西行忌に

 
 
今日(二月十六日)は西行の命日(西行忌)に当たる。

今から歴史を遡ること811年前の今日二月十六日、漂泊の僧西行は、七三歳の波乱の生涯を終えた。藤原氏の奔流に連なる家系に 生まれた佐藤義清は、帝を守る北面の武士となり、妻帯し娘をなした。しかし突如として、出家を決め、泣いてすがる娘を足げにし、西行と名乗って、歌と仏の 道を目指して旅立ったのである。その時、西行は、二十三歳の若者であった。

それ以後、一度としてひとつ所に住処を定めたことはない。花を愛で、己のわき上がる欲望と闘い、その我欲を鎮めるために、歌を 詠み、また歌を詠み、日本中をさすらい歩いたのであった。

日本中至る所、西行に関わる伝説が残っている。その伝説上の西行は、ある時は、地元の子らと語らい、ある時は地元の歌詠みと、 歌で勝負をして負けてとぼとぼと去っていくなど、誠に人間らしい暖かみに溢れた人物として描かれているようである。

我々現代の人間は、西行という人物を、あの俳諧の達人芭蕉が憧れた人物として、まず見てしまうことがある。しかしながら西行と いう人物は、単なる捨て聖でもなければ、さすらいの歌人でもない。

西行の山家集に触れる時、人はその歌集の中に、己の燃え立つような欲望と闘いながら、歌に救いを求めて苦悩する一人の人間の精 神の記録を目の当たりにすることになる。少し西行の生涯を歌によって偲んで見たいと思う。

若いの西行は、苦悩の果てに世を捨てることを決心し、こんな歌を詠んだ。

世の中を 捨てて捨てえぬ 心地して 都離れぬ 我が身なりけり
(解釈:世の中を捨てたつもりだが、どうにも捨てられないでいる私だ。こうしてまだ心には都のことが懐かしく忍ばれるのだから)


しばらくして、西行は、出家した当時の自分の心の甘さを振り返り、自分を戒める意味でこのような歌を詠んだ。

捨てし折りの 心をさらに あらためて みるよの人に わかれ果てなむ
(解釈:世の中を捨てて出家しようとした時のことをもう一度改めて思い起こしている。その時の私の心の在り様は実に情けないものであった。この上は、この 世に対する執着のすべて脱ぎ捨てて、この世の人と別れ尽くしたいと思っているほどだ)


西行は、更に齢(よわい)を重ねた。若い頃の血気にはやった行動が思い出されて恥ずかしい気持ちになった。そして次のような歌を詠んだ。

思い出づる 過ぎにしかたを はずかしみ あるにものうき この世なりけり
(解釈:過ぎ去った過去を思い出していると余りにも恥ずかしい事ばかりで、それだけでもこの世にこうしていることが憂鬱に感じられることだ)
またこのような歌も詠んだ。
いざさらば 盛おもふも 程もあらじ はこやが嶺の 春にむつれて
(解釈:いざさらば。この上はこの土地に別れを告げよう。それにしても何と情けのない自分であることか。いかに春の盛りを愛でるといっても程度というもの がある。今こそ「はこやが嶺」の春に別れを告げよう。)


西行の歌の背後には、厳しく自分を戒める強さがある。それは人生に対する覚悟や心構えのようなものかもしれない。しかも決して枯れたような老人の境地で 言っているのではない。西行の歌には、西行自身の血管を滔々と流れる血の熱さが感じられる。
 

ながらへむと 思ふ心ぞ つゆもなき いとふにだにも 足らぬうき身は
(解釈:これ以上生き長らえる気持ちなど更々ない。この身を大切にすると言った所で、露にも浮くような軽い身ではないか)


西行は、無常の世の中の有様をまじまじと見た人物だった。自分と同じ歳の平清盛が、一度は権力の座に就きながら、己の一門の滅びるのでは、という恐怖心に 取り憑かれるように亡くなったのを知っている。また奥州藤原氏の頭目で親戚の藤原秀衡が、やはり己の老いと闘いながら死んでいったのを知っている。平氏も 奥州藤原もことごとく滅ぼされ、この世は、まるで漂泊の旅人のようにひとつ所にじっとしていることはない。
西行はそしてこんな歌を詠った。
 

ともかくに はかなき世をも 思ひ知りて かしこき人の など無かるらむ
(解釈:ともかくはかないこの世の道理を知ってしまえば、この世に貴い人も賎しい人もないということではないのである。そんなものが最後になって何の役に 立つというのか)
西行は漂泊の果てに、死んだ。死んだ場所は、現在大阪の弘川寺という説が有力であるが、京都東山の双林寺にも西行入滅の伝説が残っている。

ともかく西行は伝説の人に相応しく、墓がどこにあるか分からない位で良い。

西行を偲ぶ歌二首

春や春咲きける花は白き梅西行忌には紅きも咲かむ

涅槃の日一夜明くれば西行忌弔ふ花は心咲く華


佐藤


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2001.2.16