桜さまざま(10)


江戸庶民が愛した花見の文化を継承する桜の森


佐藤弘弥


不忍池の弁財天堂の桜
(08年3月27日 佐藤弘弥撮影)



櫻の川を人という水が流れる




今年上野の桜は3月27日で満開となった





上野の森にある独特の臭い

江戸末期の文政10年(1827)に書かれた「江戸名所花暦」(岡山鳥著 市古夏生・鈴木建一校訂 ちくま学芸文庫 2001年刊)によれば「上野の桜」 について、「当山は東都第一の花の名所にして、彼岸花より咲き出でて一重・八重追々に咲きつづき、弥生の末まで花のたゆることなし」とある。

東叡山(とうえいざん)は上野の森にある天台宗寛永寺の山号で、東にある比叡山という意味である。比叡山と上野の森は、本来比べようもないものだが、徳川 家康の知恵袋であった天海(1536−1643)という僧侶によって、江戸城の鬼門に当たることから建設されたものと伝えられる。

現在の上野公園は、明治6年(1873)に開設され、正式名称は上野恩賜公園(うえのおんしこうえん)である。大正13年(1924)に東京市に下賜され たもので、上野の森と呼ばれる忍ケ岡(しのぶがおか)は、江戸時代よりの伝統を受け継いで、東京第一の桜の名所となっている。

今年08年は、寒い冬だったので、当初桜の開花も遅れるものと思われていたが、3月に入り、暖かい日が多くなり、桜の開花時期は、例年よりも、4、5日早まっているようで、3月26日には、ほぼ8分咲きとなり、27日には満開と言ってもいい状態となっていた。

私はJRの公園口で降り、西洋美術館と東京文化会館の間をぬって、動物園の前を左に折れて、寛永寺の方に向かったのであった。上野の花見時期の第一印象 は、平日にも関わらず異様なほど人が多いことだ。それと沿道の両側には、夜桜をための場所取りの人が早くも居て、ブルーの敷物を敷いている姿だ。夕方にな れば、ここにはいつの間にか夜桜を見ながら酒を酌み交わす庶民が集まってくる。

この時期には、上野一山が桜の山となる。見れば桜が道を挟んで谷を形成し、そこを歩いている花見の人間が、まるで一本の川を流れ下る清流のようにも映る。

とにかく、上野の桜は、人を急かすようなところがある。ここには、独特の臭いがある。それは単純に言えば、沿道に出ている出店から漂ってくる「焼きそば」 や「タコ焼き」、「トウモロコシ」などを焼く「しょうゆダレ」の香りなどが複雑に混ざり合った臭いだ。夜になれば、お酒の臭いも当然のように辺り一面立ち こめて、人々は酒に酔い花に酔い、人生に酔うのである。


 ◆さまざまなことを思い出す上野の桜

少し歴史をふり返ってみれば、江戸から明治に時代が移り変わる時、徳川家から政権を奉還された日本政府は、盛んに欧化政策を取り、侍のマゲを切らせて、西 洋風の格好を奨励するなどした。それは日本政府による文明開化に出遅れた日本を、徳川時代三百年の眠りから一日も早く醒めさせて、迅速に西洋化を急がなけ れば、いつか西洋列強に植民地化されてしまうのではないか、という危機感の表れだった。

しかし江戸の庶民にとって、代々に渡って、文化として定着した風俗・風習・習慣などを俄に変えることは大変なことだったに違いない。

おそらく江戸庶民は、薩長が中心となった新政府に対して、良い印象は持っていなかったはずだ。上野も実は、明治維新の折に戦禍にあって焼亡した歴史がある。

山田孝雄氏の名著「櫻史」(1941)によれば、

・・・藤堂氏ここに居を構ふる時伊賀の上野とその名も地勢も似たるより、伊賀の上野になぞらへて、清水、黒門、車坂等似たる地名を与へしが、今も残れるならむか。元和年中に藤堂氏はこの地を返して、染井に移り、幕府よりその跡に工事を営みて寺を
建てたり。その成れるは寛永四年にして大僧正天海を以てその開祖とす。これ即ち東叡山寛永寺なり。(中略)山内には根本中堂、文殊楼(吉祥閣ともいふ)雲 水塔、輪蔵をはじめ、三十六坊ありて、江戸に於いて一二を争ふ壮観なりしが、明治維新の際、かの彰義隊がここを本拠として官軍に抗せし為に兵せんに罹り、 楼閣堂舎ほとんど全く烏有(うゆう)に帰して、往時の壮観夢の如く消え失せぬ。されど櫻のみ」は依然として伝わり今に至りてもなほ花の名所なり」
(前掲書 「上野の花」より講談社学術文庫 1990年刊 278−279頁)という。

この記述から様々なことが連想される。

まず上野と芭蕉の関係だ。かつてこの上野周辺には、松尾芭蕉(1644ー1694)が仕えていた藤堂家の江戸屋敷があった。その地を江戸幕府に返上し、駒 込周辺の染井に屋敷を移す。そして移った染井の地は、あの「染井吉野」の誕生の地であることなど、上野と桜にまつわる不思議な縁のようなものを感じる。も しかすると、上野に最初に染井吉野を植えたのは、藤堂家の粋な計らいがあったとも考えられる。

ところで伊賀上野生まれの松尾芭蕉の桜の句に、

 さまざまなこと思い出す桜かな

というものがある。この句は、45歳になる芭蕉(奥の細道の旅に出る一年前)が、故郷の伊賀上野(滋賀県)に戻って20代の頃の思い出を偲んで詠んだ句 だ。この句から22年前、上野の藤堂家で、若き芭蕉が、近臣として仕えていた折り、若殿(藤堂良長 蝉吟公とも)が桜の時期に突然25歳の若さで逝去して しまう。芭蕉は、高野山報恩院にその位牌を届ける役目を命じられた。その役目を果たした後、何を思ったのか、突如として出奔し藤堂家から離れて俳諧の道に 進むのである。先の句は、仕えていた殿様良忠の愛していた庭前の桜が咲いたのを見ながらしみじみと詠んだのである。このように考えてみると、芭蕉にとっ て、上野の森は、ご恩のある藤堂家に連なる場所であり、特別な場所だったのではあるまいか。

次に、現在の西郷さんの銅像や彰義隊の慰霊碑のある辺りは、桜が岡と呼ばれていたそうだ。明治維新の混乱期、不幸にして敵味方となった官軍と幕府軍の記念碑が林立していることになる。

きっと戊申の役(1868−1869)の上野戦争がなければ、上野の森は、もっと別の美しさを持った花の眺望が存在していたはずで少々残念だ。もちろん太 平洋戦争の末期の東京大空襲(1945)もあるので、その時に焼失していたかもしれない。ただその大空襲の当時まで、三十六坊という寛永寺の大伽藍が林立 していたら、京都の寺院や皇居のようにアメリカ軍も、墨田、台東などの下町にあれほどの無差別爆撃はしていなかった可能性は捨てきれない。

さて、江戸期のお花見の習慣は、幕府が奨励したものではなく江戸庶民が、江戸期三百年の時間の中で、育んできた庶民文化というべきものだった。江戸庶民 が、この花見の時期ばかりは、士農工商、や貴賤の区別もなく、上野の寛永寺周辺に繰り出して、花を楽しんだ流れを受け継いでいるのである。

駒込に住んでいたという植木職人が、今日本で人気の染井吉野という品種を作ったのも、そんな江戸庶民の桜好きが昂じてのことではなかったか。結局、欧化を江戸庶民に強いた明治政府も、この上野の花見については、大目に見たということかもしれない。

ブラジルには世界的に有名なリオのカーニバルというものがあるが、上野の森に花見に来る風習も、これと同じように、江戸庶民にとって、一年のウサを晴ら す、日本風のカーニバルだったのかもしれない。そう言えば、江戸の町人の女房や娘たちは、花見のために花見小袖を仕立てて花と美を競ったということだ。

そんなことを考えていると、出店のいささかどぎつい「しょうゆダレ」の臭いも、妙に懐かしく愛しいものに思えてくるのだった。上野の森で、人の合間をかき 分けるようにして花を見ながら、「現代の東京人も江戸庶民の桜に対する心意気というものを受け継いでいるのだな・・・」と、しみじみと思った。



2008.3.27 佐藤弘弥

義経伝説
思いつきエッセイ