角川日本地名大辞典 宮城県

 

【沼倉】

栗駒山の山麓、三迫川(さんはさまかわ)の最上流地域に位置しほとんどが山岳地帯。沼倉飛騨の居館と伝える。「岩野目城」(仙台領古城書上)、「白岩館」(安永風土記)がある。沼倉の地名は沼倉氏に関係あるともいわれるが、栗原郡高清水本陣の「沼倉家記録」によると、沼倉の姓は地名より出たものと推測され、結局この地が地勢的に山間地で鞍掛沼、新倉沼など所々でに池沼を湛えているところから起こったものと思われる。(宮城地名考)

判官森・弁慶森と称されるところに「義経の墳墓」と伝えられるがあり、万代館の館主沼倉小次郎高次(恵美小次郎高次)が義経の遺骸を葬り五輪の塔を建立したと伝えている。(封内名跡志・奥羽観蹟聞老志・安永風土記)

また当地には式内社栗原七座の1つと伝える、駒形根神社がある。御駒宮・御駒社・大日(おおひる)社とも称され、栗原郡一迫・二迫・三迫ならびに両磐井・羽州雄勝郷186カ村の総鎮守、奧院は栗駒山頂に近く虚空蔵山の大岩窟「御室(おむろ)」にあり

岳宮と称される。里宮は当村の一の宮にあり、口碑は四大禰宜六十社家と往古の盛大を伝えている。今も「勅旨(ママ使)屋敷」「都田」等の地名がある。

 

【中世】沼倉 南北朝期から見える地名。栗原郡に属す。「中尊寺文書」建武元年8月日付衆徒言上状には「沼倉少輔三次隆経」また、「沼倉文書」建武元年9月日北畠顕家袖判着到状には「沼倉少輔小次郎隆親」の名が見える。地名としては「奥州上行寺曼陀羅脇書」(宮城県史30)に「応永十一年甲申卯月日、之を富士大石寺檀那奥州沼倉の住人妙珍盲者に授与す」とある。

戦国期は葛西代の勢力下にあり、沼倉氏もその家臣となり、特に「白岩館」館主沼倉飛騨守信行は葛西氏没落後、天正19年桃生郡深谷糠塚(須江村)で伊達政宗と戦い戦死(仙台人名大辞典)その墓は岩手県一関市、旧萩庄村市野野にある。

 

【近世】沼倉村 江戸期〜明治22年の村名。栗原郡三迫のうち、葛西氏滅亡後、伊達領となり、領主は伊達家の祐筆として名高い和久半左衛門是安の子孫、着坐の家柄である和久半左衛門宗友(伊達世臣家譜)。

三迫大肝煎支配で安永6年の村高137貫余・人高157・家数157・人口893・馬数275(安永風土記)。

「元禄郷帳」神社は駒形根神社のほか村鎮守で産土神の速日明神社があり、寺には天文18年開山と伝える曹洞宗福聚山円年寺がある。(奥羽観蹟聞老志、封内風土記、、安永風土記)。栗駒ダムの湖岸、沼倉字玉山に鋳銭場を設けた旨の記録(東藩史稿)があり、その鋳銭場跡ではないかと考えられる。また山間んお渓谷に行者滝、窓滝の2大瀑布があり三迫川の源をなしている。

さらに栗駒山中腹の谷間に貞享2年二迫鶯沢村の川倉屋敷惣右衛門によって開かれた「駒ノ湯」という温泉がある。明治元年宇都宮藩取締地、以後、栗原郡、胆澤県・一関県・水沢県・磐井県を経て、同9年宮城県に所属。同22年栗原郡栗駒村となる。

 

【近代】 明治22年〜現在の大字名。はじめ栗駒村の大字、昭和30年現行の栗駒町沼倉となる。昭和36年北上川総合開発の一環として玉山に「栗駒ダム」が完成。迫川の治水に大きな役割を果たし、また昭和」25年には栗駒山が県立公園、同43年には国定公園の指定を受けている。


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2000.1.15