野ざらし」の句と芭蕉の人生



 

 野ざらしを心に風のしむ身かな

と、野ざらしの我が身を想像しながら、漂白の人生にライフワークという一本の道を見つけたのは芭蕉だった。この時、芭蕉41才。はっきりと漂白の旅で自らの命が尽きることを覚悟したことになる。

この句の精神を持って、芭蕉は、何ものにも左右されない絶対の価値を旅のなかに探しつつ、命の限り歩き続けたのだった。当時、芭蕉は、俳諧という新しい道を自らでラッセルしながら歩いた開拓者でもあったが、彼が目指したのは道は、かつて様々な道の達人たちが、歩いたと同じ一本の細き道だった。

歩くことが、芭蕉に本来具わっていた寿命を縮めてしまったであろうことは否定できない事実だ。彼は病みながら、体を引きずるようにして日本全国を何かに憑かれたように歩き続けた。何でそこまでするのか。周囲の弟子たちは心配し、思い止まるように進言するものもいた。しかし誰の言葉ももう彼の漂白への思いを止めることは不可能だった。それは芭蕉が、漂白のなかにこそ、自分が生まれてきたことの意味があり、そのなかに新しい「俳諧」という芸術の道を創ることに通じるのではないか・・・。そんなことを直感したからに他ならない。

また芭蕉はある歓喜にも似た強烈な実感を持っていた。それは、先人の少し後を歩いているのだという思いであった。先人とは、中国の李白や杜甫、日本では能因や西行のような人人のことだ。彼らは皆、漂白のなかに己の歩むべき道を発見し、歩き続けて旅のなかに逝った人々だった。そんな人人の後を歩いているのだという充実した感覚が、芭蕉のなかに歓喜を呼び起こし、病の痛みも野ざらしになる恐怖も吹き飛ばしてしまった。

つまり芭蕉にとって、野ざらしも病も問題にならないほど、自ら分け入った漂白の道の奥に存在する何かが心ときめく道だったことになる。生き甲斐とは死に甲斐だと言う人がいる。生き甲斐とは、まさにライフワークという一本の道を見つけて、その道をひたすら歩いてゆくに他ならないのだ。そんな道を見つけた芭蕉は、自分の俳諧の道を継ぐべき人がいないことを、ことさら悔やむこともなく、従容として死の床に就いたのだった。考えてみれば何と幸せな人物だろう。そんなことを思って次の句を味わうと芭蕉の笑みが浮かんで来るようだ。

 旅に病んで夢は枯野をかけめぐる

佐藤
 

 


2002.12.23
 

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