レイ・チャールズ逝く 

ー恩師山形隆昭先生の一周忌を前にー


2004年6月10日、レイ・チャールズが亡くなった。73才であった。彼はアメリカの盲目のブルース歌手という通り一遍の説明では収まり切れない偉大なアーチストであった。ある人は、インタビューに答えて「彼は天からの贈り物。掛け替えのない人を失った」と嘆いた。同感である。

私が、レイ・チャールズという人物を初めて知ったのは、高校時代に恩師山形隆昭先生を通してだった。先生の部屋には、ステレオセットがあり、そこでレイ・チャールズのレコードを初めて聴かされた。
「どうだ。弘弥。レイ・チャールズ知っているか?いいだろう。泣けるだろう・・・」
スローバラードの「我が心のジョージア」や「愛さずにはいられない」。アップテンポの「ホワッド・アイ・セイ」や「アンチェイン・マイ・ハート」などの曲を先生は、いかにも気持ちよさそうに聴きながら、ストレートのウイスキーをグイとあおるのだった。こっちはシラフである。ビートルズやストーンズを聴いている私にとって、レイ・チャールズの唄は、余りにも渋すぎた。そこで、「うーん」としか答えようがなかった。

そんなことが何度か続いて、いつしか黒人特有の渋みのあるレイ・チャールズの声が次第に心地よく耳に残るようになった。当時、スティーヴィー・ワンダーも「太陽の当たる場所」というヒット曲を引っさげてデビューしていた。その時、既にレイ・チャールズは、スティーヴィーのオヤジのように見えた。本当の意味のカリスマだった。

彼の死のことを聞いた時、山形先生の自室にあった大きなレコードジャケットを思い出した。ピアノの前に座って首を少し傾けながら歌っている余りにも有名なあの写真だ。そのレコードジャケットの姿が頭のどこかにこびり付いて離れない。

6月19日、レイ・チャールズの音楽葬に集まった国民的人気のカントリーシンガー、ウィリー・ネルソンが、泣きながら「我が心のジョージア」を熱唱していた。ブルースの王様BB・キングも泣いていた。それでも最後には、気を取り直し、「聖者が町にやってくる」で彼の御霊を明るく天国へ送っていた・・・。

レイ・チャールズの歌のルーツは、黒人ブルースにある。これは、南部の綿花畑で働いていた黒人たちの労働歌や賛美歌から生まれた音楽と言われている。その特徴は、歌詞がすこぶるシンプルで繰り返し(リフレイン)が多いことだ。やがてこのブルースは、イギリスから渡ってきたフォーク音楽などと融合して、新しい時代のアメリカンミュージックの源泉となっていった。レイ・チャールズの音楽は、黒人ブルースにリズムを取り入れた所謂「リズム&ブルース」の先駆けの役割を果たしたと言われる。今日の世界のミュージックシーンで、彼の影響を受けていない歌手は皆無といっていい。エルビス・プレスリーもビートルズもエリック・クラプトンも皆、レイ・チャールズが切り開いた土壌の上に自己の音楽という家を建てたことになる。

人間は、音楽の世界において偉大な先駆者を無くした。私にとって、レイ・チャールズは、恩師山形隆昭先生の大好きなミュージシャンとしての認識が強い。山形隆昭先生は、昨年7月12日にこの世を去られた。その11ヶ月後、先生の大好きだったレイ・チャールズも亡くなった。きっと山形先生は、あの世に旅立ったレイ・チャールズの御霊を、尊敬の念を持って天国の門で恭しく出迎えたことであろう。

 天国の門で待つやら我が恩師レイ・チャールズの声聴きたきと

 


2004.6.21

義経伝説ホームへ

義経エッセイINDEXへ