随想 アイヌ語地名考

 
 

No.51 ◎ 水沢市のアィヌ語地名

…跡呂井(あとろい)…

水沢市に「あとろい」という地名があることから、ここが古代のエミシの国日高見の英雄「阿弖流為(あてるい)」の出身地であるとか、あるいは、彼の名にちなんで名づけられた地名である…などといわれたりしていますが…。

しかし、この地に「あとろい」という地名が遺っているから「あてるい」の出身地だとか、彼の名にちなんで名づけられた地名であるとかいう見方についてはかなり根拠が薄いといわざるを得ないと思います。

この「あとろい」の地名を初めて聞いた時、多少なりともアィヌ語地名に通じている人だとしたら、即、ピーンとくるのは、「あてるい」の人名とは関係のないアィヌ・モシル(アィヌ族の・住む領域)によくある次のようなアィヌ語地名だと思うはずであります。

「あとろい」は、=アィヌ語の「アッ・ウォロ・イ(at・wor・o・i)」の転訛で、その意味は、
=「オヒョウニレの樹皮を・水に漬ける・所」になります。
 「オヒョウニレ」の樹皮はアィヌ語族の人たちにとっては、アカダモ(ハルニレ)、シナノキ(マダ)などの樹皮やイラクサなどのクサ類と共に彼らの衣料用織物の大事な原料であり、それらのうちでも最たる衣料原料の一つなのです。彼らは普通の場合、雪解けを待って山に入り、「オヒョウニレ」の木の皮をはいで持ち帰り、これを川や池でしたら10日余り、温泉だったら3?4日漬けて柔らかくしてから良く洗い、その皮から薄皮をはぐようにして細かい繊維を取ります。この繊維をはた織り機械にかけてアツシという上等な布に織ります。このとき、山から取ってきたばかりの生のオヒョウニレなどの樹皮を水に漬ける池や川の場所を「アッ・ウォロ・イ」と呼ぶわけであります。

「あとろい」が、「あてるい」の出身地を表す地名ではないとしたら、彼の出自を表す手がかりが他にあるのかと申しますと、それはあるのです。彼の出自の手がかりとなるのは、大和朝廷の公式記録である続日本紀などに書き残されている彼の身許を表す呼び名の「大墓公(たものきみ)」であります。

彼は現在の東北新幹線「みずさわえさし駅」の東側に見える出羽神社のある小高い丘「田茂山(たもやま)」に、堅固なチャシ(砦)を構えていた「たも村」のエミシの族長であると同時に、大和の侵攻軍を迎え撃って最後まで戦ったエミシの国日高見の王将だったということであり、その出自はおそらく「たも村」だったとは言えても、「あとろい」だったとは言い切れないと思います。

なお、県北地方に、悪路王(阿弖流為)こそは松尾村のえぞ長者屋敷に館を構えていた豆渡長者その人であり、胆沢の地に風雲急が告げられた時に、特に請われて出陣していったエミシの勇将であった…などと伝える異説も残っています。

…ということであり、例え「阿弖流為」が「たも村」出身の人だとしても、それがただちに「跡呂井」に繋がる人名だということにはならないと思います。

…四丑(しうし)…

桓武天皇が送り込んだ桓武第1次エミシの国侵攻軍が阿弖流為たちの率いるエミシの国の専守防衛軍の迎撃に遭って大敗北を喫した戦いの古戦場だった所が現在の「しうし」であり、当時の古文書にある「巣伏(すぶし)」でした。

この地名も次のようなアィヌ語を語源に持つ古地名だったと考えられます。「しうし」は、元「すぶし」であり、その語源は、=アィヌ語の「スプ・ウシ・イ(sup・us・i)」→「スプシ(spusi)」で、その意味は、
=「渦流・多い・所」になります。

私は何度か「四丑橋」の上に立って北上川の川面を見下ろしましたが、その度に、「巣伏」の戦いから1千2百年も過ぎ去った今日でも、北上川の川面は悠久の時の流れを超えて、あたかも、延暦8年のエミシ軍勝利の戦いが昨日のできごとででもあったかのように、力強い渦流の波を立てながら、無言であたりを圧するように、とうとうと流れ下っている様が目に入ります。そして、その時の戦いで溺れ死んだ大和の1千を超える兵士たちのはかない命が、ただ哀れに思えるのに引き替え、わずか1千5百そこそこの兵力で、大和朝廷の侵攻軍5万2千8百の大軍の主力を迎え撃って、堂々と戦って勝利を収めたエミシの戦士たちの戦いぶりに、思わず心からのエールをおくりたくなるのはなぜでしょうか…。それは、いうまでもなく、大きな正義がエミシの側にあったからであります。

…田茂山(たもやま)…

「たも山」は「羽黒山」とも呼ばれております。

「たも山」の地名の由来は、「タモの木が生えている山」という意味で「たも山」と名づけられた…などと説明されたりしているようですが…。

この「たも山」は、古代の日高見国のエミシの英雄「大墓公阿弖流為(たものきみあてるい)」のチャシ(砦)の丘だった所であり、現在の羽黒山出羽神社の境内になっています。

当時のエミシの族長クラスの人物の名前の姓に当たる部分には、通例としてその人物の出身の村名を当てる習わしになっていて、「阿弖流為」が「大墓公(たものきみ)」の名で呼ばれていたからには、彼は「たも村の族長」だったということになると思うのです。

また、「たも山」の「たも」の語源は古代のエミシの人たちによって名づけられたアィヌ語地名と見ておりますが、私は、この地名についてこれまでの諸説とは違った見方をしており、次のように解釈しているわけであります。

1.日本紀略等にある「大墓公阿弖流(利)為」の「大墓」の読みは「たも」や「おおつか」などではなく、=アィヌ語の「タィ・ポ(tay・po)」であり、その意味は、
=「小さな・森」と解すべきであると思います。

ちなみに、アィヌ語の「タィ・ポ」は「ポン・タィ」と同じ「小さな・森」の意味ですし、「タィ・ポ」は、別に「タィ・ボ」と発音しても、その意味に変わりがありません。

「たも山」については、ほかに次のような解釈も提起されています。

2.「たも山」の「たも」は、=アィヌ語の「タン(tan)・モィ(moy)」で、「タムモィ(tammoy)」→「タモィ(tamoy)」と音韻変化した形で話されていたと推定され、その意味は、
=「こちら側の・川港」になる…というものです。

この地名の解釈が正しいとすると、阿弖流為たちの「たも村」は、北上川の河東に位置していたということになり、彼らは、その河東の地に「こちら側の・川港」を意味する「タム・モィ」→「タモィ」と称する川港を持っていて、自分たちの村のことを「タモィ・コタン(こちら側の・川港の・村)」と呼んでいたものと推定されとの見解のようであります。

ついでに、ここで「阿弖流為」の地位と彼の国「日高見」の国家としての性格について私見を申し述べさせていただきます。

「阿弖流為」はエミシ族の国「日高見」の王将(統領)であり、兼、日高見国専守防衛軍の総司令官でした。

そして、日高見国の国柄は、エミシ・モシル内のエミシ族の人たちの各村々が、大和の国の侵略からエミシ族とエミシ・モシルを守るために、主体的に歩み寄って統合されたエミシ族の村落連合国家であり、その国家意志は加盟する各村落の代表者であ族長たちで構成される族長会議(国会)によって決定され、国の元首である王将「阿弖流為」がそれを統括執行するという次のような性格の立派な民主国家だったと考えられます。

「ユナイテッド ヴィレイジズ オヴ ヒタカミ(United Villages of Hitakami)」
=「村落連合国家日高見」

阿弖流為(あてるい)は日高見国の最後の国家元首だったわけであります。

なお、彼らの国は民主主義であるがゆえに、エミシ・モシル内の同族の村でありながら、あえて、初めから日高見国の連合国家に加盟しなかった村や、途中から離脱して大和とよしみを通じた村もいくつがあったようです。例えば、宇漢米公隠賀(うかんめのきみ・おが)の村や爾散南公阿波蘇(にさなんのきみ・あわそ)の村などがそれでありました。

…鶴巻(つるまき)…

「つるまき」も和語の解釈を待つまでもなく、次のようなアィヌ語系の古地名である可能性が高いようです。

「つるまき」の語源は、=アィヌ語の「ツ・ル・マク(tu・ru・mak)」で、その意味は、
=「古い・道の・奥」、または、
=「二つの・道の・奥」だと思います。

…姉躰(あねたい)…

「あねたい」の地名は一戸町にも「姉帯」の表記で見えますが、これらはいずれも
アィヌ語系の古地名だと考えられ、次のように解釈することができます。「あねたい」の語源は、=アィヌ語の「アネ・タィ(ane・tay)」で、その意味は、
=細い・森」になります。

No.52 ◎ 胆沢町のアィヌ語地名

…胆沢(いさわ)…

古代史の中で「いさわ」の地名の初見は、紀元776年(宝亀7年)、続日本紀11月28日条に「陸奥の軍3千を発して胆沢の賊を伐つ」とあるのが最初であります。

8世紀の建郡前の「胆沢の地」と申しますのは、現在の胆沢・江刺地方を中心に、その南の東磐井・西磐井、北の和賀及び稗貫地方の南部を含むと思われる北上盆地の中部・南部にわたる広域の地を漠然と指す凡称地名だったようであり、当時のアィヌ語族の国日高見の中核地域と見られていました。

大和朝廷ではこの地方を早くから「土地こえてひろし、撃ちて取りつべし」〈景行紀27年2月条〉とか、「賊奴の奥区」〈続日本紀延暦8年6月条〉などと称して征服戦争の標的にしていましたが、8世紀末に、ついに、「蝦夷征伐」の名のもとに信攻戦争を仕掛けて攻め取った所でした。

現在、この「いさわ」は、無意識のうちに和語地名だろうと思い込んでいる傾向が強いと思いますが、果たしてそうでしょうか。一歩下がって考え直してみるとき、ここはエミシの国のまほろばの地の名称ですので、その語源がアィヌ語系古地名である場合も想定されます。

もしも、この「いさわ」がその通りアィヌ語系古地名だとしたら、次のように解釈されます。
「いさわ」の語源は、=アィヌ語の「イ・サ・ワ(i・sa・wa)」で、その意味は、
=「(聖なる)それの・前の・岸」になります。

この場合の「(聖なる)それ」とは、いったい、何を指すのかと申しますと、それは、「エミシの国の偉大な指導者阿弖流為のチャシの丘であるとともに、村落連合国家日高見の中央本部であり、かつ、「田茂村のエミシの人たちの”チ・ノミ・シル”(我ら・祭る・山)でもある聖なる丘「田茂山」のことであったと推定されます。
そして、「前の・岸」というのは、「田茂山の前の北上川の岸辺」ということだったと考えられます。

つまり、「いさわ」の地名の起こりは、「聖なる丘田茂山の・前の・北上川の岸辺」を指す古地名の「イ・サ・ワ」だったのではないか…と思うのです。

…尿前川(しとまえがわ)…

「しとまえ川」の「しとまえ」の地名はアィヌ語系であることを認めておられる方々が多いようです。しかし、具体的にそれがどういう意味の地名なのか…と問われると、一般論として言い得ることは、それぞれの解釈に微妙な違いがあって、一つに絞るまでには至っていないということです。

…ということで「しとまえ」がアィヌ語系の古地名であるとすると、次のような複数の解釈が考えられます。

1.「しとまえ」の地名の語源は、=アィヌ語の「シ・ト・オマ・イ(si・to・oma・i)」→「シトマイ(sitomai)」で、その意味は、
=「親・沼・そこにある・者(川)」になります。

このような名前の川を川上に向かって上って行くと、最終的に水源の沼にたどり着く川のことのようです。「シ・ト(親・沼)」というのは、つまり、その「水源の沼」のことであります。

たしかに「しとまえ川」のいくつかの枝川の奥に水源の沼があり、川を溯って行くと、その沼にたどり着くということで、地名と地形とが合致しているようであります。

2.「しとまえ」は、=アィヌ語の「スッ・オマ・イ(sut・oma・i)」→「ストマイ(sutomai)」の転訛で、その意味は、
=「山麓・にある・者(所)」になります。

この地名も聖なる焼石岳の麓にあるということで、たしかに地形に合っているので、なるほどと思います。

3.「しとまえ」は、=アィヌ語の「スツ・オマ・イ(sutu・oma・i)」→「ストマイ(sitomai)」の転訛で、その意味は、
=「ブドウ蔓・ある・所」になります。

たしかに、「尿前川」の周辺はヤマブドウが豊富にある所として知られておりますので、この地名も納得できます。

4.「しとまえ」は、=アィヌ語の「シットク・オマ・イ(sittok・oma・i)」→「シットコマイ(sittokomay)」の転訛で、その意味は、
=「曲がり角・にある・者(所)」になります。

「尿前川」は本流の胆沢川に直角に流れ込んでいる川ですので、その合流部分においてたしかに川が曲がり角になっており、地名に合致する地形であります。

以上でありますが、これらの解釈事例は、いずれも有力説であり、特にそのうちでもどれが本命かと聞き返されるとすれば、私は、〔1〕と〔2〕が最有力説だと思うと答えるでしょう。

…鍋割山(なべわりやま)…

「なべわり」の地名は意外に多く、岩手県内には5?6か所見にえます。

この「なべわり山」の「なべわり」の地名も、典型的なアィヌ語系古地名と見てよく、次のように解釈されます。
「なべわり」の語源は、=アィヌ語の「ナム・ペ・ウワリ・イ(nam・pe・uwari・i)」→「ナムプワリ(nampuwari)」で、その意味は、
=「冷たい・水の・産まれる・所」になります。

ただし、この地名のエミシの時代の発音は現代の音韻変化のきまりにかかわることなく、=「ナムペウワリ(nampeuwari)」だったのではないかと考えられます。

この地名はアィヌ語ならではの詩情豊かな地名です。和語であれば、ただの「泉」か「清水」ぐらいの単純な地名になってしまうのですが、アィヌ語の地名には、この例のように地名がそのまま叙情詩の一節になっているようなものが多いようです。そこにエミシの人たちの豊かな感性がかいま見られます。

…若柳(わかやなぎ)…

この地名は、アィヌ語系古地名としてはあまり話題には上りませんが、おそらく、次のようなアィヌ語を語源に持つ古地名であると思います。

1.「わかやなぎ」は、=アィヌ語の「ワッカ・ヤム・ナイ(wakka・yam・nay)」の転訛で、その意味は、
=「水が・冷たい・川」になります。

2.「わかやなぎ」は、=アィヌ語の「ワッカ・ヤム・ナイ・キム(wakka・yam・nay・kim)
」で、その意味は、
=「水が・冷たい・川の・山」になります。

ちなみに、北海道の「稚内市」の「わっかない」の地名のルーツは、=「ヤム・ワッカ・ナィ(yam・wakka・nay)」で、その意味は、=「冷たい・水の・川」だといわれております。

…下嵐江(おろしえ・おろせ)…

「おろしえ」も「おろせ」もアィヌ語を語源に持つ古地名ではないか…といわれますが、これらの地名は、まさに、そのとおりであり、次のような同根、同義のアィヌ語系の古地名であると考えられます。
「おろしえ・おろせ」の語源は、=アィヌ語の「オ・ウラシ・ウシ・イ(o・uras・us・i)」→「オウラスシ(ourasusi)」であり、その意味は、
=「川尻の・ササ(笹)が・群生する・所」になります。

…於呂閉志(おろべし)…

「下嵐江(おろしえ)」の石淵ダム湖岸にそそり立つ「猿岩山」と呼ばれる岬状尾根頭の上に「於呂閉志(おろべし)神社」があります。その「於呂閉志神社」の「おろべし」は、地名の「おろしえ」が誤って伝えられたものだろうといわれたりしていますが、そうではなく、「おろしえ」の方が「おろべし」から転訛したものであって、正しくは「おろべし」だったろうともいわれております。

このことについて、私は、「おろべし」の語源と「おろしえ」の語源は、共に同じアィヌ語地名を指す同じ意味の地名であるとし、次のように考えております。
「おろべし」は、=アィヌ語の「オ・ウラシ・ウシ・ペシ(o・uras・us・pes)」の転訛で、その意味は、
=「川尻の・ササが・群生する・断崖」になります。

アィヌ語の「ペシ」の意味は「崖」ですが、とくに「水際の断崖」のことを「ペシ」と呼びますから、「於呂閉志神社」のある猿岩山の断崖は、まさに、その「ペシ」の名にぴたりと当てはまります。

結局は、前述した「おろしえ」と、この「おろべし」とは、これを元のアィヌ語に戻して考えると、次のような同一語源の地名だということがわかります。

a.「おろしえ」は、=アィヌ語の「オ・ウラシ・ウシ・イ(o・uras・us・i)」の転訛で、その意味は、
=「川尻の・ササが・群生する・所」になります。

b.「おろべし」は、=アィヌ語の「オ・ウラシ・ウシ・ペシ(o・uras・us・pes)」の転訛で、その意味は、
=「川尻の・ササが・群生する・断崖」になります。

したがって、上の〔a〕と〔b〕は、同じ「下嵐江のササの群生する猿岩山の岬状尾根頭の断崖」という同一対象物のことを、それぞれ代名詞と名詞で表す同じ意味の地名であることがわかります。

「おろしえ」、または、「おろべし」といえば、続日本紀紀元715年(霊亀元年)10月29日条に「陸奥の蝦夷第3等邑羅志別君宇蘇弥奈(おらしべつのきみうそみな)らが蝦夷の中の反大和勢力の人たちに襲撃される心配があるので、香河村に仮の郡家を建てていただき、編戸の民(公民)に取り立てて守っていただきたいと願い出て許された」…という内容の記録がありますがこの場合の願い出人であった「うそみな」という人物は「おらしべつ」という村の族長だったと推定されるということであり、おそらく、彼のその「おらしべつ」は現在の胆沢の「おろしえ」だったのではないか…といわれたりしています。

また、紀元811年(弘仁2年)に大和朝廷による最後のエミシの国侵攻戦争がありましたが、そのおりに、陸奥・出羽の按察使(あぜち)文室綿麻呂(ふみのやのわたまろ)と出羽守(でわのかみ)大伴今人(おおとものいまひと)たちにそそのかされて、爾薩体村(現二戸市)の「伊加古」たちのコタン(村)を襲って戦争挑発の火づけ役に使われた俘軍(俘囚エミシ軍)の隊長に、「邑良志閉(おらしべ)村の都留岐(つるき)」という者がいましたが、その「つるき」という人物の出身地と見られる「おらしべ」と、この「おろべし」とはよく似た地名であるといわれており、この「おろしえ(おろべし)」が、あるいは、その「つるき」の出身地の「おらしべ」だったのではないか…ともいわれたりしているわけであります。

しかし、この説についてはほかにも何か所かの類似地名の比定地が持ち出されていて定かではありません。

ところで、ここで、話は現代に移りますが、「おろしえ」の「おろべし神社」の氏子である胆沢の人たちの間に、注目すべき古代アィヌ語族の人たちの信仰の習わしが、つい最近まで続いて遺っておりました。それは、以下に述べる「ハシ・イナゥ(枝・幣)」にかかわる習わしであります。

「おろしえ」の「おろべし神社」の例祭は、毎年4月29日だそうですが、その日に参拝に訪れる氏子の人たちは、神社所在の比高170mの断崖の上にある聖なる神の山「猿岩山」に自生しているサルヤマユキツバキの枝とササを手折って持ち帰り、自家の田んぼの水口に立てて、豊作祈願と虫除けのお祓い(おはらい)をする習わしが伝わっていたようです。

実は、これらの習わしは、自然と共生するアィヌ語族の人たちのよき時代のよき伝統の名残であったと思われるのですが、それついて気がつくことは、「おろべし神社」が祭られてある所というのは、アィヌ語でいえば「オ・ウラシ・ウシ・ペシ」の「サル・イワ」ということですが、この場合の「ウラシ」はアィヌ語の「ササ」のことであり、「サル・イワ」の「サル」は「やぶ」で、「イワ」は「聖なる神の山」ということですから、「サル・イワ」は、=「ササとツバキのやぶの聖なる神の山」という意味に解されます。

ここで「やぶの聖なる神の山」とは、つまり、「寒さの冬の雪を頭からかぶっても、なお、冬枯れせずに青々と自生していて、早春に雪の下から花を咲かせるといわれるサルイワユキツバキとササのやぶがある山」ということで、エミシの人たちが、猿岩山の自然にエネルギッシュな生きたパワーを感じ取り、そこに、創世主である偉大なる神々の霊力があると考え、その神々の霊力を自分たち自身や、自分たちの田んぼの稲の稔りに分かち与えていただくことを願っていたのではないでしょうか。

こうして、胆沢の人たちは、その「サルイワユキツバキ」の枝に添えて、「サルイワのササ」を大事に手折って持ち帰り、自家の田んぼの水口に挿して、田の神に豊作を祈願していたという習わしがあることについては、さらに、次のような注目に値いする事がらとの繋がりがあると考えられるのです。

それと申しますのは、この「ツバキとササの枝」は、北海道のアィヌの人たちの間に伝わる「ハシ・イナウ(枝・幣)」の習わしそのものであり、それはアィヌ語族であった古代エミシの人たちが遺した重要な祭具の一つであります。「イナゥ」の中でも「ハシ・イナゥ」は、その昔、若者が神木の小枝を手折って神に祈り、その小枝に思いを託して好きな娘に贈ると、思いが叶うということでも用いられていたように、豊作を祈る現代の胆沢の人たちが、聖なる「於呂閉志」の「猿山の丘」の「於呂閉志神社」からいただいた聖なるツバキとササの小枝に願いを込めて自家の田んぼの田の神様に祈ると、思いがかなって豊作になるということでありましょうから、この習わしは、古代のアィヌ語族の「ハシ・イナゥ」の信仰が、ほとんどそのまま現代に伝えられているということになります。

そこで、大事なことは、古代のエミシの人たちのこうした信仰の習わしそのものだけではなく、それに合わせて、同じ古代のアィヌ語系の古地名である「おろしえ」や「おろべし」を初めとする多くのアィヌ語の生々しい化石ともいうべき古地名が、ほぼ、もとのアィヌ語の原語に近い形で今日に遺っているということであり、その事実こそは、それらの事実と共に伝えられてきた古地名のアィヌ語起源説を、より確実なものとして裏付けているばかりではなく、その中に彼らの偉大な文化の面影が秘められていて、それをそのまま現代に伝えているということであります。

なお、「於呂閉志神社」の本宮は石淵ダムの湖畔の「下嵐江」の「猿山」にありますが、その里宮(遙拝所)兼合祀社である「於呂閉志胆沢川神社」は別に胆沢町字下堰袋地内にあります。

…市野々(いちのの)…

「いちのの」の地名は、軽米町や一関市にもありますが、一般には「市の野」と解されて、元々「定期市が開かれる野原」だと説明されたりしていますが…。

しかし、この地名の実態は和語ではなく、古代エミシの人たちの時代に名づけられた次のようなのアィヌ語地名からの転訛地名だったと考えられます。
「いちのの」の語源は、=アィヌ語の「イチャン・ウン・イ(ichan・un・i)」→「イチャヌニ(ichanuni)」の転訛で、その意味は、
=「サケ・マスの産卵穴・そこにある・所」になります。

この地名は、自然がより豊かだった古代に、サケ・マスが北上川の長路の旅を経て、はるばると支流の胆沢川のこの辺りまで溯上してきて産卵したことを物語る古地名であります。

「イチャヌニ」の地名は北海道の登別川の川筋に実在するほか、道内の方々の川筋に見受けられる地名であります。


 

No.53 ◎ 前沢町のアィヌ語地名

…母体(もたい)…

「もたい」の地名の由来は、太宰府に左遷された菅原道真公の夫人が、3人の子供と共にこの地に流されて来て、この地で寂しく亡くなられたので、子供たちは母の亡骸(なきがら)をこの地にしめやかに埋葬したということで、世の同情をかったといわれており、その故伝にちなんで名づけられたのが「もたい」の地名である…などと伝えられていますが…。

この「もたい」の地名も、どうやら、次のようなアィヌ語系古地名である可能性が大であると思います。
「もたい」の語源は、=アィヌ語の「モ・タィ(mo・tay)」で、その意味は、
=「静かなる・森」だと思います。

つまり、これも「カムィ・モ・タィ(kamuy・mo・tay)」の転訛で、その本来の意味は、=「神々の・静かなる・森」だったと考えられます。

なお、阿弖流為と共に坂上田村麻呂の率いる大和朝廷の侵攻軍と戦ったエミシ軍の勇将「磐具公母礼(いわくのきみ・もれ)」の名は「母礼」ではなく、この前沢町の「母体」と何らかのかかわり合いのある人物で、その名が「母体」だったのではなかったか…という説があります。

その説によれば、元々は漢字が制限される前の「母礼」は「母禮」と書き、「母体」は「母體」と書いていたはずなので、「禮」の字と「體」の字は似ていて間違いやすく、「日本後記」や「日本紀略」の編者たちが「磐具公母體」と書くのを「磐具公母禮」と書き違えて記録したものであろうというものです。

しかし、古代に朝廷からエミシの村々の族長たちに贈られた蝦夷氏姓の姓に当てられた部分は、その族長の出身地である村落名であるのが常であり、名前には生来の本名をそのまま当てる習わしだったと考えられますから、「磐具公母礼」の「磐具」は、彼の出身地である村の名前が当てられたものであり、「母礼」は彼の親が、彼の幼児期における性格、行動の傾向等を観察し、その特長を捕らえて名づけた名前だったというべきであります。エミシの人たちの人名の「母礼」と当時の地名の「母体」とを安易に重ね合わせて見る見方は感心できません。

…羽場(はば)…

「はば」とは「幅」とか「端場」などとも書き、「河岸段丘のはずれの法面」などのように、土地の有効利用面積に入らない面積の部分のことをいう…などといわれたりしていますが…。

「はば」にはアィヌ語系古名説もあり、次のように解釈されます。
「はば」の語源は、=「アィヌ語の「ハ・パ(ha・pa)」で、その意味は、
=「川の水が引いておかになった・岸辺」になります。

つまり、今でいう「河川敷」やそれに続く未利用地などをいっていたもののようであります。

…目呂木(もくろぎ)…

和語では「もくろぎ」の地名の由来を「木蝋木(もくろうぎ)」の転訛である…などと説明している向きもあるようですが…。

この地名も、次のようなアィヌ語系の古地名であると説明した方が、よりたしかであるばかりでなく、より分かりやすいと思います。

1.「もくろぎ」は、=アィヌ語の「モ・ク・ウォル・キム(mo・ku・wor・kim)」の転訛で、その意味は、
=「小さな・飲む・水の・里山」になります。

2.「もくろぎ」は、=アィヌ語の「モ・ク・ウォル・キ(mo・ku・wor・ki)」で、その意味は、
=「小さな・我が・チャシ(館)の・濠」とも解釈できます。
「wor・ki」は、=「チャシの・濠」のことです。
 

…赤生津(あこうず)…

「あこうず」の地名由来は、前沢町史によれば、アィヌ語の「ア・カオズ」で、その意味は「よい土地」という意味であるとのことですが、私にはそれが当たっているかどうか理解しかねます。

アィヌ語系地名だとすれば、次のように解釈するのが正しいように思います。「あこうず」は、=アィヌ語の「ワッカ・オチ(wakka・ochi)」→「wakkochi」の転訛で、その意味は、
=「湧水・多くある所」になります。
このように、アィヌ語の「ワッカ(清水)」に和語の「赤」が当て字されている例がよくあります。北海道の「ワッカ・トマリ」が「赤泊(あかどまり)」に、宮古市の「ワッカ・オマ・イ」が「赤前(あかまえ)」に当て字されているのがその例であります。

…箕輪(みのわ)…

「みのわ」の地名は、前沢町内では前沢と生母にありますが、いずれも次のようなアィヌ語を語源に持つ古地名であるように思います。

1.「みのわ」は、=アィヌ語の「ムィ・ネ・ワ(muy・ne・wa)」の転訛で、その意味は、
=「箕・のような形をした・川岸」になります。

2.「みのわ」は、=アィヌ語の「ムィ・ネ・ワ」の転訛で、その意味は、
=「入り江・のような形をした・川岸」になります。

河川の流れをほとんど自然のままにしていた古い時代には、大水が出るごとに川筋が変わることが多かったので、前沢町の「みのわ」の地名の所が古代のままの形で残っているとは思われないところにこの地名の解釈の難しさがあります。


 

No.54 ◎ 衣川村のアィヌ語地名

…衣川(ころもがわ)…

「ころも川」の地名の由来は、昔、高檜王(能)山(たかひのうさん)の五輪谷の上の老松に、天女が舞い降りて、その枝に羽衣をかけて乾かしたという古い伝説があり、その伝説にちなんで名づけられたのがこの地名である…などと伝えられておりますが…。

「衣川」の地名の歴史は古く、この地名が初めて世に出るのは、紀元789年(延暦8年)、征討将軍紀古佐美の率いる桓武第1次エミシの国侵攻軍5万2千8百が「衣川」を渡って3か所に野営をしたという「続日本紀」5月12日条の記録によってであります。

…となると、「ころも川」の「ころも」も、古代に、エミシの人たちが名づけたアィヌ語を語源とする古地名である可能性が大きいと考えられます。

「ころも川」の「ころも」がアィヌ語を語源に持つ古地名であるとすれば、その解釈は、アィヌ語で次のように考えられます。
「ころも川」の「ころも」は、=アィヌ語の「ク・ウォル・モム(ku・wor・mom)」の転訛で、その意味は、
=「飲む・水が・流れる」になります。

したがって、「ころも川」はこれに「川(ナィ)」がついて、
=「ク・ウオル・モム・ナイ(ku・wor・mom・nay)」になり、その意味は、
=「飲む・水が・流れている・川」になります。

アィヌ語族の人たちは、自分たちの行動範囲内の川のすべてについて、一般常識として「飲める水の川」と「飲めない水の川」の区別をはっきりと記憶して覚えていたといわれます。

…豊巻(とよまき)…

「とよまき」は「響動巻(とよまき)」の転訛で、川瀬の音が鳴り響く曲流地を意味する地名だともいわれ、一応、なるほどと思うところがありますが、あるいは、アィヌ語系古地名ではないかとも考えられます。

これが、アィヌ語系の古地名であるとすると、次のような解釈があると思います。
「とよまき」の語源は、=アィヌ語の「トィ・オマ・キム(toy・oma・kim)」→「トヨマキム(toyomakim)」の転訛で、その意味は、
=「食用土が・ある・里山」になります。

…真打(まうち)…

「まうち」とは、マタギの人たちの猟の方法に、けもの道に待ち伏せしていて獲物が来るのを迎え撃つやり方があり、そのやり方を「待ち撃ち」といいます。「まうち」はその「待ち撃ち」の転訛で、「待ち撃ちする場所」という意味にも使われることがあるとのことであります。「衣川」の「まうち」の地名は、この「待ち撃ち」の転訛地名であろう…という説もあるようでありますが…。

しかし、この「まうち」も、そのような和語ではなく、次のようなアィヌ語系の古地名である可能性が高いようです。
「まうち」は、=アィヌ語の「マク・ウッ(mak・ut)」の転訛で、その意味は、
=「奥の・横川」になります。

この辺りの地形を見ると、西から東に流れる南股川に、北の方から横に流れ込んでいる枝川がいく筋かあります。このように本流に直角ないしは、直角に近い角度で流れ込んでいる枝川のことを、アィヌ語で「ウッ(ut)」=「横川」といいますが、その中で奥の方にある「横川」のことを「マク・ウッ」=「奥の・横川」と呼んでいたものと考えられます。

…黒滝(くろたき)…

「くろ滝」の「くろ」も、アィヌ語からの転訛地名である可能性があります。
「くろ滝」の「くろ」がアィヌ語系であるとすると次のような解釈があると思います。
「くろ滝」の「くろ」の語源は、=アィヌ語の「ク・ウオル(ku・wor)」で、その意味は、
=「飲む・水」になります。

したがって、これに「滝」の意味の「ソー(soo)」を加えると、
「くろ滝」は、=アィヌ語の「ク・ウオル・ソー(ku・wor・soo)」になり、その意味は、
=「飲む・水の・滝」になります。

このように、この「黒滝」のかつてのアィヌ語名は「ク・ウオル・ソー」だったと推定されます。

…土屋(つちや)…

この「つちや」も、次のようなアィヌ語系の古地名である可能性があるように思います。
「つちや」の語源は、=アィヌ語の「ツ・ツィ・ヤ(tu・tuy・ya)」で、その意味は、
=「尾根が・崩れている・川岸」になります。

…本巻(ほんまき)…

「ほんまき」も次のようなアィヌ語系の古地名であると思います。
「ほんまき」の語源は、=アィヌ語の「ポン・マク・キム(pon・mak・kim)」→「pommakim」で、その意味は、
=「小さい(方の)・後ろ・山」になります。

「小さい(方の)後ろ山」があるとすると、その隣あたりに「大きい(方の)後ろ山」があるのが普通ですので、付近にそれらしい山が見当たらないでしょうか。

ちなみに、「大きい(方の)後ろ山」に相当する山があるとすれば、その山の名前は「ポロ・マク・キム(poro・mak・kim)」か、「オンネ・マク・キム(onne・mak・kim)」だったはずであります。
 
 
 



義経伝説トップ

奥州デジタル文庫トップ

2002.4.1
H.sato