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C レポート、六月二十日

静の里、栗橋町到着

平成11年6月20日、菅原氏は、快調なペースで静御前の墓とされる埼玉県栗橋町に到着しました。

義経公と静御前が、大和国吉野で別れてから814年(文治元年11月)。長い間の二人の思いが叶った瞬間でした。午前十時、菅原氏の背に担がれた義経公の御霊は、ほら貝を合図にゆっくりと御前の墓所に入って来ました。すると一瞬、静御前のうれし涙のような雨が、墓所全体を微かに濡らしました。

静御前の墓で夢を語る菅原氏と笹竜胆の旗を持つサポーターの金沢君

 

静御前の墓の前で、到着した菅原氏は、栗橋町の助役の島村道雄氏や役場関係者、地元の「静御前遺跡保存会」の面々、報道陣が見守る中を、古式に従い、静御前の御霊に、義経公の御神体の到着を報告しました。

その場で菅原氏は、今回の「義経公御分霊供養祭」の趣旨について、次のように語りました。

「義経公のお首は、43日かけて、奥州平泉から、藤沢市の腰越の地まで運ばれ、そこで首実検がなされました。その首は、地元の里人によって、藤沢の地に葬られたと申します。今回は、胴の葬られた栗駒の沼倉の土と首塚のあった藤沢の土を合わせることによって、義経公の首と胴を合体し、その御霊土(みたまつち)を逆に、43日をかけて奥州栗駒の地に運び、義経公の御霊の霊を鎮めようとするものであります。その中にあって、静御前の墓に立ち寄ることができたのは、感無量の気持ちで一杯です。おそらく今、義経公と静御前の両御霊は、今814年の時を越えて、楽しく語らっていられることでしょう。

現在、義経公に関する伝説は、日本の文学や芸術の中で発展し、義経芸術というジャンル分けができるほどに広汎に広がっております。この旅は、そのような各地に残る「義経公伝説」を収集し、さらに発展させようとするひとつのロマンの旅でもあるのです。今後とも、様々な情報などがありましたら、是非ともお教えいただきたいと存じます。どうかこの旅の夢を実現させてください。栗橋町の皆様、今日はどうもありがとうございました。これを機会に交流の輪を広げていければ幸いです。」との挨拶を行った。

それに対して、島村助役から次のような言葉がありました。

「急な話だったんですが、菅原さんのロマンに感銘を受けました。義経ロマンということで、栗橋町や栗駒町など、日本中が義経公を囲んで交流ができれば、すばらしいことではないかと、思います。菅原さん、どうか体に気をつけて頑張ってください。」

最後に、町や保存会の皆様から、義経関係資料の提供と記念品の贈呈があり、菅原氏とサポーターの金沢直樹君(くりこま高原自然学校隊員)は、北に向けて旅立って行った。

現在、静の里、栗橋町では、毎年9月15日の静の命日には、静御前墓前祭が「静御前遺跡保存会」の主催で催されています。また毎年10月中旬には、「静御前前まつり」が行われ、静御前にちなんで「白拍子の舞」が復元されて披露されているとのことです。 


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最終更新日:99/07/28 18:30 Hsato