こっくりさん社会日本の克服と丸山眞男

第21回参議院議員選挙と日 本人



昨夜(7月11日)、午前0時を過ぎてカレンダーが、第21回参議院選挙の 告示日(07年7月12日)となったと思うと、NHKでは日本記者クラブ主催の七党首公開討論会をノーカットで放送していた。

私はその模様をじっと見ながら、かつて何気なく読んでいたある本のことを思い出した。そこでもう一度書斎からその本を引っ張り出してみた。

その本とは、政治学者故丸山眞男氏(1914−1996)の「自己内対話」(みすず書房 1998年2月刊)である。

その著にこんな刺激的な言葉が並んでいる。

日本の政治はつねにグループの寄り合い世帯であった。議会もそのグループの一つで あった。軍部は天皇を党首とする武装政党であった。

日本の社会は蜂蜜の集団からなっている、ここは独裁者はいない。」 (バイアス)

バイアスとは、「偏り」という意味の英語ではない。これは人名で、アメリカ「ニューヨーク・タイムス」の日本特派員「ヒュー・バイアス」のことである。
このふたつの言葉は、そのジャーナリストが1942年に発表した著作「敵国日本」(内山 秀夫訳 刀水書房 01年10月刊 副題「太平洋戦争時、アメリカは日本をどう見たか?」 原題:The Japanese Enemy)からの引用である。

ここから、丸山は、日本社会を「もちつもたれつ社会」と評し、まるで『「こっくりさん」の社会』で「誰もが自立せずに、他者にそれぞれ寄りかゝっている」 と言い切る。そして「”Going my way"という生き方が・・・困難な社会」で、「他者への暗黙の期待がおそろしく肥大している社会である」と結論づけている。

なるほど、「こっくりさん」社会日本とは、言い得て妙な発想だ。これは、誰の意思がそこにあるわけでもなく、コインの上に置いた指と指を合わせて、得体の 知れない霊からの答えをひたすら期待しながら行う一種の占いである。それが日本社会だというのは、決してオーバーな表現ではない。日本におけるポピュリズ ムの氾濫とエセ政治評論家のような人物が霊媒師のようにして巾を利かすのは、丸山の「こっくりさん」理論からも十分に類推可能だ。

さらに以前は気付かなかったが、日本のマスコミのことも書いてあるではないか。

そこには、「官僚と庶民で構成されていて市民のいない国ーそれが日本だ。ジャーナリ ズムの批判性は庶民の官僚批判の典型的パターンである。庶民的シニシズムには原理がない。」とある。

これは丸山の昭和二八年の言葉である。強烈にシニカルな表現だ。周知のように「シニシズム」とは、一般に道徳を無視して、世論を冷笑する態度を指す。

「官僚と庶民」はいても日本には「市民がいない」という表現も妙に心に響くが、日本のマスコミ(ジャーナリズム)が冷笑的だという丸山の観察眼は今でも当 たっている。もっと言えば、この丸山の言葉は、真に自立した市民のいない日本においては、庶民的で情緒的なマスコミしか存在しえないと言い換えることもで きるかもしれない。

私は「七党首討論会」のような一見、分かりやすく民主的に見える共同記者会見のようなスタイルはあまり好きではない。それは記者個々人の取材を積み上げて の、見解を必要とせず、すべての流れを、朝日なら朝日、読売なら読売というある種の「大新聞社の意向」という切り口(流れ)で簡単にまとめられてしまう傾 向が出るのではないかと思うからだ。

これでは各社の記事が面白くなるわけがない。結局、もう新聞は読まなくても、過去の記事の傾向から、朝日ならこのように、あるいは読売ならこのように、と 翌日の記事が何気なく分かってしまうところがある。(それで一番分かり易いのが、憲法問題であるが・・・。)

このようなマスコミの傾向に、テレビマスコミ、なかんずく庶民派代表のような顔をした「みのもんた」の「朝ズバ」が加わると、まともな市民感覚を持った人 間は、又始まったと、政治不信と同時にマスコミ不信に陥ってしまうのである。

いつになったら、いつでも政権交代可能な民主国家に、日本社会は移行するのだろう。

いっそこうなったら、自民同様烏合の衆いや「蜂蜜の集団」ではあるかもしれないが、負けたら政界引退をほのめかす男気を素直に受け止めて小沢一郎民主党に 期待してみようか。



2007.7.12 佐藤弘弥

義経伝説
思いつきエッセイ