F 7月11日レポート
飯坂に新たな義経伝説生まれる!?
7月11日(日)、飯坂の空は、今にも泣き出さんばかりの天候だった。飯坂八幡神社近くの司旅館に宿泊した菅原次男氏は、白装束に着替えると、午前9時45分、突然、源義経公が乗り移ったかのような威厳に満ちた声で、支援者に言った。
「みなさん、本日は本当に歴史的な日となりますね。夕べから胸が高鳴ってなかなか、寝付けませんでした。きっと義経公の御霊も同じ思いをされていることだろうと、確信しております。義経公にとって、この飯坂は思い出多き地でした。今日は義経公のお気持ちになって、存分に飯坂の里の人々の暖かい心に触れさせて頂きたいと考えています。人は、心ある人々に支えられてはじめて、何かしら意味のあることを成し遂げられるものです。みなさんですから、今日は飯坂のみなさまに感謝しつつ、存分に楽しませていただきましょう。」
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霧雨の中を、菅原さんは、義経公の御霊土を背負い、笹りんどうの御旗二旗に導かれ、鯖湖湯(さばこゆ)前を迂回し、八幡神社の前に整列する。一礼すると菅原氏とお供の岩澤君が、到着を告げるほら貝を吹く。するとその音に呼応するように、飯坂八幡祭り太鼓保存会の面々による歓迎の儀礼太鼓が、ゆっくり鳴り出したのであった。その時ならぬほら貝や太鼓の音に、八幡神社の周辺は、賑やかな祭りの雰囲気となった。約80mの参道を、菅原氏は、一歩一歩確かめるように、錫杖で地を打ちながら進む。太鼓は次第にリズムを増して、否応なしに周辺の緊張は高まっていった。
本殿の前に立ち止まり再度黙礼。
「本日は、ようこそ、飯坂に、さあ本殿にお入りください」斉藤宮司もいささか緊張の面もちで、義経公を迎えられた。義経公が本殿の中心に鎮座されると、菅原氏の地元宮城県栗駒町の支援者14名を乗せたマイクロバスも到着。今回の「義経公鎮霊の儀」に花を添える形となった。本殿には菅原氏の支援者及び地元の歓迎の人々約40名が座り、入れなかった人々は、本殿の前で式を見守る形となった。
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午後は、佐藤家菩提寺の医王寺で、義経公の鎮霊法要である。この法要は、義経公が810年前、佐藤継信、忠信兄弟やその他の戦で倒れた者に対するに対する追善供養をしていただいたことに対するお礼の意味が込められている。
厳かに橋本住職による読経が始まり、それと共に、微かに灯明の炎が、風もないのにゆらゆらと揺れ始めた。義経公の御霊が、そこにいるような気がした。それもそのはず、この医王寺は、義経公にとって、平泉以上に安心できる土地だったかもしれない。それは秀衡公に次ぐ支援者佐藤基治公や継信、忠信兄弟という心強い人々がいたからに他ならない。寺の裏には、義経公が、よく遊ばれたと言う場所もあるくらいである。
そんなこともあり、医王寺の宝物殿には、義経公の「直垂(ひたたれ)」や弁慶の「笈(おい)」継信の命を取った矢の根(矢先のこと、屋島の戦いで、義経公の盾となり果てた継信の形見として、義経公が、佐藤家に献上したものとの言い伝えがある)、忠信の鞍など、義経公のファンのみならず、歴史ファン必見の宝物が並んでいる。
橋本住職は言われた。
「今日の法要は、寺にとっても極めて意味深い日であります。よくぞ、この医王寺にいらして頂きました。道中ご無事で、大願成就されますことをお祈り申し上げます」
それに対して菅原氏は、
「何か自分の里に、舞い戻ったような気分が致しております。私のような者が、このように歓迎していただけるのも、義経公の遺徳のお陰でありまして、私はただひたすら、この義経公の笈を背負って、歩いていくのみでございます。今日は本当にありがとうございました」と静かに語った。
1999年7月、飯坂に、新たな義経伝説が加わりそうな予感がした。
最終更新日:99/07/28 18:30 Hsato