平成11年7月25日判官森御葬礼所にて

義経公810年鎮霊祭開催さる 

 
菅原さんが乗っている馬の名はハピネス
判官森を行く菅原さんと御輿の義経公
義経公810年は長かったですね…
 
その日は、朝から義経日和ともべき晴天だった。栗駒山は、その頂まで、くっきりと姿を見せ、義経公の御霊が、判官森の御葬礼所に入るのを今や遅しと見つめている風でもあった。一方、菅原さんは菅原さんで、朝からまるで小学生が、初めて遠足に行くように、落ち着かない様子だった。それは当然だろう。長年の夢が叶い、しかも多くの人に祝福され、晴れの舞台は、すぐ目の前にあるのだから…。

朝の八時、岩ヶ崎を1キロ半ばかり過ぎた小深田(こぶかた)というところで、菅原さんは、馬上の人となった。その後を数人の有志がついていく。ほら貝の音に誘われたのか、沿道には、早朝だというのに、地元の人々が菅原さんを一目見よう集まってきた。

三条まで来ると、更に沿道には50人ほどの人々が待っていて、菅原さんに盛んに拍手を送った。そこから更に約1キロの行程を進み、500キロの旅の最終目的地である判官森のある栗駒小学校前に到着した。

そこでは獅子舞が、陽気に義経公の御霊を迎えてくれた。菅原さんらは、その獅子に先導されながら、判官森の麓までやってきて、馬を下りた。

ここで菅原に声を掛けると「いや最高の気分です。皆さんにこんなにしていただけるとは思ってもいなかったので、ただ感謝の一言です」と言いながら、御葬礼所に登り始めた。その後を獅子舞の若衆に担がれた義経公の鎧甲が御輿にのり後に続いた。結構急な坂なのでお年寄りでは登れない人もいたが、それでも50〜60名の人々が、頂上に息を切らしながら登った。

9時10分、花火を合図に、「義経公810年鎮霊祭」は開催された。鈴杵宮司の祝詞や玉串奉てん、御霊土合祀の儀など、古式に則った神事により、一時間あまりで、式は終了した。

式が終わるとすぐに、素晴らしいハプニングがあった。43日、500キロの行脚を終えた菅原さんに、最後に突然の訪問者があったのだ。それは柏葉久左衛門さんという岩手県北上市に住む歴史家で、12年前に菅原さんが、まだ義経公をよく知らなかった頃、様々な資料の提供やアドバイスを受けた人物であった。

菅原さんの方は、柏葉さんが八〇歳を越えた高齢でもあり、当然この日には、来ないものとばかり思っていた所に、判官森の御葬礼所にひょっこり顔を見せたものだから、感極まったのか、柏葉さんの手を取り、次のように言って絶句した。

「いや、柏葉さん来ていただいたんですか?ありがとうございます。まさか来ていただけるなんて…」

「菅原さん、よく頑張られた。あなたの行動力には、心から敬服しました」と柏葉さんも応える。

それを聞いた菅原さんは、人目もはばからず大泣きに泣いたのであった。

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その事を後で聞けば、「昔の武士はね。よく泣いたものなんですよ。特に義経公は、男泣きの名人だったしね」といいながら、実に清々しい笑顔で周囲を煙に巻いた菅原さんであった。

こうして菅原さんの12年の思いは成し遂げられた。



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最終更新日:99/07/31 20:30 Hsato