日本は無宗教な国ではない 


日本は、今や内外から無宗教の国家のように見られている。でも果たして本当にそうなのだろうか。日本中の町という町、村という村には、鎮守の森があり、そこには大なり小なり鳥居が凛として立ち、先祖伝来の遺骨を葬る墓が並び、側には寺が大きな甍を見せて聳えている。

新年ともなれば、日本人は初詣をし、寺に詣でる人も多い。春分の日は春彼岸と言って、家族が揃って、お墓参りに行く。夏のお盆には、家に先祖の御霊を招き入れて、墓掃除に出かける。秋には、神社の秋祭りが社の杜で、執り行われ、神さまたちが神輿に担がれて、通りを練り歩き、人々は実りの秋を斉うのである。もちろん秋の彼岸には、また墓参りに行くという風だ。

これほど神仏を敬いながら、何故、今、「日本が無宗教な国である」ということになるのであろう。ひと昔前には、「自分は無宗教である」と言うことが、インテリ層から特にある種のカッコの良さをもって語られたことがあった。それはニーチェの「神は死んだ」という無神論哲学の影響があったと云えるかもしれない。またマルクスの唯物論はまさにネオ無神論とも言うべきものであり、サルトルの時代の実存主義に至っても、ニーチェの無神論哲学は、引き継がれて、先のようにあたかも「日本が無宗教の国家」のようなレッテルが、いつの間にか貼られてしまったのかもしれない。

でもよく見てみれば一目瞭然なように日本の至るところには、神が居て仏がいる。元々、その地に居た神が居て、そこにまた余所から別の神が来た。それを人々は、受け入れて、また後でやってきた仏もまた取り入れた。どんどんと神や仏が増えて、神仏は八百万(やおよろず)の数となり、少し歩けば、神や仏に当たるほどの国それが日本という国の本来の形であったと云うべきであろう。

これでも日本が無宗教の国と見られているとしたら、それは日本人の単なる思い込みであるかもしれない。もちろん表面に見えていることだけを殊更強調してみれば、何と日本人は、宗教色のない国民と化してしまったのか、となるが、これを外国人の目を通して見れば、日本人ほど神仏を敬い、何かあるとすぐに神社や寺に行って、願を掛けたり、お祈りをするのか、と不思議に思うに違いない。実際、外国人観光客の多くは、日本の京都や奈良のような町に、その独特の宗教的雰囲気に浸るために来ているとも云えるのである。日本人における説明不能なほどの神仏混淆の信仰の有り様は、あの宮崎駿の一連のアニメ作品を観るまでも、柳田国男や折口信夫の民俗学の成果を読むまでもないことである。

京都に行けば、それこそあの狭い平安京と言われた古都のそこかしこに2500を越える寺院が甍を並べて大事に守られている。また神社だって、相当な数に上る。そのことを考える時、日本人が無宗教な国民であるというのは、まったくのデマゴーグであり、むしろそう思いたい人が意図的にその情報を流しているのではないか、と勘ぐりたくなるほどである。

日本における宗教のあり方は、多様な宗教を広く受け入れ、対立を越えて互いの良いところを取り入れつつ共存する奥の深さにこそある。もうそろそろ無宗教をカッコ良いとする単純過ぎる時代感覚を捨て去って、日本人が伝統や文化あるいは歴史の美風として培ってきた宗教感覚を取り戻すべきではないかと思うのだが・・・。佐藤

 


2002.9.9
 

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