良寛さんの恋愛

恋愛の形をめぐって

 

誠に男女の仲というものは不思議である。まったく女性に縁のなかった七十歳の良寛さんの元に、いきなり三十歳の美しき女性(貞心尼)が現れる不思議。このことを思う時、今更ながらに男女の縁(えにし)の奥深さを見せられる思いがする。本来恋愛というものは、そうした形のない浮き雲の如くふわりとしたものなのだろうか。

良寛さんの恋を思う時、私はもう一人の男を思い出す。その人物は十六歳の少女に振られて泣いた八十歳の文豪ゲーテである。この二人の恋愛観は自由と言われる今日の常識から見てもやはり特異な恋愛の形と言ってよい。

さてここに良寛さんが貞心尼に送った恋の歌を列挙してみる。

 ぬば玉の 今宵もここに 宿りなん 君がみことの いなみがたさに
(意訳:いや何と、今宵もここに泊まりたいというあなた様のことを、返れと断りきれぬ愚かな私であるよ)

 越の海 人をみる目は つきなくに 又かへり来むと 言ひし君はも
(意訳:越後の海を見ながら、別れ際に「あなたをずっと見ていたい。また返って来ますからね」と言った掛け替えのないあなた様よ)

この良寛さんの恋の歌を見る限り、とても七十歳を越えた老人の歌とも思えない。ましてや良寛さんは禅僧である。ぬば玉の歌には、明らかに女犯の禁を犯すかもしれない自分に対する戸惑いや、自分の中で煩悩と葛藤する気分が、歌の端々から伝わってくる。その結果二人の恋がどのようなものであったか、そんなことはどうでもよいことだ。これ以上詮索しようとすれば、それは下郎の勘ぐりとなる。

ここで私が感じることは、禁欲を根本思想とするブッダの教えさえも、時には破ってしまう良寛さんの自由な精神である。もちろん七十歳の良寛さんにだって、生身の男であり、不惑ではなかった。そこが人間くさくていい。己の煩悩と正面から向き合うことの苦悩や戸惑いが、ないと言えばそれはウソになる。良寛さんは、戸惑っている。しかしその戸惑いがあるからこそ良寛さんはやっぱりあの「良寛さん」なのである。良寛さんが七十歳で四十歳も年下の貞心尼と熱烈な恋愛経験をしたことが一層人間良寛をスケール大きく見せている。そしてまた様々な恋の歌が生まれ、良寛さんの文学的価値に一層の彩りを添えていることも否定しがたい事実である。良寛さんと貞心尼が接していた時間というものは、僅か四年間に過ぎない。しかし何と豊かな四年間であったことだろう。

良寛さんが亡くなったのは、天保二年(1831)の一月六日であったが、その二日ほど前に歌のやり取りをしたという。それは次のような歌であった。

 いざさらば さきくてませよ ほととぎす しばなくころは またも来て見む 貞心尼
(意訳:さあ、別れの時が参りました。ホトトギスさん、どうか先に行って待っていてくださいな。しばらくして、ホトトギスさんがまた啼く頃に、私も参りますから・・・)

 浮き雲の 身にしありせば ほととぎす しばし啼くころは 何処に待たむ   良寛
(意訳:私は浮き雲の身のホトトギスであるから、どこにだって自由に飛んで行くことが叶います。ホトトギスが啼く頃来るという、あなた様を、さてどこいらで待ちましょうか。)

良寛さんは、最愛の人貞心尼と弟の由之に看取られて、七十四歳で亡くなった。若い貞心尼は、幕末を生き抜き、明治五年、新潟の柏崎で亡くなった。享年七十五歳だった。臨終の床には、きっと良寛さんが、あの人なつっこい笑顔でにやりとしながら「待ちくたびれましたぞ」と言ったのであろうか。佐藤     


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2000.10.27