桜さまざま(13)
根尾谷の淡墨桜


ー桜を1500年間守り抜いた民の心に触れる旅ー



岐阜 根尾谷の淡墨桜
(08年4月5日 佐藤弘弥撮影)

佐藤弘弥

 1 今見なければ明日は 散る花

新古今集に、

 さくら花咲かばまづ見むと思ふまに日かず経にけり春の山里  藤原隆時朝臣

という歌 がある。

時も花も 人を待ってく れる訳ではない。私はどうしても岐阜の奥山にあるという淡墨桜を見たいという思いが募り、4月5日(土)、品川始発6時の新幹線に飛び乗って、岐阜県本巣 市根尾谷に向かった。バックには愛用のニコンと宇野千代さんの名作「薄墨桜」(表記としては「淡墨桜が正式だが、宇野さんは、継体天皇伝説から「薄墨桜」 と表記しているようだ)、白洲正子さんの「西行」の2冊の文庫本だ。

品川から 一時間半ほど で名古屋に着いた。何しろ、新横浜で停車すると、名古屋までノンストップである。あっという間の旅だ。名古屋で旧来の東海道線 に乗り換え、大垣駅を目指す。車両は、まだ7時半なのに、混雑している。ほぼ30分ほどで、大垣に着く。そこから単線の樽見鉄道に乗り、小一時間ばかり で、終着駅の樽見に着く。この樽見線も、花の時期ということで、8時10分頃に乗車したのだが、既に満員だった。

樽見線 は、とても心地 のよい電車だ。線路は、田畑を分け入るようにして淡墨桜のある根尾谷に伸びている。この樽見線の駅には、あの千利休の弟子で「利休七哲」の内の一人として 名高い古田織部の里と言われる「織部」という駅があったりする。この淡墨桜が、有名になったことで、樽見鉄道は、さしずめ日本有数の花の電車ということが できるかもしれない。

電車は、 春の香りいっぱいの中を、桜狩りの人々を乗せて、ゆっくりと走る。時々駅で、反対から来る電車を待ってすれ違いながら、ゆっくりと目的地に向か う。車窓に、カメラを抱えた鉄道ファン(?!)たちが、三脚にカメラを据えて、シャッターチャンスを狙っていた。幾度も幾度も、橋を越え、清流がサラサラ と流れる上を越えて行く。時々、川砂を採取している場所が見えた。美しい美濃の景色が傷ついているように思えて、心が痛くなった。

もうひと つ、この地で起こった濃尾地震(明治24年10月28日 早朝)のことが、運転手さんからアナウンスされた。何でも震度8の直下型地震が、根尾谷 を襲い、岐阜を中心に、愛知や福井までの地域で、七千人を越える人々が亡くなったのだという。明治時代最大の地震である。今その痕跡が根尾谷断層として残 り、樽見駅のひとつ手前の「水鳥(みどり)」駅から、近いところにあり、その段差は6mにもなるという。今、その場所には、「地震断層観察館・体験館」が 建てられ、国指定の特別天然記念物となっているそうだ。

その時の 情景が想像さ れた。多くの家屋が倒壊し、山崩れが起こり、根尾谷は壊滅状態になった。それでも、生き残った淡墨桜という桜の生命力ものすごいものだ。同時に、この桜を 大切に思う地元の人々の懸命の延命努力を思った。おそらく、この大地震で家族を失い、家屋を失い、友を失った人々にとって、大地震に遭いながら周囲の民を 励ますように根尾谷の高台にすっくと立っている姿に、神仏を見たのではないか。日本人にとって、桜の古樹というものは、それほど特別なものだ。「どんな災 害や天変地異が起ころうとも、この淡墨桜には、農の神が宿り、 春を告げてくれる、ありがたいことだ。」その時、根尾谷の人々は、きっとそう思ったに違いない。


 
2 枯死寸前の淡墨桜を救った人 前田利行翁のこと

この桜には、様々な人間 ドラマがある。中でも、枯死寸前だったこの桜の根に、238本もの、若木の根を根接して、見事に再生させた前田利行という人物のことを語らない訳にはいか ない。

戦後間も ないある日のこと、ひとりの白髭を生やした頑固そうな老人が根尾谷にやってきた。根の前にある枯死寸前の淡墨桜をなんとか、生き返させようというのだ。こ の老人、名を前田年行といった。当年77歳。昔は土佐の徳島で歯科医院を開業していた。

この前田 翁という人物 はなかなかの人柄で、黒澤明の「赤ひげ」の主人公のように、貧しい庶民からは、一切治療代は徴収しなかったこともあって、いつも医院は庶民の声であふれか えっていた。この翁の唯一とも云える趣味が、盆栽で春に梅が咲く頃には、丹誠込めて咲かせた梅の鉢を客間に並べ、知人たちを招いて、 観梅の宴を催すのを恒例とした。

翁は、元 々、植木職人でも何でもない。ただの盆栽を趣味とする人物だ。歯科医ということもあって、人の歯の治療をすることと、盆栽の梅の根の根接は、どこ か共通のコツのようなものがあるのかもしれない。頼まれて、幾度も瀕死の梅を救ったことがあり、知人たちの前で、 自らを「樹医」と言って自慢していたそう だ。実に微笑ましい話だ。

その後、 悲惨極まりない戦争が起こり、日本は大敗を喫した。戦後、前田翁は、年齢のためか、徳島の歯科医院をたたみ、引退して、息子の住む岐阜市で好きな盆栽に囲 まれる隠居生活を行っていた。

そんな翁 に、淡墨桜を甦生させて欲しいとの依頼が入った。昭和22年(1947)春のことである。頼みに来 たのは、翁の息子の前田洲(しゅう)氏の友人の不破成隆氏だった。

この時、 洲(しゅう)氏、は、戦時中、軍医として招集されていたが、戦後には、元々勤務していた岐阜の県立病院に産婦人科医をとして復職していた。友人の 不破成隆氏もまた産婦人科医で、こちらは岐阜の羽島市で産婦人科医院を開いていた。不破氏は、洲氏から父の微笑ましいエピソードを話していた。

戦後のど さくさもあって、二人は音信不通になっていたが、たまたま洲氏の無事を知らせる手紙を受け取った不破氏に届く。そこに丁度、国指定の天然記念物 「淡墨桜」という名木が枯死の危機にあるという事実を知り、不破氏は、ピンときたのだ。友人の父である根接の名人の前田利行翁に、枯死寸前の淡墨桜の運命 を託してみてはどうか、と。

もちろん 不破氏は、根尾村とは縁もゆかりも無い。心意気である。この桜の治療代も、自らで支払うつもりだった。戦後間もない根尾村には、いくら名木の淡墨桜だとし ても、その治療費を右から左に捻出する力はない。

この時、 前田翁は75歳である。はじめは、荷が重すぎると、申し出に首を縦に振らなかった翁であったが、不破氏より、「あなた様も土佐の生まれ、坂本龍馬と同じ血 が流れておいででは・・・」と言われて、血が騒いで、「いっぺんやってみましょう」となった。

そして、 二年後、77歳になった翁は、もしもこの桜を生き返させることが出来なかったら、腹を切って果てようという並々ならぬ覚悟をもっての根尾谷入りを果たした のだった。

前田翁 は、植木職人1名大工3名、総勢6名でやって来た。この中には、病気がちな自分が万が一の時にはと看護婦(現在の看護士)1名の計6名のチームだっ た。この前田チームは、山から探してきた桜の若木の根を次々と根接ぎして行った。地元でも、町長をはじめ有志が 73人も参集し、前田翁の号令の下、慎重に 根接を行った。

何しろ幹 の周囲が10m近い巨木である。根の範囲を探るだけでも、大変な労力である。あっという間に数日が過ぎる。この間、山から掘り出された山桜の若木が238 本、千年を優に越える古樹「淡墨桜」の根に繋がれていった。

そして翌 年、昭和25年(1950)春、淡墨桜は、見事に甦生し、美しい真珠玉のような花が、根尾谷いっぱいに開いたのであった。もしも、この前田利行翁 の根接がなければ、淡墨桜という名木は、枯死してしまっていたかもしれない。まさに、淡墨桜は、人の思いと思いが重なって咲く、奇跡の花なのである。

淡墨の桜の下に小半時 人と桜花の千年思ほゆ



 
3 根尾谷を歩いて淡墨桜に逢う

樽見鉄道は、天を泳ぐよ うに蛇行する根尾川遡るように奥へ奥へと進んでいく。感じとしては、随分橋を越え、谷を越えた気がしたが、何のことはない。川と線 路が幾度も幾度も交錯しながら、その上を私たちはが走っていただけなのである。渓谷の奥の山間には、山桜が朝日を浴びて、ピンク色に輝いている。水量はさ ほどでもないが、透き通るような水が、さらさらと流れていた。もう時期、鮎の季節が来るが、シーズンには梁が出来 て、香ばしい鮎に舌鼓を打つには、絶好の 場所のように思えた。

問題の根 尾谷断層のある水鳥(みどり)の駅を越えると終点の樽見駅だ。時計を見れば、9時20分を指していた。東京の自宅を出たのが、5時だから、4時間 20分ほどの旅になる。名古屋駅からは、立ちっぱなしの車中ではあったが、幸い好天に恵まれ、やっと淡墨桜に逢えるという高揚感で、胸がいっぱいであっ た。

駅前で、 周辺の地図と帰りの時刻表をもらい、電車を降りた人々が、向かう西の方角を目指した。閑散とした雰囲気の樽見駅前の通りを、ものの200mも行く と、また根尾川にぶつかる。そこを左側(下流)に折れて100mばかり行くと、淡墨街道と呼ばれる広い道路に出る。この道路を少し遡って、橋を渡り、坂道 を登ると、根尾谷の淡墨公園に到着するのである。橋の上で、上流と下流を見ると、この橋を下流では、東と西から来たふたつの川が落ち合ってひとつになって いた。

厳密に言 えば、東から 流れて来る川は、水源が左門岳で根尾東谷川。西から流れて来るのが、福井県と岐阜県の県境に聳える能郷白山(のうごうはくさん 1617m)が水源で、根 尾西谷川と呼ぶのだそうだ。とにかく水が豊富なところで、この深く掘られたような根尾谷の地形は、これらの川の濁流によって、削 られてできた地形だと思われた。橋の上流を見ると、白い雪を纏った美しい山があった。これが能郷白山である。

川には、 早くも釣り人がいて、竿を抱えて、ゆっくりと上流に歩いている。既に公園の駐車場にはかなりの車があり、淡墨桜見物の人々が、坂を伝って急いでいるのが見 えた。

淡墨桜が 見えた。朝日を浴びて、その名木は、屏風のように聳える里山の麓に神々しく立っていた。どんどんと淡墨桜に近づいていく。東西に27m、南北に22m、幹 回14m、樹高16mということだが、もうそんなことなどどうでもよくなるほどの存在感がある。


 
4 淡墨桜伝説について思うこと

俳人黒田杏子(くろだも もこ)さんは、この桜の前に来た時、背後にある淡墨観音堂の石段に腰を下ろして、この桜を見つめていると、夢現(うめうつつ)の中 で、白い蛇が目の前を通って、観音堂の奥に消えるのが見えたという。また彼女は、この桜の樹皮に触れた瞬間、金縛りにあって動けなくなり、どうしようか と、思っていると、雲間が割けて、夕日が射し込みと、体の自由が戻ったと記している。(黒田杏子著「花を巡る 人に逢う」 文藝春秋 特別号「桜 日本人 の心の花」平成一五年3月刊)

確かにこ の樹木は、ただ単に美しく咲いているだけの存在を越えた何かがあるように思われる。私も、この桜を観賞した日は、いつになく強い疲労感を感じた。 それは淡墨桜が、何か独特の地場のようなものを持っていて、ただ見られるだけの存在ではなく、こちらにも何かしらのエネルギーを発しているのかもしれない と思った。

また白洲 正子さんは、エッセイ集「古典の細道」の中の「花がたみ」の中で、このように表現した。

想像を絶する大きさで『淡墨桜』の名の通り、白くこまかい花びらが、泡雪のようにむらがっている様は、何か 神秘的な心地がした。

さらに継 体天皇お手植えの桜と、いつの間にか喧伝されるようになったことを「お手植えというのはあやしい・・・」、「むろん伝説にすぎない」と冷静に判断した上 で、それでも「古代豪族の形見のように見え、長く私の心に残った。」と結んでいる。

とかく人 の心というものは、身近にある里山でも樹木でも、それが歴史的な人物に繋がるものであることに非常に敏感になる。伝説や伝承の種は、世の中に多く ある。この淡墨桜が、継体天皇と結び付く過程は、偽書との疑いもぬぐい去れない一冊の書物から始まっている。それは「真清探當鐙」(ますみたんとうしょ う)という書物である。

何でも尾 張一宮の真清田神社に連なる旧家に伝わると言われているものだが、この書物を新しく書写したとされる人物が、大正8、9年頃(この年代表記は小椋 一葉著「継体天皇とうすずみ桜」から採用した)、この著作に書いてある継体天皇の事跡やお手植えの桜の存在の裏付け調査に訪れた時から、地元の人々が、急 速にこの書の説に惹きつけられて行った。

はっきり 言って、この「真清探當鐙」という書物は、第一発見者の家から発見され、原本から新しく書写されたものだとされるが、原本に当たるものがないこと など、偽書である疑いが拭いきれない代物だ。少し前に東北の青森で、東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)という偽書騒動があったが、これとの類似を感じ てしまう。

その書物 から、「身の代と遺す桜は薄墨よ 千代に其名を栄盛止むる」という継体天皇の御製と言われる歌が、今一人歩きをしていて、引っ込みがつかない状況となって いる。

この歌 は、根尾谷に隠棲していた継体天皇が、この地を離れる時に、地元の民に遺したという話だ。しかしながら、歌について、「身の代」「美濃城」、「薄墨」、「止むる」「富 むる」、呼びかけの助詞「よ」の使い方など、どのように考えても、俗っぽい作りで、後の世の作りとしか思えない。まして継体天皇の御製とは 到底考えられない。おそらく、この書物は、この真清田神社の利害に基づき、継体天皇を介在させて、権威付けを画策した可能性が高いのではあるまいか。

こうし て、考えてくると、この名木に関する継体天皇伝説は、わずかこの80数年の間に作られたものとなる。かつて、この桜は、地元で土地の字から「今村の桜」と 呼ばれていたそうだ。

私は、伝 説や伝承というものを、丸ごと否定する気はさらさらない。ただ歴史そのものを、改竄してしまう如きことを、安易に伝説伝承として、認めることに は、合点がいかないのである。むしろ、伝説や伝承が、彩りとなって、人の心を、かき立てて、美しい詩歌が生まれた例を全国各地でいくつも知っている。

大切なの は、先ほど、紹介した前田利行翁の根接奉仕のエピソードのように、多くの人々の努力によって、この巨樹が枯死から逃れたという事実ではあるまい か。その結果、淡墨桜は、今でも毎年美しく咲いている。これこそが、新しい「淡墨桜伝説」であり、何よりも尊いのだと強く感じるおそらく、そして、今後 も、この淡墨桜が持つ本質的な美しさに触れて、優れた詩歌や絵画などが次々と生まれてくるはずである。



花に酔う人々

 5 宇野千代さんと淡墨桜

淡墨桜はなだらかなス ロープの一角に鎮座している。その背後の一段高いところに、淡墨観音堂が立っている。この御堂は、大正9年1920) の嵐により、 大枝が折れた部分を、大正11年(1922)になって、この樹木から聖観音を彫り出したことによって、この観音様を納める御堂として建立されたものであ る。折りから、この年の10月、淡墨桜が、国指定の天然記念物となり、翌年の大正12年4月(1923)には、ご本尊を納める厨子が完成した。これには、 何とあの唐招提寺の柱の古材が提供されたもので、御堂の落慶法要は、同年5月初旬盛大に執り行われた。

御堂に続 く参道の両側には、白地に黒字で「淡墨観音」と染め抜かれた旗が列を成してはためいている。この観音堂から見る淡墨桜もまたいい。このアングルから 見ると、朝方は右上からの逆光になることもあり、別の風情があるように感じた。見下げる形で、不遜な気もするが、先ほど見上げていた時に圧倒される思いが 少し薄れた気がした。それは丁度子供の頃に、徐々に両親の身長に近づいて、幼少の頃、もの凄く大きな存在に感じた二親が、逆に身近に感じた気持ちに近いか もしれない。

人々は列 を成して、お賽銭を投げ、手を合わせている。地元の人々にとって、いや、ここを訪れる日本人にとって、この淡墨桜は、神仏が宿る霊験あらたかな霊木なので ある。

観音堂を 下って、南に行くと、ふたつの石碑があった。何でも、若森常次郎・こんご夫妻が、米寿(88歳)の記念に建立したものだそうだ。そのうちのひとつは、作家 宇野千代さんの筆で、淡墨桜との出会いについてのエピソードが次のように刻まれていた。

淡 墨の桜のことを私に話して聞かせたのは 小林秀雄であった。私はすぐ身支度をして根尾村へ出かけた。しかし始めて見た淡墨の桜は幹が大きくふたつに裂け、 その裂け口に宿り木が群生していて、見るも無惨な有様であった。私はこの話を新聞雑誌に書き、人々はこの話を口から口へと語り伝えた。この桜の起死回生に 役立ったのは、これが原因であったかもしれない。 宇野千代

これを読 むと、この桜と宇野さんの縁の深さを感じた。また桜を宇野さんを結びつけた人物が、あの小林秀雄(1902ー1983)氏であることを知り、驚きであった

作家で着物デザイナーで もあった宇野千代さんが、この根尾谷を訪れたのは、昭和42年(1967)の4月11日だった。花の盛りにも関わらず、伊勢湾台風 (1959)による暴風雨で痛めつけられ、再びこの淡墨桜は、瀕死の有様になっていた。このことを小林秀雄から聞いた宇野さんはすぐに、事実を確かめ、雑 誌「太陽」(1968/4)に、この淡墨桜のことを「淡墨桜 枯死するか千二百歳の巨木」として寄 稿、世論を喚起したのだった。時の岐阜県知事にも惨状を訴えて、保全の必要を説き、岐阜県側も素早く反応した。この時の宇野千代さんの活躍や、先の前田利 行翁の根接作業 などの事績については、淡墨桜公園内にある「さくら資料館」で展示紹介されている。


 
6 結び 桜と戦争と日本人

この淡墨桜を見た後、桜 というものを改めて考えた。いったい日本人にとって、桜とはどんな花なのか。そして、この桜という花に象徴されるものは何か、ということだ。

歴史を冷静に紐解いて見るならば、明治以降、桜には、ある色がついてしまったように感じる。それは戦争という色だ。明治以降、日本において、あらゆるもの が、富国強兵の国策の下で、容易に軍国精神と結びつき、戦争容認のイデオロギーとして喧伝されていった。桜もそのひとつだった。

かつて尋常小学校の国語教科書(昭和8年から13年)の冒頭には、

「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」で始まり、続いて
「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」と書かれてあったという。

この歌によって行われていることは、桜を利用した、軍国教育であり、その結果、軍国少年少女が、日本中に満ちあふれていた。この教育は、日本人に偏った死 生観を醸成させ、桜のように戦場で華々しく戦死することが、美しいことであるかのようなイメージを植え付けた。人の血が流れ、そこかしこで地獄絵図のよう な光景が見られる戦場が美しいはずがない。死の恐怖を忘れさせる身勝手な洗脳教育だ。桜は来年もまた咲くからこそ美しい。人間は一度死んだら、二度と甦る ことはない。死を散った桜の花びらと結びつけるなど、こじつけに過ぎない。平和であるからこそ、花見を堪能できて、開花した桜の花を美しいと感じることが できる。とすれば、桜は平和の象徴であり、命の象徴ではないか。「桜のようにして潔く散れ!!」などというのは、江戸時代に儒教化した「武士道」の曲解で しかない。

確かに桜は、梅などと比べると、あっという間に散ってしまうところがあり、それを軍国主義時代のリーダーたちは、戦闘時の「潔さ」と曲解させようとした。 有名な軍歌「同期の桜」では、「見事散りましょう。国のため」とまで、桜のイメージは戦争と重なり合うまでにエスカレートさせた。この事実は、「日本人」 にとっても、「桜」にとっても実に不幸で不本意な一時代だった。

昭和20年8月、日本は、広島、長崎へ原爆を投下されるという悲惨な目に遭い、そこで戦争指導者たちは、やっとアメリカに対し無条件降伏を行った。

300万人を遙かに超える人々がこの戦のために犠牲となった。人間は桜ではない。桜は、命あれば、また再び花を結ぶが、人間の命は、一度亡くなったなら 戻っては来ないのだ。

だからこそ、私たち日本人は、桜に象徴されている価値観をもう一度考え直さなければならない。

何度でも、この不幸な日本人と桜の結びつきの歴史を思い起こし、私たちの子供たちが、日本人としての自分と桜に対して誤った価値観を持つことのないよう に、桜に対する思いを戦争の象徴(「戦場で潔く散る花」)としてではなく、平和の象徴(「平和だからこそ美しい花=桜」)として伝えて行くべきだと思う。 この淡墨桜を観賞した後、本当に心が重たくなったが、今、その理由がようやく分かったような気がした。

 もう二度と戦は嫌と口癖の母の墓前に山桜花 ひろや
 
★ 淡墨桜スライドショー


根 尾谷の淡墨桜

2008.4.13 佐藤弘弥

義経伝説
思いつきエッセイ