信長「虹の歓迎」

安土城に行く


 
 
信長に会いに滋賀の安土に向かった。折からの木枯らし一番が木々を揺らす中、信長は、安土の山で虹をかけて、我々の到着を待っていてくれた。信じられないことだが、道に迷って、安土城を探していると、彼方の山に虹がかかっているではないか。「あの山だ。あそこが信長の城だ」確信に近い感情がわいた。

あの安土城こそは、天才「織田信長」が、常識にとらわれない着想と強い天下統一の意志を持って建築した一大モニュメントだ。しかし信長の壮絶な死の後すぐに、内部から火の手が上がり、一夜にして消失してからというもの、魔王「信長」のたたりを怖れて、誰も近づくことをためらったまま、昭和15年まで、打ち捨てられたままになっていたのだ。

その通り、現在の安土城は、こんもりとした森そのもので何もない。何もないからこそ信長の夢や意志といったものを心で感じるしかない。山裾の形ばかりの駐車場に車を入れると、急に雨が強くなった。しかし急なこう配を上りながら「頂上の本丸に行けば、きっとこの雨は上がる」という予感がした。それにしても土曜日だというのに天下の信長の城跡に訪れる人は、ほんの数えるばかりだ。確かに、訪れる人を拒否するようなこう配の急さは異様なほど男性的存在感に満ちている。ふと「城とは本来殿様の住処という機能よりも、戦の砦という意味が強いのだ」と思った。信長のこの城は、城として最も美しいと言われる姫路城の女性的な優美さとも、松本城のような実直で質実な作り方ともまるで違う威容と絢爛さにあふれている。

もし信長があのまま生きていたとしたら、日本はこんなこせこせした国にならなかっただろう。文化的にも、「わび」とか「さび」といった言葉でごまかす京都文化に代表されるような弱々しいものではなくなっていただろう。国際交流や貿易ももっと盛んになっていたはずだ。

国も企業も家族も、全ては、そのリーダーの感覚にかかっている。信長の後を継いだ秀吉は、まったくリーダーとしての資質に欠ける信長のアイデアマンにすぎなかった。またその後の家康は、人を信用できない国際感覚の欠如したノイローゼ男だった。その後の日本が国際的に異質な文化と感覚をもった国と評されることになってしまった原因は、こんな所にある。

日本人が信長を怖い人物と思いながらも、どこかで慕い続けている理由は、今の日本人の感覚とは全く違う感性を信長に見るからに他ならない。“常識にとらわれずそのものを見よ。そして自分を信じて行動せよ”あの虹は信長のメッセージだったかもしれない。今本当にそう思っている。
佐藤
 


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2000.01.24