平 泉金鶏山南麓
源義経公妻子の塚

伝源義経公妻子の塚

金鶏山南麓の千手堂
2006年1月4日佐藤撮影

【寄り添う母子の塚】

毛越寺の東北に大泉が池の借景となっている金鶏山という名の山がある。かつては黄金の都平泉のランドマークであった。高さは100mたらずだが、円錐形の 美しい里山である。伝承によれば、この山は、奥州藤原氏三代秀衡が、奥州平泉の鎮護のために、雌雄の鶏を象った金鶏と埋め、さらに多数の漆の杯と黄金を土 中に納めたといわれる聖なる山である。その南麓にひっそりと千手堂が立っている。この御堂は、秀衡の持仏である千住観音を祀る毛越寺管轄の小さな御堂であ る。その西端に、悲劇の武将源義経妻子の塚と云われる五輪の塔がふたつ寄りそうように並んでいる。

伝義経公妻子の塚

金鶏山南麓の伝義経公妻子の塚
2006年1月4日佐藤撮影

義経記の伝えるところによれば、源義経は、文治五年閏四月三十日、衣川館に居たところを不意に襲ってきた泰衡の手勢五百騎に居館を囲まれてしまった。わず かな手勢で数時間を持ちこたえたのであったが、最期の時を覚った義経は、持仏堂に籠もり、まず幼い娘と妻を殺害したのち、気合いもろとも、自刃し果てたの であった。三十一才の若さだった。

義経の首は、鎌倉に運ばれ、親子の遺骸は否応なく引き離された。妻子の亡骸は、どのようにしてこの金鶏山に葬られる経緯になったのかは分からない。はじ め、ふたつの塚は、金鶏山の頂上付近に立てられていたと云う。それがいつの頃にか、現在の地に移されたと伝えられている。

母と子が寄 り添いながら父(とと)探す姿に見へて悲しかりけり


2006.1.20 佐藤弘弥

義経伝説
義経思いつきエッセイ