ネパール王族射殺事件の真相と人間の心の闇 

 


さる6月3日、ネパールで起きた王族射殺事件は、世界中に衝撃を与えた。私はこの事件の報に接しながら、時が経つごとに、この事件の背後でうごめく何ものかが気になり出すようになった。それは言葉として表現するのは極めて難しいのだが、何か人間の心に潜む「おぞましき闇の世界」をかいま見せられる思いがしてくるのだ。

はじめて、この事件の報道を知った時、あのブッダを産んだ信仰心の厚い国家というイメージしかないネパールという国で、何故あのような血生臭い惨劇が起こったのだろう、という感慨しか湧いてこなかった。

そして以下のように事件の状況が、少しずつ分かって来だした。

@ネパールという国は仏教国ではなく、ヒンドゥー教徒国家であること。
Aそして王制の国であり、政情は必ずしも安定してはいないこと。
B国民の民主化要求があり、今回射殺された国王が民主化政策を90年より布いたが、その民主化政策は、国自体の不況もあり、必ずしもうまくはいっていないこと。
C国内には、統計には現れないが失業者があふれていて、一部には毛沢東主義を掲げる極左の反体制グループも存在すること。一部の噂ではこのグループに資金提供しているのは、今回新国王に収まったギャランドラ殿下と囁かれていたこと。
Dそのギャランドラ新国王は、90年から進められた民主化に反対し、王政復古を強行に主張していたこと。
E今回の惨劇の席には、新国王の長男であるパーラス新皇太子が、同席していたこと。
Fパーラス新皇太子は、とかく交通事故で死亡事故を起こしたり、麻薬常習者との噂もある問題児であったこと。
Gそんな危なっかしい国家を存在感で支えているのが、今回射殺されたビレンドラ国王だったこと。


このように考えてくると、確かに、街の噂で、今回の首謀者が新国王ギャランドラ殿下で、実行者が、新皇太子ではないか、と囁かれはじめていることの信憑性が強まってくる。どう考えても、事件は不自然である。はじめ自分の結婚に反対されたディペンドラ皇太子が、自動小銃を持ち出して無差別に撃ち、最後は自殺を図ったとされたが、その後その報道は、否定され、自動小銃の暴発と変わり、今度は武器が自動小銃ではなくライフルだったと変わり、報道はクルクルとネコの目のように変化した。しかし大事な点は、前国王一族のすべての人間が殺されてしまったことだ。別に自分の結婚を反対されたからと云って、肝心の反対した王妃だけではなく、関係の無い自分の弟や妹まで射殺しなければならないのか。まったくもって事件は、不自然極まりな。

しかもその王族の遺体は、真相解明の最重要な手がかりでもあるはずなのに、何かを急ぐように、そそくさと荼毘に伏されてしまった。一国の国王一族が、亡くなったのだ。当然国葬を催すのが当然であろう。しかし新国王は、何を焦っているのか、次々と真相を闇から闇に葬るような行動を進めているようにしか見えない。

ネパールの人々は、この遅々として進まない真相究明に業を煮やして、新国王と政府に向けて、早期の真相究明を迫っている。街は自然発生的に暴徒があふれ、いつ暴動に発展しかねない有様である。しかし政府の説明は、動揺しているのか、二転三転を繰り返したままだ。

この事件をずっと、見てきて、さながらシェークスピアもびっくりのストーリーが展開している気がした。マクベスやハムレットやリア王のエッセンスが、ごちゃ混ぜになった状態で、そこにある。人間の心の中にある闇の部分が、今回の一連の事件を支配していることは間違いない。まさに人間の心の闇は、深くて暗いと実感させられる。もしも今回の事件が私が今頭の中で考えている通りの真相だとすれば、次ぎにネパールで起こることは、新国王による「王政復古」の大号令であり、そしてまたそれを「許さじ」と立ち上がるネパール国民の集合的無意識の顕現であろう。佐藤

 

 


2001.6.8

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