随想 アイヌ語地名考

はじめに

郷土史などの取材に出かけて、最近、たびたびがっかりさせられることがありました。それと申しますのは、「その話ならあすこの家のおじいさんが詳しいから、一度お訪ねして聞いて置くといいですよ」という助言を得て、いざ、期待して訪ねてみると、「うちのじいさんは昨年暮れに亡くなってしまいましたよ」とか、「この春まで元気だったのですが、今は何を聞いてもまともな返事が返ってこなくなりましたよ」などと、あっさりといわれて、むなしく引き返すようなことが何度もありました。それでも、昔だったら、その家の子供や孫たちが囲炉裏端のだんらんの座を通して、おじいさんから聞いた昔話などを自然に受け継いでいることが多かったと思われるのですが、惜しいことに、今は、子供たちが個室に閉じこもり、孫たちは祖父母と別居する時代の暮らしの中で、そのような縦の伝承の接点が失われてしまい、せっかくの古い貴重な情報がくちコミでは子孫に伝わらない時代になってしまった観がいたします。まことに寂しいかぎりです。

このような思いの中で、この私も人生の晩年を迎えているせいなのでしょうか、私のほんの一握りのささやかな知識のきれはしでも、何とかして後世の誰かのためになるならばと思い、文字に書き残しておきたい衝動に駆られて自然にペンをとったのがこの冊子の書き始めで、ちょうど今から6年前、古稀の年を迎えた平成7年(1995年)の春でした。

もとより、私の、この冊子に書いて置こうとするアィヌ語地名とそれを遺されたエミシの人たちについての知識の蓄えは、所詮、素人の趣味の域を超えるものではありませんので、どなたが読まれたとしても、たぶん、いまいち、物足りないものを感ずるところが多々あるとは思いますが、筆者の素人なるがゆえの気楽さで、きまった学問的な手だてにこだわらずに、書名を「随想アィヌ語地名考」と掲げ、よけて通りたくなるような難解な地名も臆せずに取り上げて書くことにしたわけであります。

願わくは、この冊子にお目を通されて、なるほど…と、ほんの少しでもお心が動くところがあるとすれば、私のこの上ない喜びであります。

紀元2001年(旧)8月13日
 (阿弖流為の命日の日に)

著者 菅原 進


 
 

凡例に代えて



この書に採録するアィヌ語を語源とする古地名は、今からおよそ1200年ほど前に、大和朝廷軍の激しい侵攻を受けて滅ぼされたアィヌ語族であったエミシの人たちが遺した「日本語でないアィヌ語」の問題ですので、これをよりよく理解していただくためには、最小限、次のような事前調整のための打ち合わせが必要ですので、ご面倒でもこれにお目を通されたうえで本文をお読みくださるようお願いいたします。

1.…38年戦争の呼称について…

古代の東北地方に大きな戦争がありました。

その戦争と申しますのは、かつては蝦夷征伐(えびいせいばつ)といわれ、最近では征夷戦とか、38年戦争とかいわれている大戦争です。この戦争は明らかに東夷の征服国家大和があえてしたエミシ・モシル(エミシ族の先住する・領域)に対する一方的な侵略戦争であり、その名称の「蝦夷征伐」とか「征夷戦」とかいう呼び方は、大和の人たちの思い上がりも甚だしいエミシ族蔑視の呼称であって、このようなポリティカル・コレクトネス(political・correctness)の常識にはずれる差別用語が今日公然とまかり通っている日本国の国民意識は、昔通りの「中華思想」と「征服国家主義」の陋習を21世紀まで引きずっている国がらであることを自認するものといわなければなりません。

したがって、この書ではこの戦争の正義が何れの側にあったかということと、その戦争の本質が何であったかということを、よく見極めたうえで、これを大和朝廷の「エミシの国侵攻戦争」、または「日高見国侵攻戦争」とはっきりと書くことにしました。

また、古代に「胆沢の地(凡称)」に日高見国という国家が成立していなかったと、かたくなに否定する人たちがいますが、その主張の根底には大和の国がエミシの国日高見に侵略戦争をしかけてその領土を奪った…ということでは都合が悪いので、この戦いは、大和が他国を侵略したというようなものではなく、実は大和が自国内の「まつろわぬ者であるエミシ族」を平定して統一国家を建てるための国内問題だったということにして、自国が行った先住の異民族国家への侵略戦争の事実を覆い隠すための言い逃れの意図が隠されてい
ると思うのです。

もし、仮に、その時点で日高見の地にエミシの国が成立していなかったとしても、大和の国が異民族と見られるエミシの人たちのネーチブランドである日高見に侵攻戦争を仕掛け、これと戦って征服したという歴史上の事実は、例え、そこに、その時点でいまだ国家が成立していなかったからやった…という言い訳をしても、現実にあえてした戦争の本質が侵略戦争であったことには変わりがなく、それをあえてしたというそしりを免れ得るものではないのです。
 

2.…アィヌ語族の自然観について…

縄文人と縄文系弥生人とその子孫のエミシの人たちは、長い間日本列島の大自然、ことに広大な落葉広葉樹林とその周縁の海の限りない恵みを受け、その恵みに感謝しながら暮らす日常の営みの中にあって、彼らが自ら体で感得し、心が啓発されて優れた徳性(高い道徳的意識・性向)を身につけていました。

彼らが大自然の暮らしの中で自ら感得して身につけていた徳性には次のようなものがありました。
? 自然との共生を暮らしの哲理として認識し、それを実践することをもって喜びとする態度

? 自然とそれを支配する神々の偉大なる恵みに気づき、それに感謝し、信仰する態度

? 自然の諸事象をソフトで純粋な感性を働かせて受け止め、畏敬の念をもって接する態度

彼らが身につけたこれらの徳性は、現代のどんなに進んだ科学的思考や信仰の持ち主にも勝るとも劣らない真摯な物の見方をする人間性となって現れ、彼らの民族性を形成していました。

彼らが身につけていたこれらの徳性の現れは、彼らが遺したアィヌ語系古地名に秘められており、21世紀に生きる私たちが、そのアィヌ語の語源の意義を知ることによって、その中から古き好き時代のすばらしい教えを汲み取ることができ、現代に生かすことができると思います。

エミシの人たちのそのような民族的徳性が隠されてあると見られるアィヌ語系古地名の事例を挙げると、次のようなものがあります。

盛岡市の「萪内」、「米内」、雫石町の「尻合川」、大迫町の「折合沢」、金ヶ崎町の「鍋割山」、岩手郡の「岩鷲山(岩手山)」、松尾村の「屋敷台」、安代町の「ツバクラの池」、「とびや温泉」、玉山村の「姫神山」、「つるさび石」、「たたら石」、軽米町の「民田山」、それに野田村の「男和佐羅比山」などがあります。
 

3.…代名詞「イ」の「畏敬的用法」の採用について…

アィヌ語では、アィヌ語族特有の純粋な思想や信仰と結びついている「畏れ多い者」、「聖なる者」を話題にするときに、その名をストレートに呼ぶのを避けて、代名詞「イ」を使い、「それ」と表現する習わしがあります。

一例を申し上げますと、「クマの・足跡」のことをアィヌ語で「イ・ル(それの・足跡)」といいます。これはどうしてかといえば、アィヌ語族の人たちにとって「クマ」は「カムィ(神)」でありますから、その名を話すときには、ストレートに「クマ(キムン・ペ)」と呼ぶのを憚(はばか)って、代名詞「イ」を使ってそのように表現する習わしになっているわけであります。

ところが、その「イ」の用法について、現代人たちは、単に「それ」と解釈しておられるようでありますが、古代のアィヌ語族の人たちの思想信仰の傾向を推量して判断するとき、彼らの時代のアィヌ語の「イ」は、多くの場合、単なる「それ」ではなく、その語頭に「畏れ多い」とか「聖なる」とかいう意味の畏敬の心情が、より強く内在する形の「それ」だったと考えられるのです。したがって、これを和語に訳すときには、ただの「それ」ではなく、「畏れ多いそれ」とか、「聖なるそれ」という意味として受け止めるのが至当だと思われるケースがかなりの割合でよく出てくるのです。

そこで、私は「イ」のこのようなケースの用法を称して、代名詞「イ」の「畏敬的用法」と位置付けて考え、本文の中では、しばしば、この用法に従い、代名詞「イ」をケースバイケースで、「(畏れ多い)それ」とか、「(聖なる)それ」とかのように、畏敬の意味を表す形容詞の部分をカッコ書きで添える形で扱っておりますので、そのことをご了解いただくと共に、ご理解下さるようお願い申し上げます。

例えば、「米内(よない)」の解釈についていえば、「よない」は、現代アィヌ語では、=「イ・オッ・ナィ(iyotnay)」で、その意味は、「それが・群在する・沢」と訳すのが通例ですが、東北地方に現存する「よない」の語源とされる「イ・オッ・ナィ」の「イ」は、明らかに、私のいう畏敬的心情を伴う「イ」であると推定されますから、それは、「(畏れ多い)それ」と解釈するのが至当であり、「よない」は、「イ・オッ・ナィ」で、=「(畏れ多い)それが・群在する・沢」と訳すのが本当だと思うのです。

…というわけでありまして、この書の本文の中では、その訳を「(畏れ多い)それが・群在する・沢」というように扱うことにいたしますので、その旨をよくご理解くださってお読みいただきたいとおもいます。
 

4.…古代のアィヌ語地名の音韻変化について…

例えば、花巻市、北上市、遠野市などに「鍋割(なべわり)」の地名がありますが、その地名の「なべわり」の語源の基本形は、=アィヌ語の「ナム・ペ・ウワリ・イ(nam・pe・uwari・i)」で、その意味は、=「冷たい・水が・産まれる・所」であり、その発音は、現代アィヌ語の音韻変化のきまりでは、=「ナムプワリ(nampuwari)」になるはずなのですが、その古地名の表記には一様に漢字で「鍋割(なべわり)」が当てられており、当時現実に通用していたこの語の音韻変化は、より基本の原語に近い形の、=「ナムペウワリ(nampeuwari)」だったということが暗に示されており、その点で現代アィヌ語の音韻変化のきまりに合っていないことを物語っているようです。そして、この傾向は、その他の多くの事例のうえでも、同様にはっきりしているということが窺えます。

…ということでありまして、本書の中に私が書いたアィヌ語地名の発音が現代アィヌ語の音韻変化のきまりに合っていないのではないかということで、ご好意あるご指摘があるかと思いますが、それには以上のような理由があるからであることを、あらかじめおわかり置きいただきたいと思います。
 

5.…若干の発音の問題について…

アィヌ語には日本語の[ツ]の発音がなく、それに対応する発音に[tu(ふたつの)]などがあります。しかし、この発音は、英語の[today]の発音の[tu]と同じですので、日本語の[ツ]や[ト]をもってこれに当てるわけにはいきません。しかし、だからといってアィヌ語をカナ書きするときにアィヌ語の[tu]に当てられるカタカナがないのではたいそう不便です。そこで、便宜上アィヌ語の[tu]の発音を表すカナとして、この書に限って[ツ]を当てさせていただくことにしますので、この書の中でアィヌ語のカナ書きに用いてある[ツ]は、英語の「today」の発音の[tu]の音に読み替えて読み取っていただきたいと思います。

例:「tunna(ふたり)」は、=「ツンナ」と書きます。
同様に、語尾が子音で終わる単語の場合、例えば「ペッ(pet)」=「川」などのように、語尾が[t]の音で終わるところを、カタカナで示す場合、語中の他の字よりも小さな書体で[ッ]または[ッ]と表記しますので、これは、どちらも同じ英語の子音[t]を表す音として読み取っていただきたいと思います。

そのほかの語尾が子音で終わる語についても、その子音をカタカナ書きで示す場合、語中の他の字よりも小さな書体を使って、「tek(テク)」=「手」、「tay(タィ)」=「森」のように表記しました。

重母音の副音、例えば、「アィヌ(aynu)」の[ィ(y)]とか、「ニセゥ(nisew)」=「ドングリ」の[ゥ(w)]なども、子音と見てそれぞれ他の字よりも小さい書体のカタカナで[ィ]または[ィ]、[ゥ]または[ゥ]と書きましたが、これもカナの書体の不揃いにかかわらず、どちらも、それぞれ同じ子音の「y」と「w」を表すものとしてご理解ください。例えば、文中に「アィヌ」と表記したつもりでありますが、もしも、これが「アィヌ」と書かれてあったとしても、それは、どちらも同じ「aynu」をカナ書きしたものであるということであります。

アィヌ語にも当然アクセントがありますが、この書は、別に言語学などの学術書でもないのでそこまで吟味した書き方はしておりませんので、そのあたりのこともご了解いただきたいと思います。
 

6.…アィヌ語系古地名が誤った意味の和語地名にされている例が多い…

北東北の地名には、見る人が見れば、その語源が明らかにアィヌ語であると思われるものがかなりあります。ところが、それらの地名がアィヌ語系の古地名であることを知らずに、歴史上の著名な人物の伝説などに結びつけて誇張されたり、語呂合わせ的にこじつけられたりして、ありもしないお門違いの伝説にちなんだ地名に解釈されていることが多いようです。

たとえば、その身近な事例を挙げますと、次のようなことがあるわけです。

宮古市の「磯鶏(そけい)」の地名の由来についていえば、次の二つの和語地名説があるようです。

ア.「そけい」は、波浪によって削り取られた地形を表す「削(そげ)」の転訛であるとする説〈角川日本地名大辞典〉

イ.「そけい」は、入水した垂仁天皇の皇子の遺体が海岸に打ち上げられたのを、磯にいた鶏が鳴いて里人に知らせたという故事にちなんで名づけられた地名であるとする説〈角川日本地名大辞典〉

これら二つの和語地名説のうち、前者の「そげ」が「そけい」に転訛したという説については、その逆の「そけい」が「そげ」や「そぎ」に転訛したということであればある程度傾聴に値するのですが、東北地方の地名が、濁音を伴う「そげ」や「そぎ」から清音の「そけい」に転訛したというのはどうかと思います。

また、後者の説については、おとぎ話的レベルのお話の域を脱しない伝説としてしか受け止められませんので、史実の問題として取り上げるわけにはいきません。

多少なりともアィヌ語地名の基礎知識がある者にいわせると、「そけい」と一言聞いただけで、それは、そのようなおとぎ話的な和語地名などとは考えにくく、それよりは、アィヌ語地名の「ソ・ケ(so・ke)」で、その意味は、=「滝・の所」か、または、=「磯岩・の所」であろうと、即座に思うと同時に、この場合については、この地の地形に合っている「磯岩・の所」であるということが、容易にわかるはずであります。

このようなわけで、客観的に見て、東北地方のかなり価値あるアィヌ語系古地名の多くが、無意識のうちに、または、故意に無視されて、他愛もない伝説が絡むお門違いの和語地名などにされてしまっている例が多いので、ここであらためてアィヌ語系古地名説の見方に立っての見直しが必要だと思うのです。
 

7.…アィヌ語系古地名を無視した北東北の古代史は成り立たない…

私たちが、郷土北東北の古代史を学習するのに、古代エミシの人たちが遺してくれたアィヌ語を語源とする古地名を無視して進めるのはナンセンスだと思います。なぜかと申しますと、そのアィヌ語系古地名の中には、エミシの時代の貴重な歴史や文化の情報が隠されていることが多く、それがないがしろにされることによって、古代史解明上の多くの手がかりが見落とされることになり、古代の歴史的事象の本当の姿を見誤る恐れがあるからであります。

紀元2001年(旧)8月13日
著者 菅原 進

 


アィヌ語地名の意味するもの

今から1万2千5百年前ごろから2千3百年ごろまでの、およそ1万年の間、日本列島に住んでいた人たちと申しますのは縄文人といわれる人たちでした。

その縄文人たちとはどのような人たちだったのでしょうか。大胆に仮説を立ててみると、次のような人たちだったといえると思います。

縄文人と申しますのは、元々、地球上の最後の氷河期(ヴィルム氷期)に、今よりも、平均気温が8?9℃も低く、海水面が、およそ、120m?130mほども低くなっていたころに、マレー半島からスマトラ、ジャワ、カリマンタン辺りにスンダランドという大陸ができていて、そこに南方系の古モンゴロイドといわれる人たちが暮らしていました。

その人たちはスンダドントと呼ばれますが、彼らの特色はヘビを自らの祖神と仰ぐ人たちであり、彼らの子孫は、氷河期が明けて地球が温暖化に向かい、海水面が上昇して大陸が水没に向かう時代に、住みよくなりつつあった中緯度の地域に暮らしよい土地を求めて四方に生活圏を広げていきました。そのなかで、北に向かう暖流に乗って、島伝いないしは沿岸伝いに北に移動した航海と漁労にたけた人たちがいました。その人たちはフィリピンや台湾を経て沖縄にたどり着き、そこから日本列島に渡って定着しました。この人たちが、すなわち、縄文人の先祖であり、多少の混血と小進化を繰り返しながら縄文時代を生き抜いた縄文人だと考えられるのです。

縄文人の先祖は、すでに、1万2千年前ごろに、世界最古級の隆起線文土器の技術や、丸木舟を彫るために使ったと思われる丸のみ石器の技術を持っていました。

彼らが、日本列島の中でも、とくに自然の恵みの多い東半分の落葉広葉樹林地帯のなかとその周縁の豊かな海のほとりに住み着いて暮らし、そこで、さらに、芸術性に優れた各期の縄文土器や精巧な離れ銛(もり)などの漁具を伴う高度な技術を開発しました。そして、自然のなかに彼らに限りない恵みをもたらす神々が存在することを悟り、その神々と共に自然のなかで自然と共に生きることをもって、自らの暮らしの哲理として守る高度な精神文化を創造しました。

日本列島に渡って栄えた縄文人と同じようにヘビを自分たち種族の祖神と仰ぎ、自然との共生を願う古モンコロイド系の人たちの流れに属する人たちのなかに、後にインドシナ半島にカンボジア王国を築き、そこにアンコール・ワットを建て、七つ頭の大蛇の像を遺したクメール族などの東南アジア系の人たちがおりますが、現代オーストラリアのアボリジニの人たちもその流れに属する人たちの一派だと考えられます。

そして、ヘビを種族の祖神とはいわないまでも、現にヘビを神と崇める風習を受け継いでいる人たちとして北海道のアィヌの人たちを初め、アジア、環太平洋に拡散している多くの古モンゴロイド系と思われる人たちがおります。

縄文人たちが縄文文化の花を咲かせて、およそ、平和に暮らしていた日本列島に、弥生時代から古墳時代にかけて、対馬海峡を渡って大挙して渡来して来た人たちがいました。その人たちと申しますのは、稲作を主たる生業とするコリア系の人たちであり、その後の日本列島に大きな変革と戦争の時代をもたらせました。

彼らの先祖は、寒さに適応した北方系の新モンゴロイドと呼ばれる人たちの流れに属する人たちであり、元々は、シベリアのバイカル湖付近に暮らしていたツングース系のエヴェンキ族と蒙古族との混血種だろうといわれるブリアート族の人たちを中核とする人たちだったと推定されます。彼らはそこから東進して中国東北部の大興安嶺付近に進出し、さらに、そこから南下して念願の朝鮮半島南部の米作地帯に達し、そこでの国取り合戦に勝ち抜いた者たちによって強大な古代国家が建てられました

こうして、朝鮮半島の南部の国取り合戦に勝利して勝ち残って国を建てたコリア系の国の指導者のある者が、さらに南下を企て、大挙して日本列島にやって来ることとなりましたが、その目的は、より南に位置し、米作りにさらに適した豊かな土地を手に入れるためだったと考えられます。

どうして米作りなのかと申しますと、米作りこそが他のどのような食糧生産よりも、特に歩留りの良い多収穫の生産方法であり、米作りに適したより広大な土地を支配する者は、より多数の人民を支配し、強国を建てることができるからであります。

彼らは、馬に跨がり、青銅や鉄の武器や農具を持って日本列島に上陸して来て、時には平和的な外交手段を用いたと思いますが、多くの場合は手慣れた武力を行使して、先住の縄文系弥生人たちを各個撃破するやり方で征服しながら次第に東進を続け、4世紀半ばごろには、ついに、縄文系弥生人の最強の豪族の国だったと見られる畿内の旧勢力の国を破って、征服王朝である大和朝廷を建てました。

その後、彼らは、畿内を足がかりに、さらに東に侵攻を続け、中部地方、関東地方を制圧して、そこに植民地を開き、次第に東北地方に迫ってきました。

今から、およそ、1千3百年ほど前の東北地方のエミシ・モシル(エミシ族の先住する・領域)には、ある程度の米作りの技術が取り入れられ、水田耕作に従事する縄文系弥生人の子孫であるエミシの人たち(注:彼らは和人から田夷といわれていた)がいましたが、彼らは縄文時代から引き続き、落葉広葉樹の大森林の広がりの中と、その周縁の海辺に住んでいて、彼らの先祖だった縄文人たちと同様に、落葉広葉樹林のもたらす山の幸、川の幸、海の幸の恵みを受けながら、自然との共生をモットーとし、フィッシャー兼ハンターを生業(なりわい)としながら、水田耕作にも携わるようになっていたものと思いますが、彼らは、おしなべて、性格が温順で、平和な暮らしをしていた人たちだったと考えられます。

ところが、ここで、とくに注目すべきことは、彼らは、大和の人たちから、時として、蝦夷(えみし・えぞ)、毛人(えみし・もうじん)とも呼ばれていたように、渡来系の大和の人たちとは、異なった身体形質を持つ種族の人たちであり、日常の会話にはアィヌ語を使っていました。

そのころのエミシ・モシルの社会は、血縁、地縁でつながる一まとまりの村落集団を形成し、それぞれの村落集団ごとに、それぞれに族長を立てて自治活動をし、対外的には独立して外交交易活動をしていました。そして、それら単一の村落集団の大きな集合体であるエミシ・モシルのなかに、ほぼ岩手県全域+αを占める地域に日高見国がありました。日高見国の存在は日本書紀の景行27年条で明らかですが、この国は、互いに同一言語(アィヌ語)を持つ同一種族(アィヌ語族)からなる村落集団の集合体であったとみられ、その集合体としての横の結びつきはあまり強いものではなかったようです。つまり、日高見国のエミシの社会は、それぞれの村落集団が個別に独立的存在を保ったままの形での集合体組織であり、その名は国とは呼ばれながらも、全体としての結びつきは、緩やかであり、かつ、民主的だったようであります。

ところが、不幸なことに、そこに、征服国家大和の侵攻軍が、いよいよ、エミシ・モシルのまほろばの地日高見国の胆沢に迫って来ました。これを迎え撃つこととなった日高見国の各村落集団の人たちは、今こそエミシ族の危急存亡の時が来たと悟り、ほぼ、現在の岩手県全域+αのくらいの地域にまたがる日高国内の村落集団が、およそ一つにまとまり、より強い結びつきの村落連合国家日高見をつくって、自らのモシルと民族の独立を守るために起ち上がりました。

彼らは征服王朝大和から、圧倒的多数の兵力をもって、繰り返し、繰り返し、激しく攻めたてられましたが、その最初の会戦である紀元789年、桓武天皇が送り込んできた紀古佐美(きのこさみ)の率いる桓武第1次エミシの国侵攻軍5万2千8百との戦いで、村落連合国家エミシの国日高見の統領(王将)阿弖流為(あてるい)たちは、自らの専守防衛軍わずか1千5百を率いてよく戦い、水沢と江刺の境を流れる北上川べりの巣伏(四丑)の合戦で輝かしい勝利を収めました。

しかし、その時の負け戦にもかかわらず、国盗り、金(きん)盗り、馬盗り、奴隷狩り、それに、サケ・マスの川盗り、コンブ・アワビの浜盗りの執念に燃える大和朝廷の桓武天皇は、第1次侵攻の時の敗戦から5年の歳月をかけて再度の侵攻の準備をし、紀元794年、征夷大将軍大伴弟麻呂の率いる桓武第2次エミシの国侵攻軍10万の大軍を組織して、エミシ・モシルに再度の侵攻を繰り返して来ました。

これに対して、エミシの国日高見の統領阿弖流為以下エミシの国の人たちは必死になって防戦しましたが、国土を戦場にされ、徹底した焼き打ち戦術に遭って村々の家々が焼き払われ、大きな犠牲を強いられました。

そして、さらに、それから6年後の紀元801年に、桓武天皇が三たび送り込んできた征夷大将軍坂上田村麻呂の率いる桓武第3次エミシの国侵攻軍4万との戦いで、エミシの国日高見は、ついに、決定的なダメージを受けて国が壊滅状態に陥ったところで、統領阿弖流為と彼の僚友の母礼が、講和の話し合いをたねに大和の都に連れ出されて、だまし討ち同然にして殺されてしまい、事実上滅亡しました。

ところが、大和朝廷は、それから10年後の紀元811年に、エミシの人たちの側に、すでに戦う意志がなくなっているのを知っていながら、彼らが日高見の国の残存勢力と見て一方的ににらんでいた岩手県北の爾薩体・閇伊のエミシの人たちに対して、だめ押しともいうべき挑発戦争をしかけて、これを滅ぼしてしまいました。

こうして、東北日本のエミシ・モシル最強の民族勢力であった日高見国が滅ぼされてしまった結果、かつてのエミシ・モシルには、その昔、エミシの人たちが名づけたアィヌ語系の古地名だけが遺り、アィヌ語を話す人たちの姿が、いつの間にか見当たらなくなってしまいました。

それ以来、大和朝廷の王化の占領政策が進められるなかで、エミシの人たちが故地に遺したアィヌ語地名は、その語次第に転訛したり、忘れ去られたり、その多くは漢字を当てて書き変えられたりして、その数を減らしましたが、幸いにして、現在、北東北の各地にその一部がアィヌ語系古地名の形で何とかその原形ないしは原形に近い形をとどめて遺っています。

こうして遺っているアィヌ語系古地名の数は、東北も北へ行けば行くほど多く見受けられ、岩手県内でもその傾向がはっきりと現れています。

一般に、エミシの人たちは、北東北の各地にアィヌ語の地名だけを遺して、どこかに消え失せてしまったかのように受け止められているようですが、実際には、どこかに消え失せたというわけのものではないのです。彼らのうちには、民族の誇りを守って最後まで戦って戦死した人たちもいたのですが、数万人もの人たちが、大和から身柄を拘束されて、そのころ大和の内国となっていた関東地方以西の諸国に「移配」という名のもとに強制移住を強いられ、その多くは移住先で居住移転の自由を奪われて奴隷や賤民扱いにされるなどして、生きて再びエミシの故国に帰ることを許されないまま、異郷の地で寂しく死んでいきました。

また、一部の人たちは、大和の俘囚(ふしゅう=とりこ)になるのを潔しとせず、北に逃れて同族の国北海道に渡って生きのびた人たちもいて、その後のアィヌ文化の発展に何らかの影響をもたらしたと思われる節もうかがえるのです。

しかし、エミシ・モシルの中でも、およそ、現在の青森県内は直接の戦火からまぬがれたので、地元にそのまま生き残った人たちがかなりの数いましたし、もとの日高見国の内でも、年老いた親や幼い子供たちのために、あえて、俘囚の名の辱めに耐えて、大和のいうことを聞いて生れ故郷に生き残る道を選んだ人たちも、少なくとも、数万人はいたと考えられますから、エミシ・モシル全体では十数万人はいたと推定されるわけであります。

それにもかかわらず、その後、彼らが住んでいた東北地方から、彼らの姿が消え失せてしまったという一般的な見方が残ったのは、どういうわけだったのでしょうか。

実はこのことについては、次のように解釈されるのです。

エミシの国日高見が大和朝廷の侵攻に遭って破れた結果、生き残って現地にとどまることが許されたエミシの人たちは、その日から被支配者の立場に追い落とされて苦しむなかで、大和の国が進める王化政策によって、その風俗習慣が和風化されていくとともに、自然の成り行きで、エミシの人たちと和人たちとの間で、徐々に混血が繰り返されるうちに、エミシの人たちは次第にその外見的な身体的特長ばかりではなく、彼らのネーチブな民族語であったアィヌ語までもが失われ、いつの間にか、彼らの身体的形質や特長が潜在化してしまい、和人との識別ができにくくなってしまいました。つまり、彼らの姿がいつの間にか北東北の地から消え失せてしまった…というのは近視眼的な見方であり、その真相は、大和の人たちのなかに同化され、その形質が潜在化されて、見かけだけではその民族性が見えにくくなってしまった…ということだったわけであります。

ところが、現今の進歩した身体形質学とか生体計測学、あるいはDNA鑑定などの諸科学を動員して調べた結果によれば、現代の日本人のなかに潜在化して見えにくくなっている縄文系の身体的形質や特長が、かなりよくわかってきたのです。

これらの方法による調査研究の結果、明らかになったのは次のような新しい事実であります。

現代の日本人のうち、縄文人の身体形質をより多く受け継いでいるのは、北海道のアィヌの人たちと南西諸島(沖縄・奄美諸島)、ことにその島嶼部の人たちです。それに比べて、古墳時代以来大和朝廷の都があった畿内の人たちは、相対的に見て、縄文人よりは、よりコリアの人たちの身体形質を受け継いでおり、縄文遺跡とアィヌ語系古地名の多い東北地方に住む東北人と呼ばれる私たちは、畿内の人たちよりは、縄文人や縄文系弥生人とその子孫であるエミシの人たちに近い身体形質を受け継いでおり、その傾向は北へ行けば行くほど顕著であることがわかるとともに、そこに遺っているアィヌ語系古地名の割合も同様に北に行けば行くほど目立って多いという事実が見られます。

つまり、私たちは、たしかに日本人には違いないのですが、弥生時代から古墳時代にかけての、およそ、9百年間のうちに、朝鮮半島から次々と渡来して来た百万人にも及ぶといわれるコリア系の人たちと、その子孫の人たちとの間で混血が繰り返されてできた中間種であり、先祖のアィヌ語を忘れた新しい種の日本人なのです。

したがって、現に北東北の各地に遺されてある多くのアィヌ語系古地名は、私たち東北人の一方の先祖であり、かつ、アィヌ語族であった古代エミシの人たちが、かつて、使っていたアィヌ語の「言葉の化石」である…ということになるのです。

ところが、それらの貴重なアィヌ語系古地名が、私たちの郷土にたしかに存在しているのにもかかわらず、それが無意識的に、あるいは、故意に無視されたうえに、ありもしない伝説上の和語の意味の地名に仕立てられて、歴史資料から排除されたり、時としては誤った歴史資料にされたりしている場合もあるのです。

そのような現状のもとにあって、私たちが北東北についての郷土の歴史を論ずるとき、足下に現存しているアィヌ語系古地名を直視し、その中に縄文系エミシの人たちの偉大な精神生活の哲理やその他の文化や正しい歴史資料が潜在して隠されているということに気づき、それを真摯に学び取り、理解することが、きわめて大切であると考えさせられるのです。

ことに、自然破壊や環境汚染が危機的状態に達したままで21世紀の新時代を迎えた私たちにとって、エミシの人たちのモットーであった自然との共生とその恵みに感謝する生き方を、この書の本文に列挙するアィヌ語地名の一つ一つの中から学び取り、それを謙虚に理解し、実践することの意義を、みんなで自覚し、行動に移さなければならないと思うのです。



書評に代えて

「随想アイヌ語地名考」掲載
御礼の言葉



東北には、アイヌ語地名と思われる響きを持つ地名が数多くある。

栗原から一関、平泉にかけた宮城北部から岩手南部の辺りの地名にも、アイヌ語の地名と思われるような響きのする地名が、やっぱり多いのだが、学問的には、依然として手つかずのまま放置されている。例えばタッコディ(達谷袋)、サッピライ(猿飛来)、エド(永洞)、アゴギ(赤荻)、ウラダッパラ(浦田原)、アグド(阿久戸)、コイノガ(小猪岡)というように、思いつくままに挙げても切りがないほどある。これらの地名には、もちろんアイヌ語から発したものでないものも、含まれていようが、アイヌ語に源を持ち、漢字に無理矢理はめ込んでしまわれたために、どうにも日本語になると音が不自然になってしまっているものも多いであろう。

何故栗原郡や一関、平泉などの周辺に、このような地名が多いのかといえば、やはりこの地は、古代から中世においてまで、ヤマトとエミシのせめぎ合う境界線上にあったという歴史的事実を忘れることはできない。

さてアイヌ語地名の研究と言えば、幕末から維新の時代に、蝦夷地から樺太を廻り北の探検家として名を馳せた松浦武四郎翁(1818−1888)や岩手出身の碩学故金田一京助博士((1882−1971)や故山田修三氏の先駆的な研究(1899-1992)が思い出される。

しかし彼ら先人の研究もその多くは、やはり北海道のアイヌ語地名研究であり、本格的な東北地方のアイヌ語地名研究とは言い難い側面がある。僅かに山田修三氏の最後の著作に「東北・アイヌ語地名の研究」という書があるが、これも今後の東北のアイヌ語地名研究の指針になる重要な著作ではあるが、残念ながら、概論的で個別の地名の体系的な研究ではない。もちろん山田氏の学恩を忘れるものではない。氏は90歳を越えてからまで、この地味な研究に一生を捧げられ、そのことが、北海道や東北の歴史研究に果たした役割は、計り知れない。

そんな矢先、岩手日報に、岩手に住んでいる菅原進氏が、「随想アイヌ語地名考」という著作を出版されたという記事が、掲載されたのであった。3月半ばのことである。早速、お電話をすると、菅原氏は、門外漢ではあるが、フィールドワークと執念によって、書き上げたというお話を聞いた。短い会話ではあったが、菅原氏に深い敬意と人間的な魅力を感じた。そしてすぐに著作を送っていただくことにした。

送って頂いた著作を読み、行間に菅原氏の思いが詰まっているような感じを受けた。まず美しいアイヌの娘が白地に描かれており、本の緑色の帯には、このように書いてある。
 

紫波(しわ)の語源はアイヌ語の「Si・iwa」→「siwa」で、岩手山を指す地名であり、その意味は「偉大なる神住みたまう山」と解釈されます。」とある。
又その裏には、「大墓公阿弖流為」の「大墓」は「たいぼ」と読むべきであり、その語源はアイヌ語の「tay・bo(小さな・森)」であり、田茂山(羽黒山)を指す地名と解されます。」と記されている。

「前沢」の地名の母体については、このように説明されている。
「この「もたい」の地名も、どうやら、次のようなアィヌ語系古地名である可能性が大であると思います。 「もたい」の語源は、=アィヌ語の「モ・タィ(mo・tay)」で、その意味は、 =「静かなる・森」だと思います。」

平泉の「束稲山(たばしねやま)」の説明は、実に面白かったし、妙に納得がいった。

 「「たばしね山」は「たわしね山」ともいい、奥州藤原氏が栄えていた平安時代からの桜の名所としても遠く京の都にまでその名が知られていた所のようであります。おそらく、この山は、藤原氏の館であった柳の御所から藤原氏の一族が朝な夕な眺めていたであろうと思われるなだらかな山で、標高596mあります。この山の名の由来は、稲の束がたわんでいるのに似ているということで名づけられた地名であるといわれておりますが…。
しかし、この地名の表現には、そのような山の姿を形容するには少々物足りないものがあるように感じられます。そこで、別に考えられるのが、次のようなアィヌ語系の古地名ではないかという見方であります。 「たばしね」は、=アィヌ語の「タプ・ネ・シル(tap・ne・sir)」の転訛で、その意味は、=「肩の・ような・山」になります。」


「随想アイヌ語地名考」は、550ページに及ぶ大著である。この執念の労作を拝見しながら、改めて”地名研究にとって、何よりも大切なことは、やはりその地に足を運び、地形を見、地元の人の発音を聞き、地名にまつわる伝承伝説を書取り、アイヌ語に該当する確かな響きを吟味することである”と思い知らされたような気がした。この著作が、各方面から様々な指摘を受けたとしても今後の東北のアイヌ語研究の第一歩となる先駆的な研究であることは疑いのない事実である。

そこで私は、この著作を奥州デジタル文庫に掲載させていただくよう、著者菅原氏にお電話を差し上げたのであった。誠に厚かましい御願いである。しかしながら菅原氏は、私の趣旨をご理解いただき、驚くほど、あっさりとご承諾をいただいた。早速であるが、今回はまず、平泉を中心とした県南地方を掲載させていただくこととしたい。尚、奥州デジタル文庫の全文掲載の精神に鑑みて、追々追加入力させていただきたいと思う。

どうか皆さま、菅原進氏が、丹念に足を運ばれて心を込めて収拾された岩手市町村のアイヌ語地名の数々に触れ、ヤマト言葉とは違う微妙な響きの中に、奥州の人々の心を感じて貰いたい。

最後にもう一度、菅原進氏に感謝を申し上げたいと思う。
本当にありがとうございました。

二〇〇二年四月一日
佐藤 弘弥

 


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2002.4.1
H.sato