随想 アイヌ語地名考

 

No.27 ◎ 釜石市のアィヌ語地名

 
…釜石(かまいし)…

江戸時代の初めごろには「釜石」の中心地は甲子川の中流域の甲子にあり、甲子は、下流域の海岸付近にあった甲子浦(かっしうら)とか「矢ノ浦」、それに現在の平田と合わせて釜石郷とも呼ばれていました。ところが、その後、釜石郷の中心地が次第に甲子川の下流の臨海地域に移ってくるに及んで、釜石郷は臨海地域の浜釜石村と、もとの中心地だった甲子川の中流域の甲子村とに別れていたこともありました。

「釜石」の地名は、遠野市や一戸町にもあり、水沢には字違いの「竈石(かまいし)」があります。

松尾村には釜石環状列石で知られる「釜石」があります。松尾村の「釜石」の地名の由来は、昔、ここにある直径12メートルのメーンの環状列石の周辺に、いくつかの小衛星のように配置されてあった小さな環状列石(径約3m)が、何か所かに露出して見えていたといわれ、それが、ちょうど昔の人たちの竈(かまど)の跡のように見えたので、人々は、この辺りの地名を「竈石(かまいし)」と呼んでいたのが「釜石」と採録されたもののようであります。したがって、松尾村の「釜石」の地名は、明らかに和語地名であるということがわかっております。

「釜石市」の「かまいし」の地名由来は、甲子町洞仙の甲子川の洞仙橋の上流の、現在洞泉市営アパートが建っているすぐ裏の所に、現に「釜淵」と呼ばれている淵がありますが、かつて、その淵の所に直径2.5m、深さ1mほどの大釜に似た自然の彫り込みのある大石があり、地元の人々がその大石のことを「釜淵の釜石」と呼んでいたとのことであります。

そこは、元、子供たちの格好の水遊び場になっていて、現在60代以上になっておられる地元の人たちが子供のころまでは、その「釜淵の釜石」が健在だったといわれ、それがあったことを知っておられる人が少なくないようです。

ところが、私の今年の2回にわたるフィールドワークでは、「釜淵」の存在は確認できましたが、問題の「釜石」の存在は確認できませんでした。地元の藤井さんといわれる方のお話では、近年川が荒れて、破損と砂れきによる埋没が進み、昔のようなはっきりとした形が見当たらなくなってしまったとのことでありました。

しかし、この地の古老の人たちの多くが、かつて、この釜のような彫り込みのある大石の存在を知っておられるからには、「釜石」の語源のルーツがここにあったという和語地名説を裏づけるものとして注目に値します。

申し遅れましたが、この「釜淵の釜石」説については釜石市誌にも記載されており、「甲子川」が、かつて、「釜石川」と呼ばれていたのもこの説が認められていたからだ…ともいわれているようであります。

ほかに、甲子川が「釜石川」と呼ばれていたことがあったのは、その川上の甲子の大橋から釜を作る鉄鉱石が産出されることにちなんで名づけられたものである…という説も聞こえてまいります。

ところが、以上の和語説に対し、「かまいし」の語源は、アィヌ語だろうということで次のような二通りの解釈が提示されております。

1.「かまいし」は、=アィヌ語の「カマ・ウシ・イ(kama・us・i)」→「カマ・ウシ(kama・usi)」の転訛で、その意味は、
=「平盤岩が・ある・所」になります。

2.「かまいし」は、=アィヌ語の「クマ・ウシ・イ(kuma・us・i)」→「クマ・ウシ(kuma・usi)」の転訛で、その意味は、
=「サケ干し竿の干し場が・多くある・所」になります。

ただし、この「クマ・ウシ」は、=「チェプ・クマ・ウシ(chep・kuma・usi)」の「チェプ(サケ)」が省略された形であり、省略された後でもその意味は省略前と同じであります。

私がどうして「かまいし」のアィヌ語地名説にこだわるかと申しますと、[1]の「カマ・ウシ」説については、金田一京助先生もこの説を採っておられましたし、日本が太平洋戦争に突入するきっかけとなった真珠湾事件があったころ、甲子川の川口の嬉石の海岸にあったかなり大きな「平盤岩」を、私自身がこの目でたしかに見ているからであります。また、[2]の「クマ・ウシ」説については、その昔、甲子川が有望なサケ川であったという事実から、この川のほとりに「サケ干し竿の干し場」がそちらにも、こちらにも見えていたという原風景が容易に想像されるからであります。

和語説の一つとされる洞泉の「釜淵の釜石」に由来するという説に大きく心が傾きますが、さりとて、アィヌ語起源説にも少なからず心が引きつけられます。和語説か、アィヌ語説か、その最終判断は難しく、今のところ、容易には決めかねるところであります。

…嬉石(うれいし)…

「うれいし」の地名由来は、「ウリの形をした大石がある所」という意味であるとか、「売り石」の転訛である…などと説明されたりしておりますが…。

この地名についても次のような有力なアィヌ語系古地名説があります。
「うれいし」は、=アィヌ語の「ウラィ・ウシ・イ(uray・us・i)」→「ウラィ・ウシ(uray・usi)」の転訛で、その意味は、
「簗(やな)が・多く(仕掛けて)ある・所」になります。

この地名は、わざわざ説明するまでもなく、甲子川のサケ漁にちなんで名づけられたアィヌ語地名だったことを物語っております。

…佐須(さす)…

「佐須」は、和語の「砂州(さす)」の書き違えで、もとの意味は川の流砂が堆積されてできた小平地を指す…という説もありますが…。

この地名も多分にアィヌ語系の古地名のようで、次のような二通りの解釈があります。

1.「さす」の語源は、=アィヌ語の「サ・ウシ(sa・us)」で、その意味は、
=「前浜の・入り江」になります。

2.「さす」の語源は、=アィヌ語の「サシ・ウシ・イ(sas・us・i)」→「サシ・ウシ(sas・usi)」で、その意味は、
=「コンブが・たくさんある・所」になります。

「サシ・ウシ」の同一地名は北海道の白糠町にあります。

アィヌ語の「サシ」は「コンブ」のことで、北海道の北東部でよく使われ、南西部では「サシ」よりも「コムプ」が多く使われています。

…花露辺(けろべ)…

「けろべ」の地名の由来は、昔、「ケロリ」という異邦人が浜に流れ着いて村人たちに助けられ、村の娘の手厚い看護を受けて一命を取りとめました。元気になった「ケロリ」はその娘と結婚して幸せに暮らしました。彼は村人たちのなかに溶け込んでよく働き、村人たちに異国の変わった技術を伝えたといわれています。

「けろべ」の地名は彼の名の「ケロリ」にちなんで名づけられた古地名だったといわれています。

しかし、「けろべ」は「ケロリ」に由来する古い地名だとする考え方は、ありふれた創作伝承だろうということであり、あまりあてにはなりません。やはり、この地名も、アィヌ語を語源に持つ次のような古地名であると考えられます。
「けろべ」は、=アィヌ語の「ケレ・オッ・ペ(kere・ot・pe)」→「ケロペ(kerope)」の転訛で、その意味は、
=「いつも削らせている・所」になり、これを普段の言い方に言い換えますと、
=「いつも削られている・所」になります。

「けろべ」の地名は、沈降した谷間に海水が入り込んでできたリアス式特有の変化に富んだ美しい海岸に、太平洋の大波小波が耐えることなく押し寄せて削り取ってできた険しい断崖を伴う自然美の地形の所に名づけられた地名でありますから、その形にマッチしたよい地名だということになります。

「けろべ」の語源の「ケレ・オッ・ペ」に似た地名が北海道にあります。

その地名と申しますのは、湧別町のJR湧網線の「計呂地駅」の駅名の「けろち」です。この駅の名前の「けろち」は、=アィヌ語の「ケレ・オチ(kere・ochi)」で、その意味は、
=「いつも削られている・所」ということであり、釜石の「けろべ」と同じ意味になります。どうして同じ意味なのか…と申しますと、次のようなわけがあるからであります。

「kere・ochi」は、=「kere・ot・i」で、やはり、=「いつも削られている・所」になるわけなのですが、実は、この場合、文法上のきまりで、「ot・i」は「ot・i」とはいわずに、=「ochi」とつめて発音するようになっているわけなのです。そして、その意味は、=「いつも?している・所」ということであって、「ot・pe」とまったく同じ意味になるわけです。したがって、「kere・ochi」は、そのまま、=「kere・ot・pe」になるわけであります。

…坪内(つぼない)…

「つぼない」も次のようなアィヌ語系の古地名である可能性がかなり高いと思います。
「つぼない」は、=アィヌ語の「ツ・ポク・ナィ(tu・pok・nay)」の転訛で、その意味は、
=「尾根の・下の・沢」になります。

ここで、「ツ・ポク(尾根の下)」といっているのは「五葉山の尾根の下」ということであると推定されます。なぜかと申しますと、「坪内」は今でもここから五葉山頂に通ずる登山道が開けてあるように、ここは古代エミシの人たちの時代からの五葉登山の登山口であると同時に、シカ狩りに入山するマタギたちの通り道でもあったと推定されるからであります。

…定内(じょうない)…

甲子町の「定内(じょうない)」は、現在「さだない」とも呼ばれたりしていますが、元々は「じょうない」だったようです。

釜石市は明治期から太平洋戦争までの間に釜石鉱山の発展と共に、急速に開発された所で、住民の多くがよそからの転入者で占められている関係上、元の「じょうない」の読みがわからないまま「さだない」とも呼ばれるようになったものと推定されます。

しかし、この「じょうない」の地名は、かつて、河川改修前の「向定内」の沢に小さな滝があったので名づけられたアィヌ語系古地名ではないかと考えられ、次のように解釈されます。
「じょうない」は、=アィヌ語の「ジョー・ナィ(joo・nay)」で、その意味は、
=「滝の・沢」になります。

私の現地調査では、現在、俗に「向定内」と呼ばれている甲子川の南側の沢は完全に市街化され、そこを流れる沢川がコンクリートで固められてしまい、かつて、天然の美しい滝があったと思われる辺りは、その落差が、いく段かのコンクリートの人工の滝で調整されていて、川というよりも用水路といった感じのする人工施設と化していました。

…大松(おおまつ)…

「おおまつ」は、そこにマツの大木があったから「大松」と名づけられた…といってしまえばそれまでですが、この地名の元々の呼び名は「おおまつ」ではなく、「たいしょう」だったようであります。

「大松」の読みが「たいしょう」だったことを裏づけるのは、「大松」の地内で甲子川に合流する荒川の上流にある「大滝」と呼ばれる滝があることであり、次のように解釈されます。

「おおまつ」の元の読みは「たいしょう」であり、その語源は、=アィヌ語の「タィ・ショー(tay・shoo)」で、その意味は、
=「森の・滝」になります。

…女遊部(おなつぺ・おなっぺ)…

「おなつぺ」の地名については、先に同種の地名と思われる宮古市の「女遊戸」のところで扱いましたが、この釜石市の「おなつぺ」についても、あらためて考えてみたいと思います。

この地名も次のようなアィヌ語系の古地名であるように思います。
「おなつぺ」の語源は、=アィヌ語の「オ・ナ・ツィ・ペ(o・na・tuy・pe)」→「オナツィペ(onatuype)」で、その意味は、
=「川尻・の方が・きれる・者(川)」だと思います。

「おなつべ」は両石湾に注ぐ水海川の中流域にある集落名です。

水海川の水系に連なる沢川のうちの一つに鳥ヶ沢川があります。この鳥ヶ沢川は雨が降ると川の流れが増水して本流の水海川につながり、晴天が続くと渇水して沢尻の方が、水がきれてなくなって本流から切り離されてしまいます。

このような川を称して、古代エミシの人たちが、「オ・ナ・ツィ・ペ(川尻・の方が・きれる・者(川))と呼んでいたと考えられるのです。

同じように川尻が渇く現象 を見せる川に「オ・サッ・ペ」がありますが、「オ・サッ・ペ」と「オ・ナ・ツィ・ペ」との違いは、前者が「本流、支流の別を問わず、渇水期になると川尻が水涸れして渇いてしまう川」であるのに対し後者は「枝川の川尻が渇水期に渇水して本流との繋がりがきれてしまう川」というところにあるようです。
(注:“おなつぺ”については宮古市のところもご参照ください)

…両石(りょういし)…

「りょういし」も、次のようなアィヌ語系の古地名である確率が高いようです。
「りょういし」は、=「リヤ・ウシ・イ(riya・us・i)」→「リヤ・ウシ(riya・usi)」の転訛で、その意味は、
=「いつも・越年する・所」→「毎年そこで越冬する所」になります。

昔、北上山地の五葉山のシカは、冬の雪と寒さを避けて気仙や上閉伊地方の海岸に下がってきて雪の少ない海辺の森で越冬しました。

そこで名づけられたのがこの地名だと思います。

「リヤ・ウシ」の同一地名の事例として北海道に数か所あります。

一般に、北海道の「リヤ・ウシ」の地名は、アィヌの人たちが冬の猟期を迎えると、本宅であるサク・チセ(夏の家)を離れ、山奥などにある狩場のマタ・チセ(冬の家)やクチャ(狩小屋)に泊まり込んで猟をして越冬する慣わしがあり、そのような越冬地の狩場に名づけられる地名が「リヤ・ウシ(いつも越冬する所)」だといわれます。

…鵜住居(うのずまい)…

「うのずまい」は読んで字のとおり「ウミウの・住まいがある所」の意味だと説明されている例もあり、いちおう、なるほどとうなずくだけの説得力があるわけであります。

ところが、この地名も、アィヌ語を語源とする古地名ではないかといわれ、次のように解釈されております。
「うのずまい」の元々の呼称は「うすまい」で、=アィヌ語の「ウシ・オマ・イ(us・oma・i)」であり、その意味は、
=「入り江・そこにある・所」→「入り江・ある・所」ではないでしょうか。

…栃内(とちない)…

「とちない」の地名は、遠野市、紫波町、花巻市などにもあります。この地名は「トチノキ(栃の木)のある集落」を指す和語地名であると意義付けされているようでありますが、やはり、語尾に「ない」がついているということで、早くからアィヌ語系地名ではないかともいわれ、次のようなアィヌ語を語源に持つ古地名だといわれておるわけであります。
「とちない」の語源は、=アィヌ語の「トチ・ナィ(tochi・nay)」で、その意味は、
=「トチノキ(栃の木)の・沢」になります。

和語の「トチ(栃)」はアィヌ語でも「トチ」ですので、和語の「とちない」の意味とアィヌ語の「トチ・ナィ」の意味とが、およそのところで同じように理解されているわけであります。

No.28 ◎ 遠野市のアィヌ語地名

…遠野(とおの)…

「とおの」の地名の由来は、アィヌ語系の古い地名などではなく、単に、「遠い野」という意味で名づけられたあり触れた和語地名だろう…とか、あるいは、古代に、和賀、稗縫(稗貫)、志波方面のことを胆沢の遠方の地という意味で「遠胆沢(とおいさわ)」と呼んだように、「遠野方面」のことを閉伊(幣伊)の遠方の地という意味で「遠閉伊(とおへい)」と呼んでいたのではないか。そして、その「遠閉伊にある野」という意味で「遠閉伊野」になり、それが詰まって現在の「遠野」の地名が生まれたものであろう…などという有力説もあるようです。

ここで申し上げたいのは、およそ、北東北の古地名を論ずるときに、和語としては解釈が難しいと思われるような地名に出会ったときに、まず、真っ先に推理しなければならないのは、その昔、この地に先住していたエミシの人たちが、その土地のことを何と呼んでいたか…ということを吟味するところから始めなければならないということであります。

その立場に立って申しますと、「遠野」の地名の由来が「遠閉伊の野」であるというような説は、頭からアィヌ語系古地名である可能性の吟味を怠った解釈ではないか…ということであり、そのようなところに、これまでの古地名解釈の方法論上のミスがあったといわなければなりません。

「とおの」が、アィヌ語系古地名である可能性があるかどうかを推理するとき、次のようなことが考えられます。

「とおの盆地」は、その昔、盆地の底に湖沼ができている地形になっていて、そこに猿ヶ石川の上流部を初め、その他のいくつか谷間から流れ出る支流が注ぎ込んで、たびたび氾濫を繰り返しながら、その湖沼に大量の土砂を流し込むのを繰り返してできた沖積地であります。

…ということで、奈良時代あたりの「とおの」の地形の原風景は、まだ、かつての大きな湖沼の跡が湿原化され、その中に小さな沼や湿地が残っている盆地状湿潤平原だったと推定されます。したがって、「とおの」はそこに住むエミシの人たちから、次のように呼ばれていたものと考えられます。
「とおの」は、=アィヌ語の「トー・ヌプ(too・nup)」と呼ばれ、その意味は、
=「沼の(ある)・野原」になります。

この地名は、古代のこの地の地形や地質に合ったよい地名だと思います。

ちなみに、柳田国男先生が、遠野物語の中で「遠野は、昔は一円の湖水であって、遠野の“トー”はアィヌ語の“湖”という語より出でたるなるべし」…と申されておられるのを、ある識者の方が評して、そのような見方をなさるのは考えものである…と否定的見解を述べられておられますが、しかし、「とおの盆地」の形成は沖積世の時代の初めから始まっていたものであり、今から1200年前ごろには、たしかに湖沼があった所だったということが、地質のボーリング調査の結果でも証明されているところであります。

「とおの」は、まさに、柳田国男先生が申しておられるように、縄文時代に入った当初は、大きな湖沼があった盆地であり、それが、その後に、四囲の谷間から流れ出る猿ヶ石川水系の多くの枝川が、盆地の中の湖沼に大量の土砂を運び込んで、次第に陸地化が進んだ所だと考えられるのです。

…というわけで、今から1200年前あたりの古代の「とおの」の景色は、かなり陸地化が進んだものの、まだ小さな湖沼や湿地が多く点在する盆地だったと考えられ、その名の「トー・ヌプ」の地名にふさわしい「沼の(ある)・野原」だったと思います。
 

…附馬牛(つきもうし)…

「つきもうし」は「つくもうし」ともいいます。この地の地名の由来は、昔、上附馬牛の小倉にある稲荷神社の境内にツキ(槻)の巨木があって、その大きく広がった枝の下の原っぱに、九十九頭もの牛馬の放牧ができた…という言い伝えがあり、その故事にちなんで名づけられたのがこの地名だと伝えられています。

この「つきもうし」も、早くからアィヌ語系の古地名ではないか…という指摘があり、これまでに多くのアィヌ語の語源の提示がなされてきましたが、次に自説を交えてその主なものを挙げさせていただきます。

1.「つきもうし」の語源は、=アィヌ語の「チェプ・クマ・ウシ・イ(chep・kuma・us・i)」→「チェプクマウシ(chepkumausi)」で、その意味は、
=サケの・魚干し竿の干し場が・多くある・所」になります。

この解釈は「チェプ(サケ)」の発音の転訛がやや大き過ぎるのが少々気にかかりますが、世に知られている有力説です。

2.「つきもうし」は、=アィヌ語の「ツキ・オマ・ウシ(tuki・oma・usi)」で、その意味は、
=「それの小山・ある・所」になります。

この場合の「ツキ(tuki)」は、=「ツク(tuk)」=「小山」の第3人称形で、「それの小山」という意味ですが、ここでいう「それの小山」の「それ」というのは「神」を指すものと考えられますので、「それの小山」とは、つまり、「神の小山」ということであり、それは、おそらく、「大出の早池峰神社の里宮のある小山」のことを指す地名だったと思います。

ちなみに、この場合の「ツキ(tuki)を、=「それの小山」と訳しましたが、これを「ツク・イ(tuk・i)」と解釈し、=「突き出ている・者(所)」という意味にも解されるところから、それがすなわち、「大出」であり、=「附馬牛」になるのではないか…という見方も考えられます。

したがって「附馬牛」の地名のルーツは「大出」であり、「大出」のどこかとなれば、それは、エミシの人たちの聖地として敬われていたであろう「早池峰神社里宮の所」だったといえると思います。

この解釈だと、地形にも合致し、発音の転訛の点でも無理がないように思います。

…大麻部山(おおまぶやま)…

「おおまぶ山」は地元の方言で「おおまんぶ山」と呼ばれており、次のようなアィヌ語系古地名だと思います。
「おおまんぶ」の地名は、=アィヌ語の「オー・マク・ウン・ペ(oo・mak・un・pe)」→「オーマクムペ(oomakumpe)」の転訛で、その意味は、
=「深い・奥・にある・者(洞窟泉)」になります。

この場合の「ぺ(pe)」は稲荷穴洞窟の奥から流れ出る「洞窟泉」を指すものと考えられます。

したがって、これに「山」をつけて「おおまんぶ山」としますと、「おおまんぶ山」は、=「オーマクムペ・シル(oomakumpe・sir)」といい、その意味は、
=「深い・奥・にある・洞穴泉の・山」になると思います。

ただし、この場合の「oomakunpe」の発音は「k」の音が、ほとんど聞き取れないくらいのものだったと推定され、和人たちの耳には「oomaunpe」と聞こえたのではなかったか…と想像されます。
(注:この山の名前については宮守村のところもご参照ください)

…琴畑(ことはた)…

これも、次のようなアィヌ語を語源に持つ古地名のように思います。
「ことはた」は、=アィヌ語の「コッ・ハッタル(kot・hattar)」の転訛で、その意味は、
=「谷間(たにあい)の・淵」になります。

…鍋割(なべわり)…

「なべわり」の地名は、田老町の「鍋割峠」の「なべわり」と同じアィヌ語系古地名で、次のように解釈されます。
「なべわり」の語源は、=アィヌ語の「ナム・ペ・ウワリ・イ(nam・pe・uwari・i)」→「ナムペウワリ(nampeuwari)」ないしは、「ナムプワリ(nampuwari)」で、その意味は、
=「冷たい・水が・産まれる・所」だと思います。

…六角牛(ろっこうし)…

遠野三山の一つ「ろっこうし山」の「ろっこうし」の地名由来には格調高い和語の諸説が多くあり、それらのうちのどれが正しいのか判断に苦しむようであります。

しかし、これも意外に素朴でまともなアィヌ語を語源に持つ次のような古地名である可能性がかなり高いように思います。
「ろっこうし」の語源は、=アィヌ語の「カムィ・ロク・ウシ・イ(kamuy・rok・us・i)」→「ロクシ(rokusi)」で、語頭の「カムィ」が省略された形であり、その意味は、
=「神々が・いつも座っておられる・所(山)」になります。

古代のアィヌ語族の人たちは、山は神聖な場所であり、高い山の上には神々が住んでおられるもの信じていました。津軽の岩木山、岩手の巌鷲山(いわわしやま=岩手山)や姫神山、早池峰山、五葉山初め、世の多くの山々の頂上付近には神々が住んでおられて、里に住んでいる私たち人間を初め、この世に生きとし生けるものすべてを慈悲の目で見守っておられるものと信じていました。

「六角牛山」は、早池峰山と石神山と共に遠野三山の一つに数えられていましたが、これらの山々のすべてが早池峰山と同様に縄文時代からの聖山であり、元々は、それぞれの頭にカムィ(神)の敬称がつけられて呼ばれていた神聖な山々であったと推定されます。

…猿ヶ石川(さるがいしがわ)…

「さるがいし川」の「さるがいし」については、古代史の中に幡磨の国(兵庫県南西部)に移配されていたエミシのリーダーで、「去返公嶋子(さるがえしのきみ・しまこ)」なる人物がおり、紀元805年(延暦24年)に、朝廷から勲功を認められて王民(公民)に取り立てられ、「浦上臣(うらがみのおみ)」の氏姓を与えられたという記録が日本後紀に記載されてあります。この人物の姓に相当する名が「去返公」だったということは、彼の出自(出身地)が、エミシの国の「猿ヶ石」であり、「猿ヶ石川」の流域のどこかかの村で、たぶん、宮守村辺りだったのではないか…と推測されるわけであります。

現在の「猿ヶ石」は、かつての「去返」であるということはほぼ間違いなく、和語地名のなかからその地名由来を手探りするようにして捜すまでもなく、エミシの時代からあった次のようなアィヌ語系古地名であることが確実であります。「さるがいし」の「地名は、=アィヌ語の「サル・カ・ウシ・イ(sar・kaus・i)」→「サルカ・ウシ(sarka・usi)」で、その意味は、
=「アシ原・の上て・にある・所」になります。

…平倉(ひらくら)…

和語の「ひらくら」は「平らな岩」だとのことであります。しかし、そこにそのような「平らな岩」があればよいのですが、それがたしかにあるかどうかが問題です。

そこで考えられるのが、次のようなアィヌ語系古地名です。
「ひらくら」の語源は、=アィヌ語の「ピラ・クラ(pira・kura)」で、その意味は、
=「崖の・仕掛け弓場」になります。

…佐比内(さひない)…

柳田国男先生の名著「遠野物語」〈明治43年著〉のなかで、先生は遠野に「七内八崎」があり、その中で、「ない」のつく地名はアィヌ語で「沢」とか「谷」のことである…と書いておられます。まさに、そのとおりであり、ここにいう「佐比内」はそのうちの一つだとおもいます。

「さひない」は、柳田先生もおっしゃっておられるように、早くから典型的なアィヌ語系古地名だといわれ、その道の草分けの大家である金田一京助先生や山田秀三先生たちも次のように解釈されました。
「さひない」は、=アィヌ語の「サッ・ピ・ナィ(sat・pi・nay)」の転訛で、その意味は、
=「涸れる・石ころの・川」になります。

「さひない」のルーツと見られる「さひない川」は、昔から渇水期になると水涸れして乾いた石ころだらけの川底を見せる川でした。

この川はその上流にダムができた今日では、いつ訪ねて行って見ても、川底に渇いた石ころの見える慢性の水涸れ川の状態になっており、文字通り「涸れた・石ころの・川」と化しております。

…猫川(ねこがわ)…

前記「佐比内川」のことを別に「ねこ川」とも呼びます。

この「ねこ川」の「ねこ」も、次のようなアィヌ語を語源に持つ古い地名であります。
「ねこ川」の「ねこ」は、=アィヌ語の「ナィ・コッ(nay・kot)」の転訛で、その意味は、
=「(涸れた)川・跡」になります。

つまり、「さひない」の語源の「サッ・ピ・ナィ」と、「ねこ」の語源の「ナィ・コッ」とは、同じ水涸れ状態の川のことを指すアィヌ語地名であるということになります。

…来内(らいない)…

この地名も柳田先生の「七内八崎」の「七内」のうちの一つであり、次のようなアィヌ語系古地名であると考えられます。「らいない」の語源は、=アィヌ語の「ラィ・ナィ(ray・nay)」で、その意味は、
=「死んだ・川」になります。

ここで、「死んだ川」というのは、主流から切り離されて流れがほとんど停滞し、自然の活力を失った川のことをこのように呼んでいたようであります。

…西内(にしない)…

「にしない」も「遠野七内」のうちの一つで、次のように解釈できます。
「しちない」は、=アィヌ語の「ニ・ウシ・ナィ(ni・us・nay)」の転訛で、その意味は、
=「樹木が・密生している・沢」になります。

…栃内(とちない)…

「とちない」も「遠野七内」のうちの一つに数えられ、次のように解釈されます。
「とちない」は、=アィヌ語でも「トチ・ナィ(tochi・nay)」で、その意味は、
=「トチ(栃)の・沢」になります。

アィヌ語の「トチ」と和語の「トチ(栃)」とは同義語です。

…瀬内(せない)…

「せない」も「遠野七内」のうちの一つに数えられ、次のように解釈されると思います。
「せない」は、=アィヌ語の「セッ・ナィ(set・nay)」の転訛で、その意味は、
=「巣の・沢」ということだと思います。

おそらく、タカの巣かワシの巣があった所だったと思います。

…水内(みずない)…

「みずない」も「遠野七内」のうちの一つで、その語源は、=アィヌ語の「ムン・ツム・ナィ(mun・tum・nay)」で、その意味は、
=「草むらの・沢」だと思います。

古代エミシの人たちはこの川のことを「ポロ・ムン・ツム・ナィ(poro・mun・tum・nay)」、つまり、「大きい方の・草むらの・沢」と呼んでいたと推定されます。その理由は、次に触れる「小さい方の・草むらの・沢」がそばにあるからであります。

…小水内(こみずない)…

柳田先生のおっしゃる「遠野七内」のうち、「内」のつく最後のもう一つの地名はこの「小水内」です。

「小水内」の「小」は「小さい」という和語で、「みずない」の語源は前記のとおり、アィヌ語の「ムン・ツム・ナィ」=「草むらの・沢」ということになります。

したがって、「こみずない」をエミシの人たちの時代のアィヌ語に戻すと、次のようになります。
=「ポン・ムン・ツム・ナィ(pon・mun・tum・nay)」で、その意味は、
=「小さい方の・草むらの・沢」になります。
(注:上記の“佐比内”から“小水内”までの七つの“内のつく地名”が柳田先生のおっしゃられた“遠野の七内八崎”の“七内”のようです)

…谷内(たんない)…

綾織(旧綾織村)の「谷内(たんない)」は、別に「丹内」とも書かれ、北東北にはよくあるアィヌ語系地名であり、次のように解釈されます。
「たんない」の語源は、金田一京助先生もおっしゃっておられたように、アィヌ語の「タンネ・ナィ」の転訛だろうといわれ、その意味は、
=「長い・沢」と解釈されます。

…横内(よこない)…

綾織には「よこない」の地名も見えます。「よこない」もアィヌ語系古地名だと考えられ、次のように解釈されます。
「よこない」の語源は、=アィヌ語の「ヨコ・ナィ(yoko・nay)」で、その意味は、
=「獲物をねらう・沢」になります。

アィヌ語の「ヨコ」は、猟師がけもの道の適当な場所に槍や弓を構えて待ちぶせをしていて、勢子に追われて通り抜けようとする獲物をねらい撃ちするという場合などに使われる「ねらう」という意味の動詞です。

…小友(おとも)…

「おとも」を和語地名と見て、なんとかその意味を引き出そうとして難渋しておられる例も見受けられます。

この地名は、昔、和語で「奥友(おとも)」とも書かれた所でありますが、ストレートにアィヌ語系古地名として位置付けて考えてよいと思います。

アィヌ語系古地名としての「おとも」は次のように解釈されます。

1.「おとも」は、=アィヌ語の「オタ・モィ(ota・moy)」の転訛で、その意味は、海岸の地名である場合は、
=「砂浜の・入り江」になり、陸前高田市「小友町」の「おとも」がこれであります。

しかし、遠野市の「おとも」の場合は、内陸の地名でありますから、次のような解釈が考えられます。

2.「おとも」は、=アィヌ語の「オ・ト・モィ(o・to・moy)」で、その意味は、
=「そこに・沼がある・静かでゆったりとした流れの所」になります。
「オタ・モィ」の同一地名は、北海道の釧路、北見、胆振、後志などに見られますが、それらすべての解釈は[1]の事例のとおりの「砂浜の・入り江」に当たります。

…山谷(やまや)…

「山谷」については大野村の「山谷」と二戸市の「山屋」のところをご参照ください。

…切伏(きりふし)…

和語で「きりふし」といえば「木を切り倒す」という意味ですが、遠野の「きりふし」の地名は客観的に見て、どちらかといえば、次のようなアィヌ語系の古い地名のように見えます。

1.「きりふし」の語源は、=アィヌ語の「ケレ・ウシ(kere・us・i)」からの転訛で、その意味は、
=「いつも削らせる・所」、つまり、「いつも浸食される・所」になります。

「きりふし」は外山沢川と角出沢川の沢口にあ地名ですが、そこで二つの川の流れが共に直角に曲がって流れるために、古代から水圧によって岸辺が侵食される所だったようで、このような地名が名づけられたものと考えられます。

2.「きりふし」は、=アィヌ語の「キ・ル・ウシ・イ(ki・ru・usi)」→「キルシ(kirusi)」の転訛で、その意味は、
=「ススキの・道が・ある所」とも解釈されます。

…飯豊(いいとよ)…

「いいとよ」の地名は岩手県内に数か所あります。

この地名は、多くの場合、「てんこ盛の飯椀のような形をした森山」に由来するという説があり、その地名がある所には、きまって「てんこ盛の飯椀の飯のような形をした森山」があるのが普通です。

また、「いいとよ」の名のつく山は、きまって、古来、神の山として敬われております。例えば、北上市の「飯豊」には有名な「飯豊森」があって、その近くに「和我叡登誉(わがえとよ)神社」が祭られ、頂上に観音堂、中腹に山神が祭られておりますし、ほかの「飯豊」の名のつく森にも決まって神社が祭られてあります。

ところが、「いいとよ」の地名がある地方の古老たちは、昔から「いいとよ」のことを一様に「えんでー」と発音してきました。

そこで、漢字表記の「飯豊(いいとよ)」のあらたまった読みに捕らわれずに、地元の古老たちに伝わるこの「えんでー」の発音と、そこにある「てんこ盛の飯椀の飯のような形をした森山」の存在を根拠にしてその語源を考えると、次のような古いアィヌ語系の地名が浮上してまいります。
「えんでー」は、=アィヌ語の「エ・エン・タィ(e・en・tay)」→「エンタィ(entay)」の転訛で、その意味は、
=「頭が、尖っている・森山」になります。

ところで、遠野の「いいとよ」付近にそのような形をした森山があるでしょうか。

私が、デスクワークで、遠野に「いいとよ」の地名があるからには、その近くに、きっと、「頭が・尖っている・森山」に相当する「山」があるに違いない…と想定して、ある日、その山の形を想像しながら、地図を片手にフィールドワークに出かけました。車を徐行運転しながら、いよいよ「いいとよ」の集落に近づいたところ、目の前に、典型の「頭が・尖っている・森山」の姿が見えてきたではありませんか…。近づけば近づくほどその山の姿が典型の「エ・エン・タィ」のタイプであることがクローズアップして見えてきて、嬉しくなりました。

その山の麓の葉タバコの畑で、成熟して黄色みがかった葉を一枚一枚ていねいに摘んでおられる中年の婦人の姿を見つけ、「良いお天気で結構ですね」と声をかけ、「ここの集落の名前は“いいとよ”ですか」と尋ねたところと、すかさず、「はい、そうでござんす」という返事とともに笑顔が返ってきました。私が重ねて、「この集落のすぐ後ろに見えるあの格好の良い三角の山のことを皆さんは何と呼んでおられますか」と尋ねたところ、「あの山にはとくに名前らしい名前がないけれども、どうしても答えなければならないとしたら、あの山の上に私どもの氏神のお不動様が祭られてありますから、私たちは、たまに“お不動様のお山”ということがござんすよ」という答でした。

やはり、遠野の「いいとよ」も集落の地名としてはここに残ってあるのに、そのご本尊の森山に違いないと思われるこのお山には「いいとよ」の名が残っていないようであります。

申しあげるまでもなく、この山についても、沢内村の「いいとよ」の場合と同様に、長い間に元のアィヌ語系の山の名であったはずの「いいとよ森」の呼称が忘れ去られてしまい、その名は麓の集落の名前としてだけ残っていたというわけであります。
(注:“飯豊”のアィヌ語系地名については北上市と沢内村のところをご参照ください)

…暮坪(くれつぼ)…

1.「くれつぼ」の語源は、=アィヌ語の「ク・アレ・ツ・ポク(ku・are・tu・pok)」で、現代アィヌ語の音韻変化のきまりでは、=「カレツポク(karetupok)」になるのですが、古代エミシの時代には、そこまでは音韻変化が進まずに、おそらく、「クレツポク(kuretupok)」と発音していたものと推定されます。そして、その意味は、
=「仕掛け弓を・仕掛ける・尾根・の下」になります。

2.「くれつぽ」の語源は、上記[1]の場合と同じ理由で、=アィヌ語の「ク・アレ・ツ・ポ(ku・are・tu・po)」であり、それが音韻変化して「クレツポ(kuretupo)」になり、その意味は、
=「仕掛け弓を・仕掛ける・小さな・尾根」とも解されます。

いわゆる「くれつぽ地名」は、このケースを初め、岩手県内に5例あるうち、「ク・アレ・ツ・ポク」または「ク・アレ・ツ・ポ」に引き当てられると思われる「暮坪」の表記の地名が4か所、「久連坪」の表記の地名が1か所あるというのに、「カレ・ツポ(かれつぽ)」と発音する古地名、例えば「枯坪」などの地名が皆無であるという事実が挙げられます。

…これらの事実から、北東北、少なくとも岩手県内に遺っているかつてのこの種のアィヌ語地名では、「ク・アレ・ツ・ポク」、または、「ク・アレ・ツポ」の地名の音韻は、やはり、「カレツポ」ではなく、「クレツポ」だったのではなかったか…ということが、はっきりと指摘できるように思います。
(注:“くれつぽ”については西根町のところもご参照ください)

…恩徳(おんどく)…

遠野市から国道340号線を川井村に向かって15kmほど進むと、立丸峠の手前に「おんどく」の集落があります。この集落の地名の「おんどく」は、次のようなアィヌ語系古地名ではないかと思います。
「おんどく」は、=アィヌ語の「カムィ・オント・ケ(kamuy・onto・ke)」の「カムィ」が省略された形の「オント・ケ(onto・ke)」の転訛で、その意味は、
=「神の・山の・麓」だと解されます。

おそらく、この地名は「おんどく」の集落の氏神である「熊野権現神社」の奥宮があるオーズ岳(1029m)の「山尻」を意味する地名だと思います。

「熊野権現神社」が紀州熊野からこの地に勧請されたのは、早くとも鎌倉期以後だと思いますが、その奥宮がオーズ岳の山頂に鎮座されたのは、この山がそれより前の古代のエミシの人たちの時代に、すでに聖山として信仰を集めていた「カムィ・シル(神の・山)」であったからだと考えられ、その頂上には聖なるイナゥ・サン(幣壇=祭壇)が祭られてあったと推定されます。

つまり、オーズ岳は、遠い昔のエミシの人たちの時代から、この地の人々の神の山だったと考えられます。

私が「おんどく」の地名の調査のためにフィールドワークに出かけたのはさる7月8日の日曜日でした。この日は幸運にも恩徳集落の氏神である熊野権現神社のお祭礼の日でした。氏子の皆さんがちょうど里宮の境内に集まってこれから神の事を執り行おうとしておられるところにお邪魔してしまい、おそるおそる近づいた私でしたが、心にしみるもてなしに預かり、たいそう嬉しく思いました。境内の炭火で焼いておられたお供物のイワナを串ごと勧められて食べた味はことのほかおいしく、忘れがたい思い出となりました。

お陰様で、長い間の課題だった「おんどく」の地名の解読ができたように思います。「おんどく」の皆様ありがとうございました。

…早池峰山(はやちねさん)…

「早池峰山」については大迫町のところをご参照ください。


 

No.29 ◎ 宮守村のアィヌ語地名

…宮守(みやもり)…

「みやもり」は古くから「宮森」、「宮杜」、「宮盛」、あるいは「宮護」などとも表記されました。地名の由来は、室町?戦国期にこの地を支配した「宮守氏」の姓にちなむとの説がありますが、「宮守氏」は別に「宮森氏」とも称し、元の本姓は菊池氏だったといわれています。菊池氏が「宮守氏」を名のるようになったのは、ここ「みやもり」の地に知行地を与えられてからのことであると考えられます。

したがって、「みやもり」の地名は室町期以前、おそらくは源頼朝の奥州侵攻以前からの地名だったのではないかと推定されます。

そうだとすると、この地名もどうやら、次のようなアィヌ語系の古地名のように考えられます。
「みやもり」は、=アィヌ語の「ムィ・ヤ・モィ(muy・ya・moy)」の転訛で、その意味は、
=「川の曲がり角の緩やかな流れの・岸の・川港」になります。

…有米内(ありよない)…

「ありよない」は「有宇内(ありうない)」ともいわれ、おそらく、次のようなアィヌ語系の古地名であるように思います。
「ありよない」の語源は、=アィヌ語の「アレ・イ・オ・ナィ(ar・i・o・nay)」→「アリヨナィ(ariyonay)」の転訛で、その意味は、
=「もう片方の・(畏れ多い)それが・多くいる・沢」になります。

ここで、「(畏れ多い)それ」といっているのは、おそらく、アィヌ語族が神と崇める「クマ」のことだろうと思います。

地元の古老の人に尋ねたら「今でもクマが多い所だから、昔はもっとクマがいた所だったべ」…とのことでした。

この場合の音韻変化は、母音の重複を避けて「i」と「o」の間に「y」を入れる習わしになっています。

…達曽部(たっそべ)…

「たっそべ」もアィヌ語を語源とする古地名だと考えられます。

金田一京助先生も、たぶん、アィヌ語系の古地名だろうということで、次のように解説してよいのではないかといっておられます。
「たっそべ」は、=アィヌ語の「タッ・ソシ・ペ(tat・sos・pe)」の転訛で、その意味は、
=「シラカバの皮を・はぐ・所」

シラカバの皮は古代の生活必需品で、松明(たいまつ)、つけ木、樹皮の鍋、屋根葺き材、ひしゃく、その他代用包み紙などの材料として使われました。
エミシの人たちはシラカバの皮を「達曽部」のどこから採取したかと申しますと、大麻部山や寺沢高原からだったと推定されます。

…大麻部山(おおまぶやま)…

「おおまぶ山」は地元の方言で「おおまんぶ山」と呼ばれ、その意味は「岩穴のある山」ということであると伝えられており、遠野市との境にまたがるカルスト台地上にある標高1043.6mの山です。

この地方の方言地名の解釈である「岩穴のある山」は、古いアィヌ語地名の意味をおよそ受け継いでいるということで注目に値します。

この山の名の「おおまんぶ」は明らかにアィヌ語系の古地名であり、次のように解釈されます。
「おおまんぶ」とは、=アィヌ語の「オー・マク・ウン・ペ(oo・mak・un・pe)」の転訛で、その意味は、
=「深い・奥・にある・洞窟泉」であります。

したがって、これに「山」を加えて「おおまんぶ山」とすると、その訳は、=「オー・マク・ウン・ペ・シル(oo・mak・un・pe・sir)で、その意味は、
=「深い・奥・にある・洞窟泉の・山」ということになります。

ただし、この場合の「oo・mak・un・pe・sir」の発音は、音韻変化して、=「oo・mak・un・pe・sir」の発音は、音韻変化して、=「oomakumpe・sir」になるのがスタンダードなのですが、和人たちの耳には「mak」の「k」の音がほとんど聞き取れないくらいで、「oomaumpe・sir」に聞こえたと思います。

そして、また、ここにいう「深い・奥・にある・洞窟泉」と申しますのは、「おおまんぶ山」の麓に現に実在する鍾乳洞の「稲荷穴清水」のことであり、「おおまんぶ山」の名は、つまり、「稲荷穴清水のある山」ということだったということもよくわかります。

なお、「稲荷穴清水」は岩手の名水20選の一つに認定されているおいしい水で、水温は年間通して10℃を保っているといわれ、その愛飲者たちの評価は高く、盛岡や花巻や遠野から大きなポリ容器を車につけて汲みに訪れる人たちが大勢いて、日曜日などには、並んで順番を待っている光景が見られます。

「稲荷穴」の前には「稲荷神社」と水神の社殿が建てられてありますが、私が最後に訪れた平成13年7月15日(日)の様子をそれとなく見ていると、ここに名水を汲みに訪れている人たちは、二柱の神社の社殿の存在には目もくれず、洞窟前の筧から流れ落ちる水を、ひたすらに汲み、水がいっぱいになったポリ容器を一輪車に乗せて、もくもくと運んでいました。この光景を見ていたとき、その昔、ここに「稲荷神社」を祭り、「水神」の社殿を建てて大自然の恵みに感謝つつ水を汲んだであろう先人たちの思いが偲ばれ、いささか寂しいものを感じたのは、大正生まれの老生のささやかなセンチメンタリズムでしょうか。

ここの「稲荷穴」の前にこれらの「神」が祭られたのはいつからかと申しますと、その始まりは遠い縄文時代からだったと想像されます。ここでは、紙面の都合で縄文時代や弥生時代についての話は割愛するとして、少なくとも、現在の「稲荷神社」や「水神」の原形は古代エミシの時代にすでに存在していたのではないかということだけはつけ加えて置きたいと思います。

そのように思う根拠は、「いなり」の語源が、=アィヌ語の「イナゥ・ウリ(inaw・uri)」の転訛で、その意味は、=「幣壇の・おか」だったと推定されるからであります。

エミシの人たちは「稲荷穴清水」のことを「カムィ・ワッカ(神々の・水)」と仰ぎ、そこの水を汲むとき、イナゥを削ってイナゥ・サン(幣・壇)に立て、現代アィヌの人たちがそうするように、「カムィ、ワッカ・ク・エカリ、ナ」=「神様、水を・私・いただきます、よ」と大自然の「水神」に対する感謝の気持ちを申し述べて礼拝をしてからその恵みの水をいただきました。その時にイナゥを立てる小高い壇が、アィヌ語で「イナゥ・ウリ(幣壇の・おか)」といわれていたと考えられ、それがすなわち、現在の「水神」や「稲荷神社」の原形だったと考えられるというわけであります。

また、「水神」の神格は、南方系古モンゴロイドの人たちが、彼らの祖神と仰いでいた「蛇神」であり、良い水の湧く泉とか洞窟とか、美しい滝などには「蛇神」が棲んでおり、「蛇神」は時として美しい姫の姿に変化(へんげ)してこの世に現れることがあり、この世に生きるすべての生ある者に命の糧の水を恵み、田畑や山野に豊饒をもたらしてくれているものと信じていました。

ちなみに、同じ「水神」に「竜神」がありますが、「竜神」は東南アジアの「蛇神」の信仰が中国大陸に渡って誇大妄想化され、体にいかめしい手や足やひげや角などが生やされた架空の動物の竜の神にされたものであり、「水神」の元々の姿は「ヘビ」であり、水神の元祖は「蛇神」だったわけであります。

…大川目(おおかわめ)…

「大川目」については久慈市の「大川目」のところをご参照ください。

…遊井名田(ゆいなだ)…

「ゆいなだ」は和語の「結いの田」の転訛で、「助け合い仲間の共同耕作田」のことをいう…と解釈されたりしていますが…。

この地名も多分にアィヌ語系の古地名のようで、次のように考えられます。「ゆいなだ」は=アィヌ語の「イ・ウィナ・タィ(i・uyna・tay)」→「イユィナ・タィ(iyuyna・tay)」の転訛で、その意味は、
=「(ありがたい)それを・たくさん採取する・森」になります。

ここで、代名詞「イ(それ)」が問題になりますが、その意味は「神様から与えられるありがたい山の幸」を意味するということで、直接その名を口にするのをはばかった表現であり、具体的には「クリ」とか「ドングリ」とか「トチの実」とか「ヒシの実」などの堅果類か、あるいは「山菜類」か「キノコ類」などのうちのどれかか、もしくは、ひょっとして、秋山の味の王者「マツタケ」だったとも考えられます。

…宇洞(うどう)…

和語では、山菜の「ウド」がたくさん生えているということで名づけられた地名だとか、「宇洞」または「宇堂」の転訛で、修験者が修業する「洞窟」とか、寺院の「お堂」を意味するという説などもあるようですが…。

宮守の「宇洞」の語源もアィヌ語系の古地名ではないかという考え方あると思います。

この「うどう」がアィヌ語を語源とする古地名であるとすると、次のように解釈されます。
「うどう」は、=アィヌ語の「ウッ・ナィ(ut・nay)」の省略形の=「ウッ(ut)」で、その意味は省略前と同じ意味の、
=「横・川」になります。

「横・川」とは、本流に対して直角、またはそれに近い角度で注ぐ「枝川」のことをいい、別に「あばら骨・川」とも呼びます。具体的には猿ヶ石川に合流する枝川の一つを指す地名だったと考えられます。

…沢目(さわめ)…

「さわめ」は、和語の「沢前(さわまえ)」の方言の「さわめー」の転訛であるとの説もありますが…。

これも次のようなアィヌ語系古地名である可能性が高いようです。
「さわめ」の語源は、=アィヌ語の「サ・ワ・アン・メム(sa・wa・an・mem)」→「サワムメム(sawammem)」で、その意味は、
=「前・に・ある・泉池」になります。
 
 
 
 



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2002.4.1
2002.4.14
H.sato