随想 アイヌ語地名考

No.38 ◎ 玉山村のアィヌ語地名

 
…好摩(こうま)…

「こうま」の地名由来を和語の範囲の中で解釈しようとしても無理があるようです。

やはり、この地名も、次のようなアィヌ語を語源に持つ古地名として考えるべきであると思います。
「こうま」は、=アィヌ語の「ク・オマ・ナィ(ku・oma・nay)」または「ク・オマ・イ(ku・oma・i)」の後略の「ク・オマ(ku・oma)」が語源であり、その意味は、
=「仕掛け弓・そこにある・沢」か、または、
=「仕掛け弓・そこにある・所」になります。

…渋民(しぶたみ)…

「しぶたみ」も、アィヌ語を語源に持つ古地名であり、次のような解釈があると思います。

1.「しぶたみ」の語源は、=アィヌ語の「スプ・タ・アン・ムィ(sup・ta・an・muy)」→「スプタムムィ(suptammuy)」で、その意味は、
=「渦流・そこに・ある・淵」になります。

2.「しぶたみ」は、=アィヌ語の「スプン・タ・アン・ムィ(supun・ta・an・muy)」→「スプンタムムィ(supuntammuy)」の転訛で、その意味は、
=「ウグイ・そこに・いる・淵」にもなります。

…宇登(うとう)…

「宇登」については宮守村の「宇洞」と同義だと思いますのでそちらの方をご参照ください。

…夏間木(なつまぎ)…

「なつまぎ」も次のようなアィヌ語系の古地名だと思います。
「なつまぎ」の語源は、=アィヌ語の「ヌッ・マク・キム(nut・mak・kim)」→「ヌッマキム(nutmakim)」で、その意味は、
=「静かな流れの・後ろ・山」になります。

…沢目(さわめ)…

「さわめ」は、和語の「沢前」の転訛だろうという見方もありますが、これは和語というよりも、次のようなアィヌ語から転訛した古地名と見た方がより納得のいく解釈になるようです。
「さわめ」の語源は、=アィヌ語の「サ・ワ・アン・メム(sa・wa・an・mem)」→「サワムメム(sawammem)」で、その意味は、
=「前・に・ある・泉池」になります。

…芋田(いもた)…

「いもた」も、和語地名として説明しようとするのは無理があるようで、次のようなアィヌ語系の古地名として受け止めたいと思います。
「いもた」の語源は、=アィヌ語の「イ・モ・オタ(i・mo・ota)」→「イモタ(imota)」で、その意味は、
=「(聖なる)それの・静かな・砂州」か、または、
=「(聖なる)それの・小さな・砂州」になります。

この場合の「イ」は、=「(聖なる)北上川」と解釈されますので、「いもた」は次のようになります。
「いもた」は、=(聖なる)北上川の・静かな・砂州」、または、
=「(聖なる)北上川の・小さな・砂州」

…鴨反(かもそり)…

「かもそり」も変わった地名ですが、これも次のようなアィヌ語系古地名のように思います。
「かもそり」は、=アィヌ語の「カマ・ソ・オル(kama・so・or)」の転訛で、その意味は、
=「平盤岩・の所」と解されます。

…つるさび石(つるさびいし)…

「つるさび石」の「つるさび」も、古代の神秘とロマンを秘めた興味深いアィヌ語系の古地名だと思います。

姫神山の山頂から南に走る大尾根が、およそ、5kmほど延びた所に、標高約800mの日戸(ひのと)高原があり、そこは眺望の開けた牧野になっていて、夜になると、南南西の方角に盛岡市街の美しい夜景が見られます。

「つるさび石」はその高原の上にある桂松院という寺院の宿坊から東側におよそ300mほど延びている舌状尾根の端にあります。

「つるさび石」の「つるさび」の地名由来には、後述するような金山伝説がかかわっていますが、私の直感では、この「つるさび」はアィヌ語を語源とする古地名であると考えられ、次のように解釈しております。
「つるさび」の語源は、=アィヌ語の「ツ・ル・サプ・イ(tu・ru・sap・i)」→「ツルサピ(turusapi)」で、その意味は、
=「尾根の・道を・群をなして一斉に山から里に下る・者」になります。

この場合の語尾につく代名詞「イ(者)」は、=「聖なる神々の石」だと考えられます。
「つるさび石」は、そこの舌状尾根の端の半径50mほどの円の広がりの範囲のうちに、4?6か所に散開して毅然として鎮座している巨石群があり、その中の代表格の一つで、尾根の背中の一番高い所にある高さ4m余りもある複数の大石の組石のことであります。

元々は、おそらく、そこに散開してある4?6か所の巨石群が総称されて「つるさび石」と呼ばれていたのではないかとも考えられます。

この「つるさび石」について、次のような興味ある金山伝説が伝わっております。

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その昔、「つるさび石」の尾根の下ての方に乙女石金山という金山の間歩(坑道)があり、この辺りの地下には有望な金の鉱脈が縦横に走っているといわれていました。そして、「つるさび石」の大石の組石の一つの表面に、この辺りの地下深くに眠っているという「金のベコ」の所在を示す謎の線刻だといわれる十字型の割れ目が刻まれており、今日そこを訪れる誰の目にも容易にその謎の線刻が見えています。

この線刻は、その昔、姫神の女神のお告げにしたがって金堀りの山師の長が刻んだものだといわれております。

ところが、とある年の、さる月の12月の山の神の祭礼の日に、女神のお告げにしたがってその線刻を刻んだといわれる山師の長が、彼の腹心の部下である堀り子の頭を含む6人の男たちを引き連れて、ほかの堀り子たちが作業を休んで坑内に入っていないことを幸いに、彼らだけで人気のない間歩の奥深くに入りました。

その日、7人の男たちが山の神信仰の掟を犯してまで間歩の奥に入った目的は、ひそかに掘り続けていた謎の線刻が示す金のベコの所在を、あと一息で掘り当てられるというところまで掘り進めてあったので、山の神の祭礼の日で間歩のなかが無人になる日を選んで、7人だけでなかに入り、極秘のうちに堀り出そうということだったのです。

7人は、金のベコの所在が、そろそろ、この辺りだろうということで、あらかじめ、間歩のつき当たりの正面を、大きく掘り広げて作っておいた6畳間ほどの空間に立ち、ここぞと思われる壁の一点に向かってつるはしを振りかざし、ものの5?6回ほども振り下ろしたとき、突然、目の前の壁が大きく崩れて、その陰から金色に輝く金のベコの大きな頭が顔を出しました。

ところが、その時、彼ら七人の中に常日頃から山の神を深く信仰し、毎年春を迎えると、姫神山頂の「立石」を初め、日戸の「たたら石」や「つるさび石」、それに高原裏の「乙女石」などの聖なる神々の石にご幣を捧げ、しめ縄を飾って拝んでいたオソトキという堀り子がいて、この日、山師の長の指図とはいえ、山の神信仰の掟を犯してまで間歩に入ったことを、どうしたものかと自らの心に恥じ入りながら作業に加わっていましたが、目の前に現実に現れた金のベコのさん然と輝く大きな頭に魅せられて、みんなと一緒に腰を抜かして地べたに尻餅をついたまま、しばし、呆然自失の体で震えていました。

その時、オソトキの耳に、間歩の出口の方で「オソトキ!」「オソトキ!」と呼んでいる誰かの声が聞こえてきて我に返りました。しかし、オソトキは急には立ち上がれずに大きなため息をつきながら、金のベコに見とれていました。すると、間もなく、オソトキの次に山師の長が正気を取り戻して立ち上がり、あわててみんなの頬を平手でたたいて活を入れて回り、ようやく我に返ったみんなに対して話を持ちかけました。

その話と申しますのは、「もしも、このような大きな金のベコを掘り当てたことが世の人々の目に留まったら、世にはびこる盗賊たちはいうまでもなく、普段は聖人君子の顔をしている近隣のまともな武将たちまでも、一夜にして盗賊に豹変し、手勢を引き連れてこの金のベコを強奪する行動に出るに違いない」「そのようなことになっては大変である」「どうしても、私たち7人だけで人目に触れないように引き出して、今夜のうちに日戸の里の土蔵の中まで極秘のうちに運んで隠さなければならない」「これが成功したら、お前たちに一人当たり金3貫目の分け前をやるから協力するように」…ということでした。純金3貫目といえば、キロに換算して11.25kgです。とんでもない大金になります。とたんに男たちの目は血走り、間歩の中に異様な空気がみなぎりました。

その時、再び間歩の出口の方から、「オソトキ!」「オソトキ!」と、前回にもまして心に響く凛とした声が聞こえてきました。その声の主は、前回には気がつかなかったのですが、オソトキが幼いころに、同じこの金山で働いていて不慮の落盤事故で亡くなった祖父の声によく似ていました。オソトキは顔色を変えて、「おらほの爺が呼んでいる!」と叫んで、夢中で間歩の出口の方に向かって走り出しました。その後ろ姿を見た山師の長がびっくりして、「こら、オソトキどこへ行くか」「待て、待て!」と叫びました。

ちょうどその時、走り出したオソトキのすぐ後ろの方から、ゴーッという大きな地鳴りの音が聞こえたかと思うと、次の瞬間、大音響と共に間歩の奥の方で落盤事故が起こり、オソトキの体が、後ろから何者かに押し飛ばされるようにして、間歩の出口の方に押しやられました。

やっとのことで間歩の外の広場に逃れ出たオソトキが後ろを振り向くと、再び大きな地鳴りがしたかと思うと、山全体が見る見るうちに変形し、間歩の隙穴は出口の近くまで押し潰されてしまいました。

いうまでもなく、この事故で、間歩の奥に残った6人の男たちは、そのまま生き埋めにされて死んでしましました。

その大事故があってからは、山の神の怒りを恐れた掘り子たちは、誰一人としてその山の間歩のなかに入ろうとしなくなり、乙女石金山はそのまま長い間休坑になっていました。

その時の事故で、ただ一人生き残ったオソトキは、その日から金のベコの話については、なぜか、ガンと口を閉ざして一言も語ろうとはしませんでした。

6人の男たちが死んでしまい、オソトキが口を閉ざして一切を語らなくなった結果、その金のベコの所在を示す線刻の謎を知っている人がいなくなり、その後にその謎の線刻の解読に挑戦した人が大勢いましたが、平成の今日まで、誰一人として解読に成功したという人はいなかったようであります。

申し遅れましたが、その時落盤事故が起きたのはなぜか…と申しますと、実は、神無月(10月)を除く毎月の12日は、山林や鉱山で働く山の人たちがこぞって仕事を休み、心を込めて山の神を祭る聖なる日だったものを、その掟をないがしろにして間歩の奥に入って、いきなり禁断のつるはしを打ち込んだので、日夜山の重みをその手で支えている神様がびっくりしてその手を一瞬離してしまわれたために起こった落盤事故だったといわれているわけなのです。

ちなみに、この伝説のなかで「金のベコ」といわれているのは、おそらく、自然金の
「大金塊」か、または桁外れの含有量を誇る「大金鉱床」を意味するものであったろうと考えられます。

それ以来、明治の中頃までは、「つるさび石」を神が宿る聖なる石として崇め、そこにある尾根の道を通る人は、必ず立ちよって礼拝を怠らなかったといわれ、毎年春を迎えると、それらの大石の一つ一つに、オソトキのゆかりの者だといわれる村人たちの手で、真新しいご幣が飾られ、供物が供えられていたと言い伝えられております。…どんしはれ…
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さて、ここでアィヌ語古地名としての「つるさび石」の解説の本論に戻らせていただきます…。

その昔、ここ「つるさび石」の尾根の背中から斜面に連なって散開している「つるさび石」に代表される一群の巨石を、大尾根の上から眺めた古代エミシの人たちの目には、それらの石は、聖なる神の山姫神の峰の上から、尾根伝いの道を通って、一斉に下界の里に駆け下る神々の岩の一群として映ったものであろう…と考えられるのです。

縄文時代の昔から、先住日本人だった縄文人とその子孫のエミシの人たちは、その地方地方にある高い山には、この世に存在する生きとし生けるものすべてに、限りない愛と恵みを与えてくださる偉大なる神々が住んでおられて、下界に住む私たち人間を初め、すべての生き物たちの一挙一動を見守っておられるものと信じていました。そして、人々は、日夜、過ぎ去ったその旬(しゅん)その旬ごとに、山の幸、川の幸、海の幸の恵みを与えてくださるそれらの神々の限りない愛に感謝を捧げ、あわせて、これから先に訪れる各旬においても、過ぎ去りし日と同様に、さらなる愛の恵みを与えてくださるよう、心からお祈りをするという敬虔な暮らしをしていました。

そのような人たちの純粋でソフトな感性の目で見ると、天から降る雨は、高い山におられる神々の恵みの水であり、大地から湧き出る清水は、地中の水をつかさどる水の女神のカムィ・トペ(女神の・乳)であると同時に、地表に小さく突き出ている岩は、神々の住まわれる地中の世界の、聖なる小さな露出部分であり、聖山姫神のように地表に大きく突き出ている大きな山の岩は、まさに、その偉大なる神々の住まわれる地中の世界の、聖なる大きな露出部分として目に映っていました。

そして、津軽平野に突き出ている岩木山を例にして申しますと、岩木山は「カムィ・イワキ」と呼ばれ、その意味は、=「神・住みたまう所」であり、その頂上付近に見える大きな露出部分である巨岩・巨石の上には、常に神々が座っておられて、下界の津軽の平野や海や川のほとりに住む私たち人間をはじめ、この世に生きとし生ける者すべての生き物の行動を、優しく見守り、山と川と海の幸を恵み与えてくださっておられるものと信じていました。

同様に、その他の地方地方にある名だたる高い山々の頂上付近の岩の上にも、常に神々が座っておられて、そこから下界の人間を初めとするすべての動植物の生きる営みを、慈悲の目をもって見守っておられるものと信じていました。

…ということでありまして、そのような感性豊かで、自然にたいする畏敬の念と信仰の心の厚いエミシの人たちの目に映った「つるさび石」は、まさに、そのありがたい姫神の気高く美しい神の山の頂上の岩のご座所から、「尾根の道を群れをなして一斉に山から里に下る聖なる神々の大石」として認識されていたと考えられるのです。

そのような「聖なる神々の大石」が何のために群れをなして一斉に山から里に降るのか…と申しますと、それは、里に住む性善なるエミシの人たちのために、「大いなる神の恵みを携えて下りて来るもの」と理解されていたと考えられるのです。

アィヌ語の動詞「サプ(sap)」は「サン(san)」の複数形ですが、その意味は、現代アィヌ語では「山から里に下る」という平凡な動詞ですが、かつて、より信仰深かった古代のアィヌ語族の人たちのアィヌ語では、「群をなして一斉に山から里に下る」という意味だったと推定されています。そして、その場合の「群れをなして」の「群れ」とは何の「群れ」のことか…と申しますと、それは、多くの場合、もろもろの幸を携えて山の上から里に下りてこられる「神々の群れ」だったということが、彼らが遺した信仰の跡やアィヌ語の古地名とか、彼らの直接の子孫であると思われる現代アィヌの人たちや、彼らの社会に遺る古いユーカラなどのなかから理解し、推定することができるのです。
(注:金のベコとオソトキの話は陸前高田市の玉山金山に遺る産金伝説のなかにもあります)

…手代沢(てしろざわ)…

「てしろ沢」の「てしろ」も、和語地名説の解釈がないわけではないようですが、これも、どちらかというと、和語地名ではなく、アィヌ語系古地名としての解釈の方に、より心引かれるものがあります。

アィヌ語系古地名としての「てしろ」には次のような解釈があります。
「てしろ」の語源は、=アィヌ語の「テシ・オル(tes・or)」→「テソル(tesor)」で、その意味は、
=「簗垣・の所」になります。

…山谷川目(やまやかわめ)…

この地名がアィヌ語を語源に持つ古地名であるとすると、次のように二通りに解釈することができます。

1.「やまやかわめ」は、=「ヤム・ヤ・カ・ウン・メム(yam・ya・ka・un・mem)」→「ヤムヤカンメム(yamyakammem)」で、その意味は、
=「クリの・おか・の上・にある・泉池」になります。

2.「やまやかわめ」の語源は、[1]と同様に、=アィヌ語の「ヤム・ヤ・カ・ウン・メム」ですが、その意味は次のようにも解釈されます。
=「クリの・おかの・糸わなが・ある・泉池」

「カ(ka)」は糸ですが、この場合は「糸わな」のことを指します。

糸わなは、クリの実が稔る季節にはクリの実や泉池の清水を求めてやて来る動物を捕獲するための仕掛けでした。

この糸わなで、普通はテンやウサギなどの小動物を捕ることができましたが、やり方によっては、大きなシカも捕ることができたといわれております。

…市の坪(いちのつぼ)…

「市の坪」の元々の表記は「市坪(いちつぼ)」だったのではないでしょうか。そして、その「いちつぼ」は、次のようなアィヌ語系古地名だったと考えられます。
「いちつぼ」は、=アィヌ語の「エツ・ポク(etu・pok)」の転訛で、その意味は、
=「岬状尾根鼻・の下」になります。

…日戸(ひのと)…

「ひのと」の地名は鎌倉期から見える古地名ですが、この地名のルーツは、和語の「日向(ひなた)」の転訛であるとか、「樋戸(ひのと)」の字違えで、「樋の口」の意味だったとかいわれたりしていますが…。

玉山村もアィヌ語系古地名が比較的多く遺っている所であり、「日戸」の元々の読みもアィヌ語系であり、初めは「日戸」と書いて「ぴと」と呼んでいましたが、次いで、それが「ひと」と呼ばれるようになり、やがて、現在の「ひのと」になったのではないでしょうか。

そして、そのかつての読みの「ぴと」は、古代エミシの人たちが遺した次のようなアィヌ語地名からの転訛地名だったと考えられるのです。
「ぴと」の語源は、=アィヌ語の「ピッ・オ・イ(pit・o・i)」→「ピトイ(pitoi)」であり、その意味は、
=「pit(石が)・o(群在する)・i(所)」だったと思います。

「日戸」にある岩洞第一発電所の前から舗装道路を日戸高原に向かって100mほど登ると、「玉山自然郷山桜公園(仮称)」の広場があり、そこからさらに1km余り登ると、道の左側に、土採り場の土を採った跡に現れたという「日戸万貫石(仮称)」という巨石が立っている小さな広場があります。この巨石の広場からさらに650m(発電所からだとちょうど2km)登った所の道の左側の沢に、何千個もの大牛、子牛大の巨大な川原石が累々と重なり合っている「大石の溜り場」があるのが目に入ります。この「大石の溜り場」こそがアィヌ語の「日戸」の語源の「ピトイ」だったわけであります。

実は、この「大石の溜り場」、つまり、アィヌ語の「ピトイ」のことを地元の人たちは、昔から「たたら」、または「たたら石」と呼んでいるのです。

玉山村の「日戸」の地名の語源だと見られるこの「ピトイ」の「たたら石」が、昭和43年に築造された四十四田ダムの堰堤工事のために、大量に運び出されて使われたことは、痛ましい事件として忘れがたいことであります。

…と申しますのは、その昔、自然を大事にする先祖たちが名づけた「たたら」の地名の意味は、=「踊り・踊り・している・神々の石」ということであり、彼らから聖なる石として崇敬され、大事にされていたことがわかっているからこそ余計に痛ましいのです。

そのような大事な自然の「大石の溜り場」の石を、開発行為の名のもとに、ダンプで片っ端から運び去る有様を、自然をこよなく愛し、自然と共に生きることを暮らしの哲理として生き抜いた古代エミシの人たちが、草葉の陰から見ておられて、どんなにか嘆かれたことでありましょう。実に心寂しい限りであります。

幸い、「たたら」の現場の原形は何とかそのままに近い形で残ったということは不幸中の幸いであります。この上は、故郷の大自然をこよなく愛する村人たちの手によって、そこに「玉山自然郷山桜公園(仮称)」を完成させ、「たたら石」をその目玉として村の天然記念物にでも指定し、子々孫々のために大事に遺すようにしてはいかがでしょうか。

ちなみに、玉山村の「日戸」の語源だと考えられる「ピトイ」と同じアィヌ語が語源だといわれる「美登位(びとい)」という地名が北海道の石狩郡当別町に残っております。この「美登位」の地名の起こりは、石狩川の侵食によって削り取られた洪積世の地層に、角の取れた川原石状の大小の石が無数に露出しているところからこの地名が名づけられたといわれております。
(注:“踊り・踊り・している・神々の石”を意味する“たたら”については次のところで触れさせていただきます)

…多々良(たたら)…

日戸の地名の語源だったと思われる「玉山自然郷山桜公園(仮称)」の「大石の溜り場」のことを地元の人たちが、「たたら」と呼んでおられます。

一般に、和語でいう「多々良(たたら)」とは、古代に使われた「足ぶみのふいご」や、その後にそれを用いて行われた製鉄用の溶鉱炉のことをいいました。したがって、日戸の「たたら」もそのような製鉄にかかわった地名かとも一応は考えられますが、日戸の「たたら」の場所からは、古代の溶鉱炉跡や鍛冶場跡などは発見されていないようですので、ここの地名の由来が、その昔、製鉄にかかわったことを物語る「たたら」だったということにはならないようであります。

…そうだとすると、別に考えられるのは、この場所の「大石の溜り場」の石の上を渉って歩くときに、足下がおぼつかなくて、あたかも「たたらを踏む思いで歩くようだ」という意味で名づけられた地名ではないか…ともいわれたりしているようであります。

以上の二つの和語系の「たたら」の地名説のうち、なるほどと、一応うなずけるのは後者の説でありますが、よく考えてみると、それとても、いまいち、の感がしてなんとなく納得しかねるところがあります。

しかし、この「たたら」の地名も、私の現地調査の結果では、次のようなアィヌ語系の古地名であるという見方が濃厚になってきたわけであります。
「たたら」の語源は、=アィヌ語の「タル・タル・ケ・イ(tar・tar・ke・i)」の実用系の、=「タッタル(tattar)」であり、その意味は、
=「踊り・踊り・している・者(神々の石)」だと考えられます。

「踊り・踊り・している・者(神々の石)」と申しますのは、どういうことかといいますと、それは、自然と共生し、神々の取り仕切る大自然のなかの一員として真摯に暮らすことを、自らの暮らしの哲理と心得ていた古代エミシの人たちの、ソフトで純粋な感性の目に映った日戸の「大石の溜り場」のそのままの印象が、彼らの脳裏に次のような認識となって、深く記銘されていたことの現れであろう…と考えられるのです。

日戸の「たたら(タル・タルケ・イ)」の意味  「たたらの沢」に連なる一群の大石の溜り場の石たちは、神住みたまう山、姫神の聖なる山の頂上から、日戸の村里に住むエミシの善男善女たちのために、大いなる神々の恵みを携えて、今まさに、天峰山の尾根の道を乱舞しながら、一斉に下りて来つつある聖なる神々の石たちである…と解されます。

つまり、これが「踊り・踊り・している・者」と詩的に要約された地名の意味であります。

この「踊り・踊り・している・者」という地名は、本来、小さな凹凸のある浅瀬を流れる春の清流が、太陽の光を浴びてきらきらと輝いて乱舞しながら、歌声のような瀬音をたてて流れ下るうららかな情景を捉えて名づけるアィヌ語族の人たちのすばらしい地名用語であります。

ここでは、その地名用語を、大きな石の群れが、互いに体をぶっつけ合って乱舞しながら、たたらの沢を日戸の里に向かって下っているように見える光景を、巧みに捉えて名づけたものであります。まことに当を得たアィヌ語族のエミシならではのロマンにあふれた美しい地名だと思います。

ちなみに、福島県に世に聞こえる「安達太良(あだたら)連峰」がありますが、この山の名の「あだたら」の語源は、やはり、アィヌ語で次のように考えられるのです。
「あだたら」は、=アィヌ語の「ア・タルタル・ケ・イ」→「ア・タッタル・ケ・イ」の実用形の「ア・タッタル」であり、その意味は、
=「我ら・踊り・踊り・している・者(神々の山)」と解釈されます。

これを思いきって意訳すると次のようになります。
=「我ら共に乱舞している者」

「安達太良連峰」の名は、鬼面山、箕ノ輪山、鉄山、安達太良山の四つの峰を総称した連峰の名称でありますが、古代エミシの人たちの目に映った安達太良連峰の姿は、おそらく、噴煙を上げて活動していた神の山の「安達太良火山」を先頭に、四つの聖山が一緒に乱舞しているように見えるということで名づけられた連山の名でありましょう。

…釘の平(くぎのたいら)…

「くぎのたいら」は「岫の平(くきのたいら)」の書き違えで、元の意味は「山中の洞穴がある平地」か「尾根の上の小平地」を意味する和語地名であるなどといわれておりますが…。

この地名の本来の表記が「岫の平」だとすれば、その「岫(くき)」を「釘(くぎ)」と書き換えているところに問題があると思います。おそらく、初めから「岫」でないことがわかっていたからこそ、このように「岫の平」と書かずに「釘の平」と書いたのではないでしょうか。そして、語源がアィヌ語であるということについては、意識的に無視したか、ないしは、無意識的に本当に知らなかったかして、あえて、そのことに触れずに、和語の「釘の平」の表記を選んだのではなかったか…と考えられます。

そこで、ここであらためて「くぎのたいら」の語源がアィヌ語だったのではないか…という立場に立って考え直してみると次のようになると思います。
「くぎのたいら」の元々の呼称は「くきたい」だったろうと考えられ、その語源は、=アィヌ語の「ク・キム・タィ」で、その意味は、
=「仕掛け弓場の・里山の・森」→「仕掛け弓場の・森山」だったと考えられます。

…姫神山(ひめかみさん)…

「ひめかみ山」の地名由来は、岩鷲山縁起によれば、平安時代の初めごろ、鈴鹿山を根城にして、京の都に出没して悪事を働く悪い鬼どもがいるということで、桓武天皇の命により、坂上田村麻呂が山中深く分け入って鬼退治をしたおりに、山中で一人の神女にめぐり会いました。その神女が田村麻呂を見込んで、自ら進んで彼の守護神となったといわれます。その神女の名は「立烏帽子神女」と称し、その時以来、神女は田村麻呂を護り、彼が戦う度に彼に連戦連勝をもたらしてくれました。こうして、田村麻呂が、胆沢地方のエミシ勢力との戦いに勝ち、次いで、志波地方のエミシ勢力の掃討作戦に勝った時に、その神女を岩鷲山の北々東およそ20kmの所にあるこの美しい山の山頂に祭り、これを「姫ヶ丘」と呼んだということであり、その故事にちなんで名づけられたのが、現在のこの「姫神山」だということであります。

しかし、そうはいいながらも、「ひめかみ」は、周辺の「こうま」、「しぶたみ」、「ひのと」など、見るからにアィヌ語系古地名に属すると見られる地名群のなかの一つとして考えるとき、これもやはり、古代エミシの人たちから受け継がれたアィヌ語地名からの転訛地名ではないか…という考えが浮かんでくるわけであります。

もしも、そのとおりであり、これが純粋な和語地名ではなく、アィヌ語からの転訛地名だとしたら、その語源はアィヌ語の何だったのか…ということになり、次のような解釈が考えられます。
「ひめかみ」は、=アィヌ語の「ヘ・エン・ムィ・カムィ(he・en・muy・kamuy)」→「ヘムムィカムィ(hemmuykamuy)」の転訛で、その意味は、
=「頭が・尖っている・山頂の・神」になります。

したがって、「ひめかみ山」とは、=アィヌ語で「ヘムムィカムィ・シル(hemmuykamuy・sir)」で、その意味は、
=「頭が・尖っている・山頂を持つ・神の・山」になります。

ところが、古代には山全体がそっくりそのまま神でしたから、「姫神山」の名は、語尾に「シル(山)」の字をつけることなく、=「ヘムムィカムィ(hemmuykamuy)」=「頭が尖っている山頂の神」と呼ばれることが多かったと思われ、それが転訛して現在の「ひめかみ」になった…と考えられるのです。

この山は昔から山岳信仰と巨石信仰の神の山であると伝えられており、その信仰の紀源は遠いエミシの人たちの時代にさかのぼると思いますが、さらに、その先に、日本文化の基層といわれる縄文文化の伝統が見え隠れしていることが垣間(かいま)見られます。

…田茂内(たもない)…

岩手町境に「たもない」があります。この地名は次のようなアィヌ語系古地名のように思います。
「たもない」は、=アィヌ語の「タン・モ・ナィ(tan・mo・nay)」→「タムモナィ(tammonay)」で、その意味は、
=「こちら側の・小さな・沢」になります。
 


 

No.39 ◎ 盛岡市のアィヌ語地名

…米内(よない)…

「よない」は、松尾村や二戸市にもあるアィヌ語系の古地名であり、次のように解釈されております。
「よない」の語源は、=アィヌ語の「イ・オッ・ナィ(i・ot・nay)」→「イヨッナィ(iyotnay)」で、その意味は、
=「(畏れ多い)それが・多くいる・沢」になります。

これを「イ・オ・ナィ(i・o・nay)」→「イヨナィ(iyonay)」と書いてもその意味は同じです。

アィヌ語族の人たちにとって、「クマ」とか「オオカミ」とか「ヘビ」は畏れ多い存在の「カムィ(神)」であり、これを呼ぶに当たっては、その名をストレートに呼ぶのをはばかる習わしがあって、一般に、代名詞「イ(i)」を使って「それ」と表現しているのですが、より信仰深かった古代エミシの時代の「イ」は、ただの「それ」ではなく、より崇敬の念のこもった表現の「(畏れ多い)それ」という意味として使われていたと考えられます。これがつまり、この私が提言する「代名詞“イ”の畏敬的用法」の事例というわけであります。

…繋(つなぎ)…

言い伝えによれば、紀元1062年、前九年の役のおり、源頼義・義家親子が、出羽の清原武則の援けを得て厨川の柵の安倍氏を撃ち破ったとき、義家が本陣にしたのが現在の「繋温泉」の湯ノ舘山だったといわれます。そのとき、義家が本陣の下の谷間に温泉が湧いているのを見つけ、戦いが終わってから、しばしの間、温泉に入って人馬を休養させたとのことであります。「繋温泉」の「つなぎ」の地名はその時に義家がそこに愛馬を繋いだという故事にちなんで名づけられたものであり、義家が愛馬を繋いだと伝えられる穴のあいた石が、今でも温泉地内の混みの湯の前にあります。

「つなぎ」の地名由来は、このように八幡太郎義家に結びつけて語られていますが、はたして、そのとおりでありましょうか…。

「つなぎ」の地名の由来は何かというとき、どうしても見落としてならないのはアィヌ語系古地名説であります。

「つなぎ」がアィヌ語系古地名であるとすると、次のように考えられます。
「つなぎ」は、=アィヌ語の「ツン・ナィ・キム(tun・nay・kim)」→「ツナィキム(tunaykim)」の転訛で、その意味は、
=「谷川の・里山」だと思います。

ここで「谷川の・里山」ということは、おそらく、「湯の館山」を指す地名だったと思います。

「つなぎ」とか、「つなぎ沢」など、いわゆる「つなぎ地名」は、岩手県内に多く存在し、その数およそ十数か所に及びますが、その中には駄馬を繋ぐ宿駅を指す和語地名であるとする説の所もありますが、それらの内の多くが、盛岡市の「繋温泉」の「つなぎ」と同じ「谷川の・里山」を意味する地名の「tun・nay・kim」が語源であると考えられます。

…萪内(しだない)…

「しだない」は、シダ(歯朶)の生えている域内のことである…などといえば、和語では一応の地名解釈になると考えられているようですが…。

ところが、ここ「しだない」には有名な縄文晩期の萪内遺跡があり、アィヌ語族だったエミシの人たちの先住の地でもあった所であり、そう簡単に和語地名だといって片づけてしまうわけにはいかない所だと思います。

この地名が単に「しだ」ということだとしたらともかく、その語尾に「ない」がついている「しだない」であるからには、その語源が、おそらく、アィヌ語であり、その解釈は、次のようにアィヌ語の「ナィ」のつく地名である可能性が濃厚だと考えられます。
「しだない」の語源は、=アィヌ語の「カムィ・シンタ・ナィ(kamuy・sinta・nay)」でその意味は、
=「女神の・揺りかごの・沢」になります。

これはどういうことかと申しますと、古代のアィヌ語族の人たちの思想・信仰では、この世は神々の手によって創られた所でありますから、地上には天国にも勝るとも劣らない美しい「楽園」があり、女神が出産するときに、地上にあるその美しい「楽園」に降臨して来て、人間と同じようにして出産をし、子育てをすると信じられていました。彼らはその地上の「楽園」のことを「カムィ・ウワリ・イ」=「女神が・お産する・所」と呼び、「カムィ・シンタ・ナィ」=「女神の・揺りかごの・沢」とも呼んでいたとのことであります。

…浅岸(あさぎし)…

「あさぎし」といえば、地形から見て中津川の川上の方の「浅い岸辺」を連想させる地名ですが、実はそうではなく、これも、かなり信頼性のある次のようなアィヌ語系古地名であると解釈されています。
「あさぎし」の語源は、=アィヌ語の「アサム・ケシ(asam・kes)」で、その意味は、
=「奥の・場末」になります。

「あさぎし」が、なぜ「奥の・場末」なのかと申しますと、それは、北上川の本流をメーンと考えて、その支流の中津川の川上の「丸木舟の便が効く川筋の末端」ということだったと思います。

この地名は、辺りの地形から見てもなるほどとうなずける妥当な地名だと思います。

…綱取(つなとり)…

浅岸の上てに岩手県営の多目的ダム第1号といわれる「綱取ダム」がありますが、その名についている「つなとり」とは何かと申しますと、和語説では、昔、この辺りの地形がことのほか険しいので、ブドウ蔓の網に捕まって上り下りする所だったので、このような地名が名づけられていた…などといわれているようですが…。

この「つなとり」の地名も、古代のエミシの人たちから伝わるアィヌ語系古地名だと考えられ、次のように解釈されます。

1.「つなとり」の語源は、=アィヌ語の「ツン・ナィ・タオル(tun・nay・taor)」→「ツナィタオル(tunaytaor)」で、その意味は、
=「谷川の・高岸の地」になります。

この地名はその場の地形にぴたりと合致しています。

この地名には別に次のような解釈事例も提示されています。

2.「つなとり」の地名の語源は、アィヌ語の「ツ・ネ・タオル(tu・ne・taor)」の転訛で、その意味は、
=「二股・になる・高岸の地」になります。

つまり、この地名は「高岸の沢がY字形に二つに分かれている沢」を指すものと考えられ、現地の地形にもぴたりと合致するといわれているようであります。

…手代森(てしろもり)…

「てしろもり」も、ストレートに次のようなアィヌ語系の古地名として考えた方がよろしいように思います。
「てしろもり」の語源は、=アィヌ語の「テシ・オロ・モィ(tes・oro・moy)」→「テソロモィ(tesoromoy)」で、その意味は、
=「簗垣の・内側の・淵」になります。

おそらく、北上川の梁垣の中にある淵の所に名づけられた地名だろうと思いますが、もしかすると、その場所は尾根をひとつ越した梁川筋に名づけられた地名ではないかとも考えられます。

…猪去(いさり)…

「いさり」も、おそらく、次のようなアィヌ語系の古地名であると思います。「いさり」の語源は、=アィヌ語の「イソ・オル(iso・or)」→「イソル(isor)」で、その意味は、
=「波被り岩の・所」になります。

…安庭(あにわ)…

この地名についても、一部に「安住の地」を意味する和語地名であると解釈している向きもあるようですが、そのような解釈を持ちだされるのはアィヌ語系古地名説の有力な事例を知らないからではないでしょうか。

この地名にかかわるアィヌ語系の古地名には次のような事例が挙げられております。
「あにわ」の語源は、=アィヌ語の「ア・ウン・イワ(a・un・iwa)」→「アニワ(aniwa)」で、その意味は、
=「我ら・そこにいる・聖なる山」になります。

…米倉(よねくら)…

和語では、「米倉(よねくら)」は、=「こめくら」で「米の倉」のことをいう…と説明されたりしているようですが、それならば、なぜ「こめぐら」を「よねくら」といわなければならないのか…ということになり、なんとなくわかるようでわかりにくいところがあります。

この地名が、もし、アィヌ語系の古地名であるとすれば、次のようにすんなりと解釈することができます。
「よねくら」の語源は、=アィヌ語の「イ・オ・ナィ・クラ(i・o・nay・kura)」→「イヨナィクラ(iyonaykura)」で、その意味は、
=「(畏れ多い)それが・多くいる・沢の・仕掛け弓場」になります。

この場合の「イ」は、畏敬的用法の「(畏れ多い)それ」で、その対象は、
=「クマ」だと思います。

「クマ」は、アィヌの人たちが「キムン・カムィ(山にいる・神様)」と呼び、神とあがめる聖なる存在であります。

…矢倉(やぐら)…

「やぐら」は、物見櫓の「櫓」の書き違えであるとか、「岩倉(いわくら)」が訛った地名であるとかいわれていますが、この地名も、おそらく、次のようなアィヌ語系古地名である可能性があると思います。
「やぐら」の語源は、=アィヌ語の「イ・ア・クラ(i・a・kura)」→「イヤクラ(iyakura)」で、その意味は、
=「(聖なる)者が・座っている・岩倉(いわくら)」になります。

「矢倉」の地名は西根町にもあります。

…佐倉(さくら)…

「さくら」は「サクラ(桜)」の書き違えであるとかいわれたりしていますが、これもアィヌ語系古地名とみることができ、次のように解釈できます。
「さくら」の語源は、=アィヌ語の「サ・クラ(sa・kura)」で、その意味は、
=「前の・仕掛け弓場」になります。

…鍋倉(なべくら)…

「なべくら」は鍋を伏せたような形の山に名づけられる地名である…などといわれたりしていますが…。

「なべくら」もアィヌ語系古地名とみて、次のように解釈できます。
「なべくら」は、=アィヌ語の「ナム・ペ・クラ(nam・pe・kura)」で、その意味は、
=「冷たい・水の・岩崖」になります。

…川目(かわめ)…

「川目」については、久慈市の「大川目」と大迫町の「川目」のところをご参照ください。

…根田茂(ねたも)…

「ねたも」もアィヌ語系の古地名で、次のようなアィヌ語の意味を持つと見てほぼ間違いないと思います。

1.「ねたも」の地名の語源は、=アィヌ語の「ネッ・タ・アン・モィ(net・ta・an・moy)」→「ネタムモィ(netammoy)」で、その意味は、
=「流木・そこに・ある・川の淵」になります。

あるいは、次のようにも考えられます。

2.「ねたも」の地名の語源は、=アィヌ語の「ネッ・タ・モィ(net・ta・moy)」で、その意味は、
=「流木を・拾う・淵」とも解されます。

…泰間(たいま)…

梁川の「たいま」もアィヌ語系古地名であるとみられ、次のように解釈されます。
「たいま」は、=アィヌ語の「タィ・マク(tay・mak)」の転訛であり、その意味は、
=「森の・奥」になります。

安代町の「田山」の旧称が「当麻(たいま)」で、やはり、「森の・奥」という意味の地名だったようです。

…ヨロベツ沢(よろべつざわ)…

国道106号線簗川郵便局前の中村の奥の方の沢が「よろべつ沢」です。

この沢の名前の「よろべつ」は、地図の上にも仮名書きで「ヨロベツ沢」と記載されてあるところからしても、その語源がアィヌ語系古地名であることが推定できます。

この地名がアィヌ語系古地名だとすると、次のように解釈できます。

1.「よろべつ」の語源は、=アィヌ語の「イ・ウォロ・ペッ(i・wor・o・pet)」で、その意味は、
=「(大事な)それを・水に漬ける(うるかす)・川」になります。

この場合の「(大事な)それ」と申しますのはアィヌ語族の人たちの必需の衣料原料であるオヒョウニレ(アッ・ニ)やハルニレ(チ・キサ・ニ)の樹皮のことだと考えられます。

2.「よろべつ」は、=アィヌ語の「イウォル・ペッ(iwor・pet)」の転訛で、その意味は、
=「狩場の・川」になり、これを言い変えますと「獲物のいる所の・川」とも解されます。

地元の古老たちにお尋ねしたら「よろべつ」の発音は「よろっぺつ」だといい、ここは、昔、マタギの人たちが狩りに出かけるときの通り道であり、この沢の入口の山神の前で入山の神事を執り行った所だったとのことであります。

私は、かつて、東北地方の大河である馬淵川が「マク・ウン・ペッ」と呼ばれていたことなども考え合わせて、「大きい川」が「ペッ」であり、「小さい川」が「ナィ」だと、頭から思いこんでいたことがありましたが、実は、そうとは限らずに、この「梁川」の枝川の「よろべつ沢」を流れる川などのように、語源のアィヌ語では「ペッ」のつく川でありながら、川幅が狭くて、ひと跨ぎの小川である場合もあるということを知り、私の頭の中にあった「ペッ」が「大川」で、「ナィ」が「小川」であるという見方は、一応の傾向的見方であって、厳密な意味での決まりではないということがわかりました。

そして、また、北東北の場合、「ペッ」に対する「ナィ」が多いということも、よくわかりました。

山田秀三先生のお話によれば、樺太(サハリン)では、「川」はその大小にかかわらずそのすべてが「ナィ」と呼ばれているのに対し、千島では、逆に、「川」はそのほとんどが「ペッ」と呼ばれていて、「ナィ」は例外的にほんの1?2あるだけだとのことであります。

…鶴子(つるこ)…

「つるこ」の地名もアィヌ語を語源に持つ古地名である場合が多いようで、次のように解釈されています。
「つるこ」の語源は、=アィヌ語の「ツ・ル・コッ(tu・ru・kot)」で、その意味は、
=「古い・川の・跡」になります。

…手代木沢(てしろぎざわ)…

「てしろぎ沢」の「てしろぎ」も、次のようなアィヌ語系の古地名であると考えられます。
「てしろぎ」の語源は、=アィヌ語の「テシ・オロ・キム(tes・oro・kim)」で、現在の音韻変化のでは、「テソロキム(tesorokim)」になるのが本当だと思うのですが、古代エミシの人たちのアィヌ語では、現在よりも音韻変化がそれほど進んでいなかったようで、「テス・オロ・キム(tes・oro・kim)」と基本形に近い発音で話されていたのではなかったかと推測されます。そして、その意味は、
=「簗垣・の所の・里山」になると思います。

…名乗沢(なのりざわ)…

「なのり沢」の「なのり」も、次のようなアィヌ語系の古地名のようです。「なのり」の語源は、=アィヌ語の「ナィ・ノ・ル(nay・no・ru)」でその意味は、
=「沢にある・尊い・足跡」になります。

ここで「尊い・足跡」とは、=「クマの・足跡」になります。

したがって、「なのり沢」とは「クマの・通り道の・沢」ということだと解されます。

…沢目(さわめ)…

「さわめ」もアィヌ語系の古地名であると考えられ、次のように解釈することができます。
「さわめ」の語源は、=アィヌ語の「サ・ワ・アン・メム(sa・wa・an・mem)」→「サワムメム(sawammem)」で、その意味は、
=「前・に・ある・泉池」になります。

…乙部(おとべ)…

「おとべ」の地名も、たいていはアィヌ語を語源に持つ典型的なアィヌ語系地名である場合が多いようです。

盛岡市の「おとべ」もそのとおりであって、次のように解釈されます。

1.「おとべ」は、=アィヌ語の「オ・ト・ウン・ペ(o・to・un・pe)」で、現代の音韻変化のきまりでは「オツンペ(otumpe)」と発音されるのが本当だと思うのですが、古代エミシの時代には、基本形により忠実であったようですので、次のように発音されていたと推定されます。
「おとべ」は、=「オトムペ(otompe)」で、その意味は、
=「川尻に・沼が・ある・者(川)」になります。

「おとべ」の解釈の本命は、この[1]のようでありますが、このほかに次のような有力な解釈もあるようであります。

2.「おとべ」は、=アィヌ語の「オタ・アン・ペッ(ota・an・pet)」→「オタムペッ」の転訛で、その意味は、
=「砂州・ある・川」になります。

…一盃森(いっぱいもり)…

「いっぱい森」とは、その形が「飯椀に盛られたてんこもりの飯のような形の森」のことをいう…と説明されているようですが、この定義には一応間違いがないように思います。

なぜかと申しますと「いっぱいもり」は、アィヌ語地名説でも、和語地名説の解釈でも、つまるところ同じ意味に説明できるからであります。

これについてのアィヌ語系地名説では次のように説明されています。

1.「いっぱい森」の「いっぱい」は、=アィヌ語の「エプィ(epuy)」で、その意味は、
=「円い小山」になります。

「円い小山」とは、つまり、その形が「飯椀に盛られたてんこもりの飯のような森」ということであります。

そこで、その「エプィ(円い小山)」に比定される森山とはどの山のことかと申しますと、それは、おそらく「鬼ヶ瀬山」だろうと思います。

アィヌ語の「エプィ」の典型は地中から頭をポコンと出したばかりの「フキノトウ」の形だといわれ、訳は「頭」とか「円い小山」になる場合が多いとのことであります。

2.「いっぱい森」の「いっぱい」は、=アィヌ語の「エプィ」で、その意味は、
=「木の花」とも解釈できます。

したがって、「いっぱい森」とは「木の花の咲く森」ということになります。

そして、北国の山に咲く「木の花」と申しますと、その代表が「コブシの花」でありますから、「いっぱい森」とは、=コブシの花の咲く森」だったともいうことができます。

「エプィ」には「つぼみ」の意味と「木の花」の両方の意味とがあるようですが、基本的に元々は「つぼみ」の意味だったのが、拡張解釈されて「開花した木の花」までも「エプィ」と呼ばれるようになったものと考えられます。

…津志田(つしだ)…

「つしだ」も、繋の「萪内(しだない)」と同様、次のようなアィヌ語系古地名だったようであります。
「つしだ」の語源は、=アィヌ語の「カムィ・ツ・シンタ(kamuy・tu・sinta)」で、その意味は、
=「女神の・古い・揺りかごの園」であります。

つまり、「昔、そこに女神の揺りかごの園があった所」という意味だったと思います。

「女神の・揺りかごの園」と申しますのは、女神が子供を産むときには、神々が住む世界にも劣らない美しい所とされるこの世の子育ての園に降りてきて、人間と同様に子供を産んで育てると考えられ、その場所だとされる所が、すなわち、「カムィ・ウワリ・イ(女神の・お産の・園)」であり、「カムィ・シンタ(女神の・揺りかごの園)」でもあるというわけであります。

…羽場(はば)…

「羽場」や「幅」の地名は「端場」の転で、段丘の端の「法面」とか耕地や敷地などの有効利用面積に入らない「急斜面」のことである…などという説もあるようですが…。

実は、この地名も次のようなアィヌ語系古地名である確率が高いように思います。
「はば」の語源は、=アィヌ語の「ハ・パ(ha・pa)」で、その意味は、
=「川沿いの水が引いて陸(おか)になった・岸辺」だと思います。

したがって、「はば」は、=「やはば」の語源の「ヤ・ハ・パ(ya・ha・pa)」と同じ意味だと考えられ、今でいう「河川敷」もその範疇に入ると思います。

…木伏(きっぷし)…

盛岡駅前を出て海運橋の手前の交差点を左折して盛岡駅前北通に向かう辺りの地名は、昭和40年まで「木伏(きっぷし)」でした。

「木伏」の読みは、初め「きうし」で、それが「きっぷし」になったものと推測され、次のようなアィヌ語系古地名だろうと考えられます。
「きっぷし」は「きうし」が訛ったものであり、その語源は、=アィヌ語の「キ・ウシ・イ(ki・us・i)」→「キウシ(kiusi)」で、その意味は、=「アシ(葦)が・群生する・所」になります。

「きっぷし」は北上川に流れ込む雫石川が両河川の間に形成した鋭三角形の川尻の沖積平地の地名であり、古代にはここと地続きである下流の平戸(へど)とともに、一面にアシが生い茂っていた荒蕪地だったことが容易に想像される所であります。

…平戸(へど)…

前記「木伏」の川下の辺りの北上川と雫石川との合流点に至る周辺も、昭和40年まで、下厨川字「平戸(へど)」と呼ばれていました。

この「平戸」の読みは、初めはおそらく、「ぺと」で、それがやがて「へと」→「へど」と読まれるようになったもので、次のようなアィヌ語系古地名だったと考えられます。
「へど」は、=アィヌ語の「ペッ・オ(pet・o)」→「ペト(peto)」の転訛で、その意味は、
=「川・尻」になります。

「へど」はどこの「川尻」かと申しますと、それは雫石川の川尻で、北上川との合流点にできた鋭三角形の沖積平地の地名であり、雫石川の川尻であるところからこのような名前がつけられた所のようです。地形と地名がぴたりと合っているアィヌ語系の典型地名であります。

盛岡市では、昭和40年に思いきった町名変更がなされ、城下町の歴史文化のしみ込んだ町名であった鍛治町、大工町、花屋町などの地名を地図の上から消し去ってしまいました。その結果、みちのくの古い城下町のイメージが大きく失われてしまったと思います。そのなかで、紺屋町、材木町、鉈屋町などの町名が残ったことがせめてもの慰めになります。

その時に消されてしまった惜しい町名のなかに「きっぷし」や「へど」などのアィヌ語系古地名もあったわけです。なかでも、「きっぷし」の町名が地図の上から消されたのはどうしてでしょうか。その理由がわかりかねます。「へど」については「嘔吐(おうと)」が連想されてよろしくないという理由だったようですが、長崎県に「平戸(ひらと)市」の例があるように、読みを「ひらと」と替えても残すべきだったと考えられるのにもかかわらず、惜し気もなくばっさりと切り捨ててしまった感じがして後味が良くありません。

…明戸(あけど)…

三本柳の「明戸」については大野村の「明戸」のところをご参照ください。
 



 

No.41 ◎ 紫波町のアィヌ語地名

…彦部(ひこべ)…

「ひこべ」の地名が和語系だとすると、その解釈がかえって難しくなります。そして、これがアィヌ語古地名だとすると、次のように解釈することができます。
「ひこべ」は、=アィヌ語の「ピ・コッ・ペッ(pi・kot・pet)」の転訛で、その意味は、
=「石ころの・谷間の・川」になります。

…紫波(しわ)…

「しわ」の初見は紀元789年(延暦8年)の桓武第1次エミシの国侵攻戦争のおりの続日本紀6月9日条に、征東将軍紀古佐美の上奏文があり、その中に「胆沢の地は賊奴の奥区、子波(しわ)・和我僻して深奥にあり」と記録されています。

古代の「しわ」は、桓武天皇がエミシの国日高見に第1次から、第2次、第3次にわたる大侵攻軍を送り込んで戦い取った最北の占領地であり、はじめ「子波」と書き、次いで「斯波」と書きましたが、紀元803年(延暦22年)に盛岡市中太田方八丁に建てられた新しい「城柵」の表記は「斯波城」ではなく、「志波城」でした。そして、中世以降にこの地が「志和」とも書かれましたが、現在の地名は「紫波郡紫波町」になっております。

この地方に「斯波郡」が建郡されたのは、和賀郡、稗縫(稗貫)郡と同じ紀元811年(弘仁2年)であり、その領域の広がりは現在の「紫波郡+α」だったと推定され、そのうちの「+α」の部分というのが現在の岩手郡から葛巻町を除いた範囲辺りではなかったか…と考えられます。後に、大分後れて、9世紀半ばから10世紀半ばあたりまでの間に岩手郡が建郡されたと推定されますが、これは、先に建郡されていた古代の「斯波郡」の北部に、およそ、葛巻町を加えて分離独立させる形でなされたもののようであります。

この「しわ」の地名が、古来「子波」、「斯波」、「志波」、「紫波」などと漢字で表記されてきたのは、その語源が次のようなアィヌ語だったと考えられるからであります。
「しわ」の語源は、=アィヌ語の「シ・イワ(si・iwa)」であり、それが音韻変化して「シワ(siwa)」と発音されていたと考えられ、その意味は、
=「偉大なる・神住みたまう山」だと思います。

この地名の「シ・イワ」の「シ」は、=「偉大な」とか「真の」という意味であり、「イワ」の古代における意味は、=「カムィ・イワク・イ」→「カムィ・イワキ」で、「神・住みたまう・所(山)」と同意だと推定されています。

したがって、「シ・イワ」→「シワ」の意味は、=「偉大なる・神住みたまう山」であり、それが、すなわち岩手山の山名だったと考えられます。

なお、「岩手山」は別に、「岩鷲山(いわわし山)」と呼ばれ、その語源は、=「イ・イワ・アシ・イ」→「イワシ」で、その意味は、=「(畏れ多い)神の・岩・立てる・者」だったと思いますから、この「シ・イワ」→「シワ」と申しますのは、「岩手山」の本名的呼称であり、「イ・イワ・アシ・イ」→「イワシ」は、その別称だったのではなかったか…と想像されます。

「しわ」の地名のルーツは「岩手山」だと申しますと、デスクワークの上だけで考えますと、それでは位置が北に寄り過ぎる呼称ではないか…という見方が脳裏をよぎり、それより南に位置する「南昌山」をもって「シ・イワ」と呼んだのではないか…という考えも浮かんできます。

しかし、そのような見方をするのは南からはるばる侵入して来た和人たちの「東夷北狄」の中華思想の観念に基づく見方でありこの地方を自分たちが生まれ育ったかけがえのない故郷であると思っていたであろうエミシの人たちの感覚では、故郷に北も南もないはずであり、この地方随一の主峰である岩手山の名が「シ・イワ」であるという見方に、何のこだわりもなかったはずであります。

そして、なお、この私が実際に戸外に出てこの地方一帯のフィールドワークを行ってみた結果でも、矢巾町の北上川の河東の小高い丘の上に立って、河西の山並の現実の風景を見渡したところ、紫波町の東根山からその北の矢巾町の南昌山も盛岡市の箱ヶ森も、さらに、その北にそびえる岩手山も、玉山村の姫神山までも、まさに、その景色は、主峰岩手山を取り巻く一幅の風景画に納まる広がりであり、そこに、「しわ」の地名が北に寄り過ぎる呼称であるなどというような感じは少しもなく、「しわ」の地名のルーツは、やはり、「シ・イワ」こと「岩手山」だったという認識が強まるばかりでした。

…佐比内(さひない)…

紫波町の「佐比内」には「水無川」という川があります。その昔、「さひない」に諸国を行脚中の弘法大師が、一介の雲水姿で現れ、中沢川べりのとある民家に立ち寄って一杯の水を所望したところ、そこの嫁さんがちょうどはた織り作業の真最中であり、手を休めるのを嫌い、「あいにく汲み置きの水がないから一人で川の水でも飲んだらいいでしょう」といって断ったとのことであります。間もなく、一仕事終えた嫁さんが夕食の支度のためにと思い、川の水汲み場に下がったところ、どうしたことか、その上の方には元通りに水が流れているのに、いつの間にかその辺り1kmほどの川底が干上がっていて、一滴の水も流れていなかったとのことであり、それ以来、この川の水涸れしている部分のことを、村人たちが「水無川」と呼ぶようになったと伝えられております。

しかし、いうまでもなく、この川の水無現象はとうの昔からあった自然な現象であり、この地名も、やはり、その昔、先住のエミシの人たちによって、すでに名づけられていた次のようなアィヌ語を語源に持つ古地名だったのです。
「さひない」は、=アィヌ語の「サッ・ピ・ナィ(sat・pi・nay)」の転訛で、その意味は、
=「涸れる・石ころの・川」になります。

この川は大雨が降って増水した時だけ水が流れますが、常時は下流部分で水涸れして、乾いた石ころの川底が見えるので、このような地名がつけられたもののようであります。

「さひない」の地名の語源となった川と申しますのは、実は「彦部川」の枝川の「中沢川」のことであり、全長4kmほどの小さな川ですが、上流・中流は常に水涸れすることはありませんが、下流の国道396号線とクロスし、平栗川と合流して彦部川となる直前の、屋号「水無(みずなし)」さんと呼ばれる藤井家のやや川上辺りで、流れが地下に潜ってなくなる川なのです。

なぜ、このような現象が起きるのかと申しますと、すぐそばに石灰岩の採掘場があるように、この辺りの地下が石灰岩層になっているので、おそらく、地下にカルストの空洞の迷路ができていて、その中に川の水が吸い込まれているせいではないだろうか…と考えられているようです。

「さひない」の地名は、岩手県内に安代町や遠野市にもあります。

従来、この種の川のことを「涸れた・石ころの・川」と訳していましたが、山田秀三先生が、どの「サッ・ピ・ナィ」も、一様に「涸れた・石ころの・川」とはいえないのではないか。その多くは渇水期にだけ水涸れするのだから、「涸れる・石ころの・川」と訳すのが本当ではないか…と指摘されておられます。

もちろん、上流にダムができて、流れる水のほとんどが横流しされてしまっている遠野市の「佐比内川」のような川は、事実上「涸れた・石ころの・川」と化しています。

…定内(じょうない)…

紫波町の赤沢川の下流に「じょうない」の集落があります。この地名はアィヌ語の「滝の・沢」を意味する古地名だろうということは、前から予想していたところでありました。そして、いずれ、折を見て現地踏査をして、そのルーツの「滝」の存在を確かめてみようと思っていましたが、今年の7月、ようやく「佐比内」の地名の調査を終えた余勢を駆って、「じょうない」の現地に入り、半日探し回ったあげく、そこに立派な「滝」が存在するのをつきとめることができ、次のようなアィヌ語系の古地名であるとの確信を得たところであります。
「じょうない」の語源は、=アィヌ語の「ジョー・ナィ(joo・nay)」の転訛で、その意味は、=「滝の・沢」になります。

この地名のルーツと見られる「定内の滝」は彦部小学校前から赤沢川沿いの道を上流に向かって1.6kmほど上った所の右側のやぶ陰にありました。

…日詰(ひづめ)…

「毎月末に開く定期市」のことを「ひづめいち」というとのことであり、「ひづめ」の地名の由来は、この「毎月末に開く定期市」にちなんで名づけられた地名であるとの説もあるわけでありますが…。

しかし、この地域は平安時代末期に、すでに、奥州藤原氏の一族「樋爪(ひづめ)氏」の本拠地であったということがわかっておりますので、「ひづめ」の地名はそれ以前からの古地名であり、その語源はアィヌ語である可能性が十分にあるわけであります。

この「ひづめ」のアィヌ語系古地名説として考えられるものに、次のような解釈があるようです。
「ひづめ」は、=アィヌ語の「ピッ・ムィ(pit・muy)」の転訛で、その意味は、
=「小石川原の・川港」になります。
「ムィ」は「箕(み)」、「束」、「オオバンヒザラガイ」などの意味ですが、しばしば「モィ(入り江・港)」の意味に使われます。

…暮坪(くれつぼ)…

和語ではこの地名の意味を「土くれの多い耕地」と説明している例も見受けられますが…。

この地名もよくある地名で、おそらく、その多くは次のようなアィヌ語を語源に持つ古地名であると考えられます。

1.「くれつぽ」の語源は、=アィヌ語の「ク・アレ・ツ・ポク(ku・are・tu・pok)」→「クレツポ(kuretupok)」で、その意味は、
=「仕掛け弓を・仕掛ける・尾根・の下」になります。

2.「くれつぽ」の語源は、=アィヌ語の「ク・アレ・ツポ(ku・are・tu・po)」→「クレツポ(ku・re・tu・po)で、その意味は、
=「仕掛け弓を・仕掛ける・小山」になります。

「ツ・ポ(tu・po)」は、=「ポン・ツ(pon・tu)」でその意味は、
=「小さな・尾根」で、=「小・山」になります。

「暮坪」の同一地名は西根町、大東町、遠野市に、類似の「久連坪」が陸前高田市にありますが、これら岩手県内に5か所にある「くれつぽ地名」の語源の基本形は、すべてアィヌ語の「ku・are・tu・pok」か、ないしは「ku・are・tu・po」であることは確かでありますが、その発音は、現代アィヌ語の音韻変化のきまりに倣うと、「ク・アレ・?(ku・are・?)」は、=「カレ・?(kare・?)」になるはずなのですが、実際には、この地方の「ク・アレ・?(ku・are・?)」が語源だったと思われる地名のところには「クレ・?(kure・?)」の発音を暗示させる漢字の「暮」または「久連」が当てられているわけであります。

このあたりのことについて私見を申しますと、おそらく、アィヌ語の音韻変化は時代の変遷とともにその変化の度合いが顕著になってきたということであり、昔は現代よりも基本の単語一つ一つの発音を大事にする会話がなされていたのではないかと思います。
(注:“くれつぼ”については西根町のところもご参照ください)

…山屋(やまや)…

「山屋」については二戸市のところをご参照ください。

…栃内(とちない)…

和語で「とちない」は「トチノキがある集落の内」という意味である…などと説明したりしているようですが…。

この地名も多分に次のようなアィヌ語系の古地名である可能性が高いように思います。
「とちない」の語源は、=アィヌ語の「トチ・ナィ(tochi・nay)」で、その意味は、
=「トチ(栃)の・沢」になります。

「トチ」はアィヌ語と和語の共通語でありますが、この場合は、語尾に「ない」がついて「トチ・ナィ」に限りなく近い発音になっているので、たしかなアィヌ語地名だったということになります。
(注:“栃内”の同一地名は釜石市、遠野市、花巻市等にもあります)

…座比(ざっぴ)…

「ざっぴ」もアィヌ語系古地名の一つではないか…といわれ一般に次のように解釈されています。
「ざっぴ」は、=アィヌ語の「サッ・ピ・ナィ(sat・pi・nay)」の後略の「サッ・ピ」の転訛地名で、隣の「佐比内」と同じ意味の地名だというわけであります。

しかし、この地名については、現時点でその現地確認の作業が完了していませんので、その最終結論を保留させていただきたいと思います。
 
 
 
 
 



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2002.4.1
2002.4.14
H.sato