追悼
 白川静先生


−白川静先生遺訓 −


 
佐藤弘弥

漢字の巨人、白川静先生が06年10月30日逝った。

私は白川先生がその96年の生涯において、創作された著作物を前にする時、バチカン宮殿のシスティナ礼拝堂の壁面の前に立っているような気がしてくる。周 知のように、同礼拝堂には、人間復興と訳されるルネサンス期、天才ミケランジェロ(1475-1564)が精魂込めて描いた「天地創造」などの巨大壁画群 が周囲を埋め尽くし、そこに立つものを何世紀にも渡って圧倒し続けている。

今日、白川先生の漢字文化を中心とした著作物は、「白川学」と呼ばれるようになった。確かにその学問領域はとてもひとりの人間が人間の短い生涯で創り上げ たとは思われないほどの膨大さである。しかも緻密でありながら、全体が構築的で、巨大な建築物に見えてくる。一見それはミケランジェロの壁画と同じく、人 間業ではなく、神の意志や神の手が介在しているとしか思えないような驚きがある。

しかし当の白川先生は、テレビのインタビューに、「それは毎日書いているのだから、あの位はなりますよ」という趣旨の発言をサラリとされる。そうなると、 凡庸なる私たちは、「信じられない」となって、いよいよシスティナ礼拝堂下の人になるのである。氏の九十六年間は、まさに学究に身を捧げた稀有なる生涯 だった。


白川静氏は、1910年(明治43年)福井県福井市の洋服店の次男坊として生まれた。地元の尋常小学校を1923年(大正12年)卒業後、大阪に出て法律 事務所に住み込みで働きながら、夜間高校を卒業。その間に、後の生涯を貫く仕事となる「詩経」と運命的な出会いをした。

中学の教師になるとの志を立てた少年は、夜学のある京都立命館専門部に入学した。余談になるが作家の水上勉氏は白川氏の二年後に、この専門部に入学してい る。

青年白川氏は、そこで「万葉集」や「詩経」を学んだ。万葉集は、漢字を輸入した日本人が、詩情を三十一文字で表現したものである。一方「詩経」は、中国で 最初の詩集であり、あの孔子が編纂したと言われている古典である。言ってみればここで氏は一生を貫く天職を見つけたことになる。

1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦の年、現在の立命館大学文学部に前身の法文学部が開設され、中学教師を続けながら、ここに席を置く。1943年 (昭和18年)に同学部を卒業し、同年さっそく同大学予科の教授となる。翌年には、助教授に就任した。

考えてみれば、氏の青春は、勉学と明け暮れ、そして戦争に翻弄された青春だった。戦争について、氏はその著「白川静回思九十年」(平凡社 2000年刊) でこう述べている。

愚かしい戦争 であった。まことに世界の戦史に類例をみないような、愚かしい戦争であった。奇襲は成功するのがきまりである。・・・(中略)いわゆる大東亜戦争は、中国 の歴史や文化に何の理解もない軍部が、何の理念もなく気まぐれに展開したものである。東洋の理念を求め続けている私にとって、それは見るに堪えぬ自己破壊 の行為であった。しかし軍部を批判する者はあらゆる迫害を受け、殺された。戦争を教えるならば、まずわが国の軍部独裁の歴史を教えるべきである。」 (同書 「私の履歴書」P34)

やがて「愚かしい戦争」は終わり、氏は虚脱感が襲ってきて、「もう東洋の姿は、どこにもなかった。」(同書 P34)と感じたのであった。

戦後、今度は強力な民主化が進められることになった。戦前派の人々は、立命館大学でも排除されるような流れができ、戦争協力者でもない氏の敬愛するK教授 が事実をわい曲される形で追放されるなどした。「これが戦後の民主主義であった」(同書 P39)と氏は苦い思いを込めて当時の風潮を回想している。

こうした中で、1954年(昭和29年)、氏は立命館大学文学部教授となり、ますます漢字研究に没頭していくのである。私からみて、いささか言葉は悪い が、その姿は「漢字の狂いの鬼っこ」の面もちがある。その頃の氏の面相には、何人も、たとえそれが国家であろうと、妖怪変化であろうと寄せ付けぬ強靱な学 者魂というべきか学究への執念のようなものが外に滲み出ている。おそらく氏の研究室における勉学へ没頭する姿を見れば、誰しもが畏れを抱き、モノを言える ような雰囲気が消え失せてしまうのである。

氏の有名なエピソードに、1968年(昭和43年)の全共闘がバリケードを敷いた中をバリケードを乗り越えて自分の研究室で学究を続けたという話がある。

氏は左翼の学生たちからは、戦前派で保守の固まりとして見なされていた経緯ある。またその頃は、戦後の荒廃した日本人の精神を立て直す試みとして「孔子 伝」を書き上げようとした時期と重なっていた。中国でも文化大革命が起き、孔子という人物は紅衛兵たちから、保守派の親玉のような人物として攻撃されてい た。しかしながら、そのような世界的な左翼運動の昂揚の折にでも、氏の姿勢は変わらなかった。そして、バリケードを乗り越えながら、連日研究室に通ったと いうのである。「何人も私の学問研究の機会を奪う権利はない」という強い思いに押され、さすがの学生たちも、手出しができなかったのであろう。

余談になるが、この時期の少し前、立命館大学文学部には、当時気鋭の中国文学研究者で小説家の故高橋和己(1931ー1971)が講師をしていた。在職期 間は、1960年4月(昭和36年)〜1964年12月(昭和39年)の時期だった。

このことについて氏は、やや苦々し気に短く回想している。

高橋和己君 は、かつて私が吉川幸次郎博士に請うて、私の専攻に迎えた人である。学術にすぐれた才能をもつ人であったが、作家的な自己衝動を抑えきれず、 『邪宗門』執筆中に辞職された。」(同書 P62)

この後、東京に居を構えた高橋は、小説を書く一方、明治大学で教鞭を取るなどした。再び京都に戻り、1967年(昭和42年)高橋和巳は京大助教授となっ ていたが、翌年(1968)全共闘運動が京大にも拡大すると、これに共感を示し、「わが解体」などを発表。次第に教授会からも孤立した高橋であったが、学 生たちの間ではカリスマ的な存在となっていた。そして翌年には、京大助教授の座を辞職せざるを得なくなる。

高橋は、その著「我が解体」で、立命館大学に職を得た恩師である白川氏を「S教授」として触れている。

「・・・立命館 大学で中国学を研究されるS教授の研究室は、京都大学と紛争の期間をほぼ等しくする立命館大学の紛争の全期間中、全額封鎖の際も、研究室のある建物の一時 的閉鎖の際も、それまでと全く同様、午後一時まで煌々と電気がついていて、地味な研究に励まれ続けていると聞く。団交ののちの疲れにも研究室にもどり、あ る事件があってS教授が学生に鉄パイプで頭を殴られた翌日も、やはり研究室には夜おそくまで蛍光がともった。内ゲバの予想に、対立する学生たちが深夜の校 庭に陣取るとき、学生たちにはそのたった一つの部屋の窓明かりが気になって仕方ない。その教授はもともと多弁の人ではなく、また学生達の諸党派のどれかに 共感的な人でもない。しかし、その教授が団交の席に出席すれば、一瞬、雰囲気が変わるという。無言の、しかし確かに存在する学問の威厳を学生が感じてしま うからだ。たった一人の偉丈夫の存在が、その大学の、いや少なくともその学部の抗争の思想的次元を上におしあげるということもありうる。」 (河出文庫 1997年刊 P16)

きっと白川先生のエピソードが、「もの凄い学者が立命館にいるぞ」として、京大の高橋まで聞こえてきたのだろう。白川先生がゲバ学生に殴られたという下り を読みながら、私の脳裏には、西行法師が老骨にむち打って、焼失した東大寺再建のための勧進に奥州に下ろうとしていた時のエピソードが浮かんできた。それ は静岡の天竜川の渡しで西行を突然襲ったアクシデントであった。ある日、西行と供の僧がたまたま渡しの舟に乗った。しかし舟が定員オーバーだったようで、 沈みそうになった。西行より先にこの舟に乗っていた武士が、「そこの坊主降りろ。早く降りろ」と、エラい剣幕で西行をしかりつけた。西行は、こんなこと は、よくあることと、そのままでいると、怒った侍が、ムチで西行の顔面を、しこたま打つと、西行の顔面から夥しい血が噴き出した。供の僧はびっくりした が、西行はその侍に恨みじみた視線を送ることもなく、平然と舟を降りてしまったというのである。

西行は元北面の武士であり、文武両道の人物である。もしも武士の時であれば、たちまちその無礼な相手を一刀両断に切り捨てていたであろう。しかし西行は、 この一時の不幸な事件を耐えて、相手を撃退することなどしなかった。びっくりしたのは供の僧の方で、「情けない。悲しい。」と、涙を流していると、西行は その僧を教え諭すように、平然とこう言い放ったのである。

「都を出た時から、こんなこともあろうかと思っていた。それが来ただけだ。たとえ手足をもがれ、一命を落とすとも、武士の頃であったなら別だが、こうして 僧侶となったからには、少しも恨みなどもってはならんのだ。忍の心で相手と向き合えば、仇の心もたちまち消え失せるというものだ。お前も私も菩薩の道を目 指しているのだからな。この位でへこたれていてはいかん。」(西行物語 講談社学術文庫 1981年刊 P114ー115 佐藤弘弥意訳) 

奥州に向かい東大寺再建の勧進をするという崇高な目的の前には、一時の感情に任せて高ぶった相手と事を構えるなど愚かなことだ。西行はそのように思って、 武者の無礼を堪え忍んだのである。その天竜川を越えた西行は、現在の静岡県掛川市に当たる小夜の中山において、有名な、「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」という歌を詠んでいる。 これは数多い西行の歌の中でも十指に入る絶唱と言われている。年老いた西行が命を削りながら、自らを菩薩と感じつつ一歩一歩山中を越えている姿がひしひし と伝わってくる。きっと全共闘に学内を占拠されていた当時の白川先生も、理不尽な若者の暴力を浴びながらも、不要な対立を避け、自らの菩薩の道である研究 そのものに専念していたのだろうと想像するのである。

同じ中国文学研究者でありながら、高橋と白川氏の生き様は対照的である。若き研究者は、有り余る才能を持ちながら時代を流離うように悩み揺れ続 けるのに対し、一方壮年の研究者は、時代をじっと見据えながら、敬愛する孔子然として頑としてその場を動かず自己の学問的研鑽に没頭するのである。ふたり の違いは余りにも鮮明である。

白川氏は、きっと心のどこかで高橋の才能を認めつつ、「そんなに生き急いでどうするの?」と、彼の中に危ういものを感じていたのではなかろうか。しかし ながら考えてみれば、元々文学とはそうした危うい部分も抱えているからこそ文学なのである、結局1971年、高橋和巳は、生き急いだ三島由紀夫(1925 −1970)の後を追う ようにして癌によって40歳の若さで亡くなった。

その翌年の1972年 (昭和47年)、白川氏の主著のひとつである「孔子伝」は刊行された。

その中の「第二章 儒の源流 天の思想」の中に次のような下りがある。
むかし、天と 地は一つであり、神と人とは同じ世界に住んだ。それで、心の精爽なものは、自由に神と交通することができた。神の声を聞きうるものは、聖者であった。」 (孔子伝 中公文庫版 P91-92)

孔子(前551-479)という人物は、春秋戦国時代(前770-前221頃を指す)と呼ばれる時代に生きた教育者であった。彼は前時代を生きた先駆者の 学問を綜合し、国家の理想形を周の時代を統治した周王(周公旦)の時代の制度や文化に見出し、仁を説き諸国を歴遊した。しかし50歳にして天命を知った理 想家の孔子を受け入れるような国は見つからなかった。

結局、自分が時代に取り残されていることを知った孔子は、弟子の教育や「詩経」など古人の遺した著述の編纂に専念し、失意のうちにこの世を去った「知の 人」である。その後、孔子の遺した言行録は「論語」としてまとめられ、失意の人は、やがて聖者と呼ばれるようになった。その深い見識によって人間と社会を 鋭く洞察した数々の箴言(しんげん)は、二千五百年後の私たちの世においても、少しも色あせることなく、本物の知の凄さを見せつけるように一筋の光明を放 ち続けているのである。

私はこの孔子の一途さと失意の中に、白川静というひとりの学者が、「愚かしい戦争」や虚妄な「戦後民主主義」の中にあって、さらに古人の教えを「保守思 想」と決めつけて排斥する軽薄な「学生運動」華やかなりし中にあっても、じっと漢字というものの成り立ちとその日本における受容の過程を「万葉集」などの 研究を通して、現代の孔子になる覚悟をもって生きた高潔でしかも不屈の学者魂を観るのである。

ひとつの字を徹底的に見つめ続けていると、字が白川氏に語りかけているイメージを、私は氏の辞書三部作(字源辞典「字統」、古語辞典「字訓」、漢和辞典 「字通」)を見ていると常に感じてしまうのである。

例えば、先の語源辞典「字統」で、天命の「命」の字の項を引く。

すると、こうある。

命 メイ・ ミョウ(ミャウ)
   いいつけ・いのち・うまれつき」

それに続き、6つの様々に変化する字形が描かれている。

「会意 令と口に従う。令は礼冠を著けて、跪(ひざまず)いて神の啓示を待つもの。 ゆえに神の啓示の意となる。口は■(佐藤注:筆記不能の字)(さい)、祝祷(佐藤注:原文は示+壽:しゅくとう)を収める器。神に祈ってその啓示を待ち。その与えられたものを命という。(後 略) 」


よく分かる。実に明快だ。つまり、いのちの「命」とは、「令」に「口」が付いてできた字で、命という言葉そのものが、天の意志によって与えられた、とても 大切なものであることが分かる。もちろん、これは白川氏の解釈であり、他の考え方もあるのは当然だ。しかし私は、漢字一字と向き合った時、「命」の方か ら、氏に向かって、「そこまで知りたいのならば聞かせてやろう」と啓示を与えていることを思い。これはひとつの真理を含んでいるという実感をもつのであ る。

人は誰も天命というものを知ろうともがきながら、短い一生を終える。「生」とは白川氏によれば、「草の生え出る形」が元になってできたものだそうである。 そうだ。私たちは一本の草のようにしてこの大地の上に、生えてきた草なのである。しかしそれはパスカルの蘆(あし)ではないが、思考し考える草なのであ る。

氏は伝記である「白川静 回思九十年」の中で、「私の履歴書」の最後のところで、こんなことを述べられている。

活力ある文化 を創造するためには、あまり制限を加えない方がよい。自由に遊ばせるのがよい。遊ぶことによって、自己衝迫が生まれ、新しい世界が開くものである。」 (同書 P92)

この言葉を私は氏の遺言として受け止めたい。活力ある文化もそして社会も、遊び心と自由があってはじめて生まれるものだ。そうだ。もしかすると、あのよう な白川学と呼ばれるほどの独創的な研究を遺した氏ではあるが、ご本人にしてみれば、「いや実に楽しい生涯だった。だって、大好きな漢字の研究に没頭できた のだから。」とニヤリとされるかもしれないと思うのだ。

為すべきことを成し、天から与えられた命の火を燃やし尽くした九十六年の白川静先生の見事な生涯に、合掌。


2006.11.2  佐藤弘弥

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