桜さまざま(14)
奥州平泉の桜


ー芭蕉の感性で廻る平泉の桜たちー




奥大道のエドヒガンの古樹
(08年4月20日佐藤弘弥撮影)
佐藤弘弥
 
1 雨の中、一関に芭蕉の事績を探す

春の嵐のような風雨の翌日の08年4月19日、天候が回復に向かう兆しの中を、平泉周辺の桜狩りに出かけることにした。9時30分発の新幹線に飛び乗る と、次第に空には青空が見えだし、これは良い花見になると期待したのだが、日光を過ぎて、福島に入ると、再び日は隠れ、暗鬱な鉛色の空から、雨が落ちてき た。

一関に着いた時には、こちらもすっかり晴天の花見を諦めて、ではひとつ、芭蕉の「奥の細道」の旅を追想しながら、一関と平泉を廻ろうとということにした。 そこで、一関で芭蕉が停泊したという宿を訪ねてみようと思った。

現在、そこには「二夜庵跡」の高札が立てられてあった。芭蕉ゆかりの地は、今は駐車場となっているのだ。そこにはソメイヨシノが、雨に打たれながらも、健 気に美しい花を結んでいて、今ではすっかり、殺風景となってしまった宿跡に彩りを添えていた。

芭蕉が、この一関にやって来たのは、元禄二年(1689)の5月12日のことであった。これは旧暦だから、現在で云えば、6月28日になる。芭蕉が、深川 の芭蕉庵を路銀とするために売り払い、自ら退路を断って、「奥の細道」の旅に出たのは、3月27日(新暦で5月16日)であった。

この年は、丁度、源義経が亡くなって500年の年であった。もちろん奥州藤原氏が滅ぼされてから、500年目の節目の年に当たっていた。俳諧の宗匠とし て、日本中に門弟を持っていた芭蕉であるが、おそらく、内面では、周囲の者が考えも着かない創作的苦悩を抱えていたのだろう。芭蕉が目指す、風雅の道と は、古来より、旅に酔い、歌に命を賭け、日本中を廻った西行法師のような生き様とその芸術性の高みまで、自分も何としても行ってみたいものだ、と思ってい た。ところが、ある種の成功した亭主たちの道楽遊びの域を出ない俳諧の現在について、芭蕉は弟子にすら告白できない悩みを持っていたのである。

このままで居れば、宗匠として、何不自由ない暮らしが保障されている。しかしながら、芭蕉が乗り越えたいと恋い焦がれていたものは、西行のような生き様 だった。そこで、自らの体力気力が残っている今この時にと、芭蕉は西行という目に見えない師の辿った足跡を歩く決心をして、奥州への旅に出たのであった。 この時、芭蕉は46歳となっていた。

二夜庵に着いた時、芭蕉はどしゃ降りの雨の中を、簑を来て、この一関に辿り着いたようだ。芭蕉に同行した曾良の日記に「曇りのち雨降り出し強く降る(合羽 も通るなり)」とある。当時、この磐井川の袂には、二軒の宿が立っていて、芭蕉が二日間、停泊したとのことを宿の名として「二夜庵」としたものと思われ る。そんなことを考えていると、今、目の前で雨の中で健気に咲いている桜がとても愛おしく感じられた。


 雨降 れば雨の風情の花見むと芭蕉ゆかりの二夜庵佇つ



一関二夜庵に咲く桜
(08年4月19日佐藤弘弥撮 影)

 2 芭蕉が 行かぬ配志和神社の桜

二夜庵跡の右に出て、少し行くと磐井橋に当たる。この橋を対岸に渡り、芭蕉が歩いたと言われる旧道(奥州街道)を平泉に向かう。あいにくの雨だったが、川 下にある上の橋沿いには、恒例となった鯉のぼりが列を成して泳いでいた。更に川下には、一関のランドマークとなっている釣山公園の桜が忘れては困るという 風情で満開となっていた。この磐井川沿いにある小山は、かつて一関城が聳えていたところで、伝承では安倍一族の磐井五郎家任(いえとう)が居城で、衣川に 居を構える安倍氏の南の守りの要の砦だったと言われている。

橋を過ぎて、右に曲がって行くと、どこか芭蕉が歩いた旧道の雰囲気がしてくるから不思議だ。道端には、木製の道標で「元禄二年五月一三日紀行(一六八九) と正面に、側面に「俳聖 芭蕉紀行の道」と表記されていた。曾良の旅日記によれば、芭蕉が一関に一泊した次の日は雨から一転して、好天となり、ふたりは、 午前10時頃に、ゆっくりと平泉を目指した、とある。

道標から800mばかり道なりに進むと、やがて右側に配志和(はいしわ)神社の一の鳥居が見えてくる。この延喜式内社の古社に、芭蕉一行が訪れた記録はな い。おそらく芭蕉の頭の中には、この「奥の細道の旅」のクライマックスであった滅びの都「平泉」を前にして興奮していたはずだ。

この配志和神社は、やはり古代より戦場の砦として使われた場所で、菅原道真の御子が彷徨ったという伝説があるほど梅の多いところだった。梅が乱れ咲くとい う意味が転移したと思われる「蘭梅山(乱梅山)」という山名が付いているほどだ。長い参道を歩いて入口に付くと、折りからの満開の桜が、雨に打たれて水を 含んで、晴天時には味わえない風情があった。神社の入口に鎮座するのは、この神社に入る時には、まず「白鳥神社」からとの決まり事があると聞く。白鳥神社 の祭神はヤマトタケルの尊である。社の背後には名木と呼ばれる杉の古木があるが、桜の季節ばかりは、やはり桜の古木が、この配志和神社の威厳を伝えるよう に優雅に構えていて、日本の美というものを感じた。

この神社に芭蕉は訪れていないが、あの日本民俗学の祖とも言われる菅江真澄(1759−1829)が足跡を残している。やってきたのは天明6年 (1786)の4月9日だった。芭蕉から98年後のことだ。この時には、梅は盛りを過ぎ、桜が満開を過ぎる頃だったと思われる。菅江は、この社の近くに居 を構えていた山目の肝煎りの大槻清雄(1739ー1802)(※注1)の家に泊まった。和歌を嗜む主人の大槻に案内されて、この配志和神社を廻って、帰ろ うとすると、地元の人々が酒を飲み、花見に興じているのを見る。

<※注1>
大槻家は、一関を代表するような名家で、日 本初の国語事典「言海」を編纂した大槻文彦(1847−1928)をはじめとして、近世以後多くの文人・医者な どの知識人を輩出した。

すると大槻は、夫木和歌集(ふぼくわかしゅう)の和歌「もろ人の磐井の里に円居(まどい)して千とせをふべきなりけり」と声に出して謡い、二人で帰った と、「はしわの若葉」という著に記している。翌日に、菅江と大槻は、まだ散り残る桜もあろうと、衣川の橋を渡り、さらに前沢まで足を伸ばしたということ だ。菅江は相当に桜狂いな人物だったようだ。

 
山ノ目のはしわの社の桜見て菅江真澄の旅を偲ばむ



配志和神社の摂社白鳥神社に咲く桜

 3 花を結ばぬ柳の御所の枝 垂れ桜

小雨が続く中を、旧道に戻り、JR中里駅前を通り過ぎる。再び芭蕉の姿を思い浮かべた。芭蕉は乙女に恋した少年のように「平泉、平泉」と念じながら奥州街 道を歩いた。芭蕉の目には、おそらく青葉が茂り、田んぼの稲穂が初夏の日を浴びて、ゆらゆらとそよぐ風景をどのようにみただろうか。遠くを見れば、大河北 上川が悠然と流れ、彼方には、青く屏風のように束稲山連山が聳えている。芭蕉の中では、ますます滅び去った奥州藤原氏とそれに殉じるように逝った源義経の ことが連想され、複雑な心持ちになったのでなかろうか。

今ではやがて、旧道は国道4号線と和して、少し行くと祇園という地名の残る場所を過ぎる。奥州藤原氏、初代清衡は、日本中の名高い神々を、平泉に勧請し た。祇園もその名残で、八坂神社(京都東山区にある元官弊大社 通称祇園社)を建立し、その周辺に発展したと思われるところだ。きっとここには宿場町が拡 がっていて、京都の祇園町のような賑わいがあったのではないだろうか。もちろん芭蕉がやって来たのは、滅ぼされたから500年後のことで、青々とした田畑 が拡がっていて、街道からは北西部を見渡せば、金鶏山や中尊寺のある関山が青く霞んで見えたことだろう。

私は、祇園の手前で四号線右に折れて、問題の平泉バイパスを進む。車幅が30m近くもあるだだっ広い道路だ。平泉駅から中尊寺の間の1キロほどが、渋滞を するというので、その緩和のために計画された道路である。また北上川の堤防の役割を兼ねている。

ところがこの道路が、柳の御所という平泉の史跡を貫通する計画だった為に、柳の御所の史跡調査(1988)を行ったところ、次々と遺構やカワラケなどの遺 物が出てきて、結局、吾妻鏡に記されている「平泉館」ではないかという説が持ち上がり、現在では、それがほぼ定説となって、道路敷設計画が、柳の御所付近 で、100mばかり東に変更(1995)されることになった。その為に、北上川の川道も移動(2004)して、大変な大工事となったものである。

この為に、平泉の景観が、いっぺんに芭蕉の頃の風情を失うことになった。いや風情だけではない。周辺の環境が急激に悪化したことが原因で、柳の御所跡のし だれ桜として地元の住民から親しまれてきた樹齢100年ほどの桜が、04年4月に花を結んだのを最後に枯死寸前となってしまった。北上川の川道の付け替え 工事が本格化すると、たちまち樹勢は衰え、04年の夏には、青葉がすっかり抜け落ち、見るも無惨な姿となった。

工事で地下水脈が変わったことが原因との見方が有力となっている。

その象徴的存在が柳の御所跡のしだれ桜で、これはほんのこの20年で起こったことであり、平泉バイパスの16キロは、今年の7月の平泉の世界遺産登録を控 えて、その前に落成式があるものと予想される。

2006年に小さな若枝が伸び、生きていることが確認されたが、事態はますますひどい状況になっているようだ。この7月にも、平泉は世界遺産になろうとし ているのだが、コアゾーンである柳の御所が、平泉バイパス工事による景観の著しい悪化と環境破壊があり、正直に言って、もしもこの柳の御所の状況を、世界 遺産委員会に、推薦をする役割のイコモス(国際記念物・遺跡会議)が問題とした場合には、世界遺産が棚上げになる危険性もある。

太田川の巨大な堤防を過ぎ、高館橋の前を渡らずに右に折れると、少しして柳の御所跡に着く。そこにはお世辞にも世界人類共通の遺産と覚しき景色はない。あ るのは、見るも無惨に掘っくり返された工事現場のような景色だ。そこにポツンと枯れかけた一本の桜が佇んでいる。冬にこの桜を蘇らせようと、菰(こも)を 巻いた跡が、木に黄色っぽく残っていて、痛々しかった。本当に酷い有様で、涙が出そうになった。

 花咲かぬ柳の御所の桜花世界遺産を目前にして



 4 駒形嶺から高館山の桜を 遠望する

人間誰しも、憧れのヒーローがいる。芭蕉にとって、ヒーローとは、西行法師だった。西行は、院の警護をする北面の武士というエリートの道を捨て去って出家 し、日本中を旅して歩いては、歌を作るという風雅の道に徹した男だった。

公家に通じる出自を持ち、和歌山にあった田仲庄という荘園を納める佐藤家の長子だった西行ほどではないが、芭蕉も、伊賀上野の藤堂家の若殿の近習をしてい た。ところが、この若殿が思いもかけず早世したことから、世を儚んだのか、若殿の位牌を高野山に納めると、そのまま出奔して武士の道を捨てた経験を持つ男 だった。

高野山には、西行の多くの事跡が遺り、麓に当たる天野の里には、西行の妻子が住んでいたという伝承のある西行庵跡がある。もしかすると芭蕉は、この事跡た ちを目の当たりにして啓示を受けたような感覚を持ち、「自分も西行法師のように生きたい」と、念じるようになったのかもしれない。

奥の細道の旅は、芭蕉にとって、歌人西行の歩いた歌の道を、自らで歩き通し、新たに自分の俳諧を西行の遺した歌に連なる質の作品を遺したいとの強い思いを 持って始められたものだった。

西行は、この平泉に二度訪れた。一度は若き頃、出家して間もない20代後半の時だったと思われる。西行が奥州に訪れた理由は、奥州藤原氏と西行の佐藤家 は、藤原秀郷の流れを汲む同族であり、年齢もほとんど同じの奥州藤原氏三代秀衡とは、秀衡の京都遊学時代からの顔見知りだったことが考えられる。

その西行の歌に、

 聞きもせず束稲山の桜花 吉野のほかにかかるべしとは

という歌がある。かつて、平泉にとって、北上川を挟んで東に屏風のように聳える束稲山は吉野山のような全山が桜の山だった。一説には、衣川河岸に勢力を 誇っていた安倍氏が、この束稲山の桜を育てたという伝承がある。そのように考えれば、安倍氏の時代から100年以上を掛けて育まれた美しい吉野を越えるよ うな桜山の景色が拡がっていたのかもしれない。

ともかく、西行は、平泉の東に悠然と見える束稲山連山の圧倒的な景色に目を奪われて、思わず何ら技巧も凝らさずに詠った若い頃の歌である。

しかし今、かつての桜の山、束稲山は、残念ではあるが、桜の園ではない。桜は人間との深い結びつきの中で、美しい輝きを放つもので、奥州藤原氏が頼朝の鎌 倉軍によって、滅ぼされた後には、徐々に桜の山は、どこにである里山に姿に戻って行ったのである。

私は、柳の御所から、雨の強くなってきた中を高館橋を渡り、束稲山連山で平泉の中心部に近い駒形嶺の頂上付近にある展望矢倉を目指した。そこには、西行の 束稲山の歌碑が建立されている。急坂を車で登ると、やっとの思いで頂上に着くと、周辺の若い桜は、まだ蕾で、花は開いていなかった。歌碑に一礼すると、西 を望む。雨で霞んで、朧気に栗駒山が見え、その下に古都平泉の山々が連なっていた。北上川には堤防と一体化した平泉バイパスが並行して境を形成している。 義経の最期の地とされてきた高館山が見えた。芭蕉は、高館から、逆にこの束稲山方向を一望し、夏草以外に何もない茫漠とした山河を見て、

 夏草や兵どもが夢の跡

と詠んだのである。27歳か28歳の西行の歌と46歳で円熟の芭蕉の句では、作品の深みの違いは、仕方がない。西行の歌は、平泉に着ての挨拶の歌のように しか思えないこともない。ただこの歌で貴重なのは、束稲山という地域が、吉野山のように、桜の山のような景観を誇っていたという事実である。芭蕉は、往時 の平泉の栄華を百も承知で、西行が、「奥州の吉野山」とも言うべき束稲山が、杜甫の名詩「春望」の一節「国敗れて山河あり、城春にして草木深し・・・」を 引用した、「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有り、・・・」の日本文学史に燦然と輝く名文が出来上がったのである。

つまり、芭蕉は若き西行が詠んだ平泉の栄華に対して、奥州という黄金の都が滅び去ってしまったが、それでも奥州の山河の美しさは格別だと、野草が強く生い 茂り、山が青々として、大河が清流のように滔々と流れるさまを「夢の跡」という言葉に変化(へんげ)させて見せたのである。

そこで私は駒形嶺の矢倉から、高館義経堂の辺りに咲く桜を見ようとした。

 見渡せば雨に霞みし高館の桜仄か に夢跡に見ゆ





中尊寺蓮を育成する大池跡に咲く桜

 5 中尊寺の桜

束稲山を下り、少し北に行って箱石橋を目指す。ここから北上川越しに衣川、中尊寺、高館にかけての景色は素晴らしい。しかしカメラを向けたが、雨に煙って いて、画にならなかった。すぐに国道4号に入り、中尊寺に向かった。途中、衣川橋周辺の堤防工事の大規模さに驚いた。ここまでするのかと言うほどの凄さ で、そのために道路はかさ上げされ、周辺の景色は一変していた。

住民の命を守るという趣旨を否定するものではないが、必要最小限の工事に留めておかなければ、たとえ平泉が世界遺産に登録されたとして、世界遺産委員会か ら、「工事の過剰」を指摘される可能性が大きいと感じた。まったく元の衣川橋の風情というものが消え失せて、どこに来たのか分からないほどの変化だ。

新しい衣川橋を渡ると、中尊寺の東物見の下に見える桜がきれいに咲いていた。中尊寺の山門の前の坂を車で登り、中尊寺蓮のある坂上に車を止めた。道沿いの 桜が満開になっていた。坂を登り、本堂にお詣りをして、金色堂、経蔵、鞘堂を拝観する。あいにくの雨、とゴールデンウィーク間近のこともあるのか、観光客 はさほどでもなかった。白山神社を廻り、かんざん亭で、コーヒーを呑みながら、窓の外を見ると雪をいただく焼石岳の雄姿が見えた。

このかんざん亭付近は、中尊寺でもっとも早く開かれたところだ。ここには、中尊寺を代表する二階大堂(正式名称 大長寿院)という大伽藍が聳えていた。こ の御堂は、棟丈15mもある巨大な阿弥陀堂で、内陣にはご本尊として9m余りの阿弥陀如来が鎮座し、脇侍として4.8mもある持国天や増長天などの仏像9 体が並んで立っていたのである。さぞや壮観だったろう。建立したのは、もちろん奥州藤原氏初代清衡である。当時52歳だった。

奥州平泉を征服した源頼朝は、平泉に入り、中尊寺にやってきて、二階大堂の壮観さに目を疑ったと言われる。そして頼朝は、鎌倉に永福寺(ようふくじ)を建 立させる際、この二階大堂を模して、本堂を二階造りにさせたのであった。二階大堂は、嘉祥三年(1107)3月の完成であるから、今から901年前のこと である。

一方、この巨大な大堂に比べ、金色堂は、6m四方に納まるほどの小さな小さな阿弥陀堂だった。ただこの御堂は、「皆金色」(かいこんじき)と呼ばれるよう に、外も内も金箔を貼って永遠の命の輝きを象徴するような細工が施されていた。金色堂が完成したのは、天治元年(1124)、これから2年後の天治三年 (1126)には、中尊寺で落慶法要が営まれた。この法要において、清衡は、平泉の安寧と戦争のない世の中を祈りながら、千人の僧侶が、法華経を読経し、 さらには530人に及ぶ僧侶が、金や銀を溶かして書かれた経典(中尊寺経)5千巻の軸を開帳するなどの、豪華絢爛な落慶法要が営まれたのであった。

しかしそれでも、時は容赦なく、再度奥州を戦乱に巻き込み、奥州藤原氏4代泰衡は、最後には、平泉が戦乱に巻き込まれない配慮を示して、中尊寺、毛越寺、 無量光院などの寺院寺領が、未来永劫遺るようにと祈った初代清衡の思いを感じながら、自らの館にのみ火を放って北方に逃亡して行ったのである。文治5年9 月(1189)の事である。

それから、500年後、松尾芭蕉は、奥州平泉に来た。この時、すでに二階大堂はなく、芭蕉は、源頼朝亡き後、その妻北条政子の夢枕に立ったという藤原秀衡 のお告げを承けて、金色堂を修復し、そこに雨風を凌ぐために鞘堂で覆ったのであった。おそらく芭蕉はそんな故事を頭において、昼でも薄暗い堂内を廻りなが ら、あの句を詠んだ。

 五月雨の降り残してや光堂

この句の初稿は、「五月雨や年々降りて五百たび」であった。

この句の講釈で、政子の夢枕に立った秀衡の故事が芭蕉の頭にあったという説明に出会ったことはない。しかし、この句の前に「金の柱霜雪に朽て、すでに頽廃 空虚の叢(くさむら)となるべきを、四面新たに囲て、甍を覆て風雨を凌ぎ、しばらく千歳の記念(かたみ)となれり」という本文があり、ここには主語として 北条政子と秀衡の故事が省略されているのではないかと思うのである。

そんなことを考えながら、不動堂脇の晩照坂を下ってくると、雨が俄に上がって、少し日が射し、駐車場に続く道端の桜が、光輝いていた。



厳美渓の桜

 6 奥大道の老桜と舞鶴が池に映る桜

その日、私は中尊寺から塔山を巡って金鶏山周辺のパノラマを見た。そこから 毛越寺の前を西に5キロばかり下って、達谷窟の西光寺の樹齢四百年と言われるし だれ桜を見た。さらに厳美渓の渓谷に咲く張り付くように咲く桜を見た。磐井川を西に遡って、骨寺の道端に咲く桜を眺めながら、宮城県に入る。栗原市玉山地 区にあるダム湖「栗駒湖」の脇を通り、菅原次男氏が亭主をしている温泉旅館「くりこま荘」に向かった。くりこま荘は、標高800m余りの耕英地区に位置す る小さな宿だ。今晩一晩の宿をお願いしている。車窓から、山際に生えている山桜の若木が、ピンクの花を散らしたように春の山に彩りを添えていた。

菅江真澄に、「さくらかり」という著がある。これは日本中の名のある桜を記述したものだ。その中に「駒形桜」が含まれている。この駒形とは、そもそも栗駒 山(岩手では須川嶽と、秋田では大日嶽と呼称)をかつて「駒形嶽」と称していた。この名は、延喜式神名帳にも記載されている古社駒形根神社(里宮は栗駒沼 倉一宮)に由来する。駒形根神社の奥宮は栗駒山山頂付近にあり、この山の麓に当たる骨寺や厳美渓のある辺りに桜が多かったことから、それを駒形桜と呼んだ と記されている。

翌日は20日は快晴だった。方々見ている間に、夕暮れが迫っていた。どうしても毛越寺の大泉が池に映る桜を見たいと思った。しかしその前に、厳美渓の渓谷 の桜を写し、達谷窟から毛越寺に行く奥大道の角にあるエドヒガンの古木を撮りたかった。


厳美渓にも夕暮れが迫り、名物の団子を滑車に載せて渓谷越しに味わうサービスは終わっていた。橋の上から磐井川の下流を眺めると、自分の影が、遠くの岩に 映っているのが見えた。栗駒山の雪解け水を含んだ水流は、どこまでも青く清んでいた。岩にへばり付くように桜が咲いている。

残念ながら、芭蕉は、奥大道に脚を伸ばさずに、現在の国道4号線とほぼ同じ道である奥州街道を平泉を最後に南下して、金売吉次伝説で有名な金成の辺りから 岩ヶ崎、一迫を通って岩出山に一泊、そこから鳴子通り、山形に抜けて行ったのである。

そのように考えると芭蕉の平泉滞在は、ほんの数時間でしかなかった。事前に調べていたとは言え、西行ゆかりの衣川にも行っていなければ、やはり西行伝説の ある骨寺にも脚を伸ばしていない。さらには、毛越寺も拝観していない。どこまで、平泉という古都について、芭蕉が感じたかは、「奥の細道」に記された極々 短い文章と句によって考えるしかないが、西行のように、ひとつところに、庵を建てて、じっくり腰を据えるやり方と比べると、やはり早計過ぎはしないかと、 思うのである。

ともかく、芭蕉の旅の頃には、桜の若木として、この地にあって桜を咲かせていたと思われる日照田地区にあるエドヒガンに向かった。毛越寺から行くと、右に カーブを切って、奥大道が太田川と合流する地点の角に立っている桜である。この時は、丁度夕暮れ時で、ほどよい夕日が、この老桜にスポットのように照らし ていた。桜の幹を見れば、根っこの方から上に向かって、桜の再生根と呼ばれる根が枯れた幹の上を守るようにして這っていた。桜の生命力の凄さを
まざまざと 見る思いがした。

少し時間が喰ったのだが、毛越寺に向かったが、既に時計をみると、5時を回っていて、門は閉じられていた。残念だが、大泉が池に映る桜を見ることは叶わな かった。そこで近くの観自在王院跡の舞鶴が池に行くことにした。

この観自在王院は、二代基衡の妻が建立した寺で、大阿弥陀堂と呼ばれていた。この女性は、前九年後三年の役で、朝廷方の源頼義、義家親子に敗れて 投稿した安倍宗任の娘と言われる女性だ。京都育ちで、奥州が、安倍氏の流れを汲む藤原清衡の治世となり、請われて、清衡の息子二代基衡の妻と なった。教養もあり、人格者だった基衡の妻は、衣川にある接待館で平泉を訪れた人々を手厚く迎えたという伝説がある。

毛越寺では、今でも、毎年5月4日、 この花が大好きだったという女性の遺徳を偲んで、「哭き祭り」という祭を恒例としている。この祭は、この観自在王院の北にある小阿弥陀堂にて、法要をし、 泣くような声で、御堂を廻りながら、御経を唱え、散華を降らせる儀式であることから、「哭き祭り」の呼称が附されたものと思われている。この祭りについて も、菅江真澄は、詳細な記述を「かすむ駒形」(1786)という著の中に残している。

私は、この女性の墓(※注)で合掌をすると、少し夕闇の迫ってきた舞鶴が池に向かった。若い桜がほのかに池に映って、ゆら ゆらと揺れているのが見えた。日 はすでに毛越寺の向こうに落ちて借景である塔山全体が黄金色に輝いていた。戦争のために人質として京都で育ち、縁あって、再び奥州に嫁いだ数奇な生涯を 送った一人の女性のことが偲ばれた


  戦なき世を祈りつつ奥州 の花と散りにし女(ひと)を称ふる

(※注)石碑の銘には「前鎭守府将軍基衡室安倍宗任女墓 仁平二壬申年四月二十日」(さきのちんじゅふしょうぐんもとひらしつ むねとうのむすめのはか にんぺいにねんじんしんしがつはつか)とある。




観自在王院 の舞鶴が池に映る桜

 7 結語 世界遺産入り目前の平泉の花 見を終えて

今年の7月、カナダのケベックで開催される第32回世界遺産委員会において、平泉は浄土の思想で建設された都市として、世界遺産に登録される予定になって いる。しかし今、柳の御所跡など平泉の世界遺産のコア・ゾーンと言われる地域の過剰な公共事業などによって破壊されや景観を見る時、果たしてこれで世界遺 産に登録されるのかと、大いなる疑問の念が湧き上がってくるのである。

私は当初から、平泉の世界遺産入りについて、「浄土思想」という概念を強調するのではなく、中尊寺落慶供養願文に刻印された初代藤原清衡公の恒久平和への 祈りこそが大切であると主張してきた。

清衡公は、前九年後三年の役という壮絶な戦争の果てに、それこそ運命のいたずらによって、奥州の政治的指導者の座に坐った。その初代藤原清衡公は、亡くな る間際、中尊寺落慶供養願文に、平泉建都の精神という遺言を残した。

そこには「戦争の及ぼす惨禍によって、二度と生きとし生けるものが悲惨な目に遭わぬように」との恒久平和の祈りが込められていた。この清衡の祈りこそが、 世界遺産の精神そのものである。私たちは、今から900年以上も前に、長い戦乱の続いた奥州の地に、今日のユネスコ世界遺産条約の精神を先取した如き恒久 平和を希求する平泉文化という花が開花したことを誇りとするものである。と同時に、これを未来に引き継ぐ大きな責任があることを自覚しなければいけない。 今も世界中で戦争の火種が燻っている。2008年、世界遺産登録目前の平泉の桜を眺めながら、そんなことを思った。


 奥 州平泉の桜スライドショー


2008.5.1 佐藤弘弥

義経伝説
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