ムカデとサルの話
-いったい猿丸とは誰なのか?-








1 むかしむかし日光で戦があったという話
 

百人一首に猿丸という妙な名の歌人の次のような歌があります。

 奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき

しみじみとしたいい歌です。きっと作者は紅葉狩りにでも出かけたのでしょうか。時は晩秋。山の紅葉もほぼ散り終えて、冬の訪れを待つばかり、遠くで鹿がもの悲しい声で「きゃん」と鳴く。はぐれた我が子を思ってでしょうか。それとも帰って来ない伴侶を呼んでいるのか。行く秋の奥山の寂しさともの悲しさが渾然一体となった美しい世界が歌を読むものの脳裏いっぱいに拡がってきます。

ところでこの猿丸、あの宇佐八幡のご神託があったと詐称して皇位の継承まで企てて失脚した快僧弓削の道鏡(ー772)の変名という説もありますね。そんな謎が謎を呼んで、全国にこの猿丸の伝説というものが残されています。

    日光の猿丸談は、こんな感じです。

むかし、都に有宇中将という人がおりましたが、この人物とかく弓矢の名人で狩に懲りすぎておりました。その驕慢からか、帝の意に逆らうことも多く、ついには奥州に左遷されたのでした。そこで地元の朝日長者の娘をめとり、ひとりの子をましました。名を馬王と言いました。馬王は成長し、側女に子を孕ませました。この子が問題の猿丸です。正式名は小野猿麻呂と言いました。この猿という奇妙な名の由来は、どうやらその容貌にあるようです。まるで猿のようで大変見苦しいものでした。猿丸の本拠は、現在の福島県の熱借山(あつかしやま=福島の厚樫山?阿津賀志山とも表記?)であったようですが、小野という地名もあるので、秋田の雄勝郡の小野村(現在の雄勝町大字小野)だった可能性もあります。

ある日、日光(二荒=下野)の神と赤城の神(上野)の間で争いごとが起こりました。山中の境にある湖をめぐる争いです。日光の神も赤城の神も、「これは元来私たちのものである」と主張して譲りません。そこで鹿島の神(常陸)がやってきて、日光の神に言いました。「猿丸どのは、そなたの孫にあたる人物で、弓の名手と聞く。助勢をしてもらう方がよいのでは?」早速、日光の神は、白い鹿の姿に身を変え、奥州の山中で狩をしていた猿丸の前に現れ、ワザと追われて日光の山中まで誘い込みました。そこで今度は女神の姿になってこのように言ったのでした。「これ、猿丸よ。私はこの日光山の神である。お前は、私の孫にあたる。お前をこの地に誘ったのは、訳がある。それは私のアダを討たせようと思ってのことだ。もうじき赤城の神が、ムカデの形をして、攻めて来るだろう。そうしたら私は大蛇の姿で応戦する。お前達が、もし応援してくれて、戦に勝った時には、この山をお前に与えて好きなように狩ができるようにしよう。」

猿丸は、自分のルーツを知らされたためか、大蛇に加担し、ムカデに散々に矢を射掛けて、ムカデは、ついに目に矢を受けて逃げ出したのでした。奥日光の戦場ヶ原は、この激戦があった辺りでしょうか。また赤沼は、この時の地が流れて赤沼と呼ばれるようになったと言われています。

そして今、日光にある三所神は、第一に男体本宮(豊城入彦)に瀬尾女体中宮(朝日姫)、第三に新宮太郎(猿丸の父の馬王)となります。そして宇都宮神社は、猿丸自身を祀った神社と言われています。

日光には、周知のようにニホンザルが大変多いわけですが、ひとつの戦が猿の加勢によって決まったということで、この日光(下野)の国の猿という動物のトーテム化のようにも感じます。つまりムカデとヘビの争いをサルが応援することで、勝利がヘビ側にもたらされたことになる。またそこに仲裁というよりは、露骨にヘビを応援した鹿島の神(出雲の国譲りでも活躍をするアマノコヤネを祖とする中臣氏=藤原氏の神)という存在が気になります。

ではこの日光山と赤城山の争いとは、何だったのでしょう。下野と(しもつけ)上野(かみつけ)の遠い祖先は、共に崇神天皇の第一皇子だった豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)と言われています。(崇神紀)おそらく大和朝廷の力を背景にして、北関東に古墳文化を築いた子孫たちが、時代を経て勢力を分けて相争っていたのでしょう。その争いを終わらせるために、奥州からやってきたサルの集団が決定的な役割を演じたのでしょう。もっと分かり易く言えば、奥州の狩猟集団が、この日光・赤城の同族同士の勢力争いに決定的な役割を果たしたということになりましょうか。その勝利において、奥州の武装集団を呼び寄せる口添えをしたのが、鹿島の神(藤原氏?)だったのも実に興味深い。
 

2 小野猿麻呂の出自はどこか?
 

さて先ほども、述べたのですが、この猿丸、正式には、小野猿麻呂というようでして、この小野という姓から、同じく百人一首にその歌が見える小野小町のことが何となく浮かびます。彼女の出生地は、猿丸太夫同様に不詳ですが、伝説の上では、秋田県の小野村ということになっています。大体この説は、中世において固まったようです。彼女は六歌仙に数えられるほどの歌人で、藤原定家によって百人一首には、

  花の色はうつりにけりないたずらにわが身世にふるながめせしまに

 という歌が選ばれています。

この秋田県の小野(現在の雄勝町小野)は、栗駒山の北西部にあたり、丁度鳥海山と栗駒山との中間点に位置するような場所です。この小野小町の里から、湯沢市は、目の前で、ここから奥羽山脈にそって北に向かえばマタギの里と言われる阿仁町に辿りつけます。
 

仮説として非定住狩猟民としての猿丸の本拠地を秋田県の小野村と考えてみると、現在のマタギに通じる狩猟採集を生業とする山岳武装集団の族長の姿が、生き生きと浮かんできます。この武装集団の武力が、日光と赤城にまたがる同族同士の戦争の一方に荷担することによって、日光側を勝利に導き、大いなる褒美を授かったわけです。そしてそこには大和権力の象徴とも言える藤原氏(鹿島神社)も承知していたとすれば、この戦を沈めることは、大和権力にとっても、大変意味のあることだったということができます。

今日にマタギの免許皆伝書というものでしょうか。山立由来記というものが、伝わっています。柳田国男も、「神を助けた話」の最後に、資料として、その原典を原文のまま掲載していますが、私もこれと違う原本を拝見したことがあります。

内容は、ほとんど同じで、見た目では、写本したときに、多少意味合いが変わったという程度のものでした。

要は、猿丸が、万三郎に変わっただけという印象です。

この「山立由来記」の大意は、万三郎という弓の名手が日光山麓に住んでいて、狩猟をして暮らしていた。この万三郎は、弘名天皇(意味不明)の93代目の子孫でなどという意味不明の血脈が述べられ、この人物の前に鹿となった日光権現が現れ、わが意を酌んで、ムカデとなった赤城明神を倒すことに協力してくれたならば、日本中の山という山を好きなように狩猟(山立)する権利を与えようと約束をする。しからばというので、万三郎は、ムカデの目に矢を射て、勝利を得る。日光権現は、この勝利にたいそう喜ばれ、全国の山野での山立御免の御朱印を授けるとともに、日光山の麓に正一位の伊佐志神社を建立して恭しく祀ったということです。

この「伊佐志神社」と神社がとても気になります。おそらくこの祭神は、万三郎が大切にしていた山の神であろうと考えられます。山立をするマタギの人々が崇敬したはずの神であるから、この神の神威をもって、赤城明神を撃退した日光権現は、この山の神を、尊敬をもって日光に祀り、社殿を建てた。もちろんそしてマタギたちは、日本中の山を好きなように、猟をしながら、自由に渡る権利を得たのでした。確かにマタギたちは、山伏同様、藩などの細かい規制等関係なく、自由に日本中の山を歩いていました。おそらく、猿丸に擬せられた狩猟を生業とする人々は、あの天下御免の「山立由来記」の巻物を持って、日本中の山を自由自在にかっ歩していたのでしょうか。
 

3 猿丸とサルタヒコの意外な関係

「伊佐志」神社という名称の神社ですが、調べたところ、全国に「伊佐志」という名の神社はないようです。出雲に「佐志牟神社」や「佐志武神社」という社があり、これは明らかに、出雲系の神様を祀ったものでしょう。茨城の石岡と笠間の両方には、「佐志能(さしの)神社」という社がありますが、山の神を祀っているという確証は得られませんでした。

ただ石岡の佐志能神社は、染谷と村上の地に二社がありまして、染谷の佐志能社には、雌龍神(高オカミ)が祀られ、村上の社には雄龍神(闇オカミ)が祀られていて、「龍→大蛇」という日光山との信仰上の関連性が容易に伺えます。ただ「オカミ」は、単に龍神というだけではなく、オオカミにも通じ、オオカミは山においては生態系の頂点にあり、マタギの人々にとっては、オオカミは、まさに大神であり、佐志能神社の祀る神さまが山の神の可能性は大いにあります。

一方、笠間の佐志能神社は、佐白山(209m)にあって、かつては宇都宮氏の後にこの地を治めた笠間氏が築城した笠間城の天守閣があった場所とされています。この社は、宇都宮氏の祖霊を祀ったものと言われていますから、どうも佐志能神社の祭神は、山の神ではなくて、豊城入彦命となるようです。石岡市の佐志能神社も祭神は豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)です。かつてこの佐白山には百坊の伽藍が林立していたと伝えられていますから、豊城入彦命の子孫たちは、北関東に強大な権力を構築していたのですね。

神社で山の神といえば、猿田彦(サルタヒコ)ということになります。サルタヒコは、周知のように「ニニギノミコト」が、天孫降臨する際に、道案内を買って出た地方(国つ神)の神さまです。どうもこの人物はアザカというところに居た豪族のようで、伊勢神宮のある辺りに住んでいたようです。神楽などで、赤い天狗のような面を被ったり、またご巡幸などでは、赤いものを付けて、先頭を歩くのが、このサルタヒコのイメージです。サルタヒコの特徴は、背が高く、赤ら顔で、鼻が高い。まるで西洋人のような風貌です。もしかしたら、神話の時代の日本には、先住民族として、西洋人の血を引いた人間たちが、北からの経由で土着していた可能性もないとは言えません。ところでこのサルタヒコの妻があの天の岩戸を開くときに、裸踊りをして、活躍したアメノウズメです。彼女の子孫は猿女(サルメ)と言われて、都の祭式の際の芸能を司り、猿女の君とも言われたといいます。今日に伝わる能の起源に猿楽などというもののありますが、このサルタヒコとアメノウズメの末裔たちが代々を継いでいたのかもしれません。ちなみに、古事記を暗唱していた語り部の稗田阿礼(ひえだのあれ)は、この一族で、きっと女性だったのではないでしょうか。

さてこのサルタヒコの末裔の猿女の君の一人が、後にどうも近江の小野氏の養女になったということがあったらしいのです。
このことを「謎のサルタヒコ」(鎌田東二編 創元社1997年)という本の中の対談で、民俗学者の谷川健一氏がこのように語っています。

「アメノウズメの後裔の猿女が小野氏の養女になって、近江の小野氏が関東とつながりを持つ。日光に関わりのある小野猿丸というのが出てくる。日光の二荒山に男体山と女体山がある。女体山は朝日山ともいうんですね。・・・朝日と猿の関係が伏流水のように古代には流れているのではないかと私は思うんですね。・・・」

どうでしょう。少しだけ、明らかになってきたような気がしますね。この「小野猿丸」には、先住民としてのサルタヒコの血が流れていたのです。単に、小野の地に生まれ育ったから小野の姓を名乗っているのではなく、サルタヒコという先住民の英雄に通じているために「小野猿丸」あるいは「猿麻呂」と称していたのでしょう。要は、先住民族の血を受け継いでいる誇りのようなものがこの「猿丸」という名前にはあるのです。「俺はサルタヒコの末裔だよ」と高らかに言っているようなものです。アイデンティティーともいうのでしょうか。
 

4 日光におけるサルのトーテム化について

トーテムという言葉があります。このトーテムは、北米インディアンの言葉から採られた言葉ですが、原始時代から、人間が社会を営むようになって、ある特定の一族の起源や繁栄などに絡んで、特別な関係を持つと信じられている動物や植物また時には雷などの自然現象を指すこともあります。守護霊という言葉もありますが、トーテム動物という時には、その一族の守護動物という言い方も出来るのではないでしょうか。

このトーテムという考え方をベースに考えれば、日光のむかしあったという戦争の記憶は、このように戯画化できると思います。

すなわちムカデ賊とヘビ賊が美しい湖をめぐって、「これは俺たちのもの」と言い張って、争いをはじめたのです。元はと言えば、この二つの部族は、かつてはひとつの部族であったが、山を分けて、住むことによって、ムカデとヘビに分かれてしまったのでした。なかなか勝負が付かない。そこにヘビに見方をする者が現れ、そっとヘビに耳打ちをしました。「サル賊の力を借りれば、ヘビさん、あなたの勝ちだ」と。

ヘビは、いさんで、サル賊の住む山に走ります。サルはヘビが大嫌いなので、シカに化けて、自分の山まで、サルをおびき寄せ、そこで今度は、美女の姿となって、戦の助成を必至で訴えました。もちろん勝った場合には、たんまりとお礼をすることも話しました。

そしてサルはヘビに助成し、ついにヘビ賊は、この戦いに勝ったのです。

ヘビ賊にとって、サルは新たなトーテムです。それこそヘビ賊にとって、サルの姿は神聖な神の使いとなりました。日光にとって、サルは守護動物となった訳ですね。

日光地方では、今でもサルは一種の治外法権状態にあります。何か、日本中のサルたちが集まっているような感じです。けっこう猿害が叫ばれても、日光市は、猿たちを何かと保護しています。「日光猿軍団」のようなものまで存在しますが、これは伝統的に日光地方では、一種の猿が治外法権的に守られて来たことを物語っています。サンクチュアリー(禁猟区)ですね。日本中の他の山では、山の漁師たちは、猿を捕まえて殺害し、食料にもしたことでしょう。だから他の日本中の山では、日本猿は、奥山にしか棲んでいません。しかし日光では、いっぱいいます。それは、ある時から、明確に猿をトーテム化し、神の使いとして保護してきたからだと思われます。

多くの人は、もう何故、日光で猿を捕獲してはいけないか、という理由など分かっていません。今、それは伝説となり伝承となり、神社の由来の中で、朧気に触れられるようになってしまったのです。

江戸時代に作られた東照宮には、有名な「見猿、言わ猿、聞か猿」(三猿と言う)があります。猿をトーテム動物とする日光ならでは彫刻ですが、トーテムポールにも見えないことはありませんね。
 

5  反省ザル「次郎くん」が死んだ!!

-トーテム化の過程-

むかし、ソニーのコマーシャルにウォークマンを目を瞑って聞いているニホンザルがいました。次郎と名付けられたニホンザルでしたが、その瞑想しているような姿は、よっぽど、その辺にいる人間よりは、利口な感じがして、神々しくすら見えました。その後は、よく披露した芸の「次郎くん反省」というポーズから、「反省ザル」と呼ばれたりもしました。テレビにも頻繁に登場し、「反省ならサルでもできる」というキャッチコピーも流行りましたね。

その2代目次郎が、2003年11月8日に亡くなったということです。公演のために移動中に急に体調を崩して、逝ってしまったのだそうです。ニホンザルの平均寿命は、30歳前後ということですから、18歳で亡くなった次郎は、人間で言えば、50歳前に亡くなったことになります。きっと人前で、芸をするということは、サルにとっては、大変なストレスがあるのでしょう。
 

人間を「毛のないサル」と呼ぶ言い方もありますが、現在ニホンザルの生息地は、非常に狭まっていいます。猿害という言葉がありますが、サルから言わせれば、人害の方がひどいときっと言いたいでしょうね。サルの生息地を奪ったのは、元々人間の方でした。森を開き、どんどんと木を切って、農園を作る。そこで野菜や果物を作るようになる。それを採ると猿害と言われる。最初に盗んだのは、人間の方なのに・・・です。今世界では、人間だけ、つまり「毛のない猿」だけが、異常な増殖を続けています。その陰で、ニホンザルたちは、どんどんと減少しているのです。

古今著聞集(ここんちょもんじゅう)という鎌倉時代に書かれた説話集があります。その中に、豊前かどこかの話に、こんな悲しい話があります。狩り好きな男が、木の上にいた母子猿(ははこざる)に矢を放ったところ、母猿に命中しました。矢は母猿を貫き、木に刺さりました。すると母猿は、抱いていた子猿を下にある木の股のところにそっと置こうとします。何とか、子の命を助けたいのでしょう。でも子猿の方は、母と離れたくないので、必死で母の手にすがりつきます。それでも母は何とか、子を木の股に置いて、逃げさせようとするのですが、子猿は聞き入れません。何度かそうこうしているうちに、木に刺さっていた矢が、木から抜け落ちて、母子猿は、ひとつになって、ドサリと下に落ちたというのです。それから狩りをした男は、反省したかどうかは分かりませんが、考えるところがあったのでしょう。この母子猿をねんごろに弔ったというのです。

この話は、動物崇拝(トーテム化)の原初的な姿かもしれません。つまりこの男の一族は、この母子猿を弔うことをすることによって、強く母子の猿に対してしでかした悪行を振り返り、二度とこのようなことをしないというような誓いを立てる。母子猿のイメージを像にして残すかもしれません。すると代々、猿を大切にするという風習というか、文化が育ってゆく。猿は、けっして殺してはならない。ということにもなります。母子猿を殺したということが、この家のタブーとなり、あるいは自分の祖先たちが、母子の猿に助けられたことがあるなどという、話が創作され、伝承されるかもしれない。つまり母子猿殺しというマイナスの歴史が、母子猿によってこの家が繁盛することになったというプラスの伝承として、造り替えられる。例えば、自分の祖先は、ある時、幼子の頃、両親にはぐれて、山に迷っていると母子猿が現れて、その乳を呑んで、命が助かった。それ以来、わが家では、母子猿を山の神として、この母子猿を祀った山神社を敷地内に建てて大切にしてきたというようなことにもなる可能性がある。もしもこの一家は、出世したり、村の長(おさ)にでもなった時には、村全体が、母子猿の伝説を受け入れてしまうかもしれません。

ローマ建国の神話に狼の乳を呑んで育ったというロムルスとレムスの兄弟の物語があります。この二人は、王位継承に絡んで、川に流されてしまう。しかしこの二人を神の使いの雌オオカミが育てるという話です。この話は、おそらくロムルスとレムスの王家に伝わって来た伝承がベースになって、ローマ建国の話にまで膨らんで行ったということではないでしょうか。今でも、大きな狼の乳を呑んでいる兄弟の像が伝わっていますが、長い年月の間に、人間の頭の中で、些細な個人的な体験が壮大なスケールの神話として出来上がってきたように感じますね。

つづく



2003.11.4
2003.11.11 Hsato
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