義経伝説ホームへ

義経エッセイINDEXへ

日本文化と「老い」

−否定的なるものに価値を見いだす日本人の感性−


免疫学者で能作者の多田富雄氏の近著「脳の中の能舞台」(新潮社2001年四月25日刊)を読んだ。その中に「日本の伝統」という小文がある。

「日本の芸能の中には、「老い」という主題が見事に結晶となっている。能の「翁」はいうまでもないが、神様が顕現する「高砂」や「老松」など祝言の能の前シテたいてい老人の姿で現れる。「老い」というのはまず、めでたく寿(ことほ)ぐ言葉なのである。(後略)」(p120)

日本では、古来から「翁」(おきな)という言葉は、老人を尊敬する言葉であった。この言葉の外にも「長老」という言葉があるが、この場合の長とはオサの意味であり、こうなると「オサ」とは、「鯛は魚のオサ」という言い回しが広辞苑にも紹介されているように、その中でも「もっとも優れているもの」というほどの意味になる。要するに「老い人」である翁という人間は、日本文化の中でも特別の畏敬の対象であったのだ。

人は誰も「老いる」ことに、ある種の恐怖を持っている。しかし日本文化の中では、多田氏に言わせれば、「老いることは、神に近づくことでもあった」ということになる。なぜ日本人が「老い」というものにそれほどの価値観を見いだしたかと言えば、「それは日本人が時間というものをたんに過ぎてゆく物理現象ととらえたのではなく、時の流れによって積み重なってゆく自然の記憶のようなものを発見したから」(p121)なのである。

こうして考えてみると、日本人には、どうも老いという人間の生命の限界を示唆する否定的な意味合いの言葉に価値を発見し、それを芸術的な作品にまで結晶させ得る能力があるようだ。つまり日本人は、老いというものにも、単に衰え行く肉体と精神という否定的な面ばかりではなく、蓄積された時間の記憶のなかにある価値を見い出し、それを日本文化という荘厳な構築物にしてしまうのである。ここに日本文化の奥深さの正体があるのではなかろうか。さすれば、最近作家赤瀬川原平氏が「老人力」というベストセラーを書くことができたのもまた、先に見たような赤瀬川氏の感性によって、何気なくなされた「老い」というものの日本的価値の再発見そのものに思えてくる。

ともかく日本人特有の「あはれ」も「ほろび」「わび」も「さび」のような言葉も、他言語に翻訳すれば、実に味気ない否定的なものになってしまいがちだ。ところが日本人は、これを一旦日本的感性というフィルターを通して見直し、そこに何とも言いようのないような永遠の「美」や「価値」を見いだしてしまうのである。

それではというので、私も今日、ある友人が病気になったというので、早速、次のような歌を添えて励ましの文をファックスで送った。佐藤

 病はよ天の声なりのうのうと休みなされな滋養つけてよ
 

 


2001.5.23

義経伝説ホームへ

義経エッセイINDEXへ