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レポート8月28日

金色堂にて義経公・秀衡公 八百十年振りの再会

知っての通り、高舘は、源義経公終焉の地である。文治5年(1189)閏4月28日(吾妻鏡では4月30日)、義経公は、奥州の新しい御舘(みたち)藤原泰衡の襲撃を受けた。泰衡にしても頼朝の命を受け苦渋の選択を強いられた結果の行動だった。義経主従は、僅か十名ほどの手勢で果敢に抵抗を試みたものの、義経公本人は、既に死期を悟りきっており、自ら陣頭に立たれることはなかった。倒れていった部下たちの霊に黙礼をすると、弁慶に後を託すと、お堂の奥に入って、まずは妻子を、次には、自分の腹に十文字に切って、短くも華やかな三十一歳の生涯を閉じたのであった。 
 
金色堂を前に菅原氏を囲む支援の面々

それから八百十年の歳月が流れた。菅原次男さんは、「義経公810年祭の最後は、是非とも高舘の義経堂の前で、静に供養したい」と語っていた。

八月二十八日、平泉の地は朝から、今にも泣き出しそうな空模様だった。菅原次男を支援する会の人々は、まず午後一時、栗駒沼倉の「判官森御葬礼所」で焼香を済ませると、一路平泉へ向かった。集合時間の二時には、全員が高舘前にそろったのだが、ついに小雨が落ちてきて、出発時間の二時二十分には、本降りとなった。

当初は、菅原さんを先頭にして、三十名ほどで高舘から中尊寺まで、歩いて移動する予定だったが、下が悪いので、菅原さんと高橋安敏さんで歩くことになった。菅原さんは、あのいつもの淡々とした表情を崩さず、「雨もまたいいんですよ。白河の関を越える時と一緒ですね。」といって、まったく雨など意に介さない様子だった。

それにしてもまだ三時前だというのに、中尊寺の杉並木の参道は、薄暗くなっている。雨は徐々にその勢いを強め、菅原さんが背負っている笈には、無数の雨粒か降り注いだ。やがて中尊寺本殿に入り、「義経公の鎮霊法要」が始まる。本殿には二十数名の支援者が集まり、三浦、佐々木師のお導きにより、義経公鎮霊祭は幕を開けた。

読経と焼香が終わり、いよいよ源義経公と藤原秀衡公と再会の儀が、金色堂に場所を移して執り行われた。菅原さんは、笈の中から、藤沢市の白旗神社で合祀した御霊土を取り出すと、静に金色堂の中央の祭壇の前に置いた。それによって、義経公と秀衡公の八百十年振りの懐かしい語らいの場が創られた。実にあっけない瞬間だったが、これが歴史というものかもしれない。この一時を惜しむように、菅原さんは、両の手を静に合わせて言った。

「この一瞬のために四十三日間という長い道のりはあったのかもしれませんね」


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最終更新日:99/09/01 Hsato