節分と鬼について

鬼も内?



今日は節分である。立春の前日を言うのだそうだが、この日は、「福は内、鬼は外」と豆を蒔いて、節を祝う行事を行う風習がある。ではなぜ福は内で、鬼は外、なのか、誰もその意味を明確に説明しきれる人はほとんどいない。

金沢のある旧家では、「福は内、鬼も内」といって豆まきをする家があるというが、その家の祖は鬼であるという話が伝わっている。そう言えば北陸や出羽にかけての裏日本には、鬼を忌み嫌わずに鬼を大事な神のとして、戒めてもらう秋田の「なまはげ」や、新潟の「アマメハギ」のような風習もある。その時、鬼は山から現れて、里人の家にいって、悪い子を懲らしめ、里の人の怠け心を戒める役割を担っている。

このように考えてくると鬼とはどうも里人(さとびと)に対する山人(やまびと)のことである可能性がありそうだ。山人とは、里人の生活に馴染めず、山に入った人ないしは里人に追われ、あるいは敵と見なされて山に棲むようになった人々を指す総称だ。

かつて日本列島には多くの鬼たち(先住民)が住んでいた。九州にはハヤトやクマソがいたし、九州から近畿にかけては、ツチグモなる人々がいた。関東から東北にかけてはエミシと呼ばれる集団がいた。広義の意味では彼らはみんな鬼たちということになる。ところで日本各地には、役の行者の伝説が多く残っている。その伝説の骨子は、「おおむかし、役の行者(えんのぎょうじゃ)という修験者がいて、各地に棲む鬼たちを妖術によって、家来としてしまう」、というのであるが、これは鬼と見なされた山人たちを征服支配していく過程で活躍した修験者(山伏)たちを一人の人格として伝説化したものであろう。

したがって金沢の旧家で「福は内、鬼も内」とやるのは、かつて敵対関係にあった人々が、他国から征服の為に移り住んできた人たちに、とけ込み同化して行きながらも、自分たちが鬼の子孫であることを忘れまいとして、それを習慣化したものとも考えられる。事実かつてこの金沢の旧家では、町に大火が起こり、当家も延焼の危機にあった時、どこからともなく鬼たちが現れて家を救ってくれたという伝承が残っている。だからこの家では、鬼を祖先の化身(善神)としてあがめているのである。

とかく昔から、「鬼」と言えば、日本各地では怖い者、怖ろしい者と相場が決まっていた。桃太郎の昔話にある「赤鬼」や「青鬼」のように、ともすれば鬼は、角があり、牙をむき、理不尽にも里人の財産や生命を容赦なく奪うような悪者と考えられてきたが、実は彼らはかつてこの日本列島に広く分布していた先住の民だったと考えられるのである。

柳田国男は、その著「山人考」(岩波文庫「遠野物語」に所収)で山人のことをこのように結論付けている。
山人すなわち日本の先住民は、もはや絶滅したという通説には、私もたいていは同意してもよいと思っておりますが、彼らを我々のいう絶滅に導いた道筋について若干の異なる意見を抱くのであります。私の想像するのは六筋、その一は帰順朝貢にともなう編貫(へんかん:里人の一員に組み入れられること。佐藤注)であります。最も堂々たる同化であります。その二は討死、その三は自然の子孫断絶であります。その四は信仰界を通って、かえって新米の百姓を征服し、好条件をもってゆくゆく彼らと併合したもの、第五は永い年月の間に、人知れず土着しかつ混淆(こんこう)したもの、数においてはこれが一番多いかと思います

節分の豆まきの風習については、どうも中国から伝わってきた風習のようである。中国には「追儺(ついな)」という鬼を豆で追い払う儀式があるようで、これが日本に伝わって、鬼追、鬼打、鬼ヤライとなって習慣化したのである。この儀式の本来の意味は、身に付いた罪やけがれを豆や銭に移して流すことだったようだ。

また古来より日本は農業国であり、節分の前には、「忌み」に入る習慣があったようだ。忌みとはユダヤ人の安息日と同じで、その日は仕事を休んで肉や魚を食べず、慎み深い生活をすることである。人が死ぬと「49日」の喪に服すがこれも一種の忌みである。同じように今年の豊作を願いひたらす土地の神に祈りを捧げること、これが節分の時に開けるのである。つまり節分の豆まきという風習は、里人が農作業をはじめる日の「忌み開け」の儀式だったのではないかとも考えられるのである。

以上節分にちなんで、鬼と豆まきの風習について少し記してみた次第である。佐藤


明日は、この話(鬼は内の伝承話を)をアレンジして「鬼の忘れ物」と題した創作童話を掲載しますので、是非又お越しください。
 


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2000.2.3