お茶のこころ

人をもてなす精神


昨日、クリントン大統領が来日した。心なしか、車の量も減り、東京の街並みも、きれいになったような気もする。そう考えれば、世界の要人が日本に頻繁に来ることは、悪いことではない。

人を招き入れる行為は、すなわちお茶の精神である。多くの人は、お茶(茶道)を、お茶をたてて、飲む行為だと早合点している。しかし茶道の精神とは、お茶を飲むことではない。ではお茶とは何か、と言えば、それは自分の家(領域)を掃き清め、季節を愛でて、他人を招き入れることである。
 

茶席では、一期一会(いちごいちえ)の精神を持って、挨拶を交わし、質素な懐石料理を食べ、最後に、一服の抹茶が出される。招かれた客人は、その抹茶を、この時とばかりに、一気に飲み干す。もしかしたら、これっきり、二度と会えないかも知れない。その思いを胸に秘め、ひたすら飲みのである。

しかしどこまで行っても茶道にとって、抹茶は、方便に過ぎないのである。大事なことは、心のふれあいである。

その昔、お茶は、戦う男たちの単なるたしなみではなく、至福の楽しみであった。つまりお茶というものを通して、高鳴る精神を安定させ、人間同士の心のふれあいを主眼とする娯楽そのものだったのだ。

茶道の完成者、千利休(1522 〜1591)は、「我が死して後、お茶はさらに栄えるかもしれないが、その精神は、廃(すた)れるに違いない」というようなことを言っている。確かに今日、茶道は利休の子孫たちによって、日本中に普及し、栄えているように見えてはいるが、その実、お茶の神髄を理解している人は、ほとんどいない。

くどいようだが、お茶の精神とは、お茶を飲むことではない。二度と会えぬかも知れぬ客人を心の底から歓待し、清々(すがすが)しい気分を、共有することこそ、お茶である。だから究極のお茶とは、料理もなければ、茶もださず、わが家の縁側に座って、じっと庭の草木を見つめるような行為である。

すると主人と客人の間で、不思議な精神の共鳴が起こる。もうここまでくると、お茶はおろか、言葉さえも必要ではなくなっている。後に残る感慨は、ただただ感謝の念があるのみ…。

「今日は、お招きいただき、ありがとうございました」

「いえいえ、今日は来ていただき、ありがとうございました」

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もしもお茶の精神を持った利休のような人物が、今回のクリントンを接待したとしたら、言葉や文化の壁を簡単に越えて、日米の間にたれ込めている暗雲を、言葉もなく、吹き飛ばしてくれるに違いない。お茶は、お茶にあらず、人と人の心のふれあいに極まる。佐藤
 


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1998.11.20