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さまざまのこと思い出す桜かな

妙法寺の桜(世田谷区)
(2004.3.21佐藤信行撮影

古寺に咲く花を見上げてしみじみと今に生きとふ縁(えにし)を思ふ


 さまざまのこと思い出す桜かな

さまざまのこと思い出す桜かな 

という句がある。実に平凡な句だ。俳句なんて、誰でも作れる、そんなことを思ってしまう。この句は、もちろん知る人ぞ知る芭蕉の句だ。芭蕉作となると、とたんに名句に思えてしまうから不思議だ。 

なぜそんなことになってしまうのか。読んだ人間の心の動きをみれば、まず「芭蕉」というイメージに反応して、さざ波のような葛藤が起きる。その波紋が次第に大きくなり、句のイメージが一変する。芭蕉と聞いただけで、「お見逸れしました」となる人も多い。それほど「芭蕉」という名は、日本人にとって大きな存在で、文化的象徴ということにもなる。日本人の心の中にあっては、芭蕉は、歌人西行と並んで、ユングの言う「元型」(アーキタイプ)のひとつと数えても良さそうだ。言い換えれば、日本人は芭蕉コンプレックスを持っているのである。 

具体的に言えば、「さまざまなこと思い出す桜かな 芭蕉」 
と読んだだけで、多くの日本人は、イメージとして、蕪村が描いた「奥の細道」の芭蕉の旅姿を連想し、次に芭蕉が、この句をどのような情景の中で詠んだのだろうと考える。日本人は、自己の心にある芭蕉という元型(心のイメージ)に合わせて、物事を判断したり、推量する。 

この句は、元禄元年(1688)芭蕉が、奥の細道の旅に出る一年前、故郷の伊賀の国に帰省した時に詠んだ句である。時に芭蕉45歳。 

この「さまざまの」の句には、こんな詞書(ことばがき)が付されている。 
「探丸子(たんがんし)の君、別墅(べっしょ=下屋敷のこと)の花見もよはさせ給ひけるに、昔のあともさながらにて」 

現代語訳すれば、「探丸子の君が上野の下屋敷で花見の宴を開かれたのに招かれて行けば、そこは昔の宴もさながらにて」というほどの意味になる。 

「探丸子の君」とは、芭蕉(本名松尾宗房)が、若い頃仕えていた故藤堂良忠の跡目を継いだその子良長の俳号である。若き日の芭蕉(宗房)は、良忠の近習だった。宗房の将来は、偏に良忠に掛かっていた。

宗房の将来は、まさに満開の桜のように輝いて見えた。しかし人生は分からない。良忠は、自ら寛文6年(1666)に主催した花見の宴の後、25才の若さで急逝してしまったのだ・・・。

この句の「さまざまのこと思い出す『桜』」とは、主君良忠とかつて花見の宴で見た思い出の「桜」を指していることになる。芭蕉は、その桜の中に、かつての主君良忠の若かりし面影を視ているのだろうか。あるいは桜とともに、良忠の子の良長(探丸子)を眺めながら、その面差しにかつての主君が甦ってきたような感慨をもっているのかもしれない。 

芭蕉は、明らかに「さまざまの」の句を詠みながら、若き日の自分の周囲で起こったことを思い出している。主君良忠公を野辺に送った後、23才の若き芭蕉は、侍の道を捨て、俳諧の道で生きる決心をした。どのような心の葛藤があったか、それは今となっては誰にも分からない。しかし魂が粉々に砕ける寸前まで、悩んだ末の決断だったに相違ない。そうでなければ、脱藩の罪を犯してまで、故郷の伊賀上野を後にした理由の説明がつかない。

それから22年後の元禄元年(1688)、芭蕉は、45才の齢となっていた。この年、芭蕉は、2度目の吉野の旅に向かった。いつか芭蕉は、歌人西行が目指した風雅の道を志すようになっていた。西行と芭蕉、歌と俳諧(俳句)の違いこそあれ、ふたりは若い頃に、それが道ならぬ恋だったか、主君の夭折だったかは別として、共に魂が砕け散るような辛い決断をして、風雅の道に飛び込んだ共通項を持っている。

この年芭蕉は、父の33回忌の追善法要もあり、丁度桜の頃に故郷の家に帰っていたのであった。芭蕉の実家から、かつて仕えていた藤堂家の下屋敷は、一町(現在の距離にして109m強)ほどの距離であった。

おそらく、藤堂家の世継良長は、脱藩までして行方をくらましたかつての父の忠臣宗房が、江戸に出て俳諧の宗匠松尾芭蕉として名声を得ていることを聞くに付け、「どのような人物であろう。一度父のことや俳諧の道について尋ねてみたいものだ」と思っていたに違いない。その芭蕉が、今目と鼻の先に来ている。当然脱藩の罪を負っている者だから、芭蕉から挨拶に行くことは許されない。そこで、この若き良長は、父の没後22年目にあたる春に、芭蕉を非公式に花見の宴に招いたと考えられる。

芭蕉にとっては、二度と足を運べぬと思っていた藤堂家の花見の席への夢のような列席であっただろう。そして芭蕉は、自らの言葉にならぬ感慨を、文字通り「さまざまのこと思い出す桜かな」と、ありきたりの言葉で表現したのである。そこには言葉を飾ろうとか、巧く詠もうなどという思いはない。実感をただただ平凡に詠んだのである、

芭蕉は何故この句を後世に残したのか。本来であれば、芭蕉の厳しさからすれば、破き捨てるべき句であったかもしれない。しかしどうしても実感のこもったこの句を捨てられなかったのであろうか。幸い後世の私たちは詞書が付されていたために、芭蕉が、どのような思いで、この句を詠んだのかを、知ることができるのだ。 

西行にも、随分と平凡な歌も多い。良いのである。魂が発した実感がこもっていれば、その実感は、響きとなって、それを読む人の心に、さざ波を起こす。 
例えばこのような歌だ。 

いにしへの人の心のなさけをば老木の花のこずゑにぞ知る 
(訳:こうして桜の老木が見事に今年も咲いているのを見ていると、その花を付けた梢に古の人々の花を思いやる心の深さがつくづくと偲ばれることだ)   

芭蕉にとって、桜は、ある意味で、幼い自分を育ててくれた父そのものであり、青春時代に、立身出世という夢を見せてくれた藤堂良忠であり、また今まさに生涯を掛けた目標となった先人西行法師その人なのである。それが、「いろいろのこと」という句となって、芭蕉の口から思わずポロリと洩れたのであろう。名句とは、推敲に推敲を重ねて作るものではなく、この「さまざまの」の句のように意外なほどあっさりとできるものかもしれない。さて芭蕉は、この句を詠んだ一年後、生涯の集大成とも言える「奥の細道」の旅に出る。西行の足跡を辿り、奥州を尋ねよう。そんな決意も、この懐かしき桜の前で誓ったのであろうか・・・。 

最近この平凡な句が、様々な方面から注目を浴びるようになった。芭蕉が敢えてこの句に詞書を添えたのは、この句が取るに足りぬ平凡な句であるからだ。もう一度、この詞書を味わった上で、この句の実景を噛み締めてみる。そうすれば、この句の実感が読んでいるこちらの胸中にじわりと迫ってくる。きっと、私たち日本人の心の琴線に触れているからだろう。佐藤 

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2004.3.30 Hsato
2004.8.30 改訂

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