差別問題に寄せて

橋のない川を読んだN子さんへ

N子さんこんににちわ

橋のない川、一気読みとか、それは疲れましたね。あの本を読破するには、エネルギー が入ります。住井さんの生涯の大作ですからね。人間というものが、自分の「生涯の使命」らしきものを、自覚したときは、本当に強いですね。まさに住井さんにとっては、差別問題を世に問うために「橋のない川」を完成させることは、「一生の使命」でした。

私もそうですが、宮城北部には、あんまり部落問題というものが表に出てこないので、関西地区の連中と較べて、「部落差別」に関する捉え方が鈍感なことは、確かですよね。でも差別と言えば、この栗原地区は、元々エミシとヤマトが戦った所であり、実はよく歴史を紐解けば、凄まじい地域なのですよね。私は、栗原を離れて以降、常にその地に内在するエネルギーを意識しながら何でも考えるようにしています。

差別の問題は複雑です。ある所では差別される側だった者も、別の所では、理由もなく差別する側に組み入れられてしまうこともあります。かつて韓国に行った時、私はそのことを痛烈に感じました。日本人である、というそのことが、ある国の人にとっては、意識として不快な「差別者」に感じられてしまうのです。

この問題に関して、いつも私はこんな比喩をとることにしています。例えば、「差別」という名の電車があったとします。これにあなたががたまた乗り合わせてういたとしましょう。たまたまそこを渉ろうとした足の不自由な人が線路に足を取られて動けなくなってしまったとします。電車の運転手は、100mほど手前で、その人を確認、急ブレーキを踏みました。しかし間に合わず、徐々に電車は近づいてきます。その時、あなたが、一番手前に乗っていて、彼女と目があったとしましょう。彼女にあなたがどう映るのかといえば、自分をひいてしまう恐怖の凶器としか映らない。本来、差別問題には、そうした、どうしようもない、立場の問題というものがあります。

エミシという人たちがアイヌだったかどうかという問題は、まだ議論の在るところですか地名の問題からして、個人的には間違いなくアイヌであったと私は思いますが、かつてそのアイヌ問題の最前線の場所であった地域が栗原であり、我々は差別と被差別の人々の混血ないしは、少なくてもアイヌの人々を文化において殲滅した側の人間ということになります。その後、どんどんアイヌの人々の住む地域は、北へ北へと押しやられ、民族としても激減していき、明治の初めには、青森にも、アイヌ部落があったものが、今は、北海道の一部にしか、彼らは居なくなってしまいましたね。

 栗原にはサッピライ(アイヌ語地名)という地名があり、そこに反乱を起こしたエミシの族長のコレハル(栗原ママ)の君「アザマロ」の墓と思われるものがありますね。彼は、差別に絶えきれずに反乱を起こした人物です。一時は、ヤマトに忠誠を誓い、自分の領地に伊治城(コレハルジョウ)を建設し、ヤマトの北進に力を貸したものの、アイデンティティを踏みにじられたことに憤慨し、以後凄まじいヤマトの攻撃を受けながら、歴史の闇に消えてしまいました。

 尾松の栗原(クリバラ)から西磐井郡の達谷袋(タッコタイ)に抜ける松山道という旧道があり、史跡「達谷窟」に突き当たります。ここには悪路王の伝承があり、ヤマトから派遣された大将の田村麻呂によって退治されたという伝承があります。しかしアザマロと田村麻呂は年代的に少しの差異があるので、この悪路王を水沢のアテルイと見る見方がありますが、少々疑問です。歴史地理的判断をすれば、この悪路王こそ、アザマロであり、田村麻呂が成敗したというのは、様々な歴史的成果が、英雄である田村麻呂に収斂された結果であると考えられます。

何れにしても、少し時代を遡れば、栗原はおろか東北全体が、差別的な扱いを受ける辺境の地域というだったことは残念ながら否定できませんね。12年前の1988年2月28日、首都移転の候補に仙台が上ったことを揶揄して関西の経済人の佐治敬三(当時サントリー社長)がテレビ番組で、「東北は熊襲の産地、文化程度もきわめて低い」などと発言し、物議を醸したことがありました。エミシもクマソも京都の佐治氏にとっては同じだったのでしょうね。実にお粗末な「歴史認識」で、「文化程度が低い」のはどっちと言いたくなるような話でした。

それから12年が経ちました。時代は代わり、二一世紀目前です。とは言うものの「差別被差別の問題」は「意識」という見えない得体の知れない問題ですから、こらからも様々な問題が持ち上がるでしょうし、時間は掛かるでしょうね。いずれにしても、私は「千葉すず」やアボロジニの「キャシー・フリーマン」ではないですが、強気を挫き弱気を助ける側であり続けたいと思いますね。佐藤
 


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2000.10.10