お化け論

 
 

怪談恐怖

夏と言えば、怪談である。日本人は怖い話が大好きだ。蒸し暑い夏の夜、明かりを暗くして、思いっきり怖い話をする。背筋が寒くなったところで、お墓に行ってものを置いてくる。置いてきたものを取ってこさせる。いわゆる肝試しというやつだ。

今のお寺と比べて、昔のお墓は本当に怖かった。何しろ今のお墓のようにきれいではない。草は生え放題で、今にも茂みからお化けがいつ出て来ても不思議がないほどの怖さがあった。だから肝試しの恐怖たるや、髪が逆立つような恐怖心があった。更に肝試しに行く人間を散々怖がらせた挙句、そいつの先回りをして、白いものをかぶってさっと隠れたりすると、でっかいなりをした中学生が、思いっきり声をだして逃げだす奴もでる。

確かにどう考えても、日本のお化けは世界一怖い気がする。四谷怪談のお岩さんのことを考えただけで、背筋が凍るような気持ちがしてくる。薬を飲まされて、夫に醜い顔にされた挙句に殺されたのだから、その恨み足るや、とても普通の幽霊ではない。しかもその醜い顔のまま、「うらめしや…」と化けて出てくるのだから、たまらない。

ところが、どうも最近のお化けは怖くなくなったような気がする。ゲゲゲの鬼太郎以降お化けがメジャー化してしまって、かわいくなってしまったためだろうか?お化け屋敷ひとつをとっても、娯楽ぽくって、お化けの現実感(リアリテイー)がさっぱりない。

成長心理学的に言うと、子供の頃に味わうこの怖いという感情は、精神が成長するために極めて大切な経験だそうだ。子供は怖いという体験をすることによって、恐怖を知り、危険地帯や怖いと思う人物には近寄らなくなる。つまり子供は、恐怖から人生を学んでいくのである。

もちろん必要以上の恐怖心は、かえって害毒だが、人間が幼児の時分にこの怖いという感情を、学ぶ機会を損なわれると、人は、恐怖心を感じない妙な人間として成長してしまう。

最近の親は、健全な恐怖体験をさせているとは思えない。子供は、恐怖体験によって危険をすばやく察知できるようになる。社会的なモラル(道徳心)もまた、恐怖心を媒介にして形成されていく。最近の親は、どうも小子化からくる過保護のためか、我が子に適切な恐怖心を植え付ける教育が不足している気がする。

昔で言えば、最初の怖いものの代表は、お化けであり、父親であった。「言うことを聞かないと、お化けに連れて行かれるよ」などと子供の頃に言われた経験は誰にでもあるはずだ。仲村専務の家庭でも「お父さんに言うよ」と言うと、子供が良い子になるのだそうだ。これなどは、適切な恐怖教育がなされている証明である。

お化けが怖いという素朴な感情は、子供の頃に適切な恐怖体験をしているという意味で健全な感情なのである。もし「お化けなんて、ちっとも怖くない」という人間がいたら、その人間は欠陥のある人間かもしれない、と疑うべきである。

人は誰でもこの怖いという感情を使って、早めに危険を察知したり、自分の感情のバランスを保っていることを忘れてはならない。だからいつの世でもお化けと親父は怖いほどよい。佐藤
 


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1999.7.14