽て住吉社の歌合に大臣が詠んだ名歌にめでられた明神が、老翁と現じてその難波を救われたという伝説から来ていると推定出来るなど、興味ある一例となり得るであろう。
 
 

つづく
 
 
 



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2001.12.1
2002.3.9 Hsato