知性を持ったサル

人間の遺伝子はハエの倍ほど


 
近々、ヒトゲノム(人間の遺伝情報)について、日米欧のチームとアメリカの民間企業セラノ社が、別々に注目すべき論文を相次いで発表する見通しだ。

それによると人間の遺伝子の数は、これまで考えられていた10万個よりもずっと少なく、2万6千個から4万個位になりそうだ。これはハエや線虫の1万三千個のおよそ2倍の数でしかなく、人間のような複雑な生物が、何故このような数で形成されるのか、意外な感じで受け止められている。

この報道目にした時、ふと考えたことがある。それはタマネギだ。大きなタマネギが向けども向けども同じ構造をしている。そして最後には、小さな芯がぽつんとあって、あとは何もない。仏教の言葉で言えば、「空」に近い感じがする。あるように見えて、実はない。基本的な構造が、あってあとはその繰り返しがあるに過ぎない。そもそも遺伝子は四つの塩基を組み合わせの複雑化したである。僅か四つの成分が、ゾウリムシのようなものから人間に到るまで、すべての生命の源をなしているのである。

つまりこの生命現象の神秘を一般的な形で解釈するならば、高度なものと言っても、単純な基本ののものの複雑化によってもたらされる結果に過ぎない。もっと分かりやすく言えば複雑で高度に見えるものも単純なもの組み合わせによって出来ているということだ。

だから生物進化の過程で言えば、人間は、間違いなくサルから枝分かれした生物であり、もっと先には、太古の魚であり、その前は、それこそゾウリムシやプランクトンに過ぎなかった。サルが人間に進化した過程で、脳が爆発的に進化し、そこに知性というものが生まれた。いや生まれたというよりは、自分やこの外界全体を能の中で再構築できうる能力を獲得したのである。

知性というものは、一種の想像力であり、それは生物進化の極地とも言える能力(脳力)であった。その知性の過程で、人間は「神」(宗教)という概念を想像した。もちろんこの「神」の概念には、ふたつの流れがある。ひとつは、ユダヤ的(一神教的)な神で、この神は、万物を創造し、更に人間を自分に似せて地上に送り込んで、万物の中心に据えることを約束した存在とした。これは主に西洋諸国や中東諸国に広まった神の概念である。一方もうひとつの神は、自然そのものが神そのものであり、どんなものにも「神」的な意識が宿っているとする。インド的(多神教的)な神概念である。これは主にインドや中国、日本などアジア地域で広まった考え方である。

人間の知性は、さらに「科学」というものをうち立てた。しかし中世においては、知性が自分の想像力で創り上げた「神」の概念に縛り付けられて、科学までもが「神」の概念に従うことを強制された時期もあった。それでも人間の科学的真理へ欲求は昂揚し、ガリレオ・ガリレイのような人物を生み出した。すなわち科学者であったガリレオは、それまでの天動説に科学的な方向から異議を唱え、それでも「地球はまわっている」と、地動説を主張したのであった。

二〇世紀になると、哲学者のニーチェは高らかに「神は死んだ」と嘆きの声を上げた。しかしそれでも「社会的な精神の拠り所」(宗教)としての「神」は、社会的な概念として「死ぬ」(消滅する)ことはなかった。いやそれどころか「神」の概念(宗教)を、守ろうとする人々は、科学を自分の内部に受け入れることに、科学万能の時代におけるモラルの必要性を説くことによって、自己の存在意義を誇示するようになった。

我々二一世紀に生きる者は、神と科学の間で揺れる世界観の中で戸惑っている。一方では科学技術の進歩が、自分のクローン人間までも誕生させられる所まできた。そしてまた一方では、今回の遺伝子解析によって、生命現象の謎を解き明かす鍵とも言うべき人の遺伝子の全貌が、明らかにされようとしている。こうしてみると人類の歴史は、全ての生物の歴史の一断片に他ならないことは明らかだ。今や、人間はこの狭い地球上に六十億人を数え、ますます増えていく過程にある。これはネズミやゴキブリの数を遙かに上回る異常な繁殖振りを示している。今や地球は、増えすぎた人間を抱えて、瀕死の状況にあるように見える。

今回の遺伝子の数に示された科学の進歩が解き明かす人間の存在の意外なほどの遺伝子の数の少なさは、人間の下等性を証明するものではない。それは人間が、多くの生物と同じようにこの地球が、生み出してきた共通のタネから進化してきた種に過ぎないということを語っているに他ならない。とすれば人間は、奢ることなく、この地球に多くの種が共生できる生活環境を確保する努力をするべきではあるまいか。人間は、知性を持ったサルに過ぎないのだから。佐藤
 


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2001.2.13