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西行が平泉にいる風景

 
【西行若き日の平泉紀行】

西行(1118―1192)はその名を佐藤義清(のりきよ)といった。平将門の乱で功を上げた俵藤太秀郷(藤原姓)から九代目の武家の家に生まれた。したがって同じ秀郷流である奥州藤原氏と西行は遠縁にあたる。その頃、時は源氏と平氏が相争う時代となり、どこかきな臭いどこかに厭世的な(無常観?)が世間を覆いはじめているような時代だった。

北面の武士(注1として、エリートの道を歩いていた23歳の義清は、保延元年(1140年)六月のある日、当然妻に出家をすると言って、すべての役職と家族を捨てて家を出ようとした。その時、彼の一人娘が、「行かないで」と彼の足にふりすがって、泣いたというが、無情にもその娘手を振り払って、何があったのか、義清は全てを捨てて荒野を目指した。いったいエリート義清になにがあったのか。今となっては知る由もない。永遠の謎である・・・。

でもまあ、そんな堅苦しく考える必要もあるまい。世を捨てたのだから、ブッタと同じ道を目指したと、ここでは素直に考えておこう。出家するに当たり、主人の鳥羽院に対して、このような別れの歌を奏上した。

   ”惜しむとて 惜しまれぬべき このよかは 身を捨ててこそ 身をも助けめ”(万代集所収)
   (解釈:惜しむというありがたい言葉を賜り、光栄に存じます。私はそんな惜しまれるような人間ではありません。
       この上は身を捨てて出家することだけが己を救う道であると思っています)

その後、名を西行と改めた義清は、日本中の荒野を彷徨う。しかし西行が、ブッタのように悟りを開いたという話は聞かない。聞くのはいがいにも情けないような諸国に残る伝説ばかりだ。西行物語は、その崇拝者が西行を偶像化する意図で書いた節ががあり、かっこよすぎて信用できない。だからその伝説を私なりに解釈し直すと、西行はこのような結構我々凡人が共感できる人物となる。

ある時、西行は、大峰山に登って、修行に励んでいたが、「その構えが出来ていない」と言って、先達の坊主にこっぴどく罵られて、大泣きをしたらしい。また天竜川(静岡)の渡りの船に便乗した時には、一人の武士に「おまえがいては船が沈む、降りろ」と言っては殴られて、頭から血を出しながら、情けなく降りたという、実に情けないエピソードばかりが伝説として伝わっている。要するに歌にうつつを抜かす変わり者である。ブッタの道なんて到底歩けるような人物ではない。大体が、地位や家族は捨てられたが、和歌という執着は捨てられなかったではないか。むしろ西行は、能因法師の跡を追って、和歌の細道に分け入った人物で、ブッダの道を行こうとした人ではないようである。

西行が30歳前後(26歳とか27歳という説もある)だから、久安三年(1147年?)の頃、その和歌好きの変わり者は、新しい時代の能因法師を気取ったのか、若い西行がもっと若い頃に親戚のよしみで面識のあったはずの藤原秀衡(注2)を訪ねて、奥州平泉に旅立って行く・・・。

白河の関を越えるにあたって、奥州に入った西行は、能因法師の、かの有名な歌(都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関)を意識して、

   ”都出て あふ坂越えし 折りまでは 心かすめし 白川の関
   (解釈:都を出て、逢坂の関を越えるまでは、心をかすめるほどだったのに、思いが次第に募ってきて、やっと今白河の関に今着いたのだなあ)と詠んだ。また、
 
   ”白河の 関屋を月の もる影は 人の心を とむるなりけり
   (解釈:白河の関屋をもれてくる月の光は、なんと人の心を止めてしまうのだろう)と詠った。

次に信夫の里(福島市)から名取(宮城県)に入った西行は、河岸にある紅葉を見つけて

   ”なとり河 きしの紅葉の うつる影は おなじ錦を 底にさへ敷く
  (解釈:名取河の岸にある紅葉が、川面に映っている。そうしてよく見れば、川底にも紅葉の影が沈んでいるように映っているぞ、まるで錦を敷いているようだ)であった。

こうして秋の奥州路を歩いていった西行は、ついに、十月十二日、平泉の都に着く。そこで若き詩人西行が見たものは、黄金に飾られた北の都の栄華だった。おそらく秀衡が、迎えに出て、大いに旧交を温めたことだろう。この辺りの経緯が辻邦生の小説「西行花伝」では甘い。あたかも既に26歳の秀衡が奥州の御館(みたち=頭目)に就いていたように書かれてあるが、彼が否応なく、父基衡の急死により御館となるのは、十年後の保元二年(1157年)である。辻氏はもう亡くなってしまわれたので言いようもないが大作家がその主著となるべき本にして、こんないい加減な歴史検証(書き方)では困るというものだ。

とまあ、大作家への愚痴はさておき、西行は、再会した秀衡にこんな風に語る。
 「おい、秀衡、平泉という所は、平安の都よりも、美しい街ではないか。想像以上だ。実に驚いた」

 「ああ、そうだろう。いい歌が生まれそうだな。結構俺も気に入っている。ところでどうしてまた、
  出家なんかした?出家をしなく立って、歌は作れるだろうに、妻子がかわいそうだ。
  まったく冷たい男だ。お前という奴は」

 「まあ、いいじゃないか、そこの所は、一度決めたことだからな。実感のある歌が歌いたかったのよ。少しやっかいになるよ」

 「ああもちろんだ。好きなだけいればいい」

 「ああそうさせてもらうよ。この辺りの景色も気に入ったしな」などと、言ったとか、言わないとか。

この日平泉は、たまたま雪が降り、嵐は激しく、最悪の天候だった。それでも西行は、心惹かれる思い捨てがたく、衣河に向かった。彼がそこで見たものは雨粒に霞む奥州の山河だった。そしてこのような歌を詠む。

   ”とりわけて 心もしみて さえぞわたる 衣河みに きたるけふしも
   (解釈:何と心に沁みてくるのだろ。何と心が冴え冴えとしてくるのだろう。今日まさに衣川を私は見たのだ)

いい歌だ。一字一句に無駄がなく表現が素直で実にみずみずしい。複雑な縁語による技巧もまるで気にならない。でも何がいいかと聞かれたら、私は疑いなく「実感がこの三十一字の一字一句に込められているからいい」というだろう。都にいて、歌枕を頭の中でひねり回している歌人の歌とは明らかに違う。西行が西行たるゆえんは、このように自分の実感に基づいた感受性を素直に歌にしている点だ。普段の西行は伝説にあるように結構お茶目でひょうきんな一面を持っている。しかし、一旦歌を口ずさむとなると、人が変わったようになる。誰も近づけないような世捨て人特有の孤独の凄味がその表情に突如として現れる。おそらくこの歌を詠んだ時も、西行はただ一人、嵐の衣河に一人たたずみ、しかもその目は深く閉じられていたはずだ。だからこの歌は、実感を通して得た「イメージとしての衣河」を詠んだ歌である。この歌によって、西行は己の心の奥底にけっして消滅する事のない平泉という景色を焼き付けたのだ。彼の目には、もはや衣河も北上の大河も束稲山もない。そして雨の彼方に永遠の都「平泉」を見ていたのかもしれない。でもこんな歌、凄味のある枯れきった歌を三十前後の男が詠えるのだろうか・・・。

ともかくこの後しばしの間、西行は、平泉に草庵を結び、平泉の山野を散策することとなる。
平泉の冬はとびきり寒い。都育ちの西行が、修行と称して小さな庵でどんな思いで暮らしていたかは想像がつく。おそらくすることもなく、寒風に晒されながら、白い雪景色を眺め、押しよせる郷愁と前年に亡くなったかつての恋人(?)待賢門院(注3 たいけんもんいん)を思って泣き暮らしていたのであろう。

私は西行の奥州の旅が、一般に言われるような修行(歌もしくは仏教)だけではなく、愛しい人を亡くした心の傷を癒すための旅であったと推測する。確かに表向きは、修行と称していたにせよ。西行が道々で感傷的な歌を歌うのはそれなりの理由があったと考える方が自然だと思うからである。

   ”常よりも心ぼそくぞおもほゆる旅の空にて年の暮れぬる
   (解釈:いつもの年越しよりも随分心細く感じられる。それもそのはず、旅路の果てに奥州の空の下での年の暮れなのだから)

ここに来て新たな疑問が起こる。西行は、中尊寺の金色堂や毛越寺などの豪華絢爛たる平泉の伽藍に接しながら、何故かそれらを詠み込んだ歌を作ってはいない。何故だろう。それらを歌として切り取るだけの心の欲求が起こらないのであろうか。西行が訪れた時、金色堂は、壮健から二十年足らず(天治元年=1124)の時期で、異様なほどまばゆさで輝いていたに違いない。それでも西行は、そんな極限の豪奢な竹者には目もくれないていない。西行の美意識の問題だろうか。西行は、ひたすら平泉の山野と自分の心の中のみに、歌の題材を見つけようと、平泉の山野に分け入っていくばかりだ。今日も又、西行は衣川に行き、何気ない景色を言葉によって写し撮ろうと必死である。たとえば、このように。

   ”衣川 汀(みぎわ)によりて 立浪は 岸の松が根 あらふなりけり(夫木和歌集抄 川 に所収) ”
    (衣川の水際に一本の待つの木が立っている。その根が川の浪に洗われて根がむき出しになっていることだ)

はっきり言って、先の二つの歌とも、西行にしては凡作である。名人西行もこんな拙い歌も詠むのかと思うとどこかほっとするところがある。
また、こんな歌がある。ただし次に上げる歌は、平泉で作ったという確かな確証はないが、この時の西行の感慨に近い物があるので紹介する。

   ”雪降れば 野路も山路も 埋もれて 遠近しらぬ 旅のそらかな
   (解釈:まったくのすごい雪だ。どこが山でどこが野なのか、まるでつかめぬ。遠い近いも分からぬ。さすがに陸奥だね。まったく)

西行は、奥州の寒さと孤独と戦いながら、ひたすら春を待っている。雪が解けて、春の花が咲き、ウグイスが恋をする。そんな季節を心待ちにしていたはずだ。しかしながら奥州の冬は長々といつ果てるともなく続く。

そこで西行は、秀衡を訪れてこんな話をしたかも知れない。

 「退屈でしかたない。何か面白い本などないか秀衡殿」

 「冬の平泉に参られたか。どうだ歌合わせでも開いては?」

 「勘弁してくれ、歌は安らぎにならん。寝ても覚めてもそのことばかり考えているのだからな」

 「仏門に入ると不便じゃのーその若さで酒も女もできんのだからな」

 「どうじゃ、舞いでも見せてくれぬか。うんと華やかなやつをな」と言ったとかいわないとか。

そうこうしているうちに春が来る。いっせいに奥州の野山が目覚める。鳥が鳴き。雪解け水が衣川を下り、北上川を洋々と流れ下っていく。
梅が咲き、ウグイスが来て、西行の生涯のテーマである。櫻の花が見事な花をつける。

秀衡が来て西行にこのように言う。

  「どうだ。あんたを驚かせようと黙っていたことがある」

  「驚かせたいこと?なんだい。それは?」

秀衡はいたずらっぽく笑うだけで、答えない。ただ付いてこいと言って、馬を走らせて山の方へ走っていった。仕方なく西行も馬の手綱を取って秀衡を追いかける。しばらく走ると秀衡は束稲山(たばしねやま)の麓で馬を下りた。

  「ここからは歩いて行こう」西行も無言で後に続く。しばらく歩くと眺望が開けた。西行の目が釘付けになった。

  「いったいこれは、どうしたことだ。まさかこんな山全体が櫻の木で溢れているところがあるなんて、すごいじゃないか。秀衡殿。まさにこれは吉野以上の櫻だ」

  「ああそうとも、これは祖父清衡が植えさせたものだ。吉野に負けない櫻の名所をこの平泉に作ろうとの趣向さ」

   ”きゝもせず たわしね山の 櫻花 吉野のほかに かゝるべしとは
   (解釈:いやこんな素晴らしい櫻の名所があるなんて知らなかった。束稲山は今日から歌枕にもなるぞ、吉野の以外にこんな櫻の名所があろうとは)

西行物語では、その後出羽に行ったとあるが、確かな説ではない。むしろ私は空白の二、三年平泉を起点にして活動していたのではとさえ思っている。夏になると西行はこんな歌も詠んでいる。
 
   ”奥に猶 人見ぬ花の ちらむあれや 尋ね越らん 山ほとゝぎす"
    (解釈:奥山に人が見ていない花が散らないで咲いていて欲しいものだ。やまホトトギスが来る夏になったが、一緒に分け入ってみようか)

もしかしたら、この歌で一緒に尋ねてみないか?と西行が呼びかけているのは、他ならぬ秀衡その人かも知れない。こうして歌の道を志す西行と奥州の覇者となるべき秀衡は無二の親友となった。
 

【西行晩年の平泉紀行】

それから38年の歳月が瞬く間に過ぎた。

西行は、戦乱で荒れる京の横目で見ながら、日本中を放浪し、庵を結び、多くの歌を残した。その結果、当代最高の歌人との評価を不動のものとした。その証拠に、彼の死後編纂された新古今和歌集(1205年:元久二)では90余(94)の歌が入集して、これは全歌人中第一位の入集数である。

一方の秀衡は、奥州藤原氏の三代目として、豊富な資金力を背景として、着々と奥州の基盤を固め、院にも一目置かれる存在となっていった。特に平氏の平清盛などは、秀衡の力を利用して、当面のライバルである関東の源頼朝を押さえようとまでした。
まさに1180年代に入ると、時代は「京都―鎌倉―平泉」という勢力関係が自然に出来上がりつつあった。その「三国志」的な微妙な力のバランスの中で、政治家秀衡は、見事な舵取りを見せるのだった。まず彼のしたたかさは京都の鞍馬山に匿われていた平治の乱の敗残者源義朝の九男義経を鞍馬山より招いて、いざという時のための切り札(旗印)として利用することまで画策した。

ところが秀衡の計算に、二つの大きな狂いが生じた。

すなわちその第一は、最後の切り札として使うつもりでいた義経が、兄頼朝の挙兵に感動し、平泉を出て行ってしまったことだ。結果として義経は、平家を壇ノ浦で滅ぼし、鎌倉の頼朝政権の建設の第一の功労者となってしまった。この平氏の滅亡は、奥州を巡る三国志的軍事バランスが大きく崩れたことを意味した。

策士頼朝からすれば、当面の敵であった平氏があっさりと滅び、次は奥州平泉だ。という思いがしていたはずだ。もはや頼朝の目は、弟義経ではなく、秀衡の動勢ただ一点に集中されていた。いやもっと冷酷な言い方をすれば、秀衡の老いていく姿を見ながら、奥州をわが手に支配するタイミングを計っていたとみるべきである。頼朝が注意していたことは、秀衡のカリスマと奥州の資金力、それと義経の軍事的天才が結びついてしまうことだけであった。頼朝は、奥州の間者(スパイ)を放って、とりわけ秀衡の健康と義経の動向を報告させていた。もはや凡庸な泰衡や戦好きの國衡など、頼朝の眼中にはなかった。

このように考えてくると、まさに義経という存在は、秀衡が頭書から目論んでいたように奥州の手駒に収まっているような小さな人物ではなかった。彼の存在は、むしろ歴史の歯車を前に回すために時代という神様に遣わされてきたような西洋で言えば、アレキサンダー大王やナポレオンのような人物だったのかもしれない。もちろんその自覚は当の義経自身にはない。そこにこそ義経の悲劇の本質が眠っているといえるのではなかろうか。

こうして政治家秀衡の発想は、徐々に時代に取り残されていくこととなっていった。秀衡は古い人間である。国家というものを、彼は古代的な地縁血縁を中核としてまとまるもの、という発想しか持ち合わせていない。しかし鎌倉の武士達は違っていた。頼朝を中心に集まった関東の武士には、もはや氏や素性を基礎にしてまとまろうなどという古くさい感覚はない。彼らを気概を支えているものは、頑張れば報われるという関東流の合理精神であった。そこには平氏も居れば源氏もいる。問題なのは、褒美だ。つまり鎌倉では、すでに地縁や血縁を越えた地頭を頼朝が任命するという新たな中世的な主従の関係の時代に入りつつあったのだ。時代はすでに秀衡の頭の遙か頭上を猛烈なスピードで動き出していたのだ。

第二計算の狂いは、どんなに優れた人間も寄る年波には勝てないということだ。もちろん政治基盤が盤石ならば、問題はないのだが、彼の跡取りは次男の泰衡であり、その気の弱さや凡庸さに危惧を感じつつもさすがの秀衡も、兄弟仲良くして、義経公を旗印としてまとまれというのが精一杯の遺言であった。しかもさらに決定的なのは、平氏追討の戦を経験し、頼朝を旗印にする関東武者が、意気が奥州とは比べ物にならないほど高揚していたことだ。一方の奥州平泉は明らかに平和ぼけしていた。後三年の合戦以降、本物の戦を肌で知っているものは、もはや奥州にはいなかった。後の鎌倉勢との最初で最後とも言うべき阿津賀志山決戦で、國衡率いる奥州があっさり負けてしまうのも、経験(戦慣れ)の違いを指摘しないわけにはいかない。

1186年(文治2年6月)、晩年住んでいた伊勢から六十九歳の西行は、奥州の同族であり友秀衡の危機を感じ、東大寺大仏殿再興の勧進を口実に、病気を押して決死の旅に出かける。そして富士の山を見ながら、次の二首を詠んだ。

   ”年たけて またこゆべしと 思いきや 命なりけり 佐夜の中山注4
   (年を取りこの佐夜の中山を越えて、再び奥州へ行こうとしている私だ。ああそれもこれもこの命が保ってくれてのことだなあ)

この歌には次のような詞書(ことばがき=歌の趣意を説明する前文)がつけられている。
「あずまの方へ、相知りたる人のもとへまかりけるに、さやの中山見しことの、昔になりたるける、思い出でられて」
(解釈:関東の方へ、よく知っている人物を訪ねていく途中、佐夜の中山に差し掛かって、昔見たことが懐かしく思い出されてきて詠んだ歌)
 

    ”風になびく 富士の煙の 空に消えて 行方も知らぬ 我が思いかな
     (風になびいていた煙が、いつの間にか富士の空と混じって消えてしまった。我が思いも同じだ。それはどこから来て、どこへ行ってしまうのだろうか)

この二首の歌で、西行は、どこか自らの命のそう長くないことを自覚しているようにみえる。彼はこの世の無常なることを百も承知で、忘れ得ぬ秀衡のために、また東大寺の勧進のために、こ一肌脱いでいるのだ。この西行の行動は、その全てが他人様のためで、自分のためということは微塵もない。そう断言しても差し支えない。全ては友のためであり、世のためである。彼にとって大事なのは、自分らしく生きることであって、けっして自分のためではないのだ。そこが西行の西行たるゆえんではないか。

文治二年(1186年)八月十五日、西行は、鎌倉に姿を現す。
その間の事情を吾妻鏡はこのように記している。

「十五日己丑。二品御参詣鶴岡宮。而老僧一人徘徊鳥居辺。怪之。以景季令問名字給之処。佐藤兵衛尉憲清法師也。今号西行云云。仍奉幣以後。心静遂謁見。可談和歌事之由被仰遣。西行令申承之由。廻宮寺奉法施。二品為召彼人。早速還御。則招引営中。及御芳談。此間。就歌道并弓馬事。条条有被尋仰事。西行申云。弓馬事者。在俗之当初。憖雖伝家風。保延三年八月遁世之時。秀郷朝臣以来九代嫡家相承兵法焼失。依為罪業因。其事曾以不残留心底。皆忘却了。詠歌者。対花月動感之折節。僅作卅一字許也。全不知奥旨。然者。是彼無所欲報申云云。然而恩問不等閑之間。於弓馬事者。具以申之。即令俊兼記置其詞給。縡被専終夜云云。」

(簡訳:十五日、頼朝公が、鶴ヶ岡八幡宮に参拝なさっていると、鳥居のあたりに怪しい老僧が徘徊している。これを梶原景季が問いただした処、西行法師だった。頼朝公はこれを御所に招いて歓談に及んだ。特に頼朝公は、歌の道と兵法について様々教えを受けようとした。すると西行は、家伝の兵法書についは、罪業の因縁を作る要因となるので出家したときに全て焼き払ってしまいました、心に残っていたことも全て忘れ去ってしまいました。と答えられた。また歌の道については、奥義などというものはまったくありません。ただただ花や月を見ては心に感ずるままに三十一にまとめて書き連ねるだけのことですよ。人にお教えするほどのものは何もありません。と答えた。しかし熱心に頼朝公が聞くので、兵法については結構おしゃべりになり、これを藤原俊兼に書き取らせた。この歓談は夜遅くまで続いた。)

翌日についても吾妻鏡はこのように記している。

「十六日庚寅。午剋。西行上人退出。頻雖抑留。敢不拘之。二品以銀作猫。被充贈物。上人乍拝領之。於門外与放遊嬰児云云。是請重源上人約諾。東大寺料為勧進沙、奥守秀衡入道者。上人一族也。」

(簡訳:翌日午前十一時、西行法師は、引き留められたけれども、退出なさった。頼朝公は、お礼に銀の猫を西行法師に賜った。ところがこの猫について通りで遊んでいた幼子に与えて去ったということである。西行法師の今回の旅に付いては、重源上人のお願いを引き受けて東大寺の沙金勧請のために奥州に向かうためだということだ。その途中で鶴ヶ岡八幡宮に寄られてようだ。何んと言っても陸奥守秀衡公は、西行法師の遠戚の一族である。)

さて私はこの吾妻鏡に登場する西行と頼朝の出会いを二人の心理分析を中心に再構築してみよう。

偶然を装ってはいるが、西行はおそらく、意図して頼朝に会っている。頼朝の器量を見ようとしたことも考えられるし、それとなく奥州や院に対する戦略のようなものを聞き出せれば、という下心もあるはずだ。それに対して頼朝も、この出会いが一種の思想対決であることを薄々感じている。もちろん西行が、秀衡の血脈にあることもあり、大いに西行の鎌倉逗留を疑っている。「この爺さん俺を確かめに来たのだな」そう思って、話している。
最初は頼朝が、兵法を聞いたり、歌作について聞いたりして、先手を打つ。西行は、「くだらぬ欲の深い坊やだ」と思いながらも、話をはぐらかしながら、だらだらと一般論を話して、時に本質的な事を少しばかり、話に入れるものだから、頼朝の方も、「これは手強い。やはりただの男ではない」と思い始める。そこですかさず西行が逆襲する。

 「ところで頼朝殿、貴殿にもひとつ東大寺大仏殿の再興のためにご寄付願いたいが、どうであろう」

 「いや、それは寄付したき気持ちは十分にあれど、現在鎌倉でも寺社の創建が多くて、どうにも余所へ回すほどの予算はとれませんでな」

 「そこを何とかして下されぬか。」

 「申し訳ない。お役にたたないことで、誠に申し訳ない」

 「そうですか、ではそろそろ私もおいとましよう」と、言って、西行はそうそうに席を立とうとした。

 「あいや、待たれよ。西行様、これを持たれよ。金とは行かぬが、」

 「これは?」

 「猫でござるよ。猫。又奥州の帰り道には寄ってくだされや」頼朝は、そう言うと、含んだような笑みを浮かべて、年老いた西行を見送ったのである。

西行を送った後、頼朝の、側近例えば梶原景季あたりが、このように言ったはずだ。
「殿あのまま、奥州にやって良いのですか。途中で始末致しましょうか」

「捨て置け、もし金の勧進が本当であっても、奥州の力を弱める役にはたつ。そうでなかったとしても、西行と秀衡は同年代と聞く。法師の、あの老いぼれ振りを見たか。おそらく秀衡もあのようであろう。時を待てばよい」

一方西行のはらわたは、煮えくりたっていた。あの男は食えぬ。まあ二度と会うこともあるまいが、それにしても憎々しげなあの笑み。きっといい死に方はしないだろう。業のある顔をしておったな。金の変わりに銀の猫など渡しおって・・・。あの男は、己の計画実現のためならば、どんな冷酷なことでも実行するに違いない。はやく秀衡殿に伝えなくては。西行の中の侍の血が騒いでいた。

この夜の西行と頼朝の出会いを、立場の違う人間同士の思想対決と看過している作家や歴史家は以外に少ない。歴史家などは美談のように考えているのだからまったく状況を分かっていない。

翌日まで西行は、あのちゃちな猫のことを、ずっと考えていた。何故頼朝が、自分にこの銀の猫を渡したのか?ひとつの閃きがあった。そうか、この私に秀衡殿の首に鈴を付ける役をせよというのか。なるほど…。頼朝の腹は読めた。頼朝はきっとこう思っているはずだ。

「秀衡よ。頼朝の下で飼い猫のようにおとなしくしていろ」
秀衡殿に飼い猫になれとは、いかにも頼朝らしい無礼きわまる態度だな。西行は、その猫を鎌倉の通りで無邪気に走り回っていた子供に、「ほれ、あそびなされ」と言って渡すと、鎌倉を後にした。

老境の西行は、それこそ一歩一歩と自分の命を削る思いで奥州平泉へ向かって行ったに違いない。一刻も早く、秀衡殿に会いたい。

西行は、武蔵の国に入り、やがて利根川の渡しに着き、こんな歌を詠った。
 

   ”霧ふかき 古河(こが)わたりの わたし守 岸の舟つき 思い定めよ
解釈:利根川に霧が立ちこめている。古河の渡し守よ。大丈夫か?気合いを入れて舟をしっかり岸に着けてくれよ。私には大事な使命があるのだからな)

この時、すでに西行は、文を平泉の秀衡に向けて送っていた。そのため秀衡は、友西行が平泉に着くのを一日千秋の思いで、待ちわびていたに違いない。

秀衡は、孤独だった。語る者と言えば、藤原基成や中尊寺や毛越寺の老僧たち位なものだ。すでに同世代の清盛は亡く、何の利害関係もなく心を許してすべての思いを吐露できる西行に会いたい。秀衡は心の底からそう思っていた。しかも自分と奥州に向けられる頼朝の執念深い攻撃。いったい自分の亡き後、この大奥州はどうなってしまうのか。不安は日増しに、西行と語り合いたいという感情に転化する。無理からぬことだ。

西行は、何とか無事に白河の関を越え、奥州に入った。白河からやがて信夫の里(福島)を越えて名取(宮城)に着く。名取郡笠島に来た時、西行は偶然にも、歌人藤原実方の墓を発見する。

この藤原実方という人物は、源氏物語の光源氏のモデルともいわれる人物で、ふとしたきっかけで時の御門(みかど)のご勘気(かんき=いかり)にふれて、奥州に赴任させられた人物である。ここにこの墓がある理由は、出羽国の千歳山という所にある阿古耶(あこや)の松という歌枕にある松を見てきての帰り道、このそばに道祖神を見つけた土地の者が、「この神様は霊験あらたかな神様だから、どうか馬を下りて、礼を尽くして通りましょう」と言った所、「構わぬ。取るに足らぬ女神であろう」と言って強引に通ろうとした所、馬が突然倒れて、その下敷きになった実方は、

  ”みちのくの阿古耶の松をたずね得て身は朽ち人となるぞ悲しき

という歌を詠ってなくなったと伝えられる。定説ではこの歌は、最初の奥州の旅の時に詠んだ歌とされているが、私はそうは思わない。六九歳の西行であるからこそ、生きるのだ。
その西行も、実方の辞世の歌を念頭においてこのように詠った。

   ”朽ちもせぬ その名ばかりを とどめ置きて 枯野のすすき 形見にぞ見る
(解釈:実方殿、聞こえますか。あなた様の名は決して朽ちてはおりませんぞ。あなたの形見は、ほれこうして枯野のすすきがりっぱに努めておるではございませんか)

実方が死して189年の後、実方の思いは見事西行に受け継がれて歌となったのである。

やがて西行は、いよいよ、平泉に近づいた。秀衡は、自ら馬に乗って、平泉から六里(二〇キロ)ほどの距離にある栗原郡の栗原寺まで西行を迎えに出ていた。

「やっと、会えましたな。西行殿。よくぞ、そのお歳で、この奥州まで参られた」

「何をお歳などと、秀衡殿と大した変わらぬ歳ではないか」

二人は高笑いを浮かべながら大いに旧交を温めた。

「さあ、この馬で」秀衡が、西行に馬を用意していた。

「かたじけない」西行は、さっと馬上の人となると、二人を先頭に百騎もの兵士が、蹄の音もけたたましく、一路平泉へと駈けていった。

こうして西行が、奥州に着いたのは、文治二年の十月十二日であった。つまり鎌倉を八月十六日に出立してから五十八日目に当たる。おや、と思う人があるかもしれない。何処かで見たような数字…。そうである。これは若い頃、友の秀衡を頼りに奥州に初めて入ったあの日と同じではないか。実はこれは私の新説である。

私はその時の歌を、最初に接した時、以下のように解釈した。

  ”とりわけて 心もしみて さえぞわたる 衣河みに きたるけふしも
(解釈:言うべき言葉も見あたらない。衣川にきた。とりわけて心に沁みてくる。この寒さは。何と心が冴え冴えとしてくるのだろう。まさに今日私は、衣川にまたきてしまったのだ。この老いらくの身で、)と。

私には、この歌が、二度目にきた時に、衣川に懐かしさを込めて詠んだ歌にしか、どうしても思えなかったのである。もちろんこれは私の直感である。この歌には、長い詞書が添えられており、それほどに西行がそれほどの思いを込めて詠った歌と解釈すべきではなかろうか。また若い西行では、「とりわけて」というような変則的な入り方はできなかったはずだ。

西行は馬上から、大声で秀衡に叫んだ。

「秀衡殿、まず衣河に行きたい」

「ああいいとも、お主の好きな所であったからな」

「あそこから束稲山や大河北上を見てみたいのだ。昔と少しも変わっていないであろうなあ」

「ああ、もちろんだ。変わり様がないではないか。いつまで経っても奥州は奥州さ」

西行と秀衡は、38年前と少しも変わらぬ若者のような心持ちで、街道を駆け抜けて行った。折から激しい風が吹き、みぞれのような雪が二人の頬を容赦なく打ちつける。しかしもはや西行にとって、そんな厳しい奥州の天候すら愛しむべき対象でしかなかった。こうして気を許せる友がいて、大好きな奥州の大地を自分は駆け抜けている。そんな思いが、西行の心を、暖かく包んでいた。

二人を乗せた馬は、毛越寺を過ぎた。伽羅御所(きゃらのごしょ)の前では、今や遅しと秀衡と西行の到着を待ちかまえていた家臣たちが、二人が疾風のように目の前を過ぎて行くのを見ながら、
「御館(みたち)どこへ行かれますのか?」と叫ぶのが精一杯だった。

「すべては、西行殿のお心のままよ」と訳の分からないことを言ったと思うと、二人は高笑いを浮かべて、やがて家臣たちの視界から風雪の中に消えていった。

衣河の前に、二人は黙って立っていた。
秀衡は、声を掛けかねていた。たたずむ西行には、奥州の覇者秀衡ですら近づきがたい威厳があった。秀衡の目には、西行がじっと目をつむって、川の音を聞いている、そんな風に映っていた。

西行は38年ぶりに衣川に立ち、自分の波乱に満ちた生涯を振り返っていた。
十八歳で北面の武士として立った頃、あの頃は自分の人生は大海のように開けている気がした。そこには前途揚々たる青年佐藤義清がいた。二十三歳にして甘美な道ならぬ恋を知った。その時、自分ではどうしようもない運命の糸があることを知らされた。考えた抜いた末の出家を決意し、妻子を辛い目に合わせてしまった。

何という人生だったのだろう。結局、自分には歌という道しか残っていなかった。歌の才を磨くための長い長い道を一人で歩いてきたような気がした。歌で癒され、歌によって生かされた人生だった。慕い続けた能因法師の後を訪ねて奥州に旅を思い立ったのは、愛する人が、出家をした後、病をこじらせて急死なさった翌年だった。

そこには無二の友秀衡がいて、奥州の山河があった。それから日本中を流離い歩いた。多くの友は旅立ち。その中には北面の武士の時代の友平清盛もいた。きらびやかな栄華に包まれていた清盛は、西行に会った時、このように言ったことがある。

「義清殿、そなたがわたしはうらやましい。本当にそう思う。もう我々も若くない。私はいつも自分の一門の事ばかりを考えていなければならぬ。夜も寝れないことだってある。何が太政大臣だ。無冠のそなたが一番だ。そなたは自由に好きな所へ飛んで行って、歌を詠う。いい人生だ。そなたのように生きれたらどんなに豊かな人生が送れたことか。まるで大空を舞う白鳥ではないか。」

その時、西行は、清盛に何か不吉な影を感じたが、その場では何も言わずに笑ってやり過ごすしかなかった。あの時の、孤独という悪魔に魅入られたような清衡の目が、焼き付いて、しばらく西行の脳裏から離れなかった。その後、清盛は、熱病にうなされ、苦しみ抜いた末にこの世を去った。享年六十四歳。あれほど清盛が心配していた平家一門は、彼の死後、わずか四年にして滅び去ってしまった。

この日、西行は、会った瞬間から、秀衡の中に清盛と同じ不吉の影を感じとっていた。そのことを目を瞑りながら、あれこれ考えていると、実に心が冴え冴えとしてきて怖くなる西行であった。
 
その頃、平家一門を滅ぼした張本人義経は、勝手に院より官位を受けたとして、頼朝の怒りを買って、平家追討の英雄から一転追われる者となっていた。頼朝にすれば、背後に秀衡という後ろ盾を持つ、義経の戦の天才ぶりを見るにつけ、「これは早めに手を打たなければ、秀衡の持つ経済力と義経の武の才が一つになった時には、鎌倉とてどうなるか?」と危機感を募らせたはずだ。

義経は、武蔵坊弁慶他わずかな手勢を従えて、吉野山中から秀衡のいる平泉を目指して歩いていた。白河の関を越えれば、たとえ頼朝とて、もう手出しはできない。はやく白河をこえるのだ。義経はそう思いながら、初冬の北陸道を北へ北へと向かっていた。

悲しい話がある。義経の愛妾だった白拍子の静のことだ。静は義経とはぐれ、吉野山中を彷徨っているところを捕まって、鎌倉に贈られた。しかもこともあろうに憎き敵である頼朝の命により、鎌倉鶴ヶ丘八幡宮境内で、舞を舞わされる羽目となった。文治二年四月八日のことである。再三拒否した静だったが、一緒に捕まっていた母の助言に従って、次のような義経を慕う歌を歌いながら凛々しく舞った。

   ”吉野山 みねの白雪ふみわけて いりにし人の あとぞ恋しき
   (解釈:吉野山の白い雪を踏みしめて、山に分け入っていったあの人足跡が長く延びている。ただあの人が恋しい)

   ”しつやしつ しつのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
   (解釈:しず布を巻くおだまきのように、「静」や「静」と、何度も愛しい人が、私の名を呼んだくれた昔が、今に甦ってくれればいいのに・・・。)

いずれも恋しい人を、一筋に慕い続ける恋の歌である。見ている者は、みな涙を流したという。ただ一人頼朝だけは、「なんで私の前で、義経を慕う歌など歌って舞うのか、けしからぬ」と今にも取って喰うような激怒ぶりだった。しかし頼朝の妻政子は、「何を言っているのです。私がもし静の立場だったら、同じことをしたと思いますよ。貴方が平家打倒に立ってからというもの、いつ私が逆の立場になったとも限らないのです。静は女性の鏡。貞女ではありませんか」といって頼朝をなだめ、その場を納めたのであった。

静かにはさらに悲しい話がある。鶴ヶ丘八幡宮で舞った時、静のお腹には、義経の子供が宿っていた。「もしも女子なら命は助けるが、男児だったら、生かして置くわけにはいかぬ」頼朝は冷たくこう言い放った。そして文治二年七月二十九日、静は、はからずも義経の男児を生んだ。泣いて我が子を抱いて離さない静だったが、頼朝は許さなかった。男児はすぐに殺され、由比ヶ浜に捨てられた。これは西行が鎌倉に現れる15、6日前の出来事だった。

そのことを西行はこのように秀衡に告げた。

「秀衡殿、頼朝は非情な男だ。自分は清盛殿の深い思いやりによって、命を長らえたにも関わらず、一旦敵と思った者には、情け容赦のない攻撃を加える陰険さを持っている。すでに平家追討第一の功労者、義経殿は罪人にされ、その愛する者たちも責め立てられ、その子は殺され、鎌倉の浜に捨ててしまう残忍さを見せている。縁者の人々も次々と捕らわれている。母の常磐殿や妹君も捕まっていると聞く。奥州は明らかに頼朝が第一に狙う所。注意なされよ」

「もちろんだ。今年の四月には、その非情を絵に描いたような男から文が届いてな。これからは京に届ける貢ぎ物については、全部鎌倉を通してやるようにと言ってきた。何様のつもりかは知らぬが、実に無礼な男だ。」

「それにしても今、義経殿は今どの辺りにいるのだろう」

「うーむ、それがつかめぬのよ。白河の関を越えれば、問題はないのだが、いかに才気のお方とて、気になるところよ。ご無事で戻ってくれるといいのだが・・・」

「秀衡殿、もはやこうなったからには、頼朝と一戦交える覚悟をしなければ、なるまいぞ」

「おお、望むところよ。義経殿を旗印として、我が息子たちが一つになり、奥州十七万騎が背後にあっては、いかに頼朝とて、これをうち破るのは不可能。逆に鎌倉を攻め滅ぼして見せましょうぞ」そう言って拳を握りしめて見せた秀衡だったが、西行はその拳にある無数の老人班を見逃さなかった。
 

奥州平泉の冬は長い。駒形嶽(栗駒山)から吹き下ろす風は、年老いた西行の肌を刺すように渡っていく。西行は、束稲山の下に小さな庵を結ぼうとしたが、「歳を考えて」と、秀衡にたしなめられ、秀衡の離れに、宿をとっていた。

年は明け、早一ヶ月が過ぎた2月のある日のことである。西行は、冬の夜空にいたく興を感じて、一片の歌を詠んだ。

  ”花と見る 梢の雪に月さえて たとへむ方も なき心地する
 (解釈:冬の夜空に月が昇った。松の梢の降り積もった雪が、まるで花が咲いたように見える。何と美しい。喩えようもないほどだ)

突然、秀衡の小姓が西行の元に飛び込んで来た。

「西行様、御館(みたち)がお呼びです。すぐ宅の方に来てくれと」

「ほう、何かあったのかなあ」

「私には皆目検討がつきません」

何か、大事件でも起きたのか。もしかしたら、鎌倉の頼朝に何か動きがあったのかもしれぬ。はたまた頼朝が、最近都で噂になっているように、頼朝によって、英雄から一転して、お尋ね者となってしまった義経を、奥州の秀衡がかくまっているという事を根拠として、「奥州を追討せよ」との院宣(朝廷からの命令)でも頼朝に発しられでもしたのか。最近の西行は、どうも悪いことばかりを考えてしまう自分に少々嫌気がさしているところがある。
「まずは、行ってみよう」

西行を見るなり秀衡は、「はやく、こっちに」といって、手招きをした。

「何かありましたのか?」

「いや、うれしいことがござった。西行殿はやはり福の神だ」

西行は、ひとまず安心した。どうやら悪い知らせではないらしい。

「義経殿がついにやって来られた。たった今し方、栗原寺に入ったという知らせが届いたのよ」

「義経殿が来られた。それは目出度い。よくぞ、鎌倉方の追っ手から逃れて、この奥州に入られたものだ。さすがにあの殿は、並のお方ではない。どんな武運を持っておられるのか、検討もつかないところがある」

「西行殿は、初めてか。京でお会いしたことはなかったか」

「いや初めてです。京での義経殿の評判は再三聞いておりました。京の町衆に乱暴狼藉を働いた木曽義仲の軍をことごとく平らげ、平家もまた滅ぼし、京に平安をもたらした功績は、すべて義経殿の手腕によると」

「この秀衡も、あのお若い義経殿があれほどの手柄を立てられるとは、予想だにしていませんでした。私としては、鎌倉勢と、事を構えた時に、旗印として立って頂こうとの考えがあって、奥州にお呼びしたまでのことだったが、この秀衡の手に余る才が、あのお方にはあるようだ。誰もあの人物の器を分かってはおらぬかもしれない。まったく不思議なお方よ」

「そこのところを見抜いておるのは、秀衡様以外には、実の兄である頼朝殿かもしれませぬな。でもともかく秀衡殿、これで鎌倉勢も迂闊(うかつ)に奥州には攻め込めなくなったことは確かじゃ」

「それはそうじゃ。あの義経殿の戦の才は、長い日本の歴史の中でも、おそらく一番であろう」

「それで、今夜平泉に参られるのか」

西行は、義経という人物に異常なほどの興味が沸いた。一瞬にして日本の勢力図を塗り替えてしまうような天賦の才を持った人間とは、どんな面立ちをして、どんな声を発するのか、背丈はどのくらいか。歌は詠えるのか。どんな話し方をするのか。神の化身のような人物の現実の姿が早く見たいものだ。

「いやそれが、今夜は、栗原寺に泊まられて、明日の昼に平泉に入る予定となっておる。西行殿も是非お迎えなされ。当代一の歌詠みと当代一の出会い。この秀衡にとっては、それも大いなる楽しみのひとつ。平泉にとっても名誉なことじゃ」
そう言いながら、秀衡はつるつるに剃った頭を撫でて、笑った。

西行は、中天からやや西の空に傾き掛けた月の光を頼りに宿に戻った。戻るとすぐに心が沸き立つような思いがして、このような恋の歌を詠んでいた。

  ”ともすれば 月澄む空にあくがるる 心のはてを 知るよしもがな
  (解釈:月の顔を見ることは、忌むべきことではあるけれども、折があれば、澄んだ冬空に上っている月(義経のこと)をしみじみと見てみたいものだ。その心の果てに何があるのかは、分からないのだが…)

西行は、まるで乙女に恋した少年のような気分で微睡(まどろ)みながら一夜を明かした。朝方、西行は夢を見た。真っ白な雪の中を、遠くの彼方から疾風のように駈けてくる武者がいる。黒々とした馬に跨り、朱色の甲冑に身を包んだ武者は、まさしく義経殿。西行は夢の中でそう直感した。いったいどこへ行くつもりなのか。どんどん雪を蹴る蹄の音が近づいてくる。西行の鼓動は否応なく高まった。止まってくれ。留まってくれ。そう心の中で念じた西行だったが、その武者は、西行を一目見るなり、目で軽く会釈をすると、黒駒に一鞭をくれて、彼方に駆け抜けて行ってしまった。

「義経殿行ってはならぬ。」

遙か彼方の山河に消えていかんとする夢の中の武者に西行は、自分でも分からぬ言葉を発して目が覚めた。血液が逆流しているように感じ、冬だというのに、体中から汗がにじみ出していた。

西行は、外に出て風に当たると、有明の月が金鶏山をかすめて沈もうとしていた。

  ”世をそむく こころばかりは 有明の つきせぬ闇は 君にはるけむ

(解釈:まだ空には有明の月が懸かっている。長い夜はいつになったら明けるのか。貴方は本当に世間にそむく心を持って、あの有明の月のように尽きせぬ闇の中にいるのか。そのような姿は貴方には相応しくない。)

西行の口から、そんな歌が漏れて、義経との出会いの朝は、とうとうやって来た。
西行が、身繕いを整えて、御所に駆けつけると、御所の前には、既に義経を迎える支度が整っていた。御所から奥州道に連なる道は掃き清められ、今や遅しと義経一行の到着を待っていた。沿道には奥州の武者達が千騎ばかり左右に分かれて整列をしている。その奥である大門の前では、御館藤原秀衡が、どっかと腰を下ろしている。その脇には、秀衡の跡取りの泰衡が、落ち着かないそぶりで目線をそちこちと動かしていた。またその脇には長老である藤原基成がいる。

西行は基成と、会った瞬間からどうも好きになれないような気がしていた。都育ちを鼻にかけたようなところがあり、その貴族的な雰囲気もどうも鼻につくのだった。一方基成の方も、西行を異様なほど意識しているらしく、「北面の武士でありながら、世を捨ておって、挙げ句に歌など歌いおって鼻持ちならん」と、孫である泰衡に洩らしていた。

西行は、頑固そうな白眉毛の基成と目線を会わせると、形ばかりの会釈を交わして、秀衡に向かって手を上げた。そこにはいつになく地味な服装をした秀衡がいた。いつもの秀衡なら、客を迎えるとなれば、銀に金糸の刺繍の派手な衣を身につけているところだが、義経に対しては、臣下の礼を尽くしたのか、藍染めの僧衣に赤糸で織った袈裟を身に纏っていた。

秀衡は、西行を見つけると、

「いや、西行殿、こっちへ」と言って、息子の泰衡をどかして自らの隣に座らせようとした。

「いやいや、ここで結構」と西行は、端の方に座ろうとした。

「何を、西行殿こちらへ」泰衡は、素直に横にずれようとしたが、基衡は露骨に嫌な顔をして、大きな咳払いをくれて、義理の息子である秀衡を睨んだ。

秀衡は、笑いながら、
「これは、これは、舅殿、申し訳ないが、西行殿と義経殿は、面識があるのでな、すみませぬな」と言った。

西行は、「面識がある」という秀衡の方便を聞きながら、さすがに秀衡殿の人あしらいのうまさに感服した。
そんなことをしているうちに、義経を出迎える為の太鼓が鳴り始めた。
次第に太鼓の音は激しくなり、やがてその音が、地鳴りのような蹄の音にかき消されてしまった。
奥州路を横にそれて数百騎の馬がこちらに向かって、ゆっくりと走って来るのが見えた。粉雪は騎馬たちの勢いに大空に舞い上がり、銀の粉となって輝いた。

思わず方々でため息のようなものが漏れた。沿道にいた女達が、一目も憚らず、「義経様」という歓声を上げた。やがてその一団は、正装の武者達が作る人垣を割って大門に悠然と入ってきた。先頭には秀衡の長男武勇で名高い藤原国衡がいた。その後ろには、泰衡と同じ母を持つ三男忠衡が務める。忠衡の妻は、あの秀衡が一族、信夫の庄司佐藤基治が息子佐藤継信、忠信兄弟の妹である。
その後ろを、武蔵坊弁慶以下、もはや伝説の英雄と成りつつある一騎当千の強者達。その十名余の義経主従のまわりには、栗原寺の荒法師姿の僧達が、一世一代の名誉とばかりに胸を張って、脇を固めている。

国衡は、馬から下りると、その大きな体を、もどかしそうにくねらせて、御館秀衡の前に進み出た。そして片膝を付き、声を上擦らせながら言った。

「御館、ただ今、源九郎判官義経殿をお連れいたしました。この国衡、名誉にも源九郎判官義経殿を、栗原の庄栗原寺より、お連れ申せとの、ご命令を頂き、今ここに、その大役を無事務めることが出来ました。九郎判官殿より、昨夜様々なお話を受けたまわり、この国衡涙を止めることが出来ませんでした。御館のお言葉をお伝えしたところ、九郎判官殿もお喜びになり、今日のこの良き日と成りましてございます」

すると秀衡は、喜びを抑え切れぬような風情でこのように恭しく口上を述べた。

「これは、これは、源九郎判官義経殿。今やその武名は、日本国中に轟き、並ぶ者とて、見あたらぬ有様、にも関わらず、遠路遙々この奥州平泉の地まで、よくぞこの藤原秀衡をお忘れなく、参られました。心から厚く御礼申しまする。思えば、治承四年九月御殿は、兄君源頼朝公の平家追討のお心に賛同なされ、この平泉の地をお出になってから、早七年の歳月が経っておりまする。ここにおります者みな、九郎判官殿を主としてお迎えすべく、一日千秋の思いでお待ち申しておりました。もはやこの平泉の地、奥州は御殿の地であり、我々一同九郎殿下につき従う者、どうかそのもつもりで、幾久しく、ごゆるりとなさってくださいますよう」そして、深々と頭を下げた。

その言葉を聞くと、烏帽子を冠した源義経は、馬上から、さっと身を翻して、雪の大地に舞い降りた。すぐに金地螺鈿(らでん)の太刀を、白い房を靡かせながら抜くと、周囲から再びため息が漏れて、人々は白銀の地に金糸で桜をあしらったその衣に釘付けとなった。その衣と太刀は秀衡が、もしも義経公が、再び平泉の大地に来られる時には是非とも着ていただこうと、特別に仕立てさせていたものだけに、義経の都慣れした立ち居振る舞いと相まって、得も言われぬ雅な時空を形成した。義経は、臣下の礼を取る秀衡にうながされて、奥に設えてある座に着いた。

義経は、静かに落ち着いた声で語った。
「このようにご丁寧なるお出迎え、誠にもって、かたじけなく思いまする。皆さまご存じのように、この九郎義経は、反逆者の汚名を着せられた父義朝とは、幼少の頃に死ぬ別れ、十六でこの平泉の地に来て、初めて父と申すべき秀衡殿に巡り会い、青臭い男であったこの九郎を時には叱り励まして頂き、はたまた鎌倉の兄君の御出陣にうながされて奥州を立つ時には、佐藤継信、忠信他御一族の屈強の者どもを家来として、つけて頂き、数々の困難を凌ぎながら、今日弓馬の道に適う者との最高の褒め言葉までそちこちより頂戴し、武士として男として、誰も未だに知らぬはずの戦の術を思いもかけず毘沙門の神より夢の中にて授かって、今日ここまで生きながらえて参ったのです。申し訳なくも、忠義と勇気の士、継信と忠信は、私の身代わりとなり、見事な最後を遂げられた。本日ここには、彼らの家族の者がおるとのこと。この九郎申し訳なく思っておりまする…」

義経は、この言葉を言い終わると、はらはらと涙を流し、言葉につまって、立ち往生をした。

人々は涙を拭いながら、義経の一挙手一投足を逃すまいと目を見張った。丁度この場所に、継信と忠信の妹である忠衡の妻、楓が二人の兄を思いだしたのか、一目も憚らずにそばの女御に抱きかかえられるほど大泣きに泣いた。

西行は、この時、この中にこそ義経の真の姿があるのだと感じた。色の白い義経の瓜実顔が、涙で赤らんで、まるで桜の花びらのように見えた。この人は、何て優しい心を持っておられるのか。しかし一旦戦となった時には、どんな非情なことも厭わない武勇の鬼。この相克の見事さに、西行は神の奇跡をみて、背筋が寒くなった。

 ”なべてみな 君がなさけを とふ数に 思ひなされぬ ことのはもがな
  (解釈:おしなべてみな、あなた様の苦労と嘆きを、心の中で数えていることでございましょう。私も又、あなた様の口からまったく予想だにしない過去を語る言葉をまだまだお聞きしたいものです)

義経は、自分で心を立て直して、再び話し始めた。
「再びこうして奥州の地に身を置いたからには、秀衡殿と一族の為、また数多の奥州人の静かな生活の為に、この命も捧げる覚悟。おそらく兄頼朝は、この地奥州を、郎党どもに分け与える褒美として考えているに違いござらぬ。猪の如き鎌倉武者を焚きつけて、この奥州に攻め入って来ることは火を見るより明らか。そうなれば、この九郎義経を、皆さまにこの命を捧げ尽くし、その先頭で戦いましょう」

この下りに来た時、あの白眉毛の基成が、露骨に嫌な顔をしたのを西行は見逃さなかった。基成は、平泉の地に、義経を火種の元の到来のように感じ始めたのかもしれない。傍にいる孫の泰衡を肩肘で押し、なにやら耳打ちをした。

基成が義経の到着を快く思わない理由の第一は、もちろん戦の危険の増大である。基成は平泉の栄華を造り上げたのは、自分の政治的手腕によるものだと強烈な自負がある。自分の人脈があったればこその秀衡ではないか。平泉の平和ではないか。という思いがある…。そこに飛び込んで来たのが、戦の化身のような義経である。

「これでは鎌倉の頼朝に平泉攻撃の口実を与えてしまうことになる」そう言って、溺愛の孫である泰衡にこの数日間、何度となく、義経の平泉入りに懸念を表明していた。
そこの所に持ってきて、昨日は秀衡が、基衡の住む「衣川館」(衣の館)に恭しく参上してこのように言った。

「これは舅殿、今日はご相談があって参りました」

「何かな?」基衡は怪訝な表情で、秀衡の顔を覗いた。

「いや、実は本日早朝、あの九郎義経殿が、無事に栗原寺に到着されたという知らせが入り申した」
秀衡は基衡の目線を笑顔でかわしながら言った。

「何、九郎義経殿が、参られたと…」基衡は白眉毛を忙しく動かしながら言った。

「そこでなのですが、舅殿。高館を、義経殿の住まいとして考えたのですがいかがでしょうか」

「何じゃと、秀衡殿」

「高館を、義経殿の館にと申しました…」

衣の館は、平泉の柳の御所の西方にあって壮麗な造りの館であった。その見事さは、秀衡の住まいである伽羅御所をも遙かに凌ぐものである。秀衡の側近達からは、「何故、御館が、伽羅で基成殿が、衣の館でござるか、納得が行きませぬ」と言われている。その度に秀衡は「まあ良いではないか。あのお方は、あそこがたいそう気に入っているのじゃ」と至って気にしている様子は見られなかった。事実、大らかで気取りのない秀衡にとって、誰がどこに住むなどは問題ではなかった。一方気むずかしく気位の高い基成にとって、衣の館にいることは、平泉を実質的に支配していることの象徴として極めて大事な事であった。衣の館のもっとも小高い所に造られているのが高館であり、その時基成は、御所のすぐ傍の東の館に住んでいて、当然高館は使用していなかったはずなのに、義経が住まわせる、と聞いた瞬間に一遍に臍(へそ)を曲げてしまった。

「他にも場所はあろうに、何故高館なのじゃ」

「やはり源家の御曹司。格式は重んじなければなりませぬのでな」

「秀衡殿、はっきり申そう。そもそも私(みども)は、義経殿を受け入れることには反対なのじゃ。何故そのことがそなたには分からぬかのう。頼朝に口実を与えることになるではないか。そうではござらぬか」

「舅殿のお気持ちは、もちろん分かって、おりまする。でもあの腹黒い頼朝のこと、どうあってもこの奥州に攻め入ってくることは必至。あの九郎殿の戦の才が必要なのでござる。この奥州を守るために…」

「私はそうは思わぬ。これまでも私がやってきたではないか。院が何を考えているかを考え、その院の口上を持って、鎌倉を封ずることはできる。これが戦わずして勝つ、という兵法の奥義ではないか」

「もはや、非戦論は現実的ではありません。舅殿。あの後白河院は、自らの孫であられる幼い安徳天皇をも、見殺しにするほどの非情のお方。何の縁もない、この平泉に逆賊汚名を着せることなど平気であられましょう。あの清盛殿の失敗に学ばなければなりませぬぞ。舅殿」

「そなたには政治の駆け引きというものが分かっておらぬ。もはや分別も付く歳であろうに、そのように青臭いことを言っておられるとは、この平泉も先が思いやられるわ」

「舅殿には、悪いようにはいたしませぬ。分かってくだされ。ここは御館として、お願い申し上げまする」

秀衡は、両手をつき、深々と頭を下げて、しばらく顔を上げようとしなかった。その間、基成はじりじりしながら、秀衡が頭をもたげるのを待った。しかし一向に秀衡は姿勢を戻そうとはしなかった。そこで我慢仕切れなくなった基成が、

「秀衡殿、そなたが御館。好きなようになさるがよい。だけど私の考えは変わらぬ。義経殿は、平泉にとっては災いの神だ。そこの所を秀衡殿、忘すられるなよ」基成は、そんな捨て台詞を吐いて、その場をさっと立ち去っていった。
 

義経は、奥州の人々の拍手と歓声の中にいた。
西行はその表情の端々に、武将としての義経の並々ならぬ決意を感じとっていた。

秀衡は、懐より目録を取り出し、読み始めた。

「源九郎判官義経殿に申し上げます。一つ今日よりその御所として、衣川の館の中の高舘月見御殿をご使用いただく事、お願い申し上げます」

その時、群衆の中より、驚きともどよめきともつかぬ歓声が上がった。高舘月見御殿に住むことはたとえ象徴的な意味と入っても、奥州の最高の玉座につくことを意味した。思えば源家は後三年前九年の役の頼義、義家以来、奥州の玉座に就くことを宿望のようにしてきた。その宿望がこの若き義経によって、実現の運びとなったのだ。もちろん秀衡には、秀衡の深い考えというものがあった。こと戦にかけては、歴史の中でも並ぶ者とてないほどの天才ではあるが、情にもろく信義に厚く、政治的な野心というものはほとんどない。そんな与し易い人物が、財政豊かな奥州にいてくれさえすれば、それだけでたとえ勢いに乗っている鎌倉とて、容易に攻め込むことは不可能である。秀衡にとって唯一の心配は、忍び寄ってくる自らの老いだけであった。

「一つ、直轄領として、桃生郡、牡鹿郡、志太郡、玉造郡、遠田郡、を献上申し上げます」

奥州でもこの領地は特に豊かな土地であり、奥州を総括するものとの意味を込めた拝領であった。しかしこの案には前日、普段はおとなしいはずの泰衡が猛烈に反対していた。

「御館それでは、我々兄弟の領地というものが、ほとんどなくなるではありませぬか。それでは兄弟の不満は抑えられませぬ」
しかし父は断固としていった。「何を言うか泰衡、おまえ達には、それ以外の奥州のすべての土地を分け与えておる。たった五郡ほどで不満など漏らす出ない。義経殿は、奥州とおまえ達を助けてくださる神のようなお方なのだぞ」心弱い泰衡は、父の眼光にたちまち降参をし、祖父基成の元にで不満をまくし立てたのだった・・・。

秀衡は続けた。
「一つ、義経殿の御臣下の方々にも、胆沢郡、江刺郡を献上申し上げる」

この時、お供をしていた武蔵坊弁慶以下の臣下達は、余りの突然の出来事にただただ驚き顔を見合わせて、秀衡という人物の、器の大きさに感心するばかりであった。その他に、秀衡は義経に対して、傍にいる侍を150人、女御、下女、召使いなど50名。名馬百頭。その他にも鎧兜、弓矢などを惜しみなく与えた。
 

西行はその夜、秀衡の御所で、酒を酌み交わしていた。
その膳には、茸の煮もの、焼き栗、塩鮭、生牡蠣、などが並べられていたが、西行の目を引きつけたものは赤の生肉であった。それを見た西行が、「おおこれは、もみじ肉ですな」と言った。もみじとは鹿肉のことである。

「その通り、西行殿が、もみじ肉を、たいそう気に入られていたことを思い出してな」

「いや、よくぞ覚えておいてくださった。初めは秀衡殿が人魚の肉などと言うものだから、喉を通らない気がしたが、一口、肉を口にした瞬間、こんなうまいものがあるのかと思ったほどだ」

「そうであったなあ、さあ早く食べなされ、飛び切りの味がしますぞ。人魚と思って食べれば、寿命も延びるかもしれませんぞ。

「おう、よくこの平泉で食べさせていただいた」そう言いながら、西行は箸を取る手ももどかしく、肉を口に運んだ。

「どうですかな。蝦夷料理は?」

「うまい、実にうまい。今日の夕暮れの群青色の空のように、深い味わいがする」

「さすがに当代一の歌人じゃ。後で歌にしていただこう」

二人のいる襖(ふすま)を開けて、近従の若者が入ってきて告げた。
「ただ今、九郎判官義経殿が参上されました」

西行はびっくりして、秀衡を見た。秀衡はにっこりして、
「さあ、当代一の歌人と、当代一の弓取りの対面じゃ」と言った。

少しして、床を足袋がする音がして、義経が二人の前に現れた。

「失礼仕ります。九郎、お言葉に甘えて、参上致しました」義経の張りのある声が邸内に響いた。
九郎は、略儀ながら、白の地に金糸で月と花をあしらった見事な装束を着けて西行との初対面の場に現れた。

「さあ、九郎殿、こちらへ」そう言って、秀衡は奥の座を指さした。

「いや、秀衡殿、この場にては、そのご配慮無用に願いまする。秀衡殿の臣下の前ならば、ともかくも、ここは秀衡殿を父とも仰ぎ見るこの九郎のこと、むしろ下座こそ意に適う所。」義経は、そう言うと、さっと頭を下げて、左の方向に身を翻した。明らかに秀衡に、西行の紹介を促す仕草であった。

その有無を言わせぬ見事な立ち居振る舞いに感心しながら、秀衡は言った。

「九郎殿、西行殿をご紹介いたそう。西行殿は、私(みども)の縁者でしてな、それに母君は源氏の血を引く、れっきとした侍(さむらい)の出。今は出家され、歌人として、全国にその名を馳せているお方。今日この目出度き日にこうして、お二人を引き合わせることの適うことは、この秀衡にとっても大変名誉なことでございます」

それに答えて義経は言った。
「これは西行殿、初にお目にかかれて、光栄に存じ奉ります。私は源義朝が一子、源九郎義経と申す者にて。本日はありがたくもこうして御拝謁の機会を得て、不躾(ぶしつけ)ながら、急ぎ参上いたしましてございます」

「西行でございます。昔私も弓馬の道を継ぐ家に生まれ、父より弓の刀を譲り受け、若い折には、院のお側近くに侍としてお仕え申し上げました。故あって、出家を果たし、弓馬の道を離れ、仏の道と歌の道をただひたすら歩く者にて、迷いの道を抜け出せず、こうして老いのままにて、気ままな旅に身を任すもの。奥州平泉の御舘秀衡殿とは、幼き頃より京の都で兄弟同然に育ち、以後この歳になるまで、お付き合い頂く仲にて。かねてより九郎殿のことは様々なお噂を耳にして、その戦の才がどのような所から来るのか、一度聞きたいと思っておりました」

「さあ、九郎殿まずは一献」

そう言って、秀衡は、白磁の杯を渡す。義経は、両の手でそれを受けると、注がれる酒を一気に飲み込んだ。

「お見事。まずは目出度い。九郎殿、私にも注がせてくだされ」と、西行も義経に酒を注いで、それも義経は一気に胃に収めた。
そしてすぐに、秀衡に返杯しようとした。秀衡は、「いやいや、西行殿に」と笑顔で、西行に注ぐように促した。

西行は、義経が注いだ酒を、恭しく頂くと、
「うまい。実にうまい」とため息とも、独り言ともつかぬ言葉を発した。

「さあ義経殿にも、膳を持って参れ」
お側の者にそう言うと、女達が義経の膳を運んで来た。

義経は、その膳の中にも鹿肉を見つけると、
「これは、もみじでござるか。秀衡殿」とびっくりしたように言った。

「左様。九郎殿が好きだったもみじの肉でござるぞ」

「以前、秀衡殿に、これを食べれば、強い武者になれます、お父上の仇は取れます、と言われ、よく食べたものでございましたな」

「そんなこともありましたな。初め九郎殿が、その真っ赤な肉に恐れをなして居られたので、そのように言ったまでのこと、一度この肉を口にしたものは、好物になってしまいますでな。実はこの肉を西行殿も大好物でしてな」

「そうなのです。私も秀衡殿に、だまされましてな、口に運んだ所、その時から、好きになり申した」

「そうでございましたか。ところで西行殿。あなた様に一度是非、聞きたいことがございました」義経は、うまそうに鹿肉をほおばりながら言った。

「何でござろう」

「歌のことでございます。実は私は幼少の頃より、理屈は分かりませぬが、西行殿の歌が大好きであった。いやこれはお世辞ではございませぬ。他の歌人にない凛とした心を感じておりました。特に私は、あなた様の春の歌が大好きでした。
例えば”吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花を尋ねむ”を日頃から愛唱いたしておりましたところ、都から反逆者の汚名を着せられて吉野山に深く潜行したおりに、この歌の実感と言うか、芯のようなものに触れたように感じたのでございます。まだ見ぬ花という言の葉の中に、救われ申した。そうだ。今こそこの九郎もその花を見に奥州までたどり着くのだ、と強く思いました。なぜ西行殿は、そのように歌が詠えるのでしょう。人の心に訴えて、しかも明日をも見越したような歌を・・・」

秀衡は、その義経の言動にいたく興味を持ったのか、
「おお、それは面白い。私も是非聞きたいものだ」と、言って身を乗り出した。

「いや、買い被りでござる。その歌は、ただ吉野山を尋ねていると、ふと道しるべのしをりを見た時に、道が二つに分かれておって、大方の人は広い方に行くのだが、少し狭い方の道は険しくて、誰も行かない。むしろ行くな、というしをりに見え申した。でも私はその細い方の道に興を感じて、誰も見ないような花が咲いているかもしれないと、分け入ってみたのよ。それをそのまま詠んだだけでして…」

「そうでありましたか、私はこの歌を、確信に満ちて、人と違う道をゆく覚悟と捉えましたが」

「いやその解釈で構いませぬ。歌は人に強制を強いるものであってはならないので、自由にむしろ歌人が感じた以上の解釈が生まれることがあっても、良いのです。いやもしかしたら、その時実直に詠んだつもりが、心の深いところでは、別のことを欲しているということもある。だから歌は詠んだ時から、それを詠む人の中で成長するのでしょう。きっと。」

「歌も成長するものですか…なるほど」

「いやいや、難しいことを言ってしまいました。それより九郎殿が私の歌を愛唱してくださっていたとは、実に光栄ですな」

秀衡が口を挟んだ。
「おそらく西行殿の歌にある侍振りに、九郎殿も共感するのであろう」

西行が首をひねった。
「侍振りでござるか」

「そう侍振りじゃ。何というか、西行殿の歌には、侍特有の凛とした精神が宿っておる。今時の他の歌人には、ない貴重な特質だ」

「確かに、私も感じまする。それが私が西行殿に引きつけられる源かもしれませんな」義経はそう言って笑った。

「いや、これはお二人にお褒め頂き、うれしゅうございまする。ただ実感だけを大切にと詠いますれば、侍振りなどという、面白き解釈も賜っては、一生の思いでになりまする。義経殿、私はあなた様にこそ、質問したきことがありまする…」

西行はそう言い終わると、襟元を整えて、じっと義経の方を凝視してこう言った。

「義経殿、貴殿の戦は、これまでの我が国の戦とは大きく異なる所がある。是非貴殿の兵法についてお教え願えぬか」

「おう、そこの所は、私も是非聞いて見たかった。話してくだされ。義経殿」秀衡も身を乗り出してきた。

義経は、正面を正視し、記憶をたぐり寄せるように静かに語り始めた。

「いや、これは答えになってはいないかもしれませぬが、私の人生は、父が残した書の言葉から始まりました…。我が子らに、と題したその書には、ただ”兵者詭道”とだけありました」

「ヘイシャキドウ…」西行は、不思議そうに言った。

「はい。母から、これはそなた達の父君からの大事な遺言です、と手渡されたものです。私が十一才になった時でした。母は再婚のため、三人の兄弟に別れを告げる段にこれを見せてくれたのでした。その書をどうしても自分の手元に置きたかった私は、泣いて母と二人の兄にお願いしました。どうか、母君、兄上、この牛若にこの書を預けていただきたく存じます。と、幸い母も、また兄たちも、それは牛若が持っておれ、ということとなり、私は一人鞍馬寺に稚児(ちご)として預けられることとなりました。それから私は日夜このことの意味を知るために、それでありとあらゆる人物にお伺いを立て、教えを請う日々が続きました。初めはまったく何が何か分かりませんでした。でもとうとうその意味が分かる時が来ました。私が十五才になった時です。ある時、唐国(からくに)の兵法に詳しき人物と知遇を得て、やっと朧気(おぼろげ)にその意味が分かったのです」

「というと、その意味を知るまでに何と、五年の歳月がかかったという訳ですか」秀衡は感心したように言った。

「はい。もちろん色々な解釈をしてくれる人はいました。しかしそのどれもが私にとってしっくりくる答えではなかったのです。まずその四文字が果たしてどこから来たものなのか、知らなければ意味がないと思ったのです。」

西行が割って入った。
「つまり義経殿は、その原典をはっきりとさせ、前後の脈絡を捉えた上で解釈しなければ、意味がないという訳ですな」

「その通りです。真の意味は、ただ四文字にあるのではなく、その四文字を書いたその精神を明らかにせねば、分からぬ、と思ったのです」

「お見事じゃ。義経殿、すべてに通じる一本の道がある。佐藤家にも始祖秀郷以来ずっと受け継がれる兵法の極意書があります。しかしその中から四文字を抜き出した所で何の意味ももちません。大事なことは、その四文字の奥に流れている精神を知ること。そのためには生半可な気持ちでは無理。理解ではなく誤解で終わってしまう」

「存じております。継信や忠信を介して、その父佐藤基治殿からその書を見せて頂き、大方は理解しておるつもりでございます。あの書は含蓄のある良い書でございました。そこにもまた詭道について述べてありました。もちろん詭道という言葉ではございませんが、そこにはまさに詭道が書いてあると、私は理解いたしました。例えば、東国で起こった平将門殿の乱を鎮めた時の秀郷殿の戦法は、互いに詭道の限りを尽くした戦でした」

「そこでじゃ。互いに詭道を駆使した戦いをしながら、一方では敗者がおり、一方では勝者がでる。これはいったいどんなことが原因なのでござるか。義経殿」秀衡が言った。

「少しわかりにくい言い方になりますが、戦の勝敗は、天の理、地の理、人の理、将の理によって決するもの。従って戦を指揮する者は、己をなるべく虚しくして、この四つの理について、考えなければなりませぬ。言えることは、将門殿は、強すぎた。己に自信がありすぎて、墓穴を掘ったのです。しかも決定的だったのは、自分が新天皇に収まるなどという天の理に適わぬ野望を抱いてしまったことでした…」

「必要以上の野望を抱いてはならぬということですな…」額に汗を滲ませて秀衡が言った。

「戦は詭道ですから、一瞬で勝負をつかなければ、思い切って引くべきです。長期戦は敗北に等しい。前九年後三年の戦がそのことの意味を見事に教えております。所詮戦は国を維持する一つの方便。されどそれを侮っては、国は立ち行きません。詭道に対は正道。すなわち政事あっての戦です。ただただ戦に明け暮れれば、国が疲弊してしまうだけのこと…」

「確かにその通り。義経殿、詭道という言葉についてもう少し聞かせてくだされ。」西行が言った。

それに対して、義経は、まるで僧侶が経でも唱えるかのように一気に語った。

「詭道は、読んで字のごとく、詭の道のこと。詭とはすなわち相手を欺くこと。だますこと。相手の計算を狂わすこと。すなわち能ある者は、これを不能と見せ、近くあっても遠くを装い、敵の頭を乱しに乱し、勝利を引き寄せる道に他なりません。しかしこれは言葉で言うほど簡単ではありません。詭はごんべんに危ういという漢字を充てますが、これはこの詭道の本質を示しています。つまり詭道は危うい道なのです。まるで薄い氷の上を用心をして歩くようなもの。何故ならば常に兵を取り巻く情勢は変化し、時の勢いというものがあるからです。その勢いというものを見極めることができなければ、戦の勢いはたちまち相手の方に行ってしまいます。その勢いを判断するのが兵者の才というもの…」

「義経殿実に実に深い言葉だ。いったいどこでそれを学ばれたのだ」秀衡は感心して言った。

「これは唐の国の孫子という兵法書にある言葉。私はこの書の存在の噂を聞き、矢も盾もたまらず、奥州から一度京に帰ったほどでした」

「分かったぞ、そうかあの時、貴殿は京に戻ると言い残し、3ヶ月ほど戻らないことがあったがあの時に学んで来られたのか」

「その通りです。しかし私の戦の仕方は、また少し孫子の兵法とは違うです。それは奥州に伝わる騎馬による兵法を私なりに変化を付けているからです。しかしだからといって私が戦をする時、誰も私の作戦を読みとることは不可能です。」

「義経殿、貴殿はそのように自分の才というものに自信をお持ちなのか?」西行が質問した。

「いや自信などと言うものではありません。私が特別な才のある兵者であるのは、勢いがあってのこと。ですからたとえ私になにがしかの才が有ったとしても、それは勢いというものに乗っていればこそ。勢いがあれば、たとえこっちは素手であっても大きな熊だとて、一撃のもとに倒してしまう、そんなものです。しかしいったんその勢いを失えば、一匹の蝌にも絶命させられる危険があるのです。それが詭道の奧にある時の勢いの怖さというものです」

「とすれば、貴殿は詭道の本質は、時の勢いを捉えることであると言われるのか?」

「はい。もっと正確に言えば、時の勢いを捉えて相手をうち倒す術と解釈すべきかと思いますが」

「では、ずかっと、義経殿に質問いたしますぞ」西行は、まるで自分が若き侍のように義経に質問を放った。

「義経殿、一ノ谷の戦のことを質問してよろしいか。貴殿はあの時、悪路を越えて、平氏の陣の背後に回った。しかもその手勢たるや、僅かに五十ばかり。もしも総大将たる貴殿にもしものことがあったらどうなさる。たちまち形成は逆転していたかもしれぬと思うが、そのことをどう考えなさる」

秀衡も義経の目を見ながら、一瞬息を呑んだ。

「西行殿。戦は勢いにて、ただひとつ一ノ谷のことだけを抜き取って論じても始まりませぬ。まさに一ノ谷は、勢いに任せての勝利でございまして」

「勢いに任せての勝利とな…」西行は、そう言いながら、怪訝な表情で義経を見た。

「いかにもその通りです。まず宇治川の戦で、私は平家の武者の気持ちの萎えを実感しました。これは問題にならぬ、と。次にその勢いをかって、三草山に陣を敷いた平資盛(たいらのすけもり)を夜襲にてうち破り、そしてあの一ノ谷の戦がやってきたのです。ただ一ノ谷に布陣したるは平氏勢もそれなりの覚悟を持ってのこと。それまでのようにはいかぬと感じまして、詭道を持って、思いもつかぬ鵯越えを果たし、平氏の構えを、一瞬でうち砕くことを考えたのです。でも決してこれは無謀な策ではありません。私はこの奥州の山谷を巡りながら、幼き頃より、崖のような所を一気に駆け下りる遊びとも訓練ともつかぬことをしておりまして、どうということはないのです。それよりも平氏の不意を突くことができれば、時の勢いを持って彼らを殲滅することができると確信していたのです。」

「確かに、あのような急な斜面を駆け下りるとは、平氏の誰も予想はしていなかったことは確か。恐ろしいお方だ。でも、もし貴殿に何かあったら、源氏方の志気は、逆に衰えてしまうかもしれませんぞ。わずか五十騎ほどの手勢では・・・」

「いや、そうではありません。あそこに集った者どもは、私がかつてより目をかけてきた一騎当千の強者たち。継信、忠信を始めとする奥州武者に畠山や和田などの板東武者。私が考えている通りの働きをしてくれる武者としての才に恵まれたばかりでございまして、数など問題ではありませんでした。さてそこにおける詭道のあり方ですが、詭道に見えて、その実、正道の変化でして、」

「正道の変化とは・・・」

「いや難しいことではございませぬ。応用と言い換えてもよろしゅうございましょうか。誰でも経験していないことはできないものです。私はただそれまで経験していたことをすこしだけ変化させその状況に応用したに過ぎませんでした。つまり時の勢いに準じたのでございます」

「なるほど、すると次に来る屋島での戦も、壇ノ浦での戦も、義経殿にとっては、時の勢いに任せての戦となるわけですな」秀衡が言った。

「その通りでございます」それでも西行は、義経の説明に納得いかぬようであった。

そう義経が言い終わるか終わらないうちに秀衡の家臣の者が血相を変えて入ってきた。

「御館。おくつろぎの所を失礼仕ります。至急お耳に入れたたきことがあって、参上致しました」

「いったい何事じゃ」

三人の耳目がその家臣に集中した。

「怪しき者を捕縛いたしました。取り調べましたが、旅の僧と言い張っております。どう見ても鎌倉の間者に相違ございません。いかがいたしましょう」

「そうか。捨て置け、間者がいることは、当たり前のこと。その者を捕まえたとて、ひとりではなかろう。いずれ知れること。それより義経殿が、この奥州に居られることこそが、鎌倉殿に対する暗黙の牽制となろう」秀衡はきっぱりと言った。

「では御館、その者を放免してよろしいのですな」

「その通り、”勘違いし申した。これは旅の足しになされ”と、少し金を渡してやれ」

「御館それでは、泥棒に追銭になりまするが、それでもよろしいので」

「良いのじゃ。まあ鎌倉の殿には、義経殿の男ぶりなど、よく伝えていただけねばならぬでな」そう言って秀衡はにやりとした。

「畏まりました」家臣の者は、秀衡の威光を抱えて廊下の彼方へ消えた。

その一部始終を見ていた西行が言った
「秀衡殿。いよいよその時が来ましたな。会って見る限り、頼朝殿の腹は明らか。この奥州を自分の配下として従わせる為には、いかなることでもなさるに違いない。しかし秀衡殿の威光と義経殿の詭道の兵法がある限り、この奥州には容易に踏み込めませぬな」

「秀衡殿。この義経この御恩は、この義経の命に代えても生涯忘れはいたしませぬ。既に私の中では、鎌倉の軍勢を迎え撃つ構想は出来ておりまする」すでに涙もろい義経の瞼には大粒の涙が光っていた。

「ほう、さすがは軍神義経殿じゃ。実に頼もしい。国衡や泰衡と計って、すぐに義経殿の意にそって、奥州各地に強固な館と罠を張り巡らせましょう」

「義経殿。どこで鎌倉軍を迎え撃つお積りか。まずは白河の関から那須の辺りの山辺で、山を下られるか」西行が鋭く聞いた。

義経はすぐに応酬した。
「いやあそこは、素通りさせます。不気味な静けさのなかに、関東の武者達に恐怖と疑心を抱かせて、気持ちに縄を掛けてごらんに入れまする」

「気持ちに縄…」秀衡は訝しげに言った。

「そうです。あれ、何で、と思わせます。それが私の詭道の第一歩」

「それで、どうなさる・・・」西行は身を乗り出して言った。

「何もしません。ただただ彼らには、彼らには疑心暗鬼のうちに奥州に深く誘うように歩いて貰うのです。そして4、5日で須賀川から二本松の近くにまで接近するはず。その時です。我らの奇襲の一隊が、彼らの食料を夜襲にて焼き尽くして見せまする。…さて人馬ともに食がなければ、どうなるとお思いで、西行殿…」

「うむ。でもそんなことが、できますか」

「簡単なこと。誰もこの義経が食料を狙うなどと考えてはおりますまい。しかも彼らは長期戦を覚悟で行軍して来るのですから、食料を絶てば、慌てふためくことは必定。そこで白河の関所を閉めたと噂を流布します」

「では、そこで鎌倉軍の退路を絶つので…」

「それは見せかけですが、そのような噂を流すのです。さてそこで兄頼朝がその中にいたらもはや袋の鼠同然。兄だけをねらい打ちに致し、弓に優れた者を選抜して刺客を放ちます」

「それで頼朝殿を倒せると思っておいでか、義経殿」

「いや、たとえ倒せなくてもいいのです。兄の頭を正常でなくすることこそ、肝要なのです」

「それで奥州の正規軍は、どこに待機なさるつもりで、」秀衡が言った。

「阿津賀志山の麓に本陣を張り、阿武隈の大河の近くにも陣を敷きます。おそらくあそこで鎌倉兵達は全滅する羽目になるはず」

「おもしろい。実におもしろい。確かにあそこは基治の大鳥の館もあり、様々な策が打てる位置。戦場(いくさば)としてはまさに最適の場所」
秀衡が、頼もしげに義経の作戦に太鼓判を押した。

西行は心の中で、思った。いったいこの人物の才とは、どこから来るのか、いとも簡単に戦の筋を読み、物語を作るように、なめらかに淀みなく語るその話には、間違いなく現実の歴史もそのようになってしまうとしか思えない妙な説得力に溢れている。いったいその強靱な自信いったいどこからくるのか。

その時、大きな声が聞こえた。

「義経殿が居ると聞いた。義経殿、義経殿」
その声の主は、藤原基成その人であった。かなり酔っているらしく、足下が少しおぼつかない。

秀衡が廊下に迎えに出て、言った。
「これはこれは、舅殿、良い所に来られた。いや義経殿と西行殿が来ておって、面白い話などして居った所でして…」

「おう、そうであったか、この基成はじゃまであったかのかな。御館殿…」

「そうではございませんよ。舅殿」秀衡は笑いながら答えた。

「これはこれは基成殿、基成様にはこの奥州に若輩の私が来るに当たりましては、一方ならぬご尽力を頂きかたじけのうござります。以前母常磐より文が参りまして、くれぐれも基成殿にはお礼を申すようにと仰せつかっておりました。ここに改めて、ご厚情のほど御礼申し上げまする」
義経は、座を一歩退いて、恭しく畏まって基成に挨拶をした。

基成はその義経の完璧な作法に面食らって、次のように言った。
「おう、義経殿、私もそなたが気になっておってな、奥州に再び来るとなれば、それ相応のこともせねばなるまいと思っておったに…」

かなり酔っていて、秀衡も西行ももちろん義経もその真意をつかみかねていた。

「さあ、基成殿、まずは一献」西行がその場を繕うように、自らの杯を渡して酒を注いだ。

「これは天下の歌詠みに酒を注いで頂こうとは、光栄なこと。いただきますぞ。西行殿…ところで西行殿には、鎌倉殿にも会って参ったという噂が流れておるが、それは誠か」

西行は、その言葉に驚いた。何故自分が鎌倉で頼朝に会ったことを、この人物が知っているのか、とすれば頼朝との間で文のやりとりでもあるのか…。

「確かに頼朝殿に会い申して、弓馬の道について聞かれて、少し話し申した。東大寺の砂金の勧請に来たと言ったら、銀の猫など渡されて、丁重に断られてしまいました」そう言いながら、西行は笑った。

「ほう、銀の猫とな」基成は、酒で赤くなった顔を振りながら、じっと西行を見た。

「舅殿。まあ鎌倉のことなど、この際よいではござらぬか。私にも一献注がせてくだされ」秀衡は雰囲気を取り繕うように言った。

「いや、私より義経殿にお注ぎなされ。のう義経殿」

「私もだいぶ、酔っておりますが、頂戴致しまする」

基成は、秀衡の持っていた酒を奪うように手に取ると、一気に注いだ。

義経は、「おっと」と言いながら、左手で直垂(ひたたれ)にこぼれる酒を受け止め、一気に飲み干した。基成はそれを見ながら、

「さすがに天下一の弓取りは違うものじゃ。是非この気概を泰衡にも教えてやりたいものじゃ。のう秀衡…殿」

「誠に…」秀衡は舅の無礼に腹が立つのを抑えながら言った。

「さて、義経殿、そなたに聞きたいことがある。奥州のことじゃ。忌憚なく答えていただきたい」基成は、口をへの字にして言った。

「ええ何なりと」義経は、きっぱりと言った。

「それではお聞きいたしまするぞ…。まず奥州のことじゃがな。どのようにしたら奥州の平安は守れると、義経殿はお考えか」

「戦の備えがあっての平安。それ以外に今の世で自国の平安を維持する手段はありますまい」

「いや。外交という手段があるではないか。帝や院の威光は、たとえ鎌倉殿でも無視することはできぬ。この奥州の安泰は、ひとえにこの外交による手段にあると思うのだがのう」

「もちろん戦も政(まつりごと)の一つに過ぎません。しかし一旦、政で事が解決せぬとなれば、武力が必要となります。それが戦でございまして、いま兄頼朝がなそうとしていることは、帝と院の権威を棚上げにして、鎌倉の傘のなかに、九州西国から奥州までおも治めてしまおうとの魂胆。事ここに至っては外交による解決など、たとえ兄頼朝がどんな事を言って来たとしても、それは奥州を謀(たばか)るための方便に過ぎますまい。兄頼朝は、そのために奥州に恩義のある私めが邪魔で邪魔で仕方ないのでござる。いかがかな。基成殿…」

「うむ、儂(わし)にはそうは見えぬが。いかに鎌倉殿でも、都の権威を無視することはできぬはず。その証拠に何事につけて、帝や院に伺いを立てた上での動きしかしておらぬではないか…」

西行がたまらずに声を発した。
「一言よいかな。基成殿。私は鎌倉の頼朝殿につい最近会って参った男。あの殿が、どの程度の器量を持った頭領であるかは、ある程度掴んでおるつもりでございます。あの殿に前では、一切の権威はひたすら己が国を統一する野望の方便に過ぎぬと思いまする。つまりあのお方にとっては、京の帝も院も利用する対象であって、崇敬の対象ではないと見ました。一旦事が起これば、己の優位のためには、あのお方のための帝と院をお据えになる位の腹を持ったお方と見ましてござる。よってあのお方が私に銀の猫を渡した意味は、暗に奥州の秀衡殿と基成殿を猫と見立てて、その首に鈴を付けて来いとの謎掛けであったはず…」

「いや。その通り。西行殿。その通りでござろう」秀衡が西行の手を取って相づちを打った。

「でもな、たとえその意図が鎌倉殿にあったとしても、あの院の権謀に敵うとは思われん。たとえ鎌倉殿でも結局、都の権威の前では、己が猫になるしかないのよ。そこが分からねば、この国の政の奥深さは理解できぬはずじゃ」

「基成殿、でははっきり申しましょう。この義経は、この奥州に戦をしに参った者にございます。ただ誤解せぬようにしていただきたいのは、何も私は戦好きで、そう言っているのではないということです。時には勢いがあります。戦には戦の勢いがあり、臭いのようなものがございます。それを避けるのも基成殿のような文官たる者の役目であることも十分に存じております。しかし事ここに至って、まず肝要な事は、奥州が一つとなり、戦の備えを万全にすること。この義経、この命に代えてもこの奥州を守ってごらんにいれまする」

「義経殿。もったいのうござる。実に嬉しき言葉なれど、貴殿をこの奥州で朽ちさせるとあればこの秀衡死んでも死に切れませぬ。そんなことがあれば、この奥州の御館としての大いなる恥でござれば、のう基衡殿そうは思いませぬか」秀衡は、そう言いながら、基成にも同意を求めた。

基成は、困ったように秀衡の目線をはずして、立ち上がった。
「どうも涙もろい者ばかりで、儂は異邦人になった気分じゃ」そう言いながらふらふらと基成は出ていってしまった。
 

基成が去った後、義経は、秀衡と西行に向かい、鎌倉勢をうち破る戦略について、驚くべき詳細さを持って語った。話はどの地域にどんな館を造り、どの人物をそこに配置するかまでに及んだ。その時の義経は、まるでどこか、あらかじめ予定された書物を空で読んでいるような所があった。西行は、そんな義経を間近で見ながら、この小柄な人物が時代という神の申し子であると確信するに至った。しかし同時にこの傑物の余りの才能に何か危ういものを感じてしまった。ここに至っても、西行にとって義経は、依然として謎そのものであった。又「危ういものを備えてしまった人物」、そのように表現してもいいかもしれない。ともかく西行にとって、生まれて初めて出会った異質の才能の持ち主であった。

その思いは、自室に戻っても続き、西行は義経という人間について様々に思いをめぐらせた。そして義経という人物を抱えた奥州平泉がとてつもない運命を背負い込んでしまったのだ、という結論を導き出すに至って背筋が寒くなった。そのことの真の意味を、さすがの西行自身も、よくは分からなかったが、たた何か怖ろしいことが近々起こるのではないかという漠然とした思いを抑え切れなかった。

やがて西行の脳裏の中では、義経の口から淀みなく溢れてくる兵法や対鎌倉戦に関する言葉が、まるで念仏のように渦巻きはじめ、その論理の明快さと奥深さに、西行はある種の嫉妬を覚えた。あれ程の才に匹敵する歌を、自分は作れるだろうか。ほとんど神が語っているかのようにも見える義経の饒舌さは西行にとって驚きそのものであった。その時、ふいに長い間を置いて、宵暁を告げる時の鐘が、長い間を置いて、三度聞こえた。西行は時のはかなさにあはれを催し、矢も楯もたまらずに、次の二首の歌を詠んでいた。

    ”つくづくと 物を思ふに うちそへて をりあはれなる 鐘のおとかな
    (解釈:つくづく物思いに耽っていると、その折も折、いっそうその思い強く感じさせる時の鐘であることだ

    ”いつの世に、長きねぶりの 夢さめて おどろくことのあらんとすらん
    (解釈:いつになったら、この長き迷いの眠りから覚めて、何事にも不動の心を持って世の中を見ることができるのであろう

何故、己は、これほど凡庸なのか…。
その後、西行は、激しい睡魔に襲われて、深い眠りの中に落ちていった。
 

次の日、西行は秀衡と共に建設中の新御堂(しんみどう)と呼ばれる無量光院に足を運んだ。

この寺は、若き秀衡が京都に上った時、宇治の平等院を観た時の感動が忘れられずに、晩年になり自らの館(平泉館)の東方に連なって建てようとしていた「平泉の平等院」とも云うべき寺院である。池を巧みに配置した本堂には、仏師雲慶に彫らせた阿弥陀仏が安置されている。この年(1187年)は、この寺院の落慶法要が行われる年に当たる。それは祖父清衡建てた中尊寺や父基衡の毛越寺と比べれば、遙かにスケールの小さい建物に過ぎない。しかし秀衡は、この無量光院の建設を自分の生涯の集大成と考えて異様なほどの情熱を注いだ。

例えば本堂の四面の壁には、「観無量寿経」の大意を表す仏画と共に自らが筆による狩猟の絵図を掛けさせた。この中で秀衡は殺生を忌む仏の教えに対する自らの罪を露わに描くことで、自らの人生における罪を白日の下にさらすことになる。これは秀衡にとって一種の自己否定だったのかもしれない。思えば人の一生は、無数の他者の犠牲と殺生の上にある。ましてや奥州の覇者となった秀衡は、祖父や父がいかにしてこの奥州の平安を勝ち取ったかを常に聞かされ骨身に沁みている。その無数の敵味方の兵士の命やその際に罪もなき民や鳥獣たちの命。秀衡はこの平穏な浄土としての奥州を守ることが老いた自分に科せられた天命のように感じていたはずだ。

祖父の清衡は、中尊寺建立願文の中で述べている。「長い戦乱の犠牲となった多くの兵士の御霊ははじめ、鳥獣に至るまでの霊が漏れなく浄土へ導かんとす。一心に平和を願い、平和を慶び、陸奥と国家の安泰を願い、ここに大伽藍を建立奉る」また父基衡も祖父の精神を受け継いで毛越寺を建設した。秀衡は、この二人の肉親の浄土に対する希求の精神を受け継ぎ次代に伝えるべく、この中尊寺と毛越寺と比べれば遙かにスケールの小さな新御堂、無量光院を建設しようとしたのであった。それはまさに浄土に至る道を自ら観相するための寺院でもあった。

秀衡の館で待ち合わせした二人は、館よりこの寺の東門に連なる道を歩いた。
二人は堀に囲まれた東門から、このほとんど完成間近の朱色本堂の前に立った。

「秀衡殿。実にいい。何度足を運んでも、ここに来ると、さっきまでざわめいていた心が落ち着き、経を読んだ後の清々しい気持ちになれる…。秀衡殿の心の声が聞こえて来そうな気さえする。不思議な気持ちですぞ・・・」

「いや西行殿に、そうお褒めいただけば、私としても造った甲斐があるというもの。どうでござろう。いっそのことここの住職になってはくださらぬか」

思わぬ秀衡の申し出に、西行は秀衡の顔を改めて見た。秀衡は真剣な表情で西行にこの寺に留まる決意を迫っているように見えた。
 

(続く)佐藤
 



 

 

[注1] 北面の武士:(ほくめんのぶし)
御所の北面で、院内の警護にあたる武士のこと。白河法皇の御代から始まった。後の近衛兵のようなもの。

[注2] 藤原秀衡:(ふじわらひでひら)
(1122−1187)奥州の覇者。二代藤原基衡の嫡子。母は安倍貞任の娘。父基衡の突然の死(1157年)を受けて、36才で奥州藤  原氏三代目当主の地位に就く。若い頃、何度か京の都に上ったという形跡があり、北面の武士であったという確かな証拠はないが、佐藤義清と顔見知りだった可能性は極めて高い。源義経の庇護者。政治手腕に長け、1170年(嘉応二年)従五位下鎮守府将軍を、更に1180年(養和一年)には陸奥守となる。これは平清盛が、台頭してくる源頼朝の力をその背後からけん制するために、与えた地位と考えられている。ともかく奥州平泉文化を考える上での最重要人物。

[注3]待賢門院:(たいけんもんいん)
(1101−1145)鳥羽天皇の皇后。名は藤原璋子(ショウシ)。藤原公実の子、母は藤原隆方の娘。白河院のもとで溺愛されて育ち、白河法皇の猶子となる。1117年(永久5)従三位となり鳥羽天皇の女御となる。翌1118年(元永1)中宮に出世。1124年(天治1)院号宣下により、待賢門院をいただく。後に崇徳・後白河院両天皇のを生む。その翌年生まれた崇徳の父親は、鳥羽天皇ではなく白河院であると噂され、その噂がのちに保元の乱の一因となった。またこの女院と西行が歌を通じて、深い仲になったとの説は昔から根強い。西行出家の主原因の可能性あり。ともかく西行の生涯を解く上でははずせない人物である。 参考(角田文衛「待賢門院璋子の生涯」) 

[注4]佐夜の中山:(さやのなかやま)
遠江国の歌枕。現在の静岡県掛川市付近にある小坂。


参考文献

山家集    岩波文庫

山家集    新潮日本古典集成

撰集抄    岩波文庫(昭和45年)

西行物語   講談社学術文庫

西行     白州正子著 新潮文庫

西行     安田章生著 弥生書房

西行     目崎徳衛著 吉川弘文館

西行論    吉本隆明著 講談社文芸文庫

西行(日本の作家)久保田淳著 新典社

西行花伝   辻 邦生著 新潮文庫

白道     瀬戸内寂聴著 講談社文庫

西行と清盛  嵐山光三郎著 学陽書房

(「無常のという事」所収)
西行     小林秀雄  角川文庫

西行     高橋英夫著 岩波新書

西行     渡部 治著 清水書院

西行の風景  桑子敏雄著 NHKブックス

西行     饗庭孝男著 小沢書店

西行から最澄へ 栗田勇著 岩波書店

西行全集    尾山篤二郎著 五月書房

西行の世界   山本幸一    塙新書

西行を歩く   槇野尚一著  PHP研究所

国文学「西行」行動する詩魂   学燈社

西行のすべて  佐藤和彦他著 新人物往来社
 
 


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