クラプトンの最新アルバム
「レプタイル」を聴く

−深化するクラプトンの人生観−


 
エリック・クラプトンの新譜「レプタイル(REPTILE)」が、発売された。早速手にして、彼の三年ぶりのソロアルバムに耳を澄ませた。このアルバムは、彼の叔父である故エイドリアンに捧げられている。タイトルの「レプタイル」とは、爬虫類とか卑劣漢ほどの意味だが、それは日本で云えば、「ワル」とか「相棒」ほどの意味で、決して相手を侮蔑した言葉ではないと、彼自身が、ライナーノートで書いている。これはきっと、亡くなったエイドリアンに対しての、クラプトン流の敬意の表し方と見て間違いないであろう。

この三年ぶりのアルバムを一通り聴いて感じるのは、クラプトン自身の音楽が、ますます内省的な感じになってきているということだ。とても表現が自然で、等身大の自分を惜しみなくさらけ出している。しかもその紡ぎ出す音楽には、ある種の抑制が利いていて、聴く者に非常に心地よい余韻のようなものを残すのである。

彼の音楽は、ブルース音楽をベースにしながらも、けっしてそこに留まっていない何かがある。前作の「ピリグリム」と比べて、創作に対する感覚が、いっそう研ぎすまされているように感じた。それでもまったく肩に力が入っていないというのは不思議なほどだ。彼のギターテクニックが、常人の域でないのは誰でも知っていることだが、その生き様まで、名人の域に達しつつあるのかもしれない・・・。

私がそう感じる第一の理由は、ジャケットに自分の子供時代の写真を臆面もなく使用していることだ。普通彼のようなシャイな男は、子供の頃の自分の写真が、世間に広まることなんて、考えられないはずだ。それをこのようにジャケットに使用するのだから、「もう自分には何も隠していることはないよ」という心境に至っているのだろうか。

例えば、七曲目に「ファインド・マイセルフ」という曲がある。この中にこのような歌詞が並んでいる。

I had to find myself(自分自身を見つけなきゃー)
No use looking for no one else(他人なんか探したって無駄)
I'll be lonely till i find myself(自分自身を見つけるまでは孤独なんだ)
この歌は、おそらく叔父の故エイドリアンに捧げたものだろう。ずっと離ればなれで、言葉を交わすことなんて、少なかったけれども、今になって、エイドリアンから、教わっていたことの重要さにクラプトン自身が気づいたのである。そのことが、素直な言葉となって歌われている。

「ファインド マイセルフ」とはなにやら、「汝自身を知れ」という神殿の上の文字によって、一種の悟りを得たソクラテスを思い出させる言葉だが、私は最初にこの歌を聞いた時に、禅の「臨済録」の慧照禅師の言葉を思い出していた。
「仏にあっては、仏を殺せ、汝自身の中からでる光を信ぜよ、他人を信じてはならん」

別にクラプトンをお偉い音楽老師に祭り上げるつもりはない。もちろんクラプトン自身、自分の音楽を聴く者に、あれやこれやと説教をするような手合いではない。ただますますエリック・クラプトンが人間としての奥行きを拡げるにつれて、彼の音楽もまた、深まっていくことを感じるのである。

エリック・クラプトンの最新アルバム「レプタイル」は、実に肩のこらない内省的なアルバムである。若い頃のクリーム時代の、前衛的な激しさも、マリファナにかぶれた時期の頽廃も、全てブッダのように脱ぎ捨てて、一人の初老の男として、ありのままを晒して悪ぶらないクラプトンの素顔がそこにはある。

「レプタイル」は、アーチストがさり気なく遺した一個の足跡(あしあと)に過ぎない。しかしその足跡は、ただのアシアトではなくソクセキと言い直すべきだ。すなわちこのアルバムは、自分を見つける孤独な旅を続ける稀有なアーチストの偉大な一歩なのである。

聴き終えた後に、「クラプトンは、あと何年したら、次の作を世に出すのだろう」、
そんな気を起こさせるアルバムだ。その時に、彼の精神がどのように深化しているのだろう・・・。やはりクラプトンからは、目が離せない。佐藤


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2001.3.2