ブックレビュー


岩波文 庫新渡 戸稲造論 集」を読む

「太平洋の橋」になろうとした国際人 の失意


 1  人類史的視野を持つ国際人「新渡戸稲造」

新渡戸稲造(にとべいなぞう:1862ー1933)という人物がいる。あの世界的ベストセラー「武士道」(1900刊)を38歳で英語で著し、後に57歳 で国際連盟の事務局次長に就任(在職:1919ー1926)した人物で、岩手盛岡(旧南部藩)の人である。

この人の評論集がこのほど岩波文庫から07年5月の新刊「新渡戸稲造論集」(青118−2)として発売された。

表紙には、晩年の微笑みを浮かべた氏の慈愛に満ちた写真が掲載されている。目次をめくると5つのセグメントに分けられている。1は教育論で、「今世風の教 育」からはじまって、「新女子大学の創立に当たって」まで10の評論が集録されている。2は人生論と哲学で、「人格の養成」から「ソクラテス」、「死の問 題」、「読書と人生」と続く。3は政治思想で「「デモクラシーの要素」、「自由の心髄」、「平民道」など。4は世界の中の日本で、「真の愛国心」、「国際 連盟とは如何なるものか」、「民族優位説の危険」など。全体に実にバランスよく収められている。新渡戸稲造氏という人物の思想と人となりが、おおむね理解 できる構成だ。

この本を読んで改めて分かることは、新渡戸稲造という人物の見識の広さである。とかく日本人には、島国根性というものがあると言われる。理由は、徳川時代 の長い鎖国政策が日本人の心を内向きにしたことも大いに関係していたと思われる。

新渡戸氏は、そんな中にあって、日本人の中の数少ない真の国際人であった。私の知人に日本に居住している時には、自分が日本人であるということを感じな かったが、海外留学をして、何年か外国に住んでみて、母国である日本と日本人である自分を意識するようになったという話しを聞いた。

新渡戸氏も、若い頃、アメリカをはじめとして世界中の国々を訪れ、そこでさまざまな言語と歴史を学んだ。そんなことで、日本という文化に拘泥せず、世界の 中から日本というものを俯瞰できる巾の広い視野と国際的な感覚で堂々と持論を述べる人格(パーソナリティ)を身につけたのだろう。


 2 名著「武士道」を書いた動機

氏の主著となっている「武士道」という著作にも、その本質はよく顕れている。氏が「武士道」という本を英語で書いた動機は、ふたつあった。

ひとつはベルギーのある著名な法学者より「あなたの国では宗教教育がないのに、どうして道徳教育ができるのですか?」と言われてショックを受けたことで あった。その時、新渡戸氏は、ショックのあまり、言葉を失い、そのことをずっと考えて、自分が幼少の頃から人の道としての「武士道」というものを思いつい たのである。

もうひとつは、氏の妻がアメリカ人で、氏の考え方や行動について、「それは日本のどんな思想や風習に基づいているの?」とことあるごとに質問をされたこと によるのである。

つまり、「武士道」という書物は、このふたりへの回答として書かれることになったのであった。新渡戸氏は、「第一章 道徳体系としての武士道」として、次 のように誇らしくペンを走らせた。

武士道は・・・桜花と同じく、日本の土地に固有の花である。(中略)封建制度の子たる武士道の 光はその母たる制度の死にし後にも生き残って、今なお我々の道徳の道を照らしている。
(矢内原忠雄訳 岩波文庫 1938刊)


また、この著は、西洋において、「ハラキリ」や「カタキウチ」などと、暴力的で凄惨なイメージとして考えられがちな日本人の死生観としての「武士道」を、 西洋人にも十分理解できる形で説明しようと試みた日本人論であった。さらにこの著には、日本人自身の中にある武士道というものに対する偏見のようなものを 取り払う狙いもあったのではないかと感じる。

何故ならば、私たち日本人は、ともすれば武士道を山本常朝(1659-1721)の「葉隠」のようなものとして捉えがちである。

今でも葉隠の「武士道とは死ぬことと見つけたり」というような言葉が、独り歩きをし、あたかもこの感性が「武士道」の決定的キーワードであるかのように考 えられがちである。

これひとつをみても、武士道というものが、どこか偏屈で狂気に満ちた精神のように誤解されてしまっているのである。しかし新渡戸氏は、西洋における騎士道 を例にとって、武士道を人間集団に共通するひとつのエートス(道徳的な慣習)として説明しているのである。

もっと言えば、氏は世界各国の文化や歴史などを熟知した上で、日本人の精神としての「武士道」というものを、人類史の中の大きな流れの中の捉え直し、そこ から西洋人にも十分に理解できる普遍的な思考法として定義付けていることになる。その後、英語で書かれたこの著は、日本語はもちろん、ドイツ語、フランス 語、ロシア語、などに翻訳され、世界の人々に日本人の精神の高潔なることを大いに広めることになったのである。


 3 日本人と批判精神について

今回の新刊「新渡戸稲造論集」の中にも随所に、新渡戸氏の見識の深さというものに触れることができる。例えば、「教育の目的」の中に、「日本人は頭に余裕 がない」という下りがある。ここで氏が言っていることは、イギリスの著名な政治家というものは、どんなに忙しくても、一冊や二冊著名な本を著していると語 る。グラッドストーンはギリシャの詩人ホメロスの研究書を、ソールズベリーは、化学研究の書を、バルフォアは哲学書というような具合である。

これは今でも言えることで、つい最近までフランス大統領だったシラク氏は、日本文化の研究者で「相撲」にも深い造詣を持っていた。

ところが、日本の政治家に目を転じた場合、少し心寂しくなるのであるが、官僚上がりや弁護士ばかりで、まったく違う学問分野に造形の深い人というのはほと んど聞いたためしがない。この評論を新渡戸氏が書いたのが1907年(明治40年)で、それからも日本の政治家の文化程度(教養の深さ)は、ほとんど変 わっていないとみるべきだ。

もうひとつ日本人の特徴を書いている下りを紹介する。氏が21歳で東京大学で学び、22歳でアメリカの名門「ジョンズ・ホプキンス大学」(メリーランド州 ボルティモア)に留学したのであるが、この時、東大の社会学のテキストがハーバート・スペンサー(1820−1903)の4冊の分厚い本だった。また経済 学はジョン・スチュアート・ミル((1806-1873)の本だった。

そしてジョンズ・ホプキンス大学に行ってみると、社会学も経済学もテキストはスペンサーとミルの本だったが、アメリカの場合は、日本の東大と違って、教科 書ではなく、参考書としての使用で、講義をする教授は、自分の考え方を主張し、時には参考書に批判を加えながら、講読していくというやり方だったと記して いる。

テキストの水準は同じでも、批判的精神があるとないとでは、まったく違う。この辺り、現在の日本にも通じるものがある。とかく、日本人は権威というものに とても弱いものだ。権威のある人物の本などは、無批判に受容しがちであるが、新渡戸氏の学生時代より、アメリカでは学問には批判精神がなければいけなかっ た・・・。


 4 日米開戦と新渡戸稲造の失意

新渡戸氏は若い頃「太平洋の橋(かけはし)」になりたいとの大望を抱いたという。

そんな氏の意思をあざ笑うように、祖国日本は、中国満州(1931)に進出する。氏は、すぐに軍部の行動を新聞にて批判。しかし日本中が右傾化する中で、 逆に批判が氏に集中し、孤立無援の状況となる。

それでも、「太平洋の橋」という若い頃の使命感を失わない新渡戸氏は、1932年、アメリカに渡り、日米関係を取り持とうと100回以上に及ぶ講演を試み る。しかし残念ながら、アメリカの聴衆の理解は得られず、翌年の1933年3月、祖国日本は、ついに国際連盟を脱退し、日米開戦は避けられないものになっ て行くのであった。

それでも氏は、同年10月、平和への希望を捨てず、第五回太平洋会議に参加するため
日本代表団首席としてカナダに渡る。会議終了後、過労のためか、急病にてビクトリア市の病院に運ばれ急逝。享年は72 歳だった。遺骨は多磨墓地に葬られる。

その8年後、ハワイ真珠湾攻撃で始まる日米開戦(1941)を直接見ないのは、氏にとっては幸せだったと表して良いのだろうか・・・。

◇  ◇ ◇

多くの人は、新渡戸稲造というと、教育者あるいは5千円札の人物というイメージしか持っていないのではないだろうか。何故、この人物が、数ある日本近代の 偉人の中で、1万円の福沢諭吉(1834-1901)と並んで5千円札の顔として選ばれたのか、この本をしっかりと読んだ瞬間に理解できるはずだ。

この著は、現代の日本人に、狭い視野を捨て、世界史的な視野から日本を見つめ直すことを教えてくれるすばらしい啓蒙の書だ。

私は、この本を読みながら、もしも新渡戸氏のような真の国際人が、あと何人か、政府内部に存在したならば、もしかすると、あの日米開戦は回避できたかもし れない。と、本気で思ってしまった。

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2007.5.26 佐藤弘弥


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