成人式問題を考える

 
成人式がたいそうな問題になっている。いったいどうしたことだろう。昔は元服というのがあって、名前も変わったこともあったようだが、私から言わせれば、誰かに祝って貰うなどという根性がしみったれていて奇妙な感じしか受けない。 

もちろんそんな訳で、私は成人式を欠席した。成人式は、行きたいと思う人間が行けばそれでよい。最近の若者は、友達と会うとか、何とか馬鹿な理由を付けて、成人式に行く輩が多いと聞くが、いい歳をして笑わせる。友に会いたければ、自分の金を出して、会えば良い。酒を酌み交わしたければ、もっと相応しい場所がある。 

成人式は親の為にあったという説もある。そう言えば子供の入学式とか、卒業式とか、やたらと張り切る親もいた。でも親孝行と思って、その厳かな式に出席するのは、悪いことではない。そのような気分を味わいたいと思う人間は、堂々と成人式に出るべきだ。 

一番行けないのは、自分に明確な成人式に対する考えがないくせに、その式に反発して、酒を飲んだり、携帯電話をかけたり、隣の人間とぺちゃくちゃやって、意味なく、出席する若者だ。要するに成人式に出るも出ないも明確な自分なりの考えがあればどっちでも構わない。 

さて、成人式問題の本質について、最後に考える。何を以て、成人と見るか。このことが一番大事だ。つまり20歳になったから、成人ではないのだ。成人は法的な意味だけではなく、心構えの問題だ。自分が社会に参加し、何らかの意味を持ちうる存在となること。それこそが、成人の意味だ。親や社会そのものにパラサイト(寄生)し過ぎでは、真の意味で成人したとは言えない。 

その意味では、30過ぎて成人になる人もいれば、40、50を過ぎてもちっとも成人に達していない人間も多い。まったくどうかしているぜ、この日本は。佐藤 


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2001.1.30