日本農業の再生への道を探る思索の旅(11)
 

日本人とコメ

− コメ幻想の呪縛と日本農業−

佐藤弘弥

日本農業新聞などによれば、先月(07年9月17日〜22日)、世界中の農 業ジャーナリスト190人(30ヶ国)が、「第51回国際農業ジャーナリスト連盟(IFAJ)2007年日本大会」を開催し、日本の農業の実情を取材して 回ったそうである。


1 外国人「農業ジャーナリスト」が見た日本農業

各国の記者たちは、まず、17日、18日と首都圏の農業を視察し、次に視察現場は東北に移り、宮城県北部の古川農業試験場と丸森町の畜産現場を視察した。 古川農業試験場は、「ササニシキ」や「ヒトメボレ」などの品種を作ったところだ。また宮城の丸森町では、和牛の生産現場を見て回った。以上のことを踏まえ て、最終日の22日に、仙台で日本農業をめぐるシンポジウムがあった。

このシンポジウムでは、各国の記者が率直な意見交換をした模様だ。
この意見の中に、なるほどと思わせるものがあった。

以下、NHKの番組「スタジオパーク」「外国人記者が見た日本農業」(2007年09月28日 午後放映)の話しでは、次のような内容だった。

『・・・とにかくどこででもコメを作っていること。たしかに日本のコメは美味しい。しかし生産と消費のバランスが悪い・・・。例えば「食料自給率が低いの に、なぜ余っているコメを作るのか」というデンマークの女性や、「日本人はもっと食べたいものを作るべきだ。パスタが好きなら小麦を作ればよい」などとい う意見。フランスの記者は日本ではコメが問題になっていることを知っているようで、「日本におけるコメはフランスのワインのようなもの。文化に密着してい るから、感情的な議論になっている」という意見もあった。』

まず「どこでもコメを作っている」というコメ一辺倒というコメへの偏りを指摘している点であるが、私たち日本人は、またかと思わず、謙虚に受け止めてみる 必要があると感じた。また「日本のコメはフランスのワインのようなもの」というフランスの記者の指摘が面白い。

EU諸国でも、農業は大問題だ。グローバリゼーション下では、先端を行く自動車や精密機械などと違って、補助金を支給せざるを得ない事情も当然でる。それ でも、EU諸国は、食料自給率などでは、40%を切ってしまった日本農業とは、比べにならないほど高い水準にある。


2 日本農業は浦島太郎だ!?

何故、このような食料自給率の格差が生まれたのか。

ひとつには、日本の農政が、「政治と官僚とJA」によって引っ張られる構造が厄となったことが上げられる。この構造によって、日本農業はとくかく変化を拒 み、「コメを守れ」という言葉を錦の御旗を押し立てて来たのである。

ところが、気がついて見たら、世界はすっかり変わり果て、日本農業は、自分たちが、竜宮城から帰ってきた浦島太郎となっていることに気づいて愕然としたの である。山間地などでは農業従事者が65歳になるという驚くべき事態は、コメ作り農業が、まざに限界点まで来ていることを証明するものである。

またふたつ目には、日本人の食に対する趣向の変化がある。戦後、GHQによる農地解放(1947ー1950)によって、希望に燃えて始めたコメ作りも、そ れを食べる日本人が減ってしまっては元も子もないというものだ。農村生まれの人間も一度都会に出てしまうと、朝などはコメよりもパンの方が良い、というよ うな具合になったのである。

では何故日本人が、コメというものにそれほどこだわり続けるのか。日本人の深層心理に眠る「コメ」という概念を掘り下げて行ってみよう。


3  コメの国「日本」

日本人にとってコメはひとつの幻想性であり、「聖域」とも呼ばれる。もっと有り体に言えば、「触れてはならないもの」、「深く考えてはならないもの」とい うことになる。まさに不合理で非論理的なものなのである。

古くから日本は「瑞穂国」(みずほのくに)と呼ばれてきた。簡単に解釈すれば、稲の国の意味だ。広辞苑には「瑞穂のみのる国。日本の美称」とある。また正 確には「大八州(おおやしま)豊葦原(とよあしはら)の瑞穂の国」と呼ぶのだそうだ。「みずほ銀行」の「みずほ」もまた、この「瑞穂」から採られているの だが、そもそもこの「みずほ」は、「瑞々しい稲穂」の意味であり、「八つの大きな島からなる豊かな葦原に瑞々しい稲の穂が揺れる国」ということになる。

ここから、日本人というものが、自らの国を「稲の国」(コメの国)とのアイデンティティを持って来たことが考えられる。日本人にとって、稲というものが、 秋祭りなどを通じて、生まれた時から、特別の存在のようなものとしてすり込まれてきたのである。事実、江戸期における大名たちの知行支配は、コメの生産量 を示す石高によって「加賀百万石」であるとか「伊達60万石」という形で表されてきた。

これはコメを経済の中心とする農本主義の考え方である。江戸期は豊臣秀吉による検地により半農半武(半分農民で半分武士という意味)だった人間を完全に武 装解除させた社会構造をベースにして、農民を農地に縛り付けてコメの生産に従事させた時代だった。


4 コメの村祭りと大嘗祭(だいじょうさい)

ところで、日本人とコメの結びつきが、強い根拠には、もっと別の深い意味があるのではないだろうか。

そのことをひも解く手がかりとして、吉本隆明氏(1924ー )の「共同幻想論」(勁草書房(けいそうしょぼう)1972年刊)を読み込んでいくことにす る。

この著「祭儀論」の章で、吉本氏は、奥能登に伝わる「田の神を迎える神事」と天皇が即位の時に行う「大嘗祭」(だいじょうさい)の類似性を論じ、次のよう に考察している。長文になるが引用し、解説する。

「(奥能登の)民俗的な農耕祭儀(注1※)では、対幻想の基盤である<家>とその所有(あるいは耕作)田の間に設けられた祭儀空間は、世襲大嘗祭では悠紀 (ゆき)、主基田(すきた)の卜定(ぼくじょう)となってあらわれる。・・・(大嘗祭では)悠紀(ゆき)、主基(すき)殿の内部には寝具がしかられてお り、かけ布団と、さか枕がもうけられている。おそらくこれは<性>行為の模擬的な表象であるとともになにものかの<死>となにものかの生誕を象徴するもの といえる。

西郷信綱は「古代王権の神話と祭式」のなかで、天皇はこの寝具にくるまって胎児として穀霊に化するとともに、<天照大神>の子として誕生する行為だと解し ている。折口信夫は『大嘗祭の本義』のなかで天皇が寝所でくるまって<物忌み>をしその間に世襲天皇霊が入魂するのをまつためにひき籠もるものだと解釈し ている。

しかしこの大嘗祭の祭儀は空間的にも時間的にも<抽象化>されているためどんな意味でも西郷信綱のいうような穀物の生成をねがうという当為はなりたちよう がないはずである。また折口信夫のいうような純然たる入魂儀式に還元することもできまい。むしろ<神>とじぶんを異性<神>に擬定すた天皇の<性>行為に よって対幻想を<最高>の共同幻想と同致させ、天皇がみずからの人身に世襲的な規範力を導入しようとする模擬行為を意味するとしか考えられない。わたしち たちは、農耕民の民俗的な農耕祭儀の形式が<昇華>されて世襲大嘗祭の形式にゆくつく過程に、農耕的な共同体の共同利害に関与する祭儀が規範力<強力>に 転化するための本質的な過程をみつけだすことができよう。」(前掲書 153ー154頁)

おそらくこの着想を、吉本氏は、柳田国男(1875−1962)が再三「大嘗祭という天皇の祭祀と村々の秋の収穫祭とが共通の様式をそなえている」(赤坂 憲雄著「象徴天皇という物語」ちくま学芸文庫 2007年刊)と主張したことから得たのではないかと思われる。

上記の「共同幻想論」の論理は、一見難解に見えるが、ポイントは、奥能登に伝わる農耕神事と天皇が即位する際に行われる「大嘗祭」は、根が同じだというこ とに尽きている。

ここで問題なのは、天皇という存在が、日本という国を世襲し即位する時には、田の神を迎える儀式と同じやり方で、即位をするということだ。天皇は、大嘗祭 を介して田の神様とすり替わることによって、瑞穂の国としての日本を受け継いでいく資格を得たことになる。つまり大嘗祭は、新天皇が、稲の国を名実ともに 継承する祭であるが、実は、奥能登の一軒の家で行われているコメ神事(対幻想)が、「天皇即位の大祭」(共同幻想)として転化したものなのである。

こうして日本人と天皇は、コメという穀物を媒介として、深くそして分かちがたく結び付いてきたのである。したがって、日本人が、コメという穀物に対し、ひ ときわ特別な感慨を持つ理由は、幼い頃から、年間を通してさまざまに執り行われる祭りなどを通し、コメとの幻想的な結びつきによって、無意識にコメという ものを日本というひとつの「共同体の幻想」として、特別視していることから起こっているのではないかと思う。

言い換えれば私たち日本人は、無意識的に「コメ文化」というものに縛り付けられている存在なのではあるまいか。そこから、私たちは「日本人」と「コメ」と 「天皇制」という「三すくみ」の関係性に注視していくべきである。私たち日本人は、この「日本人ーコメー天皇制」という問題を、とかく「聖なるもの」とし て論理的思考の外に置いてきたものである。

ここで、吉本氏がほぼ40年前に着想した「共同幻想」という得体の知れないものの正体が、朧気ながら明らかとなる。共同幻想とは、日本人が長い歴史を経 て、自己の中で、家の中で、村落の中で、そして国家というものの中で作り上げてきた観念の総体である。

日本という農耕社会から発展した国家の中において、「コメ」もまた日本社会における特異な「共同幻想」であり、王権(国家の支配権)を代々伝えた「天皇 制」もまた「共同幻想」なのである。

私はこの稲作を中心として発展してきた日本社会が、明治以降、急速に工業社会化し、第二次大戦後は産業社会が高度化する中で、日本人の根底にある文化観念 は、依然として、農耕社会型の共同幻想が、澱のようにして残存し、
私たちを幻想的に呪縛 しつづけていることを強く感じる。


5 コメ幻想からの自由

日本人の無意識の中で、コメというものが、文化として根付いていることを見てきた。吉本隆明氏の共同幻想論は、私たちの意識の中にある「コメ」という生活 に沿った身近な穀物が、共同体の中でどのように生成変化し、共同幻想化したかを明確にしたものである。私たち日本人の中には、このコメという言葉が、「個 →家族→村落集団→国家」の中で増幅し、古池に一隅に溜まった澱(おり)のようなものとして、個々人の意識の中で眠っているということである。

奥能登の農村でひっそりと行われる「コメの神事」と「大嘗祭」の構造は、実はコメをめぐる「祭り」という共通点を持つものだった。奥能登の農家での神事 は、田の神を迎え豊作を祈る祭りである。天皇の即位で行われる大嘗祭は、あまねく国中の人々に向けて、自分が新しく田の神の継承者であることを知らせる意 味を持つ祭りだ。

このことは、天皇が即位する時、瑞穂の国のすみずみに広く受け入れられている田の神とすり替わることによって、国家社会の支配権としての「王権」の座につ いたことを象徴的に物語るものではないかと思う。

天皇は、こうしてコメを生み出す田の神にまで昇華したことになる。さらに農民にとって、田の神を否定することは、コメを作ることを否定ことにも通じる。考 えてみれば、これは自己否定ということだ。ここには理屈を越えた田の神(天皇)という存在に対する絶対の服従の関係性が生じることにもなる。

共同幻想論を読みながら、日本人が、コメというものを特別視する心理がよく理解できた気がした。以上のことから、私たちは、「コメ」というものを聖域と見 る観点だけでは、差し迫った日本農業の再生は、不可能であることを自覚し、食料自給率をアップするという観点から、もう一度「コメ一辺倒」の農政を見直さ なければならない。今、日本農業にとって、もっとも大事なことは、コメ一辺倒の農政からの脱却だと思うがどうであろう。


◇ ◇ ◇

注1 ※能登の鳳至郡町野町川西に伝わるという農耕儀礼

この町では例年 12月5日に田 の神を一家の主人が、かしこまって家に迎える。お風呂に入れ、床間に座を設けご馳走で持てなす。また田の神の隣には、「種さま」と呼ばれる種籾の俵を置 く。この日、家人は、お供え物を食し早めの食事を済ます。その日から田の神は、この「家」に2月9日まで留まることになる。翌日、種さまは戸口の天上に吊 して、2月9日までそのままにする。

2月9日になると、再び種さまは、座敷の田の神の横に並び納められて、家人は12月5 日と同じくご 馳走が供えられる。2月10日には「若木迎えの日」となり、供え物を持って山に入り、松の若木を伐って、夜座敷に松飾りをして饗宴をする。2月11日。 「田打ち」の行事となり、主人は未明の三時頃に、飾った松飾りと鍬を担いで苗代田に行って東方に松を立て、柏手を打って豊作を祈るのである。(吉本隆明氏引用の池上広正氏論文「田の神行事」を佐藤が略して抜粋)


注2※<共同幻想>

心 理学者の岸田秀氏(1933ー )は、共同幻想について、このように記している。「共同幻想は、どのようなものであれ、個人の私的幻想の一部を共同化した ものにすぎず、大部分は私的幻想のまま残り、絶えず共同化されることを求めつづけ るので、個人は、個人は不可逆的に共同幻想と私的幻想との間に引き裂かれており、共同幻想は常に不安定である。(三省堂 コンサイス 「20世紀思想事 典」252頁)



2007.10.15 佐藤弘弥

義経伝説
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