良寛さんからの地震見舞

  

去る10月23日の夕方突如として、新潟県中越地方で起きた大地震は、お見舞いの言葉すら見あたらないほどの衝撃を日本中にもたらしました。この度の大地震で、大変な苦痛を負われた新潟の皆さんに、心からのお見舞いを申し上げます。

新潟(越後)という土地は、昔から地震の多かったところでした。あの良寛さん(1758ー1831)も、晩年に大地震に見舞われています。その地震は、文政11年(1828)11月12日に、現在の三条市を中心に起こりました。後に「三条の大震」と呼ばれる大地震でした。マグニチュードは、7と推定され、当時で死者1400人余り、倒壊した家屋は11000戸と伝えられています。この時、良寛さんは、71才になっていましたが、友人の酒造家山田杜皐(やまだとこう)は、末の子を失い失意に呉れていました。そのことを知った良寛さんは、このような短い手紙を送っています。

「地震は信に大変に候。野僧草庵は何事もなく、親るい中、死人もなく、めで度存候。うちつけにしなばしなずてながらへてかゝるうきめを見るがはびしさ。しかし災難に逢、時節には災難に逢がよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候。かしこ」(良寛全集 下巻 東郷豊治編著 東京創元社 昭和34年刊より)

訳してみれば、このようになりましょうか。
「この度の地震は、誠に大変なものでした。私の草庵は、お陰で何事もなく、親類で亡くなる者もなかったことは幸いだったと思っています。(そんな中で私のようなものが、)突然の地震で死ぬこともなく生き永らえて、こうした辛い惨事を見るのは本当に悲しいことです。しかしながらどうでしょうか。何事にも時節というものがあり、災難に逢う時には、災難に遭い、死ぬ時には、死ぬのが宜しいのかもしれません。おそらくこの自然の摂理をわきまえて、心を定めていることが、災難というものをのがれる唯一の方法というものかも知れませんね。」

良寛さんは、友人が子を亡くしたことには、少しも触れず、たださり気なく、突如と来る厄である地震というものに対して、普段からの心構えを言って、文を短く切っています。本当は私が括弧()で括った行間の隙に山田さんのお子さんへの追悼の気持を言外に含んでいるのかもしれません。

この手紙を読んで、少し無礼ではないか、と感じる人がいるかもしれません。しかしこの手紙は、良寛さんと山田さんの関係というものを度外視してはその良し悪しを判断できません。私は深い慈愛に満ちた慰めの言葉だと思います。良寛さんは禅僧です。友人の不幸をあれこれとあげつらって慰めることは簡単ですが、おそらく友人の悲しみを助長させぬように、このような短い手紙を送ったのではないかと想像されます。それに災害に「あう」とは、通常「遭」の漢字をあてるのに、「逢う」とあたかも「恋人に逢う」ような雰囲気を醸し出しています。その深意は大災害というものを、否定的に捉えるばかりではなく、前向きに捉えることを伝えたかったのだと思うのです。

良寛さんは、手紙の行間に思いを託し、「お前さんは、子を亡くされたけれど、しっかりと心を定めて、よく生きて、その子の冥福を祈ってやりなさい」と、手を合わせて祈っているような気がします。佐藤
 


2004.10.30

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