日本農業再生の道を探る思索の旅(10)


新しい価値観で考える「農民像」

− 百姓は農民ではない−



世の中には、常識となっている誤解も多い。例えば、日本人は「百姓」という と「農民」であると通常思っているが、この常識が歴史学の世界では、ほとんど覆されている。

日本農業の危機が叫ばれている時、私はこの「百姓=農民」という、固定した考え方を糺し、日本農業の歴史そのものを、見直す一契機としたいのである。


1 百姓は農民ではない(網野史観)

歴史家網野善彦氏(1928−2004)が、論文において、百姓は、「ひゃくしょう」ではなく「ひゃくせい」と読み、単に農民を意味するものではない、と いう趣旨の主張を繰り返しおこなったお陰もあって、現在「百姓」を単純に「農民(農業従事者)」とする見方をする歴史家は居なくなりつつある。

元来、百姓(ひゃくせい)は、氏姓制度(うじかばねせいど)から来たもので、これを農民と規定することは元々なかったのである。広辞苑で「ひゃくせい」を 引くと「一般の人民」とシンプルに表記している。考えてみると、各地の村落を考えても、大きくみれば、皆少しばかりの田畑はもっているから、農民的要素は あるが、個別にみれば、大工、鍛冶屋、石屋、炭屋、材木屋等々、多様な専門職を別に持っていた。これが百姓(ひゃくせい)の現実だったのである。

網野氏は、「『百姓は農民』」という・・・常識はまったく誤った思いこみであり、本来『百姓』の語には農民の意味が全く含まれていないだけではなく、実態 に即してみても古代から近世にいたる百姓の中には、かなりの数の非水田的・非農業的な生業を主として営む人々がいたことは明らかである・・・。・・・現状 では測定し難いが、恐らく近世においても百姓の中の四〇ー五〇%に及んだのではあるまいか。」(岩波講座「日本通史」岩波書店1993年刊 第一巻 網野 善彦氏論文「日本列島とその周辺ー『日本論』の現在」13−14頁)

この網野氏の歴史観を受け入れることで、日本社会の歴史解釈において、劇的な転換がなされることになった。

このことで、この日本列島は、「田地だけなく、畠地の多様な利用、焼畑、休閑地での牛馬の飼養、それにおさまざまな非農業的な生業の間の多彩な社会的分業 展開を背景に、河海・山を舞台とする流通網で結ばれ、なお呪術的な色彩をまとっているとはいえ、活発な市庭での交易、商業、金融活動が行われ、手形の原初 形態も姿を現している社会」(前掲書 20−21頁)のように、まったく別の様相に見えて来るのである。

これまで、私たち日本人は、狭い常識に囚われて歴史を見てきた。それは、狩猟採集の縄文時代から稲作定住型の弥生時代となり、やがて富の蓄積から中国の社 会制度を取り入れて天皇制の社会、そして藤原氏などの貴族が台頭し奈良から京都へと都が移り、やがて武士階級が東国において権力を取り、鎌倉の世となっ た。これ以降、武士たちは抗争を繰り返し、戦国時代を経て、封建制の確立としての徳川時代となった、というものだ。

特に鎌倉時代武士たちの世となってからは、おおむね百姓は農奴のような土地に縛り付けられた人々というような間違った常識があり、当時の日本社会のダイナ ミックな非農業的側面が、ほとんど無視されてきたものである。


例えば、この「百姓=農民」という常識によって、映画芸術さえも影響を受けていることをこれから証明しよう。


2 黒澤明の「七人の侍」は間違っている

世界の巨匠黒澤明(1910−1998)の最高傑作「七人の侍」という大作がある。私は、黒澤映画で、これ以上の作品を知らない。脚本、演出、キャメラ、 美術、配役、演出、どれをとっても非の打ち所のないほどの作品だ。世界の映画関係者の間でも、「生きる」と共に、黒澤の代表作として、称賛の的なることが 多い。

ところがこの映画には、決定的な間違いが潜んでいる。まずこの映画のテーマが、浪人のサムライたちが、百姓の村を助けて、野武士たちの襲撃から守る、とい うものだ。網浜説に従えば、百姓は農民ではなく、サムライでもあった可能性が高いので、村を襲う野武士から村を救うサムライということは、ほとんど論理矛 盾となる。

もっと簡単に言ってしまえば、百姓は、農民でもありサムライでもあったのだから、あの映画のように刀や長槍、鉄砲の使い方が分からないはずはないのであ る。

戦国期の戦争は、ほとんど農閑期に行われたというのが、実はこれは戦国大名の連中は、領地を耕しながら、戦のある時には、これを戦場に駆り出して領土拡大 を繰り返していたということである。そんな中で、織田信長は、本当のサムライとも言える少数精鋭の軍団を作って、今川義元を破ったと言われているのであ る。

しかし私は「七人の侍」という芸術作品が、歴史の認識が間違っているからと言って、この作品が、今後傑作と呼ばれなくなるというようなことを言うつもりは 毛頭ない。やはりあの天才黒澤が精魂を込めて撮った作品は、世界の映画史に残る傑作であることに変わりはない。


3 豊臣秀吉の刀狩りと農民の武装解除

百姓は、農民ではなくサムライでもあり、さらに網浜氏のいうように様々な技能を持つ広範な職能民の存在あったとすれば、百姓=農民という誤解が生じた理由 はどうしてか、またそれはいつ頃に定着したものだろう。

まず、これについては、歴史の過程で考えれば、戦国時代が、信長暗殺後、豊臣秀吉(1536−1598)から徳川家康(1542−1616)という流れの 中で収束し、封建社会となるのであるが、まず豊臣秀吉は、農民でもありサムライでもあった連中から刀狩りによって、武装解除させた後、これを専業の農民と して、土地に縛り付ける過程で、起こったものと考えられるのではないだろうか。

奥州において、秀吉は、「奥州仕置き」と呼ばれる奥州の領土領民の収奪を行った。この時、大阪に居た秀吉は、伊達政宗(1567ー1636)に命じて、徹 底的に従わぬ領主を弾圧した。歴史では、正宗は、従わぬ者をなで切りにして、その耳を、大阪の秀吉に送り、秀吉は、この正宗の忠節に満足をしたということ だ。しかし地元宮城の県北地方では、正史として伝わっていることとは、まったく逆のことが伝わっている。これは地元の旧家に伝わっている家系図にも明確に 書かれていて、容易に証明できる事実である。


4 伊達政宗の政治的決断と宮城県北部におけるサムライの農民化

それは、豊臣秀吉に叛旗をひるがえし、城に立て籠もった大崎氏や葛西氏の武者たちを、伊達の武者たちが、深夜こっそり裏木戸を開けて、逃がしたというので ある。この時、まだこの地は伊達の領地ではなかった。しかし政治的判断に優れた正宗は、いずれ自分の領地になり、農地を管理者なり、働き手となる者の命を 絶つことを避け、逃亡を許したと考えられる。しかし歴史では、なで切りとなっているが、結局これは主だった敵方の中心メンバーを殺害し、首を晒し、鼻や耳 は塩漬けにして、秀吉に送ったかも知れないが、自分の領土の耕地を耕す者には手を出さなかった。それだけ、正宗には、深謀があったのである。

次に正宗がしたことは、逃亡したものたちの追跡をせず、ほとぼりが冷めるまで、それ以上の追求をしなかったことである。こうして、おそらく半農半侍だった 者は、戦の功績によって賜った土地に帰り、農民として生きることを受け入れたのである。

その意味で、豊臣秀吉が行った刀狩りや検地というものを経て、サムライでもあった農民あるいはその他の戦国時代の職能民たちは、次の徳川時代に確立される 「士農工商」という封建的身分制度をへて、明確に農地に縛り付けられ、農民となったと考えられるのではないかと思うのである。


2007.09.26 佐藤弘弥

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