奥羽観蹟聞老志巻之八A

志田郡 続日本紀延喜式和名集並作志太今郷俗作志田従古書

五十代桓武帝延暦八年己巳八月己亥勅陸奥国入軍人等今年田租宜皆免之兼給復二年其牡鹿小田新田長岡志太玉造富田色麻加美黒川等一十ヶ郡与賊接居不可同等故延復年
神名帳曰志太郡一座小敷玉早御玉神社

古川古城
在稲葉村大崎義直一作義宣家臣新田安芸行遠行一作頼弟古川刑部持慧居館也大崎始租伊賀守家兼延元二年八月為管領居于大崎焉行遠先祖亦相従為世臣有善政行遠継家居玉造郡新井田城後値讒不得止以居城畔之仍天文五年六月上旬義直自将兵急攻之仍行遠自殺持慧亦率高清水一迫家族而守古川居城兵勢尤強大義直憂之乞援兵于伊達十四世左京大夫稙宗君乃帥騎兵三千歩卒三万余向古川義直迎之郊外伊達兵直攻南門義直自東台渋谷笠原等亦将一千兵而相従急附城門伊達家臣浜田伊豆波山丹下内崎典厩国分弾正遠藤左近等先登而敗西門牧野安芸亦攻北門中野上野長江播磨宗武等以黒川宮城兵二千是亦附城塁屏下攻之急城兵■三百然義気勇敢以死相支十九日我兵進而焼外郭二十日夜城危急廿一日停午城主持慧自執刃趣火死行年三十六歳弟安藤丸十四歳子三郎直植十六歳倶自殺持慧老母自墳怒執戈衝中堅奮戦殊甚遂中矢而死従者豊島仏坂兄弟五井伊豆入道父子大伴常広等六十余人或戦死或自尽城遂陥天正中古川弾正者居此城主君大崎義隆依遅参罪亡滅太閤令木村伊勢守弥市左衛門相継為城主

按室町時世無延元年号蓋後光厳帝延文二年丁酉乎

緒絶橋
古川駅中小板橋是也其水源乃玉造河流分而入稲葉村是古称緒絶橋也
藻塩草緒絶橋わうしうふみふます 白妙のともそへたり たつかたいとのともそへたり 中絶 月 琴の音もなけきくははる 聞わたり橋はしら うき名立る 木の葉ふりしく 秋の通ひち 駒 琴 山鳥 口おしや

伊勢の斉宮わたりよりまかりのほりて侍ける人にしのひてかよひけることをおほやけもきこしめしてまもりめなとつけさせ給ひてしのひにもかよはす成にけれはよみてむすひつけさせ侍ける

後拾遺恋  左京大夫道雅
みちのくのを絶の橋や是ならんふみ見ふますみ心まとはす

読此詞書而更詳往時公程之仁愛朝家之失政撰集之不正也道雅不足議焉聞私通而不罪却令人守之者仁厚之至也知荒淫而不糺却令彼長之者失政之甚也夫撰集采歌者須以公平正大而為主以勤善懲悪為戒矣如今挙淫奔不正之作而加之 天子叡覧之書者記者之過失也夫考歴代之撰述多皆采私通密契之詠而公然載之万世相伝之書而不忌焉桑間濮上之楽自古甚為監戒焉是以夫子告顔子以遠鄭声矣後人豈可不警哉

続後撰恋四  定家
白玉の緒絶の橋の名もつらしみたれて落る袖のなみたに

続千載恋二  院御製
憂事はあすの契もしら玉のをたえのはしはよしやふみみし

同四  式部卿久明親王
逢事はをたえの橋のはし柱又たちかへり恋わたるかな

 建保名所百首

新千載恋五  権中納言定家
琴の音もなけきおははる契とて緒絶の橋の中も絶にき

  民部卿資宣
逢事はやかてをたえの橋柱憂名をたつるはてそかなしき

  為氏
ききわたるその名もつらし逢事のなとてをたえの橋と成らむ

新続古今恋四  藤原長秀
かたいとのをたえの橋やわか中にかけしはかりの契なるらん

 延文二年百首歌橋恋

  前大僧正資俊
なからへむ契のほともしら玉の緒絶のはしにかきて恋つつ

 六百番歌合

同五  定家
人こころ緒たえの橋に立かへりこの葉ふき散秋の通ひ路

 名所百首歌合  順徳院御製
東路はをたえの橋もあるものをいかにくちゆく袖とかは知る

  家隆
逢事はぬるをたのみの夢路にてをたえの橋も月そ更ゆく

  建保名所百首  宗尊親王
山とりのをたえの橋にさしかけてなかき夜わたる秋のよの月

 山とりのをたへの橋にかかみかけきよきよわたる秋の月かけ

  此歌見源氏記者適失之乎

  順徳院御製
いもせ山ふかき道をは尋来て緒たえの橋にふみ迷ひけり

  建保百首  僧正行意
逢坂をけふこえしかとみちのくの緒絶の橋の末のしら浪

  兵衛
おもひのみあつまにしめてひく琴の緒絶の橋の道やまとはん

  定衡
東路や雲路へたてて聞しかとおたえのはしは身にもありけり

  俊成卿女
しらさりき忘れかたみにみちのくの緒絶のはしの憂名はかりを

  知家
忘らるる憂身の為の名もつらし緒絶のはしの秋の夕暮

  康光
いきてこそ人をも問はめ玉の緒のをたえの橋は憂名也けり

  六百番  経家
思はすに緒絶の橋と成ぬれは猶人しれす恋わたるかな

  定家
しるへなき緒絶の橋に行迷ひ又いまさらの物やおもはむ

 建保三年名所百首緒絶橋

夫木集  正三位忠定卿
行末の緒絶のはしは聞もうしおもひの路のおくもしられて

源氏藤袴巻けに人ききをうちつなるやうにやと憚侍るほとに年比のむもれいたさもあきらめ侍らぬはいと中々なる事おほくなんとたたすくよかに聞えなし給てまはゆくてよろつをしこめたり

柏木
いもせ山ふかき道をは尋来て緒絶の橋にふみまとひける

よとうらむるも人やりならすは

玉蔓
まとひける道をはしらていもせ山たとたと敷そたれもふみ見し

歌枕裏書云源氏物語歌いもせ山ふかき心をしらすして緒絶の橋にふみ迷哉彼妹背山に有は此橋欠また当国有妹背山欠不審妹背山在紀伊国

斉田古館
在斉田村堤根肥後者居之

坂本古城
在坂本村土佐者居館也

蟻袋塁
在蟻袋村熊谷玄蕃者居之

桑折城
在桑折村蜂森一曰渋谷相模居舘也是乃黒川安芸叔父也安芸後称月舟者也

伊場城
在伊場野村中目大学同氏兵庫居所也

千石古塁
在千石村往昔文覚者居之

青塚城址
在古河西青塚村往昔青塚左衛門吉春舘址也是亦大崎家臣也又塚目村有古塚東西三十間南北五十間相伝上代葬王昭君地也

按昭君死蕃怜之遂葬於漢界号青塚杜甫詠懐古跡第三首曰一去紫台連朔漠濁留青家向黄昏青家王昭君墓也此地亦附合此義而強称其名者乎

安国寺
在柏崎村源尊氏所建荒廃後曹洞宗者住而改常楽寺慶安中前大守忠宗君令松島寺雲居中興焉此後柏庭悦岩者立一宇号本源庵後来松島洞水法嗣通玄為寺主山号興聖寺復安国寺倭漢合運曰光明帝暦応二年己卯毎州立安国寺

按是之時南北両朝相分天下大乱兵革日急民疲人苦財尽力竭未及救世息兵之術却令毎州有此制可謂不知先務之時也

松山城
近年茂庭氏居館也此地文治役頼朝卿経過之地也想夫往時通行道路也
東史曰文治五年八月廿一日泰衡兵拒官兵於栗原三迫不克三浦介斬奥将若次郎同九郎大夫為六郎朝光所獲頼朝収其兵而経松山路到栗原郡津久毛橋
 


玉造郡

四十五代聖武帝神亀五年四月丁丑陸奥国請新置白河軍団又改丹取軍団為玉作軍団並許之

按如今丹取郡者不見後来合収之玉造郡中者如小田之於牡鹿四釜新田之於加美長岡之於栗原葛岡之於此郡是也

同天平九年四月戊午四百五十九人分配玉造等五柵
四十七代廃帝天平宝字四年正月丙寅記有出羽掾正六位上玉作金弓者
四十八代称徳帝神護景雲三年三月辛巳陸奥国玉造郡人外正七位上吉祢侯部(コフ)念丸等七人賜姓下毛野俯見公大国造島足之所請也
同宝亀十一年九月己未勅征東使省宜居多賀玉造等城能加防防御兼練戦術

五十代桓武帝延暦八年六月庚辰征東将軍奏胆沢之地賊奴奥区方今大軍征討剪除村邑余党伏竄殺略人物又子波和我僻在深奥臣等遠欲薄伐粮運有難其従玉造塞至衣川営
同八月己亥玉造等一十ヶ郡与賊接居不可同等故延復年
八十二代後鳥羽帝文治五年八月十四日頼朝在多賀国府時聞泰衡等在玉造郡自多賀経黒川之玉造郡
同月廿日囲泰衡于同郡多賀波々城泰衡先逃亡
神名帳曰玉造三座 並小  温泉神社 荒雄神社 温泉石神社

玉造川 或称玉造江
其河原出于仙北自中山合鬼首川過鳴子大口分岩手山与下一栗之間作二流其南過岩手山新田夜鴉之邑而到于古川緒絶橋其北経上野目成田三丁目過于古川北江合橋過数村到涌谷城下東而合于来神佐沼川二流而其末入于海

大嘗合主基方玉造江を

夫木集  源重之
ひとつしてよろつをてらす月なれは底も見えけり玉つくり川

新勅撰恋一  小町
みちのくの玉つくり江に漕舟の音こそたてね君を恋れと

玉葉恋  常磐井入道前太政大臣
をく露の玉つくり江にしけるてふ蘆の末葉のみたれてそおもふ

歌枕  中納言高定
湊路にいさ舟とめむ今宵われ玉つくり江に照月を見て

類聚  知家
蘆の葉のしけみに露をふきとめて玉造江に村雨そふる

 文治六年五社百首

夫木集  俊成卿
月もすむ玉つくり江はあられふりこほりみかける名に社有けれ

家集玉造川はりま藻塩草川類玉造川奥州 但未定万代くらす月

夫木川類  元輔
幾度か君か御代にはあふみなる玉つくり川すまむとすらん

薬田
未詳其地以歌意考之則言江畔之田乎
藻塩草田部 薬田奥州くすり田の云々

藻塩  恵慶法師
くすり田の袂に結ふあやめ草玉造江にひけはなりけり

小黒崎 或曰隠蔭磯(ヲクロサキ)取之松林蔭翳之義
在名生定村去美豆小島以北五町余郷人曰黒崎山翠松万株馬鬣鬱々古人所謂髪糸蓊鬱籠烟露皮玉■■傲雪霜者也山下有石称鰐口石藻塩草をくろ崎奥州君をみをつくし ぬまのねぬなはふみしたきをくろさきみつのこしまの人

美豆小島
同所去小黒崎西南四五町在鍛冶沢東南玉造川中丘山皆戴青松是乃小黒崎也其下流有一洲々中有高丘高二丈余東西五六歩南北八九間丘上有蒼松三株河水索廻其下翠色落陰急流潺々細石■々白沙芳草殆非凡境焉如海島兪故佗方誤而用海浜之状者多若太上皇家隆之歌可視郷党亦見致小島于海畔之情以称美豆小島蓋美豆乃為見之訓也
藻塩草美豆小島陸奥蛍 岩木 をくろ崎みつのこしまにあさりする 田鶴そなくらし 波たつらしも
あつま歌のうちみちのく歌

古今大歌所御歌
をくろさきみつの小島の人ならは都のつとにいさといはまし物を
奥義抄七云是は小黒崎といふ所の名也是はめてたき所なれは人にてあらましかは都へくしてのほりなましとよめるつととは万葉に裏とかきてよめりつつみもたる物といふ心なり人なりいかかつつみもつへきさてとも田舎なとより土産をもてきて人にみするをは此たひのつとなりといふこころ也

続古今  順徳院御製
人ならぬ岩木もさすか恋しきはみつの小島のあきの夕くれ

同秋中  太上天皇御製
小黒崎みつの小島にあさりする田鶴そなくらし浪たつらしも

新後撰  光明峯寺入道前摂政太政大臣
さそふへきみつの小島の人もなしひとりそかへるみやこ恋ひつつ

  家隆
蛍飛みつのこしまのたひ人はみやこをこふるさまやうくらん

  中務卿宗尊親王
いさとたにいふひとなくてかすならぬみつの小島の秋そふりにき

旅歌中

夫木  従二位家隆
をくろさきみつのこ島の夕暮にたななし小舟行衛しらすは

宝字二年百首島鶴みちのく

夫木集  弁内侍
心ありて鳴にはあらし小黒崎みつの小島の田鶴のもろこえ

題しらす

  よみ人しらす
小黒崎みつの小島に住ばこそ都のつとに人もさそはめ

水尾歌合

  俊頼朝臣
をくろさき浅きとたえの身をつくしたてるすかたにふらぬとはみよ

  信実朝臣
都にてとははこたえん小黒崎みつの小島につとはなくとも

謝東奥故人恵美豆松葉詩井引
小黒崎在玉造河之東河中小島名曰美豆島上有松敷樹霜根雪幹古色蒼然真千載之物也是歳之夏故人掛冠之後遊歴到此手折一枝以贈我聞昔人遊賞此地恨其不与人共赴京洛矣拠古論今所恵実深為愛惟多豈止感千里之■(貝+兄)欠  源君美

散髪当年■玉簪名山到処得幽尋西来瑤水崑崙小東望滄洲方丈深杉葉秋飛洛陽思梅花春寄隴頭心神仙有薬称難老何独紅顔在華陰

分所寄松葉為奇以贈諸賀州太守及水戸故旧安積氏賞之

和白石先生謝陸奥故人恵美豆小島松葉詩
  老圃安覚
一枝蒼鬣寄微音為羨名区仔細尋遼海無塵千里静蓬莢有路五雲深■(ころもへん+?)■(しめすへん+兪)応感美人贈木柿還看好事心借問風流旧知己幾時乗興訪山陰

第六句用能因長柄橋柿事(ナカラノハシノコケラノ)未審当否

池月湖(イケツキヌマ) 曰之小黒崎沼
在小黒崎山下
家集沼 根蓴蛙 歌枕

夫木  源俊頼朝臣
小黒崎沼のねぬなは蹈したき日も夕ましにかはつ鳴なり


をくろさきぬまの根ぬなはくるしきに此よにしけるこころ也けり

白練瀑(シライトノタキ)
去美豆島西十余町郷人称白糸瀑布

小町塚
在新田村農家溝畔有古墓上有孤松是乃古之小野小町墳墓也匡房西行共言小町古墓在夜烏郷(カラスノサト)如今土人呼農家而称夜烏宅(ヨカラスヤシキハ)拠袖中鈔無名抄愚見抄江次第則為八十島今考其地則在羽州未詳何地
袖中抄第八あなめあなめ

秋かせのふくにつけてもあなめあなめをのとはいはしすすき生けり

顕昭云あなめあなめとはあなめいたいたと云也凡此歌のこころは江記云在五中将為嫁件后二條后出家相接其後為生髪到陸奥留八十島求小野小町尸夜宿件島終夜有声曰秋風之吹仁津気天毛阿那目(アキカセノフクニツケテモアナメ)阿那目云々後朝求之髑髏目中有野蕨薇(ワラヒ)在中将涕泣曰小野止波不成薄出計里(ヲノトハナラテスキイテケリ)即歛葬云々拠此説則八十島奥州也
童蒙抄云此歌小野小町集に有今本無此事昔野中を行人あり風の音のやうにて此歌を詠する声きこゆ立よりて尋ねききたるに詠しける也そのすすきをとりすてその頭をよき所にをきてかへりぬ其夜の夢に我は是昔は小野小町といはれし者也嬉しく恩を蒙りぬるといへりさて此歌を後に彼集に入たるとそ
私云此両説の心相違江記は到陸奥留八十島求小町尸童蒙抄には行野中風声吟して夢想に示小町江記は連歌なり終夜有声唱上句後朝に業平付下句童蒙抄は一首聞風声江記には髑髏に有野蕨薇童蒙抄には薄生出たりと云々
古今目録云小野小町者出羽国司女也云々数十年在京好色也然而帰本国死去故屍在八十島欠小野者姓欠住所欠古今有小野姉其歌云

時過てかれゆく小野のあさちには今はおもひそ絶すもえける

私云此歌有小野之詞挙我名只又自出来欠
八雲御抄に清輔云出羽に有と云々普通には但八十島也

藻塩草五
幾度か霜は置けむ菊の花八十島かけてうつろひにけり

無名抄を引て業平奥州へ下向の時みちの国八十島と云所にやとりけれは野中に歌の上の句を詠するこえ有

あきかせのふくにつけてもあなめあなめ

と聞ゆ其あたり尋給ふに人なし死人の頭一つ有それより生たる薄の風にふかるる音のかく聞えたる也扨あたりの人に問給へは小野小町のとくろをうつみし所也とこたふその時歌の末をつき給へり

をのとはいはしすすき生けり 此説亦八十島為奥州

鴨長明無名抄云小野小町事或人いはく業平の朝臣二條の后のいまたたた人にをはしましける時ぬすみとりてゆきけるをせうと達にとり返されたるよしいへり此事又日本記の二にありことさまはかの物語にいへることくなるにとりてうはい返しける時せうと達その憤やすめかたくて業平朝臣の髻をきりてけりしかあれと誰為にもよからぬ事なれは人もしらす心ひとつにのみ思ひて過けるに業平朝臣髪生さんとて籠いたりける程に歌枕共見んとて数寄に事よせて東のかたへ行けり陸奥国に到りてやそしまといふ所にやとりたりける夜野の中に歌の上の句を詠する声有其詞にいはく

あきかせのふくにつけてもあなめあなめ

と云怪しく覚えて声を尋つつ是を求るに更に人なしたた死人の頭ひとつ有朝に猶是をみるにかのとくろのそのかしらの目のあなより薄なん一本生出たりけるそのかしらの目のあなより薄なん一本生出たりけるその薄の風になひく音のかくきこえけれはあやしく覚えてあたりの人に此事をとふ或人の語ていはく小野小町此国にくたりて此所にして命終りにけり即かの頭是也と云爰に業平哀に悲しく覚えけれは涙をおさへて下の句をつけり

をのとはいはしすすきおいたり

とそつけけるその野をは玉造の小野といひけるとそ侍る玉造の小町と小野小町とは同人かあらぬものかと人々覚つかなき事に申てあらそひ侍しと人のかたり侍也
古事談に業平朝臣盗二條后官仕以前将去之間兄弟達昭宣公等追至奪返之時切業平之本鳥云々仍生髪之程称見歌枕発向関東見伊勢物語宿奥州八十島之夜野中有詠和歌上句之声其詞曰秋風之毎吹穴目々々(アキカセノフクニツテケテモアナメアナメアナメ)就音求之無人只有一之髑髏明旦(アケテ)猶見之件髑髏自穴薄生出(ススキヲイイテ)たりけり毎風吹薄(カセフクコトユススキ)のなひく音(ヲト)如此聞えけり成奇怪思之間或者云小野小町於此所逝去件髑髏也云々爰業平垂哀憐付下句云小野とはいはし薄生たり云々件所を小野といひけり此事見日本記式
兼好徒然草小野の小町か事極めてさたかならす衰へたるさまは玉造といふ文に見えたり此文清行かかけりといふ説あれと高野の大師の御作の目録にいれり大師は承和の始にかくれ給へり小町が盛なること其後の事にや猶覚束なし

百人一首作者伝曰小野小町出羽郡司小野当澄女或曰出羽郡司小野良実女或為常澄女三光院為当澄女為是仁明帝朝承和中人也拾芥抄説亦相同

按三代実録曰業平故四品阿保親王第五子行平弟也体貌間麗放縦不拘略無才学善作和歌履歴亦不卑今考其為人好色淫行往時贈太政大臣長良女為処女時密通欲勾引而出去焉国経伊尹蚤知捕之薙其■(髟+真)髪而放之然此人亦王孫也須別有所置矣何其甚哉業平亦包羞忍耻而此時巳東行何其荒淫哉高子後為清和帝后妃至寛平八年而復与僧善祐通停后位然則高子亦甚失婦徳中冓之事不可説之人也仍挙此以備業平東行之参考云

岩手城
此地旧名曰岩手沢大崎家臣氏家弾正者居館也天正十九年東照神君討葛西大崎党而帰路修荒廃築此館使黄門君居于此還于江都巳十二年後慶長七年壬寅黄門遷于宮城郡仙台令第八子三河守宗泰居于此城自是相継至今有寺号実相寺神君往昔次軍之地也登時之飲器今猶存焉又寺前有長松氏家弾正塚上樹也後人称岩手山号岩手関屎前関山擬岩手岡城上高山而為歌林名跡然古歌所詠地在南部領岩手郡好事之徒所以聊擬其地而称之也

名生(メウノ)城
在名生村往昔氏家兵内者居館也後大崎義隆朝臣遷此城天正年中為大閤亡城遂屠当年焦米焚穀今猶存

一栗館
在下一栗村大崎家臣一栗兵部居舘也

葛岡(クスヲカノ)城
在葛岡村葛西監物居館也文治後畠山重忠居于此城東史曰文治五年九月廿日賜葛岡郡于畠山次郎重忠者乃此城也

按葛岡旧郡名後分属村落其佗往昔称一郡者没村邑地維多若新田色麻今作四釜長岡階上今作波地上小田之於賀美栗原本吉牡鹿此地亦其一也

多賀波々(タカハバノ)城
在同村錦戸太郎国衡支城也
東史曰文治五年八月廿日頼朝赴玉造郡而囲泰衡于多賀波々城先逃亡残兵乃降自是過于葛岡郡而赴于平泉

新井田城
在新井田村大崎家臣新井田氏世居之爾後義隆侍童新井田刑部者妬寵而作乱

新井田字或作新田而訓之丹井多(ニイタト)故誤以為上野新田(カウツケノニツタ)同訓也不弁其訓之異也

荘司館
在上宮村近于小黒崎佐藤荘司館也

照井城
在下野目村秀衡家臣照井太郎高直居舘也

啼児(ナキコノ)温泉 郷俗作鳴子(ナルコ)字非也須考之事実
在啼児(ナルコ)村自岩畔出克治瘡疾其下亦有温泉此地也相伝往昔義経北行夫人開胎于亀毀坂(カメワリサカニ)仍弁慶養之笈中来於茲地始出呱々声故後人号啼児温泉在其地神名帳所謂温泉神社是也

荒雄(アラユノ)神社
称荒雄嶽山中有温泉見神名帳

石神社
在大口村其地川度(カハタヒ)訓河波多比有温泉所謂温泉石神社是也

抑池(オサヘノイケ)
在三町目村上古有湖水池中有巨蛇年々以美婦供犠牲有一女子丁其選女子聴慧臨池畔而説■(虫+也)蝎曰妾如今当其人奚敢逃其死但妾有志願請遂得之則足以甘死矣巨■(虫+也)有點頭色女子取数千之空瓢及金針示之曰令瓢子沈之水底金針浮之池上如遂志願則投身乎汝巨蛇頷之引去然針之沈瓢之浮無奈之何仍起濤翻浪■欲浮沈之於是息絶術尽終至仆也女子然無恙而帰其家父母昆弟大悦之■死蛇于池畔立寺祭之女子以克禁其妄而停其犠牲後人曰之抑(ヲサ)池其畔有一丘以彼巨蛇首其丘而死称之首丘(ヨコマクラ)其湖如今為野田池水僅存其水雖炎旱不涸郷俗説曰地下有水脉有大■(魚+亶)潛行故其水往来而不絶仍号之下釜

抑関
同所有溝洫是乃玉造分流曰之蛟田其橋辺曰抑関過荘厳寺門前而之栗原之道路也相伝源頼義康平中東征次軍之地也

右両区在伊達郡而同名有古歌載其下

天王寺
在上目村山号興国山文武帝大宝二年聖徳太子遷摂州天王寺者也有古墳相伝物部守屋墓也想夫後人依建天王寺而是亦設于茲乎傍有江浦草橋(ツクモハシ)事実見栗原郡
 

奥羽観蹟聞老志巻之八 続
 



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