「縁結び」神話の解釈

オオクニヌシロマン3

 
周知のように、毎年、十月の出雲には、日本中の神様が集まってきて、出雲以外の国は、神のいない月となる。それが神無月の由緒である。さて出雲に集まった神様が話すことは、「男女の縁結び」ということになっているが、この祭りが象徴しているものを、少し考えてみることにしよう。

旧暦の十月十日夜、神迎祭として、百万の神々をお迎えする神迎え神事が執り行われ、出雲の秋の大祭は開幕となる。翌11日には、神在祭が催され、遠い昔に、オオクニヌシの元に全国の神様が集って様々な会議を行ったことを儀式化した一連の催しが挙行される。この祭りは17日夕刻の御出立の神等去出(からさで)祭で幕となる。要するに一週間丸々私はこの出雲に全国の神々が、オオクニヌシの許に集まって話した内容が「縁結び」である、という伝承に興味がある。この「縁結び」とは、実は、国同士の縁のことではなかったのか。つまりアマテラスが率いる高天原とオオクニヌシが率いる出雲の縁ではなかっただろうか。

全国の神様が、出雲に集まって、真剣に討議したのは、旧勢力の部族連合としての国家出雲が、新しい鉄器などの武器など携えるなどして、武装した新興勢力としての高天原連合に従属するかいなかの話し合いだったのではないだろうか。その話し合いの結果、大王のオオクニヌシは、「この際、高天原連合の臣下として生きよう」そう泣く泣く宣言したのではあるまいか。

これは大王としてプライドのあるオオクニヌシにとっては苦しい決断であった。しかしこのオオクニヌシの決断は大英断であった。そのために出雲とその周囲に集まっている国の多くの民の命と国土を救ったのである。このことが美談として、神話化し、「国譲り」神話として、語り継がれてきたと考えられる。

さらに時代が下って、大化の改新を経た七世紀、巨大国家となった大和朝廷の立場からすれば、この「国譲り」神話は、次のような国家的なイデオロギーともなったのである。

”あのオオクニヌシだって、ちゃんと自分の国を譲って、このように祀られ、その民たちも、平和に暮らしている。お前たちもおとなしく大和朝廷(アマテラスの末裔としての)に従えば、わが国の一員として認めてやる。”

これはつまり当時大和朝廷に従わなかった東北のエミシ達のような部族に対する一種の脅迫的な神話なのである。だからこそ古事記と日本書紀は、精一杯にこの「国譲り神話」を美談として表現しているのである。

また国家形成という角度からこの「国譲り」神話を考えてみよう。するとオオクニヌシの国譲りの神話は、小さな部族集団の林立するだけの古代の日本において、やがてアマテラスに代表されるような勢いのある部族が現れ、次第に武力にものを云わせて地方の部族を自らの国家に糾合していくひとつのモデルケースと考えられる。だからこの出雲の国譲り神話は、日本の古代史を読み解く上では、非常に重要な逸話となる。

結論である。「国譲り」とは、確かに聞こえは良いが、実は、「国奪い」の行為と言い換えるべきかもしれない。モノは云いよう。言葉も「奪い」を「譲る」と置換すれば、まったくその生々しさも消えて、美談のように語られるようになるということであろうか。今日、渦中のオオクニヌシは、大和国家建設の大恩人として、出雲大社に祀られている。その出雲大社が縁結びの神社と言われるのは、オオクニヌシが出雲の国をアマテラスに譲ることによって、出雲と高天原が一つの国家連合を形成し、大和朝廷の前進となる大きな国が誕生したためである。

まあ今日で云えば、第一勧銀と富士銀行、日本興銀が合併して、世界一の資金量を誇る「みずほ銀行」が誕生したようなものかもしれないが・・・。
ちょっと違うかな。佐藤


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2000.10.6