随想 アイヌ語地名考

 
 

 

No.61 ◎ 東山町のアィヌ語地名

…田河津(たこうず)…

「たこうず」の地名の由来は、昔、和紙生産が盛んな所ということで呼ばれていた「多紙の津(たがみのつ)」の転訛地名だとか、紀元1189年、源頼朝の奥州侵攻により、平泉の藤原氏が滅亡したおりに、頼朝の家人曽我三郎が藤原氏の武将田河行文を討ち取って束稲山の麓に丁重に埋葬したという故伝があり、その故伝にちなんでこの地が「田河座」と名づけたとかいわれたなど、の諸説が伝えられておりますが…。

しかし、この地名も、かなり古いようであり、あるいは鎌倉期以前にすでに存在していたのではないか。そして、次のようなアィヌ語系の古地名であろう…という見方も成り立つと思うのです。

1.「たこうず」の語源は、=アィヌ語の「ワッカ・タ・コッ(wakka・ta・kot)」の語頭が省略された形の、→「タ・コツ(ta・kot)」で、その意味は、
=「清水・汲む・谷間」と解されます。

あるいは、「タ(ta)」を「汲む」ではなく、「掘る」と解釈すると、次のようにも考えられます。

2.「たこうず」の語源は、=アィヌ語の「カムィ・タ・コッ(kamuy・ta・kot)」で、その意味は、
=「神々が・掘る・谷間」とも考えられます。

この辺りの地層は石灰岩質が多く、洞窟や猊鼻渓のような浸食地層が多いことにちなむアィヌ語地名のように思われます。

初め、「たこうず」とは、=アィヌ語の「タク・オチ(tak・ochi)」で、その意味は、おそらく、=「ゴロ玉石が・多くある所」で、山谷川(田河津川)の川原石に丸いゴロゴロした石が多いということで名づけられた地名だろうと見込んだわけであります。ところが、実際に、フィールドワークに出かけて川原石の形を観察して回ったところ、山谷川には、どちらかといえば、むしろ、扁平な石や角ばった石が多く、丸みを帯びたゴロ玉石なの類の石塊が意外に少ないことがわかり、私が最初に見込んだ予想があえなくはずれてしまったわけでありました。そこで、考え直して、あらためて提示したのが上記のような解釈だったわけであります。

…比良根(ひらね)…

「ひらね」も和語地名としての比重は重くないようであり、次のようなアィヌ語系の古地名である可能性が高いと思います。
「ひらね」の語源は、=アィヌ語の「ピラ・ナィ(pira・nay)」で、その意味は、
=「崖のある・沢」になります。

現地を踏査して見ると、この沢の入り口付近が小規模の「崩落崖」になっているほか、沢の奥の行き詰まりの所が、かなりの急傾斜の地形になっているようですが、そこには現在崖崩れの状態が見られません。おそらく、ここが、かつて、大きく崩落したことがあった所とにらみました。

…磐井里(いわいり)…

「いわいり」は「岩清水の湧く里」という意味であるといわれますが、その実は次のようなアィヌ語系古地名である可能性が大きいと思います。
「いわいり」は、=アィヌ語の「イワ・イル・イ(iwa・ir・i)」→「イワイリ(iwairi)」で、その意味は、
=「聖なる山が・続いている・所」になります。

…束稲山(たばしねやま)…

「たばしね山」の「たばしね」は、次のようなアィヌ語系の古地名である可能性が大きいと思います。
「たばしね」の語源は、=アィヌ語の「タプ・ネ・シル・ナィ(tap・ne・sir・nay)」で、その意味は、
=「肩の・ような・山の・沢」になります。

したがって、「たばしね山」の語源は、=「タプ・ネ・シル(tap・ne・sir)」で、その意味は、
=「肩の・ような(姿の)・山」になります。
(注:“たばしね”については平泉町のところをご参照ください)


 

No.62 ◎ 平泉町のアィヌ語地名

…達谷窟(たっこくのいわや)…

「たっこくのいわや」は、坂上田村麻呂がエミシの国日高見に侵攻したおりに、これを迎え撃ったエミシの統領の「悪路王」や「赤頭」たちが、ここに砦を構えて本営とした所だったという内容の記録が、およそ400年後の記録である「吾妻鏡」の文治5年9月28日条に書かれてあります。

この記録にある「悪路王」とはとりもなおさずエミシの国日高見の王将「阿弖流為」の和風蔑称であり、「赤頭」とはその僚友の「母礼」の同じく和風蔑称だということがわかります。

「吾妻鏡」の記録を「エミシ風」に解釈すると、その時の戦争が終わった時に、大和の大将軍坂上田村麻呂がこの戦いで殺した多くのエミシの人たちの崇りを恐れ、その霊魂を鎮めるために、ここに窟美沙門堂を建て、108体の多聞天を祭ったということのようであります。
 

一般に、「たっこくのいわや」の「たっこく」がアィヌ語の「タプ コプ(円形孤山)」の発音に似ているということで、「たっこく」の語源は、この「タプ コプ」ではないか…という意見も出ていますが…。

この意見については、語源がアィヌ語系古地名と見る点については異存がないのですが、しかし、それが「タプ・コプ」だとなると、その発音の違いが大き過ぎることと、肝腎の「たっこくのいわや」そのものの地形が「円形孤山」とはいいがたいことなどに問題があると思います。

そこで考えられるのは、次のような別口のアィヌ語系古地名とみる説であります。

この「たっこくのいわや」の地名についての一番古い記録として目につくのは前記「吾
妻鏡」に書いてある「田谷窟」であります。

「吾妻鏡」に出ているこの漢字表記を何と読むか…といえば、基本的には「たこくくつ」であり、一般的には「たこくのいわや」でよいと思います。

そこで提起されるのが次のようなアィヌ語系古地名説であります。
「たこくくつ」は、=アィヌ語の「カムィ・タ・コッ・クッ(kamuy・ta・kot・kut)」の転訛であったと考えられ、その意味は、
=「神々が・掘った・谷間の・岩崖」になります。このように解釈すれば現地の地形にもぴたりと合致します。

…束稲山(たばしねやま)…

「たばしね山」は「たわしね山」ともいい、奥州藤原氏が栄えていた平安時代からの桜の名所としても遠く京の都にまでその名が知られていた所のようであります。おそらく、この山は、藤原氏の館であった柳の御所から藤原氏の一族が朝な夕な眺めていたであろうと思われるなだらかな山で、標高596mあります。

この山の名の由来は、稲の束がたわんでいるのに似ているということで名づけられた地名であるといわれておりますが…。

しかし、この地名の表現には、そのような山の姿を形容するには少々物足りないものがあるように感じられます。

そこで、別に考えられるのが、次のようなアィヌ語系の古地名ではないかという見方であります。
「たばしね」は、=アィヌ語の「タプ・ネ・シル(tap・ne・sir)」の転訛で、その意味は、
=「肩の・ような・山」になります。

…瓜割清水(うわりしず)…

平泉町に「うわりしず」と呼ばれる泉があります。

この地名は明らかにアィヌ語系の古地名であり、次のように解釈されます。「うわりしず」は、=アィヌ語の「ウワリ・スム・スィ(uwari・sum・suy)」の転訛で、その意味は、
=「産まれる・泉」になります。

「産まれる・泉」では語ろがよくないので、これをもとのアィヌ語らしい表現に書き換えると、
「うわりしず」の地名は、=「ナム・ペ・ウワリ・スム・スィ(nam・pe・uwari・sum・suy)」になり、その意味は、
=「冷たい・水が・産まれる・泉」になります。

つまり、これは、よりアィヌ語らしい表現の地名になります。

また、「うわりしず」の「しず」は、「しみず」の転訛と見てもよいわけでありますが、それよりも、もともとは、アィヌ語の「スム・スィ(水・穴)」が「シズ」に転訛し、それが和語の「しず(清水)」になったというのが本当のようです。

…戸河内(へがない)…

「へがない」はアィヌ語系古地名だろうといわれながら、その解釈事例は今までのところ、はっきりとは出ていないように見受けられます。

これがアィヌ語系古地名だろうというからには、その解釈事例を出さなければならないと思います。

そこで、今ここで思いきってその解釈事例を出すとすれば、次のようになると思います。
「へがない」は、=アィヌ語の「ヌプリ・ヘ・カ・ウン・ナィ(nupuri・he・ka・un・nay)」→「ヘ・カ・ウン・ナィ」で、その意味は、
=「山の・頭・の上・に・入って行く・川」になります。

アィヌ語族の人達の認識では、川は川口から入って山奥に上って行くものと考えているもののようですので、彼らの思考形式ではこのように表現するのはあたりまえだということになるわけであります。

…長部(おさべ)…

「おさべ」の地名は、村長(むらおさ)や有力武士の館がある小高い丘などで、その土地の長(おさ)の屋敷がある所に名づけられる地名であるとか、アィヌ語で小高い丘を表す意味の「オシャベ」だとの説もあるようですが、残念ながら私にはそういう意味の「オシャベ」の語を知りません。

私が現地を観察したところによると、おそらく、ここの「おさべ」の語源は、=アィヌ語の「オ・サッ・ペッ(o・sat・pet)」で、その意味は、
=「川尻・涸れる・川」だと思います。

これは扇状地などにありがちな地名です。

「おさべ」の地名は陸前高田市にもあり、やはり、アィヌ語の「オ・サッ・ペッ(o・sat・pet)」なのですが、その意味は、=「川尻が・涸れる・川」と解釈されています。

ただし、陸前高田市の「おさべ」の場合は、地元の一部の人たちがこれを「オ・サル・ペッ(川尻に・アシが生える・川)」と解釈されておられるようであり、ここ平泉の場合もそのように解釈される向きもあるかと思います。

…赤伏前(あかぶしまえ)…

「あかぶし前」の「あかぶし」も次のようなアィヌ語系の古地名のように思います。
「あかぶし」は、=アィヌ語の「ワッカ・ウシ・イ(wakka・us・i)」の転訛で、その意味は、
=「飲み水・多い・所」になります。


 

No.63 ◎ 室根村のアィヌ語地名

…室根山(むろねやま)…

「むろね山(895.4m)」は、古来、聖なる神の山として人々の信仰を集めてきた名山であります。

「室根」の呼称は陸奥の国鎮守将軍大野東人が紀元718年(養老2年)に紀州牟婁(むろう)郡から熊野権現を勧請してこの山に祭った…という故伝にちなんで名づけられた山名であると伝えられています。

しかし、東人が鎮守将軍に任命された時期は、紀元720年に陸奥按察使(あぜち)上毛野広人がエミシの蜂起に遭って殺害され、次いで、紀元724年に陸奥大掾(だいじょう)佐伯児屋麻呂が同様にエミシの蜂起に遭って殺された間に行われた陸奥の国府の人事異動によるものと推定されますから、それよりも前の紀元718年に東人が陸奥の鎮守将軍に就任していたとは考えにくいことであります。さらに、それに加えて、陸奥の国府の最高クラスの要人が次々とエミシの蜂起に遭って殺されるという戦争状態のさなかにあって、鎮守将軍である東人が、当時大和から「夷地」とか「賊奴の奥区」などと呼んで恐れられていた
 
 

?エミシの国の奥深くにある「室根山」に入り込んで熊野権現を祭るなどということは、およそ、あり得ないことだとおもいます。

そこで考えられるのは、この「むろね」もアィヌ語系古地名だったのではないか…という説であります。

もしも「むろね」がアィヌ語系古地名だとしたら次のように解釈されます。「むろね」の地名の語源は、=アィヌ語の「ム・ル・オ・ナィ(mu・ru・o・nay)」→「ムロナィ(muronay)」で、その意味は、
=「ふさがっている・道・そこにある・沢」になります。

したがって、「むろね山」とは、=「ふさがっている・道・そこにある・沢の・山」ということのようです。

この地名の解釈についての考え方が次の二通りに別れると思います。

? 古代のある時期に、これより奥には「人の歩く道(キロ・ル)」がない。つまり、「けもの道(アピル)」しか道らしい道がない未開発の奥の奥だということで名づけられた沢の地名だとする説。

?ある時期に、そこより先は大和朝廷軍がいつ攻めて来るかわからない危険地帯になっているので、エミシの一般人の立入が禁止され、通行が差し止められていた最前線の沢に名づけられていた地名だったとする説。

…折壁(おりかべ)…

「おりかべ」は、以下に説明するアィヌ語の「ホル カペッ(オル カペッ)」に当てたアィヌ語系古地名で、岩手県内に特に多い地名ですが、これがなぜ岩手県内に多いのか…と申しますと、大和朝廷がエミシの国への侵攻戦争に勝って、それまで日高見の国といわれていたほぼ岩手県全域+αに相当する地域をその手中に接収するに及んで、その地域の地名をそれまでのアィヌ語地名から自分たちの和語地名に書き換える作業をしたと考えられ、そのときに、訳語がばらばらにならないように配慮して、元の同じ「ホル カ・ペッ(オル カ・ペッ)」の所には、和語でも同じ表記の「折壁」を一様に当て字するようにしたからだと思います。「おりかべ」の語源は、=アィヌ語の「ホル カ・ペッ(horka・pet)」で、その意味は、
=「後戻りする・川」になります。

室根村の「おりかべ」地内を流れる川の名前は「大川」です。この「大川」の川口は気仙沼湾にありますが、川口から入って上流に進むと、「おりかべ」の集落があります。その集落の上てのJR矢越駅の辺りから、川筋が大きく左にUターンして釘子の集落の方に曲がっていきます。この辺りで磁石を取り出して磁針の向きを見ると、流れの方向が中・下流の本流の方向とは、まったく逆転して逆さまの方向になっているのがわかります。

アィヌ語族の人たちは、このように、本流の川上や枝川の流れの方向が、大きくUターンして方向転換し、本流の中・下流の流れの方向と反対になっている場合に、その川上や枝川のことを「後戻りする川」と考え、その名を「ホル カ・ペッ」とか「オル カ・ペッ」と呼んでいました。

北海道では、北東北で「ホル カ・ペッ」と呼んでいたこの種の川のことを、和人たちが勝手に「幌加別(ほろかべつ)」などと漢字に書き直して呼んでいるわけであります。

岩手県内では、時代が違いますが、平安時代の初めあたりからでしょうか、38年間続いた大和朝廷のエミシの国日高見への侵攻戦争が終わって、その占領地内に大和の建郡が次々と進められるなかで、エミシの人たちが、それまで、おそらく、「ホル カ・ペッ(ナイ)」とか「オル カ・ペッ(ナイ)」と呼んでいた地名の所に、陸奥の国府の指図によって一様に耳を揃えて「折壁(おりかべ)」と漢字を当てて呼ぶようにしたものと考えられます。

ただし、この時、一関市の「鬼越沢(おにかべざわ)」の「おにかべ」だけは、地形が典型の「ホル カ・ペッ(後戻りする・川)」その物なのにもかかわらず、その時に取りこぼしをしたのか、それとも、いったん「折壁」に変えられたものが、後に書き違え等によって転訛したものなのか、現在は「折壁(おりかべ)」ではなく、「鬼越」と書いて「おにかべ」と呼ばれています。
(注:“折壁”の地名は岩手県内に9か所ほどありますが、この地名については安代町の“折壁”のところをご参照ください)

…矢越(やこし)…

「やこし」の地名の由来については、前九年の役のおりに八幡太郎義家が安倍氏との戦いに勝ったとき、勝ちどきに合わせて矢を天空に放ったところ、その矢が尾根を一つ越して隣の沢に飛んでいって地面に突き刺さったということであり、その故伝にちなんで名づけられた地名が、この「やこし」である…などといわれたりしていますが…。

「やこし」も「折壁地名」と同様に「矢越地名」といわれるくらい北東北から津軽海峡両岸にかけての地域に多く遺っているアィヌ語系古地名です。

岩手県内ではこの室根村の「矢越」の他に、川井村に「矢越沢」、田野畑村に「矢越岬」などがあります。

一般に、海岸地帯にある「やこし」の場合は、次のようなアィヌ語系古地名であることが多いようです。
「やこし」の語源は、=アィヌ語の「ヤ・クシ・イ(ya・kus・i)」→「ヤクシ(yakusi)」で、その意味は、
=「おかを・通り行く・所」であります。

しかし、この室根村の「やこし」の場合は、内陸にある地名なのですから、ここの地名の訳は、同じ「おかを・通り行く・所」でよいのですが、少々その意味のニュアンスが違っています。

…といいますのは、ここから気仙沼方面に向かうときに利用される道が二つありました。その一つは大川伝いに平地を通って大きく迂回して行く道であり、もう一つは、そうは高くないが、「矢越山」の撓嶺(たわみね)の鞍部にかかる峠道を越えて温坪や打越に直行する近道でした。つまり、これらの二通りの道のうち、前者は「平知の川筋を行く」という意味であるのに対し、後者は「丘の上の峠を越えて行く」という意味の、いわゆる、「丘を・通り行く・所」という意味の「やこし」だったと考えられます。

発音の問題ですが、この場合の「ヤ・クシ・イ」の「クシ・イ(クシ)」に「越(こし)」が当てられているのは、「クシ・イ(クシ)」の発音が和語の「越(こし)」に微妙に似ていたからだともいわれておりますが、そのほかに、そこに多分に方言的言語習慣があって、あるいは、実際に「クシ・イ」が「コシ」と発音されていたのだったかも知れない…という指摘もあるようであります。

…温坪(ぬくつぼ)…

「ぬくつぼ」とは「日当たりの良い窪地」のことをいう…などとの見方もあるようですが…。

この「ぬくつぼ」は、次のようなアィヌ語系の古地名である確立が高いようです。

1.「ぬくつぼ」の語源は、=アィヌ語の「ニ・ウク・ツ・ポク(ni・uk・tu・pok)」→「ヌクツポク(nuktupok)」で、その意味は、
=「焚き木を・拾う・尾根の・下」になります。

2.「ぬくつぼ」の語源は、=アィヌ語の「ニ・ウク・ツ・ポ(ni・uk・tu・po)」→「ヌクツポ(nuktupo)」で、その意味は、
=「焚き木を・拾う・小山」とも解されます。

「ツ・ポ」=「ポン・ツ」で、「小さな・尾根」、つまり「小山」のことであります。

…打越(うちこし)…

「うちこし」は意外に多い地名です。しかし、和語ではその意味を「越える所」などと説明したりしているようで、いささか物足りないものを感じます。

そこで引き出されるのは、次のようなアィヌ語を語源に持つ古地名と見る見方であります。
「うちこし」の語源は、=アィヌ語の「ウッ・クシ・イ(ut・kus・i)」→「ウッ・クシ(ut・kusi)」で、その意味は、
=「横川を・通り行く・所」になります。

室根村の「打越」の場合は、そこから尾根を越えて向い側の矢越に通ずる近道でした。

…鳥矢森(とやもり)…

「とや森」は「鳥屋森(とや森)」の書き違えで、藩公などの飼い鷹のえさにする小鳥を捕るための小屋のある森のことである…といわれたりしていますが…。

この地名も、あるいは、アィヌ語を語源に持つ次のような古地名ではないか…と考えられます。
「とや森」の「とや」は、=アィヌ語の「ト・ヤ(to・ya)」の転訛で、その意味は、
=「沼の・岸」になります。

したがって「とやもり」とは「沼の・岸の・森」になります。

…津谷川(つやがわ)…

「つや川」は室根村の有切(ありきり)を水源にして本吉町の「津谷」の海に注ぐ小さな川です。

この川の名前の「つや」は河川運送業者の屋号の「津屋」を意味する…などという説もあるようですが、それにしては肝腎の「つや川」は小さ過ぎて、川舟の舟運には適するとは思われないし、「つや」の「や」の字が「谷」になっているのも不自然であります。

そこで考えられるのは次のようなアィヌ語系古地名説であります。
「つや」の語源は、=アィヌ語の「ツィ・ヤ(tuy・ya)」で、「津谷川」の岸が崩れているということで名づけられた地名のようであり、その意味は、
=「崩れ(てい)る・岸辺」になります。

したがって、「つや川」は、=アィヌ語の「ツィ・ヤ・ナィ(tuy・ya・nay)」で、
=「崩れている・岸辺の・川」になります。

…有切(ありきり)…

この「ありきり」の地名も次のようなアィヌ語系古地名である確率が高いように思います。

1.「ありきり」は、=アィヌ語の「アル・キ・ウル(ar・ki・ur)」の転訛で、その意味は、
=「もう片方の・カヤ原の・丘」になります。

この地名は、南の「大森山(756m)」に対して名づけられた北の「太田山(685.6m)」の名前だったと考えられます。

2.「ありきり」は、=アィヌ語の「アル・キロ・ル(ar・kiro・ru)」の転訛で、その意味は、
=「もう片方の・広い・道」になります。

「キロ・ル」は「狭いけもの道」に対する「人の歩く広い道」を意味します。


 

No.64 ◎ 千厩町のアィヌ語地名

…千厩(せんまや)…

「せんまや」は、馬の放牧に適した北上山地特有の低平な丘陵地が多く、古来馬の名産地で、源義経の愛馬大夫黒はじめ多くの名馬を世に送り出している所であり、「せんまや」と馬とはことのほか縁が深いようです。

この「せんまや」の地名は、前九年の役のおりに八幡太郎義家が、衣川の安倍氏との戦いに当たって、この地で勢揃いをしたとき、軍馬千頭をつないだ所だとか、あるいは、奥州藤原氏が栄えていたころ、藤原秀衡公がこの地で千頭の馬を飼った所だとかいわれ、それらの故事にちなんで、その名が「せんまや」と呼ばれるようになった…などと言い伝えられておりますが…。

ところが、「けせん」や「いわい」の語源がアィヌ語だろうといわれるように、「せんまや」の地名もアィヌ語系ではないか…ということで多くの先人たちが関心を寄せられました。しかし、この地名の解釈は難しいようであり、いまだに納得のいくよい解釈が提示されていない状況におかれているように思います。

このことについて、昭和のアィヌ語地名研究の第一人者だった山田秀三先生の調査に期待していましたが、先生は「青森県の“三厩”と岩手県の“千厩”は閉口する地名である」と言い遺して亡くなられてしまわれました。

このような難しい地名について、今ここで、この私ごときが、新しい解釈事例を提示することは、まことに気が引けるところですが、あえて、口を開かせていただきますと、次のようなことがいえると思います。

「せんまや」語源がアィヌ語であるとみて、その風土と発音に留意して解釈を試みますと、あるいは…ということで、次のようにいえると思います。

1.「せんまや」は、=アィヌ語の「セム・ウン・マ・ヤ(sem・un・ma・ya)」→「セムム マヤ(semummaya)」の転訛で、その意味は、
=「物置・そこに入る・馬の・おか」になります。

アィヌの「家(チセ)」の敷居を跨いで中に入るとすぐにある土間の部分が「セム」であります。通常この空間の利用目的は「玄関兼物置」ですが、古代エミシの時代に、この地方に馬を愛し、馬を家族の一員として可愛がっていたエミシの族長などが、チセを新築する時に、たまたま、愛馬のために「セム」のスペースを広く取り、そこに愛馬が寝起きできる一部屋を造ってやり、人と馬とが一つ屋根の下で同居する生活を始めました。それが、やがて、この地方のエミシの人たちに高く評価され、一般化されて、この地方の風習となって残りました。そして、それが、すなわち、みちのくの「人馬同居」の「曲家」などの始まりであり、それを称して人々は「セムム マヤ」→「せんまや」と呼ぶようになり、その名が後世に遺された…ということではないでしょうか。

2.「せんまや」の語源は、=アィヌ語の「スィ・ウン・マク・ヤ(suy・un・mak・ya)」で、その意味は、
=「洞穴・そこにある・奥の・岸」と解することもできます。

以上、二つの解釈事例を示しましたが、この地名の解釈は難しく、私としてもこれら二例の解釈に百%満足しているものではありますので、ほかにより増しな解釈事例がおありでしたら、教えていただきたいと思います。

…鶴子沢(つるこざわ)…

奥玉の「つるこ沢」の「つるこ」は、和語地名ではないようであり、おそらく、次のようなアィヌ語系古地名だと思います。

1.「つるこ」は、=アィヌ語の「ツ・ル・コッ(tu・ru・kot)」で、その意味は、
=「古い・川筋・跡」になります。

あるいは、次のようにも解されます。

2.「つるこ」の語源は、=アィヌ語の「ツ・ル・ウン・コッ(tu・ru・un・kot)」→「ツルンコッ(turunkot)」で、その意味は、
=「二つの・道・そこにある・谷間」になります。

…熊田倉(くまたくら)…

「くまたくら」は、かつて、江戸期から明治8年まで続いた元「熊田倉村」があった所の地名であります。

この地名も、おそらくは、次のようなアィヌ語系の古地名であると考えることができます。
「くまたくら」の語源は、=アィヌ語の「クマ・タ・クラ(kuma・ta・kura)で、その意味は、
=「横山・にある・仕掛け弓場」になります。

この場合の「クラ」は、=「ク・ラル・マ・イ(仕掛け弓を・仕掛ける・所)」というアィヌ語地名の短縮形だといわれます。

アィヌ語の「クマ」は、「横山」の他に、「肉干し竿」とか「サケ干し竿」のこともいいますので、念のため申し添えます。

「クマ」を「横山」と訳しましたが、この地域の山と沢は四通発達しているのですが、そのなかで、どれを称して「縦山」といい「横山」というのか、今となっては、地形を一目見ただけで判断するというのは至難になっています。

…奥玉(おくたま)…

「おくたま」が和語地名かアィヌ語系古地名かを判別するのは難しいようです。伝説によれば聖武天皇の天平年間に摺沢寄りの鶴ヶ峰から出た「興玉」という美しい玉を時の陸奥按察使(あぜち)大野東人に献上して喜ばれたという故事にちなんで名づけられたのが「興玉」であり、それが転訛して現在の「奥玉」の地名になったと伝えられております。

しかし、大野東人といえば紀元724年ごろに陸奥の国の国府である多賀城を建てたといわれる人で、彼の時代には、大和の勢力圏はせいぜい宮城県中央部あたりまでであり、「奥玉」の地はまだまだ彼らの手の届かない、未征服の、いわゆる「賊奴の奥区」にあったはずであり、そのようななかで、奥玉から大野東人に「玉」が贈られたなどということはどうかと思います。

したがって、「おくたま」の地名は、むしろ、アィヌ語系古地名と見る方が正しいのではないか…という見方が成り立つと思います。

この地名がアィヌ語系古地名だとしたら、次のように考えられます。
「おくたま」は、=アィヌ語の「ア・ク・トマム・ナィ(a・ku・tomam・nay)」の転訛で、その意味は、
=「我ら・飲む・湿地の・川」だったと解されます。


 

No.65 ◎ 川崎村のアィヌ語地名

…薄衣(うすぎぬ)…

「うすぎぬ」は戦国期に初見する地名ですが、その由来は、その昔、平泉の藤原氏が京の都にも負けないほどに栄華を誇っていたころ、この地がその繁栄の波に乗って、きらびやかな紗(うすぎぬ)の生産地として栄えていたということで名づけられたのがこの地名だといわれておりますが…。

しかし、一方で、「うすぎぬ」の地名は、藤原氏や安倍氏以前からあったアィヌ語系の古地名であるという見方もあり、次のように解釈されております。
「うすぎぬ」の語源は=アィヌ語の「ウシ・ウン・キ・ヌプ(us・un・ki・nup)」→「ウスンキヌプ(usunkinup)」で、その意味は、
=「入り江・にある・アシ(葦)・原」になります。

「薄衣」は古代からの北上川の水運の要衝の地であり、各時代を通じて川港の入り江があった所として世に知られています。加えて、そこにアシの原があったことも十分にうなづけます。

…布佐(ふさ)…

「ふさ」は「布佐洞窟」で有名ですが、この地名の由来は、やはり、この「布佐洞窟」にちなんで名づけられた次のようなアィヌ語系古地名であることがわかります。
「ふさ」の語源は、=アィヌ語の「プ・サ(pu・sa)」で、その意味は、
=「倉・前・」になります。

アィヌ語で「プ」は「倉」なのですが、洞窟を「自然の倉」に使う場合は、それが「ポル・プ(por・pu)」で、=「洞窟の・倉」になります。しかし、ここの「ポル・プ」は、地域の人たちの間で呼ぶときには、わざわざ「ポル」をつけるまでもなく、ただの「プ(倉)」だけでも、それが当然に話題の「ポル・プ」であることが特定でき、十分に通用するわけであります。

そこで、この地域のエミシの人たちは「布佐洞窟」のことを「ポル・プ」とも呼びましたが、単に「プ」ともいい、その洞窟の前の最明寺の辺りを「プ・サ」=「倉の・前」と呼んでいたと推定されます。

ところが、やがて、大和朝廷軍がこの地域を征服した時に、エミシの人たちが名づけていたアィヌ語地名を、自分たちがわかりやすい漢字表記の地名に書き換える作業をしたと思います。その時に、「プ・サ」というアィヌ語地名の発音に合わせて「布佐(ぷさ)」という漢字を当てて新しい地名にしたと考えられるのです。

今日、私たちが「布佐(ふさ)」と呼んでいる地名はそのようにしてできたアィヌ語を語源に持つ古地名だったのです。

「布佐洞窟」は最明寺のすぐ裏の谷間にある全長1292m+αの本格的な鍾乳洞でありますが、所在する地名地番は、川崎村門崎字石蔵161?2になっています。

…ということは、大和朝廷がこの地に侵攻して土地を接収した時、この洞窟の所在地を大和の土地台帳に載せる作業をしたと思いますが、その時に、その作業に当たった人物というのが、この地のエミシの人たちが「布佐洞窟」を「プ」と呼び、その意味がアィヌ語の「倉」のことであるということを知っていた人物であり、その人物が、この洞窟の所在地を「字石蔵」と書き換えたという経緯があったことを物語っているものと考えられます。

…波瀬市(はせいち)…

「はせいち」の地名の由来を和語のなかに求めても、なかなか納得のいくような解釈が見当たらないようです。

この地名も、多分にアィヌ語にルーツがある次のような古地名である可能性が強いように思います。
「はせいち」の語源は、=アィヌ語の「パ・アシ・エ・エツ(pa・as・e・etu)」→「パセツ(pasetu)」で、その意味は、
=「頭を・立てている・尾根鼻」になります。

具体的にその「尾根鼻」というのはどこを指してそのようにいっているのか…と申しますと、常堅寺裏の門崎城址のある「尾根鼻」のことであります。

「はせいち」について地元の古老の方にお尋ねしたところ、「はせじ」と発音していました。現在この地名を屋号にしておられるお宅が一軒だけあるようで、その家の当主の方ともお会いすることができました。

門崎城は戦国武士門崎氏の居城だったといわれ、「はせいち」の「尾根鼻」の上の此高120mの所に、150m×100mの城址が遺っています。


 

No.66 ◎ 一関市のアィヌ語地名

…舞草(もくさ)…

12世紀に、この地に名刀の誉高い「舞草刀」を鍛えた「舞草鍛冶」と呼ばれる鍛冶集団の人たちがおり、奥州藤原氏の一族の人たちは彼らの鍛えた「舞草刀」を常用していたと伝えられております。

舞草鍛冶の元祖と申しますのは、かつて、エミシの国にあって、「蕨手の刀」を鍛えたエミシ鍛冶の人たちだったのではないでしょうか。彼らのなかには、8世紀から9世紀初めあたりに行われたエミシの国侵攻戦争のおり、ないしは、それ以降に、俘囚として大和に移配されて数奇な運命をたどった名工たちがいたと考えられております。その名工の遺した刀剣の数は少ないが、その一振りに大和石上神宮に遺されているものがあり、「常陸国俘囚臣川上部首厳美彦(ひたちのくにのおみ・かわかみべのおおひと・いつくしひこ)」の銘が刻されているものがあるといわれております。この厳美彦という人の名は紛れもなく達谷窟の近くの厳美村出身の移配エミシ系の人物であると考えられます。

この「舞草」の名は、かつて、彼らが「蕨手の刀」の柄に施したシンボルマークの「舞うような形をした若ワラビのつむじ型」に由来するものと見られていますが…。

あるいは、別に、この「もくさ」は、そこにある地形にちなんで名づけられた次のようなアィヌ語系古地名ではないかとも考えさせられます。

1.「もくさ」は、=アィヌ語の「モ・クサ・オル(mo・kusa・or)」の語尾の省略形の「モ・クサ」の転訛で、その意味は、
=「静かな・渡し場」だと思います。

2.「もくさ」は、=アィヌ語の「モ・クシ・オル(mo・kus・or)」の転訛で、その意味は、
=「静かな・川向こう・の所」だとも考えられます。

…達古袋(たっこたい)…

「たっこたい」の地名もアィヌ語系古地名であろうといわれているのですが、具体的にアィヌ語の何のことか…と申しますと、現在のところ、説得力のある解説が得られていないように思います。

これまでのところ、「たっこたい」は、その発音を手がかりに推測するところでは、=アィヌ語の「タプ コプ・タィ」の転訛で、その意味は、=「円形孤山の・森」ではないか…などといわれたりしていますが…。

しかし、この辺りに現実に「円形孤山の・森」といえるような独りぼっちの円い山が見当たりませんので、「タプ コプ・タィ」説は当たっているとはいえないと思います。

その辺りに「円形孤山の・森」が見当たらないとなると、次のように考えざるを得ないと思います。

1.「たっこたい」は、=アィヌ語の「チプ・タ・コッ・タィ(chip・ta・kot・tay)」→「チプ タコタィ(chiptakotay)」の語頭の「チプ(chip)」が省略された形の「タコタィ(takotay)」であり、その、もとの意味は、
=「舟を・掘る・谷間の・森」になると思います。

あるいは、次のようにも考えられます。

2.「たっこたい」は、=アィヌ語の「カムィ・タ・コッ・タィ(kamuy・ta・kot・tay)」の語頭の「カムィ(kamuy)」が省略された形であり、その元の意味は、
=「神々が・掘った・窟の・森」だと思います。

…ということであり、「たっこたい」は、それなりにありがたい「神聖な窟のある森」ということで名づけられた古地名ではないのか…と考えられます。

ここで、「達古袋」と「達谷窟」との関係を分かりやすく申しますと、昔、「達谷窟」があるこの辺りの広範囲の地名が「達古袋」=「神々が・掘った・窟の・森」であり、その森の中の一部を占める「窟」そのものを指す地名が「達古窟」で、その意味は、=「神々が・掘った・窟の・岩崖」だったと解釈されます。

「達古袋」の解釈は、以上のとおりでありますが、私としましては、どちらかといえば、〔2〕の方が本命ではないかと考えております。

…市野々(いちのの)…

「いちのの」の地名は軽米町や胆沢町にもありますが、ここ一関市厳美町には「市野々」のほかに「市野々原」、「市野々川」などの地名もあります。

和語で「いちのの」とは、「市が開かれる野原」だとか、その地方で「一番目の野原」という意味である…などとも説明されたりしていますが…。

この地名も、どうやら、次のようなアィヌ語を語源とする古地名であると考えるのが正しいように思います。
「いちのの」は、=アィヌ語の「イチャン・ウン・イ(ichan・un・i)」→「イチャヌニ(ichanuni)」の転訛で、その意味は、
=「サケ・マスの産卵穴・ある・所」になります。

…厳美(げんび)…

現在の一関市の「厳美町(げんびちょう)」は、明治22年に、元「五串村(いつくしむら)」と、元「猪岡村(いおかむら)」の2村が合併して誕生した旧村の「厳美村」の領域でした。合併に当たって新しい村名に採用された「厳美(げんび)」と申しますのは、元「五串村(いつくしむら)」の「いつくし」を好字書きの「厳美」と書き直して名づけたものであり、その正式な呼称は「げんび」でしたが、別に昔通りに「いつくし」とも呼ばれていました。

元「五串(いつくし)」の呼称のルーツは、遠く戦国期にまでさかのぼることができますので、この地名の語源も、もしかして、次のようなアィヌ語系の古地名ではないかと考えられます。
「いつくし」は、=アィヌ語の「イ・ツ・クシ・イ(i・tu・kus・i)」で、その意味は、
=「(聖なる)それの・尾根・の向こうの・所」になります。

この場合の語頭の代名詞「(聖なる)それの」の「それ」は何を指しているか…と申しますと、それは「達谷窟」を指しているものと考えられます。

したがって、「いつくし」とは、
=「(聖なる)達谷窟の・尾根・の向こうの・所」ということになります。

まさに、この地名も地域の地形にぴたりと合致しています。

…祭畤(まつるべ)…

「まつるべ」とは「神を祭る庭」という意味であり、昔、マタギの人たちが山神を祭った所だったといわれており、ちゃんと筋が通っている和語地名だということになります。

しかし、ここにいささか気になるところがあります。

気になるところと申しますのは「畤」という字の意味は「祭りの庭」ということですが、その読みの方は「し」か「じ」であって「べ」と読ませるのは無理だと思われるので、和語の「辺(べ)」の代わりに強引に当てた当て字だとも考えられるのです。

そこで、さらに、ここで一歩踏み込んで考えると、「まつるべ」の語源は、次のようなアィヌ語系の古地名だったのではないか…ということになります。
「まつるべ」の語源は、=アィヌ語の「マク・ツ・ル・ウン・ペ(mak・tu・ru・un・pe)」→「マクツルムペ(makturumpe)」で、その意味は、
=「奥の・尾根の・道・そこにある・者(所)」になります。

そして、この場合の語尾の代名詞「ペ(者)」は何を指すのかと申しますと、それは「祭場のある所」を指しており、その「祭場のある所」というのが、つまり、まつるべ山の尾根の頂上だったと考えられるのです。

古代の「まつるべ山(989.6m)」は、聖なる「チ・ノミ・シル(我ら・祭る・山)で、その尾根の頂上には幣壇が飾られていました。そして、そこから尾根伝いの道が東西に走っていたようです。

「マク・ツ・ル」というのは、そのような「奥の・尾根伝いの・道」のことだったと思います。

つまり、「まつるべ」の地名の正体は、先祖のアィヌ語にも精通し、しかも、新しい和語の知識にも明るかった平安時代あたりのエミシ系の村長クラスの人物か誰かがいて、そのような人物が、元のアィヌ語地名を大事にしながら、新しい時代の和語でもその意味がおよそわかるような配慮のもとに、このような漢字表記の「祭畤(まつるべ)」の地名をつけたのではないか…と考えられます。

なお、「まつるべ」の地名は尾根の上の「まつるべ山」だけではなく、尾根の下の沢に「まつるべ」の地名としても見えますが、尾根の下の地名の方は、冒頭に示したとおり、マタギの人たちが「まつるべ山」に入山する時に山の神を祀って入山の許しを乞うと共に、応分の獲物を分かち与えて下さるように祈った斎場があった所と考えられ、それはそれとしてたしかな事実だと思います。

…鬼死骸(おにしがい)…

江戸期から明治8年まで、この地に「鬼死骸村」というれっきとした村があった所で、その地名の起こりは、大和朝廷のエミシの国侵攻戦争のおりに、坂上田村麻呂が、この地でエミシの統領大武丸を討ち取り、その首をこの地にある鹿島神社下の鬼石と呼ばれる大石の根方に埋めたという伝承にちなんで名づけられたものだと伝えられていますが…。

上記の和語地名説を否定するのは心苦しいものを感じますが、考え方を変えれば、この地名も、かつてのアィヌ語地名に、平安期あたりになってから、漢字で当て字して書き変えられた次のようなアィヌ語系古地名だという見方が成り立つわけであります。

1.「おにしがい」の語源は、=アィヌ語の「オ・ニ・シカリ・イ(o・ni・sikari・i)」→「オニシカリ(onisikari)」の転訛で、その意味は、
=「川尻の・森を・迂回する・者(川)」だと解釈できます。

少々くどくなりますが次のようにも考えられます。

2.「おにしがい」は、=アィヌ語の「オ・ニ・ウシ・カ・ア・イ(o・ni・usi・ka・a・i)」→「オニシカイ(onisikai)」の転訛で、その意味は、
=「川尻に・木が・群生している所・の上てに・いる・者(山)」か、もしくは、
=「川尻に・寄り木が・密集している所・の上てに・いる・者(山)」か、それらのうちのどちらかだと思います。

このケースの場合、現代アィヌ語の音韻変化では、「o・ni・usi」が「onisi」とならずに「onusi」になるはずなのですが、古代エミシの時代の発音では、おそらく、原語に近い「onisi」だったろうと考えられます。

…山目(やまのめ)…

「やまのめ」の地名由来は、かつて、この地の北西から延びる地形が山の要ののように見えるということで、「山要(やまなめ)」と呼ばれていたことにちなむとする説〈安永風土記〉があるようですが、現地の要所要所に立って周辺の山並みを観察してみても、とくにその辺りが「山の要」だというようなイメージがわかないようです。

現在「やまのめ」は、「山目」と書いて「やまのめ」と呼ばれていますが、元々は、「山目」と書いて「やまめ」と呼ばれたと推定され、その語源は次のようなアィヌ語だったと考えられます。
「やまめ」の語源は、=アィヌ語の「ヤム・メム(yam・mem)」→「ヤメム(yamem)」で、その意味は、
=「冷たい・泉池」だったと思います。

…鬼越沢(おにかべざわ)…

「おにかべ沢」は磐井川の上流の高手山から流れ出る枝川の沢の名前であります。

この沢の名前の「おにかべ」は、おそらく、元「折壁(おりかべ)だったのが、「おにかべ」に訛ったものだろうと思います。

これが「おりかべ」から訛った地名だと見る根拠は次のとおりです。

a.「おにかべ沢川」の地形が大きくUターンして典型の「おりかべ(ホル カ・ペッ)」の地形を形成していること。

b.その名が、岩手県内九か所にある「おりかべ」の地名の発音に一字違いで、よく似ていること。

以上を挙げることができますが、この事実から、この地名の元の語源は次のようなアィヌ語であると解釈されます。
「おにかべ」は、「おりかべ」からの転訛地名であり、その語源は、=アィヌ語の「ホル カ・ペッ(horka・pet)」だったと考えられ、その意味は、
=「後戻りする・川」になります。

「ホル カ・ペッ(折壁)」については安代町のところをご参照ください。

…磐井(いわい)…

エミシの国日高見の統領(王将)大墓阿公弖流為に次ぐナンバー2の勇将として大和の国と戦って阿弖流為と共に非業の死を遂げた磐具公母礼の出自は、はっきりとはわかりませんが、彼は磐井地方の「磐具(いわく)」という村の出身であり、その村の族長だった人物と推定されます。

ところが、この村名の「いわく」は、アィヌ語の「イワク・イ(iwak・i)」の和語訳であり、その意味は、津軽の「岩木山」のそれと同じで、この地方で名高いどこかの聖地を意味する有名な地名だったと考えられるのです。

そして、その地名は具体的にいってどこか…と申しますと、それは、つまり、「達谷窟」があるエミシの村以外にないということになり、それが現在の地名である東磐井、西磐井の「いわい」を指す広域の地名となって遺ったと考えられ、次ぎのように解釈されると思うのです。
「いわい」は、=アィヌ語の「イワク・イ」の転訛地名だったと推定され、その意味は、
=「神・住みたまう・所」になります。

現在の和語の「岩(いわ)」の意味は「大きな岩石」ですが、アィヌ語の「イワ」は、「山」のことであります。ところが、この「イワ」の、その昔の意味は、津軽の「岩木山」と同じ「神住みたまう・所」という聖地を表す語であったと考えられ、それが現在ちまたに遺っているアィヌ語系古地名の「いわき」とか「いわ」であります。

…ということでありまして、現在の「いわい」は古代の聖地を表す「イワク・イ」からの転訛地名で、その語源のルーツは古代の聖地「達谷窟」のことだったということであり、「磐具公母礼」はその聖地の祭祀を司る司祭者であると同時に、そこを管轄する村の族長であり、かつ、一旦緩急の場合はそこを「チャシ(砦)」として国を守る立場にもあった人物だったと考えられます。
 

No.67 ◎ 藤沢町のアィヌ語地名

…黄海(きのみ)…

「きのみ」の地名の由来は、前九年の役のさなかの紀元1062年(康平5年)9月11日、源頼義・義家親子が出羽の清原武則の援軍を得て、安倍氏の「黄海の柵」を攻め落としたときに、殺された安倍氏の兵士たちの死体から流れ出た血が沼崎の沼に流れ込んで、沼の水を黄色に染めたという故事にちなんで名づけられたのがこの地名である…などといわれたりしていますが…。

しかし、この合戦の前にすでに「きのみ」の地名が存在していたことが「陸奥話記」などの記録に示されています。

そこで、考えられるのは、この地名は次のようなアィヌ語系古地名であるという見方であります。
「きのみ」は、=アィヌ語の「キナ・オ・ムィ(kina・o・muy)」→「キノムィ(kinomuy)」の転訛で、その意味は、
=「ガマ(蒲)が・群生する・川の淵」になります。

この場合の「キナ」は、=「シ・キナ」で、「ガマ」のことだと思います。

…箕ノ輪(みのわ)…

「みのわ」も、おそらく、次のようなアィヌ語系の古地名であると思います。「みのわ」は、=アィヌ語の「ムィ・ネ・ワ(muy・ne・wa)」の転訛で、その意味は、
=「箕・のような(形の)・岸」になります。

…保登子(ほどこ)…

「ほどこ」の「ほど」は、「陰(ほど)」で、その意味は人体でいうと女子の「陰部」のことでありますが、地形に使うと「山間の窪地」のことになります。「ほど」に「こ」をつけて「ほどこ」にすると「山間の小さな窪地」という意味になります。

しかし、見方によっては次のようなアィヌ語系の古地名のようにも考えられます。
「ほどこ」は、=アィヌ語の「ホ・ト・コッ(ho・to・kot)」の転訛で、その意味は、
=「川尻の・池の・窪み」になります。

この地名は和語系なのか、それともアィヌ語系なのか、はっきりと言い切れないところがあります。

…曽根(そね)…

和語で「そね」とは「石ころだらけのやせ地」のことだとか、または、「低くて長く続く嶺」のことだとかいわれておりますが…。

 「そね」についても、付近に「滝」がある場合に限り、条件付きで次のようなアィヌ語系の古地名である場合もあると考えられます。
「そね」は、=アィヌ語の「ソ・ナィ(so・nay)の転訛で、その意味は、
=「滝の・川」になります。

…宇道(うどう)…

「うどう」とは、寺院の「宇堂」からの転訛地名だとか、雨水などによって土が流されて道路がV字型に掘り下げられている山坂の道のことをいう…とのことでありますが…。

岩手県内に、漢字表記はどうあれ、「うどう」、「うとう」、「うと」などの地名が意外に多いようです。

これらの「うどう」や「うとう」の地名のすべてが和語地名であるとも、アィヌ語系古地名であるとも、一概にはいいかねますが、それらの中には、次のようなアィヌ語系古地名であるケースも、かなりあるように見受けられます。
「うどう」の語源は、=アィヌ語の「ウッ・ナィ(ut・nay)」→「ウッ(ut)」で、その意味は、
=「横・川」になります。

和語の「うどう」、「うとう」などの語源として考えられるアィヌ語地名用語のなかにこの「ウッ」がありますが、他にもう一つ、「ウツル(utur)」=「の間」もありますので、よく地形等を見て解釈しなければなりません。

…徳田(とくだ)…

「徳田(とくだ)」といえば、古代の城柵「徳丹城」のあった所として有名な矢巾町の「とくだ」があり、「とくだ」の語源は、間違いなくアィヌ語系古地名だといわれているように、ここ藤沢町の「とくだ」も、やはり、矢巾町の「とくだ」と同じアィヌ語系古地名であると考えられ、次のような二通りの解釈がつけられてあります。

1.「とくだ」の語源は、=アィヌ語の「ト・コタン(to・kotan)」で、その意味は、
=「沼の(ある)・村」になります。

2.「とくだ」の語源は、=アィヌ語の「ツ・コタン(tu・kotan)」で、その意味は、
=「旧き・村」で、=先祖の人たちの眠る・村」→「墓地」という意味にも解釈されます。

…古(ふる)…

「ふる」は、地元の古老の人たちの推測によれば「古道(ふるみち)」の省略形だろう…といわれているようですが…。

「ふる」は、黄海川の川べりの田んぼ道から藤沢町役場や町民病院のある高台に上る南西向きの緩やかな坂道がある沢地の集落名です。この集落名の「ふる」も次のようなアィヌ語系の古地名ではないかと考えられます。
「ふる」の語源は、=アィヌ語の「フル(hur)」で、その意味は、
=「坂」ということになります。

アィヌ語の「フル」は「丘」とか「坂」の意味もあるのですが、ここの地形から見て「丘」というよりも「坂」という解釈の方があっているように考えられます。

しかし、もしかすると、現場の地形に照らして見て、ここの「ふる」は、次のようにも解釈できます。

この場合の「ふる」の語源は、=アィヌ語の「フル(hur)+ル(ru)」で、=「坂・道」だったとも考えられます。

もしも、そのとおりだとしますと、次のようになります。
「フル・ル」は音韻変化して「フル・ル」から「フン・ル(hun・ru)」になり、その意味は、
=「坂・道」であります。

注:「r」で終わる語の次に、「r」で始まる語が続くときには、この事例のように先の「r」が「n」に変わるという決まりがあるわけです。


 

No.68 ◎ 花泉町のアィヌ語地名

…粒乱田(つぶらんだ)…

「つぶらんだ」という地名は、その名を聞くと同時に直感的にこれはアィヌ語系古地名だな…と思わせられる地名です。

事実、この地名は次のような典型のアィヌ語系古地名に相違ないと思います。「つぶらんだ」は、=アィヌ語の「チプ・ラン・テ・イ(chip・ran・te・i)」で、その意味は、
=「舟を・降ろし・やる・所」になります。

「つぶらんだ」は、北上川に金流川が合流する地点から2kmほど内陸に入った所の地名のようですので、そこは「舟を・いつも造っている・所(チプ・カル・ウシ)」であって、「舟を・降ろし・やる・所」というには川べりから内陸に入り過ぎているではないか…などといわれそうです。

ところが、古代エミシの丸木舟の建造は森の中で舟材になる質のよい大木を選んで伐採し、その場で彫って完成させてから水辺まで担いで行って降ろすのがあたり前のことだったと推定されていますから、おそらく、「つぶらんだ」の地は舟の用材となるよい大木の産地だったと考えられ、エミシの人たちはその場で木を切り、その場で舟を造った所だったと推定されます。

丸木舟に加工する前の木材はそれなりの大木で、しかも生木でありますから、加工してでき上がった舟よりもはるかに重くて運搬に手間取ります。それよりは用材を伐採し、その場で舟に加工して軽くしてから川べりまで運び出すのも、それなりのメリットがあるわけです。

この場合の「ラン・テ(降ろし・やる)」の「ラン」は、舟を「川岸の舟置き場から川に“降ろす”」というよりも、山で造った「舟を山から川に“降ろす”」という意味に解釈されます。

なお、「粒乱田」は本流の北上川に支流の金流川が合流する所に隣接してある地名であるところから判断して、北上川で使用する舟は「粒乱田」で造って金流川に舟降ろしするようにしていたものと考えられ、金流川の川尻辺りが、川舟の舟降ろし場であり、舟引き場であり、そして、係留ししておく川港でもあった所ではなかったか…と推測されます。

「粒乱田」の周辺には、奈良時代のエミシの族長だった人たちがねんごろに埋葬されたと思われる杉山古墳群などがあるところから判断して、この地方は、当時大和の要人たちから山道夷と呼んで恐れられていた日高見系のエミシ勢力の人たちの村々があった所だと思います。

…涌津(わくつ)…

和語説では「わくつ」は、「湧口(わきくち)」の転訛だろうといわれ、漢字表記では「涌口」とも書かれていますが…。

アィヌ語地名に馴染んでいる人たちにいわせれば、この地名もアィヌ語系古地名である可能性が高いと見ているようです。

これがアィヌ語系古地名だとすると、次のように解釈されます。
「わくつ」は、=アィヌ語の「ワッカ・クッ(wakka・kut)」の転訛で、その意味は、
=「飲み水の(湧く)・岩崖」」になります。

アィヌ語地名説では宮守村の「涌口(わっくち)」も、北上市の「湧口(わくつ)」も、すべてが花泉町の「涌津」と同義のアィヌ語系古地名ではないか…とみられているようです。

…蝦島(えびしま)…

「えびしま」の地名の由来は、この地に「エビがいる島」があったからである…といってしまえばそれまでで、それなりの和語地名であるということになりますが、この地名の場合は、そうでない方が大きいと考えられ、次のようなアィヌ語系古地名である可能性が十分にあるわけであります。

1.「えびしま」は、=アィヌ語の「エプィ・スマ(epuy・suma)」の転訛で、その意味は、
=「小山の・岩」になります。

この「小山の・岩」に該当する岩がどこかにあるに違いないと思い、現地を探し回りましたが、一度だけのフィールドワークでは見つかりませんでした。さらなる調査が必要であると思っておるところであります。

2.「えびしま」の語源は、=アィヌ語の「エプィ・ウシ・マク(epuy・us・mak)」で、もしかして、その意味は、
=「木の花が・たくさん咲く・山手」であるかも知れません。

そして、この場合の木の花とは、おそらく、北国を代表する山の木の花であるコブシの花のことだろうという意見もあるようです。

…阿惣沢(あそうざわ)…

「あそう沢」の「あそう」も次のようなアィヌ語系古地名だと思います。「あそう」の語源は、=アィヌ語の「アシ・ソ(as・so)」で、その意味は、
=「as(立っている)・so(岩壁)」で、つまり、「切り立った・断崖」ということであると思います。

初め、「あそう沢」は、=アィヌ語の「ア・ソ・ナィ(a・so・nay)」で、その意味は、=「我らが・滝」ということではないか…と考えましたが、現地に入っての調査中に「阿惣沢」の上ての方に上がって行ったところ、畑のなかで野菜の手入れをしておられたご婦人にお会いできたので、お尋ねしてみたら、「この付近には滝らしい滝がありませんが、この沢の下ての方の金流川の川岸に“切り立った断崖”になっている所があるので、そこがあなたが捜している地形にそっくりですよ」…と教えてくださいました。

早速、現地に行ってみたら、まさにそこに「切り立った崖」がありました。
 
 
 
 
 



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2002.4.1
H.sato