認識の限界

イメージパターンで認識することの怖さ


 

人はいつもイメージパターンを持って物を見ている。例えば、人に「桜を想像してください」と言う。すると人は、自分が知っている桜のいくつかのパターンを思い浮かべる。ソメイヨシノ、枝垂れ桜、八重桜、と言った具合だ。しかし花弁が6センチもある桜や黄色の桜、花弁の数が300個もある桜もあると、聞くと、認識のパターンが狂って認識パニックに陥ってしまう。実際ケンロクキク桜という桜がこの世にはあるらしい。大概のひとは桜というと身近な公園で見ているソメイヨシノしか思い浮かばない場合が多いのだ。

人が人を見る場合もこれとほとんど同じだ。例えばあなたが誰かを見たとする。しかし実はそれは虚像でしかない。簡単に人が、他人を認識する流れを考えてみよう。まず人が他人を見ると、まず網膜に人が逆に映る。つまり天と地が逆になった形で見えている。それを脳が天と地を修正して正視状態をつくってくれる。つぎに自分の中にあるいくつかのイメージのパターンを持って、識別するのである。

そのパターンが極めてその人物に近い時もあるが、たいていはその人物と認識のパターンには差がある。その後、何度かその人物と接し、イメージの修正が始まる。しかしその間も、実像であるその人物は、どんどん別な人格に成長変化していくから、いつになっても正確に把握することは難しい。

それはちょうど、晴れた日の高速道路に出現する「逃げ水」のようなものだ。誰でも経験があると思うが、百メーターほど先に水たまりがあるように見えて、いざそこまで行ってみると、水たまりは、先に逃げている。人が人を見る場合もやはり、同じことが言える。人が人を正確無比に分かりあうことなど永遠にありえないのである。

このような人の認識の錯覚が、歴史をつくり、世の中をつくっていく。例えば少し前にはヨーロッパ社会において、事故死したダイアナ妃に対する「ダイアナブーム」があった。彼女の中に、キリスト教圏内の人間たちは、一種の永遠のマリア様の如きイメージを見たのであろうか。彼女が自分の汚れた部分を告白しようが、人々はかまわず、ますます彼女を支持し、一種のあこがれと羨望の目で彼女を悼み続けた。

また戦前のドイツ帝国では、多くのドイツ人達が、ヒステリックな精神状態となり、ヒットラーという人物の中に、ドイツ民族の新しい指導者を見ようとした。例えそれがどんなに矛盾に満ちた政策を実行しようと、ヒットラーを神聖化するドイツ民族の心が彼をヒーローに祭り上げて、人類史上でも忘れられない歴史の悲劇が引き起こされたのであった。

このように考えていくと、物事を何気なく見るにしても、自分のイメージパターンを常にリフレッシュする感覚がなければ常に間違った認識をしてしまう危険があるということになる。したがって我々は自分のものを見る眼の不確かさをよく認識し、もっと謙虚にならなければいけないと思う。まさに人の実像と虚像は、虹のようなものだ。人は虹の下に立って、虹を下から見上げることは永遠に不可能なのである。認識には限界がある。しかし視野に限界があるからこそ、人生は面白いとも言える・・・。佐藤

 


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1999.3.31