島津久基著
義経伝説と文学

第二部 義経文学(判官物)

第二章  義経伝説の集成としての義経文学―判官物の鼻祖『義経記』
 

第一節  『義経記』の諸本

流布の『義経記』は八巻八冊ある。古名を『判官物語』と呼ばれたとも云い(『比古婆衣』一三之巻、『海録』巻一一、『提醒紀談』巻三)、或は『牛若物語』とも称せられたらしい(『図画一覧』上巻、『柳庵随筆』〔『訂正増補考古画譜』巻二所引〕)が、それらが果たして『義経記』の原名或は古い別名であったかの確証は無い。少なくとも一名ではあろう(〔補〕『義経物語』と題する一本も伝存していることは下に述べる通りである)。絵巻としても行われたことは『倭錦』に足利義政筆・土佐光重筆(『義経記』切)・住吉如慶筆の各残欠、土佐光久筆の『義経記』絵小扇面(『訂正増補考古画譜』巻一一)等が出て居り、又「詞存画逸するもの『牛若物語』云々」と前記『図画一覧』等に見えるのでも明らかである。写本としては内閣文庫の安土本と称する零本(二巻)(〔補〕大正十二年関東大震災焼失)、当代図書館蔵の『判官物語』と題簽に記した八巻本(各巻章節を分たぬ事と、巻八の初「嗣信兄弟御弔の事」の部分を欠き、且結末に小異がある他、殆ど『義経記』そのままである。〔補〕東大本は花廼舎文庫本(八冊)と久世家本(八冊)との両種あったが、共に大震災に焼失したので、現在では阿波文庫本の『判官物語』(八冊)が唯一の完本であろう。岩瀬文庫にも同種の零本(巻一・二)が蔵せられている由である。なお『義経物語』も江戸時代初世頃の写本で且この系統の本である。これら諸本の系統に関しては『日本文学大辞典』に高木武博士の紹介がある。(なお六八六頁の補説「義経記と義経物語」参照)、奈良絵入古写零本(四巻だけ。京大図書館蔵)(〔補〕寛永十四年写本、家蔵の江戸時代初期頃の無画八巻本、川瀬一馬氏蔵古写本。共に流布本系で流布本と小異)等がある。

板行の流布本(八巻八冊)は寛永十二年板(巻末に「寛永十二年乙亥正月吉辰」)、萬冶二年板(巻末に「萬冶二己亥歳 風月庄左衛門」)、寛文十年板(巻末に「寛文拾庚戌初夏 吉野屋惣兵衛板」)、元禄二年板(巻末に「元禄二己巳年孟春大吉祥日 武陽書林山口屋須藤権兵衛寿梓」)、元禄十年板(巻末に「元禄十年丁丑孟春穀旦 京寺町松原下町梅村三郎兵衛」)、宝永五年板(巻末に宝永五戌子年五月吉辰 河南四郎右衛門開板)等を主なものとして十種以上もある(就中元禄十年板が最も普通に知られているようである)が、いずれも余り善本ではない。板本では先ず元和木活字本がよい(節付のある六段本で元禄二年刊の『義経記』もあるが、これは『金平本義経記』である)。今次に伝存している板本で知っているものを年代順に掲げると(零本は珍しいものに限った)
 
種  類  刊  年 巻 冊 挿絵 所     在
木 活 字 版 元  和 八巻八冊 あり  京大・〔補〕・岩崎文庫・野村八良氏・笹野堅氏等
寛永十 年 板 寛永一〇 同  上   京大(久原文庫)
寛永十二年板 同 一二 同  上 なし 東大(〔補〕震災焼失)・藤井乙男博士
同  上 あり 京大(近衛公爵家寄託)・藤井博士
〔補〕同十七年板 同一七    あり (『日本文学大辞典』所見)
正 保 板 正 保 二 同上(欠巻七) あり  早大
萬 冶 板 萬 冶 二 八巻八冊 あり 故松方正義公・古書籍展覧会所見
寛文十年板 寛文一〇 同  上 あり 東大・同国語研究室(〔補〕共に震災焼失)・内閣文庫・宮内省図書寮・学習院等
寛文十三年板 同 一三 同  上 あり 大橋図書館(〔補〕震災焼失)・〔補〕(震災焼失)〔補〕山岸徳平氏
元禄二年板 元 禄 二 同  上 あり 図書寮・学習院・〔補〕山岸氏等
同  同上(欠巻八) あり  帝国図書館
同十年板 同 一〇 八巻八冊 あり 東大(〔補〕震災焼失)・南発文庫 (〔補〕現東大)・東北大・文理大・学習院・帝国図書館等
宝 永 板 宝 永 五 同  上 あり 東大国文学研究室
享 保 板 享 保 九 零本(巻七)    東大(震災焼失)
横 本 未  詳 八巻八冊 あり  古書籍展覧会所見

 他に評註入のものとしては
 

義経記評判』(元禄一六年刊) 八巻一四冊  松風庵著
頭註絵入義経記大全』(享保四年刊) 一一巻一〇冊(前書の改題刊行)
義経記判注』         一二巻 馬場信意著(『和漢軍書要覧』に見える。未見) 


がある。明治以後では国民文庫(芹沢利右衛門編。明治二十四年)、軍談家庭文庫(久保得二・青木存義校)・国民文庫(同刊行会編)・国文叢書・有朋堂文庫(〔補〕日本文学大系・古典全集)等に収めて刊行せられている。註釈書としても早く『標註義経記』(生田目経徳註、明治二十五年、)『義経記講義』(蔵田国秀著、明治三十五年)がある(〔補〕又近時『参考義経記詳解』(井上雄一郎著、昭和七年大同館 も出た)。

以上は流布本であるが、『平家物語』や『曽我物語』等と同じく、下に挙げる如き諸種の異本を生じたのも自然の勢である。併し異本は前二書に於ける如く有名でなく、『奥州本』の外刊行されたもののあるのを聞かない。又写本としても現に伝存しているものがあるかどうか不明で、未だその一種だも触目したことがない(『判官物語』(〔補〕及び『義経物語』)も異本と見做すほどでもない)。

異本義経記

『異本義経記』の名によって呼ばれる一本がある。『謡曲拾葉抄』『義経一代記抜萃 熊坂物語』『山城名勝志』『陽春盧雑考』等にその名が見えている。皆同一の書を指しているようである。『拾葉抄』に随処引かれている文詞によって同書の内容を推すると、大略『勲功記』と類似したものらしく、孰れがその原形であるとしても、少くとも流布本より遙に降った近世のものたることを思わしめられる。


義経記奥州本

『史籍集覧』の『史料叢書』中に収めてある。但し衣川合戦の條のみで、詞章は古浄瑠璃に近く、確に語り物の正本として用いられた形跡が認められる。用語も方言を混じている。奥浄瑠璃などに語られたものであろう。


義経記芳野本

『義経記評判』の中に随処に引いてある。これは流布本系のものか。なお次の『大和本』の條参看。
〔補〕全八冊現存。一・三・四・八各一巻、二・五・六・七各上下二巻。内容流布本と同じ。但し辞句小異(『日本文学大辞典』)。松井簡冶博士蔵。


義経記大和本

『義経記評判』の凡例に「『芳野本』といえるは予が家に久しく所持の本なり。今の板本と異同有り、今是によって改正す。又外に『大和本』十二巻あるよし聞伝へ侍れど、いまだ見ることあたはず(下略)」とある。


村井本義経記

『義経勲功記』(巻四)に見える。


吉岡本

『義経知緒記』に引いてある。ただ『吉岡本』とのみあるので確に知り難いが『義経記』の異本であろう。『知緒記』(上巻)頭註に、「吉岡本、吉岡又左衛門本。津田長俊写之。津田与左衛長俊尾州光義公御家人」とあって、引用した箇所についてみれば、吉岡氏のことが詳しいから、恐らく吉岡流の剣道家が偽作又は『義経記』に添加した作であろう。又左衛門とは即ちその人か。


長谷川本

『義経知緒記』(上巻)に引いてある。頭註に「東照宮御代堺の政所被仰付、長谷川左兵衛寛真本也。本は伊勢の北畠旧本と云えり」と見え、その『長谷川本』として引く所は、例の義経の同名異人論、即ち山本九郎と源九郎との混同を弁ずる物語の一條であるから、後の作であることの反証となる。


北畠本

『知緒記』頭註所引前文「北畠旧本」とあるそれで、即ち長谷川本に同じ。


即ち異本としては以上の諸本があるとせられているが、その多くは流布本より後のものであるようで、然らざるも流布本系のもので、原典批評には余り有力な参考とはならないようである。だから『義経記』の製作年代並びに作者の問題を攻究するにも、結局流布本に拠る他は無く、否却ってそれが妥当とすら考えられる。他に有力な資料の出ない限り、姑く流布本を原本に近いもの、略々原本の形を遺しているものと見て考察を進めることとする。少くとも流布本の成立年代を考えることにはなるであろう。


 

第二節   『義経記』の製作年代並びに作者

従来『義経記』の製作年代に関しての先輩の論定に共通した誤は、殆ど無批判に流布本そのままを原本と目して論証せられたことである。吾人の論究も亦実際に於いては殆どその範囲を出ないのではあるが、それは前節に述べた意味に於いて試みようとするのである。さて『義経記』の製作年代に就いてこれまで確説は無い。江戸時代の研究者によって二三の説は述べられているが、多くは単に書中の一、二の単語により、或は文体によって想像的に推断せられているに過ぎないもののみであり、明治以後の諸家の国文学史には概して唯漠然近古の作であろうと記してあるに止まっている。

先ず之を鎌倉期の作とするのは荻生徂徠・伊勢貞丈・及び伴信友である。徂徠は『太平記』以前の作であるとして、
 

『曽我物語』『義経記』は拙きものなれども、時をいえば『太平記』などよりは前の物なり。室町家の代になって、和文の体も一変せり。(『南留別志』)
と言い、貞丈は
『義経記』は作者詳らかならず。されども甚だふるき書なり。(『貞丈雑記』巻之一六)(『故実叢書』本)
とし(『歌文書綱要』所引の『貞丈雑記』の文としては、「『義経記』は作者を知らず、文体如何にも古し。鎌倉将軍の末に記したるものなるべし」としてある。先ず鎌倉時代説とみてよいであろう。貞丈は『曽我物語』も同様に鎌倉末期の作と見ているはその著『四季草』(六之巻、秋草)に「曽我物語は鎌倉将軍の末の代に書きたる物と覚ゆ」とあるので知られる)、信友は
『義経記』 この書その時にいたく遠からぬ頃作るものと見えたり。古写本には『判官物語』と題せり。(『比古婆衣』一三之巻「陸奥郡数考稿」中の詞句)
と述べている(「その時」とは前に『平家物語』の作者を信濃前司行長として挙げ、後鳥羽天皇の頃であると言ったのを指しているのである。然らばやはり鎌倉時代説である)。又、『義経磐石伝』(巻三)にも
 
『義経記』は文章よく、筆にまかせてはづみたる物にて、しかも古き草紙なり。堀川夜うちの弁慶がたはぶれ、関越ゆる道中の名をつくしたる、詞も古雅に物がたりの体にて、見すばをしき草紙なり。いかに肝要の軍功、一の谷・八島を記せざる。元は記したるを、琵琶法師にゆずりてのぞきたるやという。鎌倉にて静の舞の段が、文章の展びて後の人の書き得べきにはあらず。


とあるから、これも鎌倉時代説と観るべきであろう。

これに対して室町時代説を唱えるのは山崎美成である。
 

『義経記』は後人の名付けし題名にて、もとは『判官物語』とぞいいし。扨この物語作り出でたる時代を考ふるに、『平家物語』『盛衰記』なとよりいともいとも後代の物なるは今更言うまでもあらず。『曽我物語』などと同じ頃のものならんかとぞ思はる。今その一つを言わば、『義経記』鬼一の條に、たんかいの義経を殺さんとはかる処に、「御免やうのなめし」とあり。口伝書伊勢安斉なり云、錦革は公方御用の革にて、平人は禁制なり。依の錦革を似せてかき色にても茶色にても何色にても染めて、模様を白く出したるは御免にて、誰々も用いる故に、この革を御免とはいうなり。以上は土井利往の古実秘抄 これによる時はこの革の名室町将軍の時出来たり。その名目の見ゆれば、それより後のものなること明らけし。猶この外、証あるべし。(『海録』(『好間堂記』)二〇冊本巻一一「義経記考」)


『嬉遊笑覧』の著者喜多村信節も、同書(第九冊)の幸若舞曲を論ずる條に

舞の詞は大かた『義経記』『曽我物語』と同時のものと見ゆ。
と言っているのは、二書を室町のものと仮定しての論のように思われるから、先ず後説に属せしむべきであろう。

明治以後は古く鎌倉説を二三見出すのみで、後には大抵室町説に一致して来たようである。但しその理由を詳記したのは無い。主な先輩の説を一瞥すれば、

『義経記』製作の推定年代  所説収載書名          論    者

鎌倉時代                 『日本大文学史』           大和田建樹
同                       『刪定国文学小史』         和田萬吉・永井一孝
同                       「小説の歴史」(国文論纂の内) 関根正直
南北朝及び室町時代       『日本文学史綱』           坂本健一
南北朝末より室町           『日本文学通覧』           岡田正美
南北朝乃至室町時代初期   『新国文学史』             五十嵐力
室町時代初期             『文芸百科全書』           武島又次郎
足利時代初期             『日本百科大辞典』         赤堀又次郎
足利時代                 『国文学史十講』           芳賀矢一
室町時代                 『日本文学史辞典』         佐々政一・山内素行
同                       『日本文学史教科書』       藤岡作太郎
同                       『古今歌文書綱要』         金子元臣・花岡安見
室町時代                 『日本小説年表』           朝倉無聲
同                       『大日本文学史』           鈴木暢幸
同                       『鎌倉室町時代文学史』     藤岡作太郎

而も大抵「ならん」「なるべし」「か」など言った語句を附したものが多い。そして『判官物語』に関して、これを『義経記』と別書と見てあるのは関根説で、『義経記』の原本かとする意見は金子・花岡両氏であり、これに対して『判官物語』とは『義経記』の古名で、内容は同じであるとするのは、信友・美成等の先学である。『義経記』が『判官物語』を本として書かれたとの説の初見及びその根拠は未だ知るを得ない。又前にも一言した如く、古名を『判官物語』と呼んだとの確証も明白でない。唯現存の『判官物語』は『義経記』と同内容で且章節を分たぬ点からなど原形らしくも見えるが、これとて動かすべからざる理拠にはなり得ない。結局この問題は本文批評にも関連する問題で、明確な論定は今のところ下され得ない。又『義経記』作者に至っては唯不詳或は不明とのみせられ、『平家物語』『太平記』等他の軍記物の作者に就いては種々の説を惹起し、『曽我物語』すら叡山住僧説が提唱せられているのに、独り『義経記』作者に関しては殆ど論題に上されたことがない。実際製作年代並びに作者に関する問題の取扱は、近古の文学には特に困難を感ぜしめられるところで、殊に国民全体の創作とも言うべき所謂民族叙事詩的作品に於いては一層そうなのである。『義経記』のそれが同じく暗中模索に似た歎を吾等に発せしめても異とするには当らない。

美成は「御免やう歎革」の語を以て室町説の根拠としているが、鈍い着眼であったと共に、与ふべくんばなほこれを定説とする為の他の有力な憑拠が欲しいのである。そして今少しく諸方面からこれが解決に努力してみる必要があると思う。前節にも既に述べた事であるが、通例所謂流布本は諸異本よりも後に成立することが多いようであるのに、『義経記』の場合は流布本が寧ろ原本の面影を伝えているかとすら推測し得られ、異本は却って流布本からの派生又は替生或は偽作といった観をなしている上に、流布本の母本の存否も明らかでないから(若し古名でなくて原本としての『判官物語』が別にあったとすれば、それは或は鎌倉期の作であったかも知れないがその明証も無いし、現存の『判官物語』が若し『義経記』の原本――それがあったのなら――に近いものであったとすれば、流布本の本文考察を以て之に移しても大過なきものであろう)、形に於いては流布本をそのまま原本と見做して取扱う所に、手続上の不備が存する点に於いて共通する江戸時代先学の論究と、同様の結果を致示することになるのも巳むを得ないことと考えるけれども、以下『義経記』の製作年代を中心としての二三の問題を提起して私見を陳べてみたい。そこで便宜上、結論を先に掲げて置こう。即ち私は、『義経記』の成立を室町時代、且、義満・義持時代前後と推断したいのである。

先ず『義経記』が『平家』『盛衰記』以後の作であろうとは諸家の大抵疑わぬところのようである。加之『義経記』中に引いてある和歌の中三首まで明らかに『盛衰記』から採った痕跡があり、又住吉大明神が現形して示される「いざり火の」の歌(『義経記』巻四)は『新古今集』(巻三、夏歌)の「百首の歌奉りし時」と詞書のある摂政太政大臣の詠であるのを、古歌と明記してあるのにみても、少くとも鎌倉中期以前に溯らせるわけにゆかない。なお著しい事実は『義経記』に於ける弁慶の活躍ぶりで、これは後に『弁慶物語』にも見られ得るような彼の生立と半神英雄的行動を語る伝説が既に発生し播布していたのでもあろうけれど、義経伝説の中心人物としての彼は、殆ど『義経記』作者の手によって初めて新に創り上げられたかの観がある。この点でもこの書の成立を『平家』『盛衰記』以前とすることは先ず許されないところであらねばならぬ。又内容上『吾妻鏡』に拠ったと推定せられる箇所が多いから、少くとも『義経記』は『吾妻鏡』が成って世に出た後のものであるべきことが考え得られる。

その上、『義経記』を鎌倉時代の作に擬するよりは室町時代の作と目する方に、より自然さを見出させる節々がある。その一は『平家』『盛衰記』等を通して想像させられる義経に比べると、『義経記』の主人公の性格が著しく武人的でなくて、貴族化し過ぎている事に気づかしめられることである。鎌倉武士達の雄健な気象、乃至は軍記物を生んだ時代人の心持からは、英雄武将崇拝の心情と共に、義経の木曽・平家討滅の功業はもっと興味深く謳唱詳叙せられてもいい筈なのに、却って全然之を省略してしまったのみか、作者の共感の筆は武人としての義経の上には落ちずして、可憐な少公子と不遇な失脚者としての義経の上のみに動いている。而も平家の公達は事実坂東武士に対化する時、遙に優美であったのは疑も無く、又その野人たる源氏方の中では、千人が中から一人選び出された九條院の常磐腹の御曹司は、母の麗質と心ばせとを承け継いでもいたろうし、木曽などに比べては所謂「京慣れ」てもいたであろうから、平家の公達に共通したものを持っていたと言えようが、そしてその点で他の源家の武人に比して異色があったのでもあろうが、『平家』『盛衰記』にはなお潤色せられずに現れているほどの東えびす的風尚も、『義経記』にあっては殆ど片影をも認め得ず、平家の公達との距離は全く除去せられてある。否寧ろ其処に浮び出て来る主人公は、室町期の貴族らしい姿である。少くとも彼等の理想の人物のように思われるのである。

その二に、義経に対する同情の筆が、遺憾なく気兼ねなく振ひ始め得られるのは、やはり源氏三代はもとより、頼朝の外舅の子孫である北條氏全盛の間ではあるまい。一例を堀河夜討をし損じて土佐が斬られる條に取っても、『盛衰記』(巻四六)には

さらば切れとて、六條河原に引出して、京者に中務丞友国と云う者切ってけり。

とあって、次に頼朝が義経に附けて置いた検見安達清経が鎌倉へ逃げ下って、この由を頼朝に告げることを記し、或は『平家』(八坂本、巻一二)は

判官さらばとてやがて河原に引出し、西向にぞひつすえたる。(中略)その時土佐坊手を合せ、南無鎌倉の源二位殿と三度唱えてぞ斬られける。(流布本は『盛衰記』のに大体同じである)
としてこの節を終っているに過ぎないが、『義経記』(巻四)をこれに比べて見ると、
やがて斬れとて、喜三太に縄どりさせて、六條河原に引出し、駿河次郎は太刀取にて斬らせけり。(中略)打ちもらされたる者ども下りて、鎌倉殿に参りて、土佐はし損じ、判官殿に斬られ参らせ候ひぬと申せば、頼朝が代官に上せたる者を、おさえて切るこそ遺恨なれと仰せられければ、
とあるに続けて、「侍共」をして、「斬り給うこそことわりよ。現在の討手なれば」と、十分に思いきって「判官贔屓」に絶叫させているではないか。義経愛好は国民精神の率直な発露であると同時に、武家にその地位を完全に遂はれてしまった南北朝以後に於いて、過去の伝説の世界に憧憬の淋しい慰めを求めた室町貴族のその懐古的な気分の中に於いて、初めて具象化を観たのではないかと思われる。即ち謡・舞曲の武勇譚の中心人物となったその同じ時代の心嚮として、そして『義経記』はこれが表現としての叙事文学として、最も自然で且妥当な位置を用意せられているように考えられるのである。

次に用語の上からも『義経記』は室町時代の作であろうと推し得られる。例えば「をさあい(幼)」という語を、四ヶ所(巻一に二ヶ所、及び巻四・六)用いてあるが、これは室町期から江戸初世へかけての用語である。「有らば有ると見よ、なくばなしと見よ」(巻三)、「有らば有ると見よ、なくばなしと見て」(巻二)などと云うのも、室町時代の慣用と思われる。その他「世になしもの」(巻二)、「世になし源氏」(巻二に二ヶ所)、「流涕こがれ」(巻八)、「物によくよく誓うれば」(巻六)、「まぼり(守)」(巻四)、「まぼらへ」(巻八)「現世の名聞後世のうったへ」(巻五)等の語も『曽我物語』及び舞の本等に共通した常用語で、『平家』『盛衰記』『保元』『平治』等の特色とする所ではない。又当時の俚諺として盛に舞の本に用いられ、江戸時代までも流行した「上見ぬ鷲の如くにて」の諺語も二ヶ所(巻一・七)ほど用いられている。

文体上からしても、『平家』の優美、『太平記』の華麗、『保元』『平治』の簡浄さの無いのは、作者の優劣にもよるが、一体に文章が稚拙で、それに最も相似したものを他に求むれば、やはり『曽我物語』と幸若舞曲の詞章とが挙げられねばならないであろうし、又御伽草子の文にも頗る近い。物語の文が崩れて舞曲から古浄瑠璃の詞章へ移って行く過程を予示しているような文で、他の室町時代一般の文学と同一視され得べき体である。

なお附言したいのは、美成が指摘した「御免やうなめし」に似た例として、義経西国落の時の舟の名を「西国に聞えたる月丸という大舟」(巻四)と記してあることで、即ちかの将軍義満が遺明使の為に大船を作って、偶然に我が国造船史上に一転期を劃した以来の室町時代を語るようで、舟に丸の字を用いたのも、室町時代の大船、和泉丸・寺丸・宮丸等の名を連想させる。但しこれは必ずしも義満将軍の時に始まったとは言い難いであろうが。

次に、『義経記』に現れた地理に関して、岡部精一氏の研究がある(「歴史地理」第二四巻(大正三年度)第三号・四号・五号連載。「『義経記』に現れたる地理」)。氏に隋えば『義経記』の地理は即ち室町時代の地理であることになるのである。若しこれが正しいとすれば、これも亦『義経記』の製作年代を定めるのに有力な旁証とならねばならない。その所論は『義経記』は史料としての価値は無いが、その書中に現れる地理だけは、編著時代の地理であるとするのが要旨で、
 

吾人は巳に本書の内容が決して史実にあらず、編者の作為に成れるものたるを云えり。然れども其の間を纏綴せる地理そのものは悉く本書作当時の実際を叙せるものにして、こればかりは編者の作為にあらず。殊に編者も地理の上に於いて最も周到なる用意を為せし跡を認め得べし。即ち本書に現れたる地理は実に室町時代の地理を知るに好個の参考となるべきものなり。此の点に於いて『義経記』は稍価値ある史料たるを失わざるべし。(第三号)


と論じて『義経記』中の各地名について考証してある。併しこの研究は『義経記』所載のすべての地名に就いて調査して得た結果から帰納して、本書が室町時代の作であると論結したのではなくて、
 

『義経記』の著作年代如何を考うるに、これに就いては先輩の研究に成れるものあるや否やは予の浅薄なる未だこれを知らざるも、一たび此の書を繙いて其の文章を味へば、明らかに足利時代の製作たるを認め得べく、何人もこれについては異論なかるべし。即ち『平語』や『盛衰記』よりも遙に後世のものたること論を俟たず。(同)


との前提の上に立って、本書に現れた地理によって室町時代の地理を知り得べき好資料であるとして、考証を進めたものと読まれる。而もその年代認定の論拠は上の如く、単に文章から獲た印象だけの一点に過ぎぬのが心細い。但し文章や語法は原本から流布本へと転成して行く間に変化を蒙り、特に語り物の場合は語られる当時の現代化を見るのが常であるが、唯地名はこの憂が比較的少いから、そうした意味で地名の研究から立てられた所説という点に注目の値は十分に在る。又同氏が次号に於いて
 

余輩は前号に於いて、『義経記』が足利時代に成れる一種の歴史小説にして、其の内容は史的事実を示せるものにあらざるも、其の間を纏綴せる地理は、少くとも此の書の成りし時代、即ち足利初世の現状を示すものたることを論じ(第四号)
 
たと言う「初世」の語は何によって導き出されて来たのか、その理拠が前号には明言されていないのが頗る物足りない。これが為には『義経記』の地理が鎌倉末期若しくは室町中期乃至末期の地理としては撞著を来す点が分明に認められるから、初世のものと目せらるべきでなければならぬとのうごかせぬ論結を、なお有力な挙証と共に与えられるのでなければ、直に賛成することは出来ない。けれども、これもその地理が室町初世の実際と矛盾していないという意味でならば首肯出来るし、その意味に解して、次に述べる管見に対して、前述の諸項と共に有力な助証とはなり得る。

以上、大略『義経記』の成立は鎌倉期と見るよりは室町期とすべきが妥当であることを明らかにした。なお徂徠の提唱する『太平記』以前説も首肯し難い。恐らく『太平記』以後の作であろうと信ずるのであるが、これは下に詳論することにする。そこで兎に角室町時代の作であるとして、略々それは何時頃のものであるかを定むべき資料は無いかと検べると、『義経記』(巻六、静若宮八幡へ参詣の事)に、鎌倉を放還せられた静の動静を叙して、
 

明くれば都にとて上り、北白川の宿所に帰りてあれども、はかばかしく見いれず。(中略)母にも知らせず髪を切りて剃りこぼし、天龍寺のふもとに草のいおりを引結び(下略)


とある。写本・板本共に「てんりうじ」と仮名書であるけれども、近頃の活字本に大抵当ててある通りに、それは天龍寺であろう。然るに鎌倉時代に京に天龍寺と云う寺のあったことを聞かぬ。恐らく有名な京都五山の一、山城国葛野郡嵯峨の天龍寺のことと思われる。同寺の開創は北朝の暦応二年で、足利尊氏が、夢?國師の勧めによって建て、支那貿易の利潤を以てその造立の資に供し、康永四年に竣工をみたもの、而も初は年号に因んで暦応寺と名づけたのを、翌三年七月天龍寺と改めたものであることは説くまでもなかろうが、この寺の名を借用しているのを見れば、少くとも尊氏時代特に暦応三年以後の作であることは明らかであるのみならず、天龍寺が鎌倉時代にあったとする作者のことであるから、その創立が暦応二年であることを知らない人でなければならぬ。然らば尊氏・義詮時代以後の人であるべきは勿論、その創立年時の忘られた頃の作でなければならぬから、暦応・康永の頃から少くとも四五十年以上を経過した後の時代の作と観るべきが至当であろうかと思われるのである。
 

〔補〕その後偶然入手した黒河内与四郎著『静御前』(題簽に「帝國大学教授内藤恥叟先生序、帝國大学國史科卒業生黒河内与四郎君著、静御前」とある明治三十三年五月刊、大学館発行)の第一二章「静京都に還り尼となりて其の身を終ふる事」を読むと、静の奥州下りを否定してその死所を『義経記』及び『勲功記』に随て、京都天龍寺附近と認めようとする意見が載せられてある。但し五山の天龍寺は鎌倉時代に無かった筈であるから、別の天龍寺であろうかと疑い、且『勲功記』には「北白河に幽かなる庵を結び」とのみあるのを引いて、或は北白河の一小寺であったかも知れぬと言い添えてある。『勲功記』が『義経記』から出た通俗小説で史料価値に乏しいものである点に思い至らなかったのが難であるが、五山以外の同名の一小刹と見ようとするのは一の意見ではある。併し恐らくそうではないであろう。それほど『義経記』の記述が史料的に尊重するに足るか一層大きな疑問で、現にこの書でも他の箇所では静の歌舞と分娩とが逆になっているのを挙げて、『義経記』『勲功記』に於ける史実の誤を指摘してさえある。そして若し天龍寺が五山のそれでないとすれば、『義経記』の地理が室町初世のものであるとする岡部説にも、信憑の度に於いて更に躊躇を感ぜしめられる点が加わるのではあるまいか。

又この『義経記』の成立を天龍寺建立以後とすべきであるという点に関しては、『日本古典全集』の「義経記解題」中に御橋悳言氏の同様の説も出ている。


併し一方それを室町季世までは引下げ得られない理由がある。前に掲げた土佐光重(明徳中の人)の『義経記』切や、義政の『義経記』残欠を伝えている『倭錦』に憑拠することに危惧があるとしても、亦下のような想察は許されないであろうか。それは、謡曲で世阿以後の作である『船弁慶』『安宅』『正尊』などが『義経記』に取材していようということは容易に考えられるが、『申楽談儀』には記されてないけれども、『能本作者註文』に世阿作として伝える『忠信』『二人静』『吉野静』などは仮に世子の作でなかったとしても(『静』の古曲を改作した由は『能作書』に見えるが、それが何をさすかは明記してない。)、少くとも観世信光(『船弁慶』『安宅』作者)以前の作であることだけは確であろう(『作者註文』の作成に当って、父或は同代の作ならば、小次郎信光の子で『正尊』の作者である弥次郎長俊が記憶に比較的新で且正しかるべきが故に)。そしてそのいずれもが亦『義経記』に基づいている事も直に推読される所であろう(『二人静』に権頭兼房が高館自刃の事があるのなども、『義経記』から出た証ではなかろうか)。尤も『義経記』と謡曲と両者に材を与えた義経伝説の数々が既に播布していたでもあろうし、又『義経記』以前にその原本、類本又は田楽能・猿楽能の古曲などもあったかも知れぬが、
 

軍体の能姿、仮令(けりやう)、源平の名しやうの人体の本説ならば、ことにことに『平家の物かたり』のままに書くべし。(『能作書』)


と世子によって教えられている以上、伝説も参考にしたろうが、『義経記』が既に成っていたら、謡曲作者達はそれに粉本を求めたろうことも容易に想像せられ、その粉本が流布本の『義経記』であるとしても矛盾が無い事をも推断し得る。反対に、本文を比較してこれらの謡曲の方が『義経記』よりも早かったろうとは考えられないのみならず、史実に小説的な空想を加えつつ、義経に関する大小の各伝説を集録綜合しようとしているように観られる『義経記』作者が、謡曲『安宅』に完成した安宅伝説、『烏帽子折』『熊坂』に完成した熊坂長範伝説(『義経記』では藤沢入道がこれに相当する)などを知っていて採らなかったとは考え得られない気がする。又、世阿の全盛時の応永年中に生まれた幸若丸によって、少し降って創成せられた幸若舞は、以前から在った詞章を用いたのもあろうが、判官物の舞曲の大部分は謡曲と同材であり(同時に『義経記』とも関係あるものもある)、特に『義経記』のみと共材の『腰越』『静』『笈さがし』『清重』『高館』の五曲はいずれも『義経記』(或はその原本)乃至は共祖の或本から出たとしては矛盾は無いが、反対に『義経記』が直接之に学んだとは一寸断じかねる。舞曲の方が『義経記』を敷衍したといった観がある。兎に角、略々少くとも東山時代よりは前、義満の晩年乃至義持から、降っても義教将軍の頃には『義経記』は既に成っていたと考えたい。そして義詮将軍の薨逝、頼之の義満輔佐に擱筆している『太平記』よりも早いものとは思われぬ。こうして私は『義経記』の製作少くとも流布本の成立を、大体室町中期以前と推定したいと思うのである。

『義経記』の作者の問題は、時代の推定よりも更に茫漠としている。もとより国民的叙事詩ともいうべき国民文学は作者不明なのが常であり又本来の性質とするけれども、併し国民の意志を代表し、国民間に行われる伝説を採って文学に作り上げた一人乃至数人の、且数人ならば同時的又は継時的の作者を有せねばならぬ。私は大体に於いて『義経記』作者に関して、次のような推定は下し得られると信ずる。
 

一 主作者は一人なるべきこと。
先ず大体全体に亘って統一があり、他の軍記物に比べて余程作者の主観が働いているように見えるからである。但し流布の間或は語り物として用いられたとすれば、次第に多くの作者の加筆削除等を受けたであろうと想像される。巻四「土佐坊義経の討手に上る事」の冒頭の稍突然な――「二階堂の土佐坊召せとて召されけり」――或は殊に一層甚だしいのは巻八「鈴木三郎重家が高館へ参る事」の條の如き、「重家を御前に召され」と唐突に書き出してありその来下は前には何等の記述がなく、唯義経の言葉によってそれと知られるに止まり、全く劇的省約に似た筆致である。重家が如何なる人物であるか、姓字すら同所以前には全篇の何処にも説明せられていない。これらは先進文学をそのまま採って繋ぎ合せたのに起因するとも見られるが、それよりももとは適切な説明的文字があったのが、転写の際、或は語られる際の随時の都合上省き去られ、それが流布して来たのであるとも見られるのである(六九四頁、補説「義経記と義経物語」参照)。

二 義経に対する熱烈な同情者であること。即ち絶大の「判官贔屓」者であること。
義経に対して満腔の同情と尊敬とを払っている人であり、平家には少しも関心を有せず、又義経の武功をば故意に省いて、悲劇の部分だけを力めて描き出し、読者と共に自らも義経の為に泣こうとする人のようである。

三 義経伝説を蒐録しようとする意図を有する人らしいこと。
義経に関する諸伝説を殆ど網羅して、之を集成統一しようと試みたようである。即ち義経伝説の主要な且有名なものは大抵含まれている(又、前に引いた重家の條の如き、萬一当初から現行流布本の通りの文であったとすれば、この意図に急であり過ぎた為の破綻を示していることにもなる)。

四 小説的構想の組成に相当の念慮と手腕とを有している人らしいこと。
小説としての形態にも技法にも無論不備な点は多々あるが、他の軍記物に比べると、かなり伝記体歴史小説の形が整えられようとし、且相当の成果を収めている。そしてこの点『曽我物語』に似て且それより一段有意的であるようである。

五 関東武人を卑め、都人の優美風流を喜ぶ人で、公家者流ならずとも、少くとも都の人であろうかと思われること。
都人の風流を絶賛し、九郎御曹司には太刀取るよりも笛吹く機会を多く与え、白拍子静が去って後は、西塔の勇僧が屡々遊僧となって与を添える。育ちこそは京であり、素性こそは貴いとはいっても、その東夷とは僅に五十歩百歩の弁慶の口からして「一手舞うてあづまの方の賤しき奴原にみせん」(巻八)という言を吐かせ、又堀河夜討に筆頭の功を立てた貞女静をも、強いて吉野山で判官から引放したほどのこの荒法師が、北国落に北方を伴はうと仰せられる主君の心中を推量して「又奥州へ下り給いたるとても、情も知らぬあづま女を見せ奉らんもいたはし」(巻七)と言うに至っては、余りにあてつけたようである。如何に「憂き節も知らぬ東國の夷」(『盛』巻三八)と自ら卑下する関東武士でも、都人の眼からこそ鬼か蛇のようであろうとも、血も涙も無い木偶ではない。恐らくは曽て平家の公達に同情して『平家物語』を生んだと同じ心持を失わない、都方の作者の手に成ったのではなかろうか。そして又これは朝廷の式微に、私に関東を憤るの余りの語気と見るべきほどの深い意味はなく、唯「東夷」という蔑視的な流行語を筆に任せて用いたに過ぎないであろう。

六 仏者よりも寧ろ儒教的教訓的主義の人かと思われること。
全篇を通読し、且他の同時代の作品、特に『曽我物語』等に比してこの感がある。その詳述は次節に譲る。


なお此処に一顧して置くべきは、作中の人物に附してある敬称と、製作年代並びに作者との関係である。即ち『義経記』の文中、第三人称として「殿」を附けるのは、公家の外は「左馬の頭の殿」「鎌倉殿」「二位殿」「三河殿」「判官殿」或は「遮那王殿」などはさもあらう、畠山・梶原或は秀衡には敬称を用いないのに、独り時政だけを「北條殿」としてあるのが一寸目につくのである。それは頼朝の外舅である為であろうか、或は又幕府の執権であるからであろうか。そしてこの点からのみすれば、本書は鎌倉時代の作であるとしても不自然ではないように見える。併しながら、江馬小四郎義時を「江馬殿」とはせず単に「江間小四郎」とのみ呼ぶのである。その上、名で記す場合には時政でも「北條の四郎時政」(巻四、義経都落の事、同、住吉大物二箇所合戦の事)とだけで「殿」は附せぬのである。而も「申されけるは」とする敬語法は畠山や秀衡にも北條殿同様共通している。斯く観て来ると、本書の敬称の用法にはさまで重きを置く必要が無いようである。然らば時政にだけ敬称を用いる理由は如何。その答は頗る簡単である。曰くそれは鎌倉殿の外舅としての慣例的敬称で、而も同じく時政だけ特に「北條殿」として記しているのは『吾妻鏡』の慣用であり、同書を本拠として書かれた『義経記』は、それをそのまま移して襲用しているに過ぎない為であろう。そして又北條に対して特に阿諛の口気も無ければ、さればとて暗に誹毀の弄筆も無論認められぬから、この点からも恐らくは、作者は鎌倉時代の人でも、南北朝時代の人でもないのであろうと思う。
 

〔補〕「中央公論」(大正十五年十月号)所載、柳田國男氏の「義経記成長の時代」と題した研究は、素材としての各義経伝説間に統一が無いのを指摘して、諸地方に語られた口碑が集まって『義経記』が成ったものであろうとの考察で一面確に肯綮を得た論である。『義経記』が義経伝説の集録者であるという意味では全く同感である。唯各地方での語り物が自ら結合したのか、或は諸地方の口碑を本として或作者が作成したかは遽に決し難い問題であろう。況や、憑拠として『吾妻鏡』の如き史書を用いているに於いてをやである。


つづく
 
 
 



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源義経研究

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2001.12.1
2002.3.9 Hsato