夏の毛越寺探訪
毛越寺のふしぎ
人 はなぜこの寺で安らかな気持になるのか

夏の毛越寺 鐘楼跡より

毛越寺 大泉が池 経楼跡
(2004年8月 佐藤撮影)

東京の喧噪離れ五百キロ夏雲映す池静かなり

今年も梅雨 が明け、夏の盛りとなった。そうすると、心は奥州の毛越寺大泉が池に飛んだ。この池の周囲を歩くだけで、心が落ちついてくるのを感じる。一種の魔法のよ うでもある。正門からまっすぐ本堂に延びる参道をゆっくりと歩き、ご本尊の薬師如来に祈ると、南大門の跡と言われる辺りから、私は決まって右回りに、池の 周囲を廻るのが常となっている。「洲浜(すはま)」と呼ばれる前を通り、目を東に転じれば、塀の向こう方には「観自在王院」の庭園が拡がり、遙か彼方には 屏風のようにして束稲山や観音山が低く 聳えている。

そこから左に折れて、常行堂の阿弥陀如来に手を合わせる。この堂の前には、大きな石の地蔵菩薩がどっかと腰を下ろしている。この地蔵菩薩だが、私には 慈覚大師に見えて仕方がない。山形の山寺(立石寺)にあるという慈覚大師の頭部を掘った木像と似ているからだ。実に穏やかな表情をしたお地蔵さんである。 ここを更に進むと「遣り水」に辿り付く。遣り水から流れ出る 周囲で毎年五月、「曲水の宴(ごくすいのえん)」が模様されるようになった。遣り水を過ぎてどんどんと行くと、この写真の経典を収めていたとされる経楼の 跡に辿り着くのである。



曲水の宴 遣水周辺にて 毎年開催
(2004年5月23日 佐藤撮影)

曲水の 宴もたけなわ歌人は
や遣り水映る華となりたり


毛越寺 の在りし日の燦然たる美しさは、わが国に並ぶものがないと言われるほどの偉容であったが、私はそれより、今の大泉が池の佇まいの方が何倍も好きである。そ れはけっしてやせ我慢などではない。文化庁長官の心理学者河合隼雄氏も、どこかで、「この大泉が池に立つとほとんど人工物が見えない、これは素晴らしいこ とだ」という意味のことを言われていた。同感である。常行堂にしても、本堂にしても、木立によって囲まれているために、この毛越寺周辺は、景色として、人 工の寺院に比して 自然が勝っているのである。もちろん自然と言っても、この大泉が池は、作庭記などの厳密な庭造りのマニュアルに添って配置されたものであることは周知の事 実だ。しかしなが ら、そこにあった伽藍が焼失し、木木が大きな梢を成したことで、平泉の街並みさえも、遮られることになり、そこにこの寺を造営した二代基衡や秀衡、あるい は庭造りに京都からやってきたと思われる庭職人さえも予想もしなかった大泉が池独特の「庭園美」が出現したということではなかろうか。


常行堂の地蔵菩薩

毛越寺 常行堂前の地蔵菩薩
(2004年8月 佐藤撮影)

木 漏れ日の光のなかに微笑めるお地蔵さんの有り難さかな

人間には理屈抜きで、安らげる場所というものがある。私にとって、毛越寺の大泉が池はそんなところである。何故か分からないのだが、行くたびに 発見があり、美しい四季折々の景色に心を打たれ、母の手に抱かれているような平穏な気持ちになるのである。

この寺を開いた慈覚大師円仁(794−864)さんから数えれば、ほぼ千二百年の時が過ぎ去ったことになる。円仁さんから数えて三百五十年ほど経ると、奥 州藤原氏が、この寺に本格的な浄土式庭園をこしらえるなどした。池の周囲には、金堂円隆寺などの大伽藍が次々と建設され、「わが朝無双」と讃えられるよう になった。今から八百数十年前のことである。

しかし今この浄土庭園の前に立って見れば、視界に入ってくるのは、池の水と、周囲を託つ木木と借景としての金鶏山、塔山などの自然ばかりである。常行堂や 開山堂など、近世になって建てられた小さなお堂などは、鬱蒼と茂った木々に紛れてほとんど隠れて見えない。これが美しい。本当に慎ましい美しさだが、私は そこに無限の美の拡がりを感じるのである。
(佐藤弘弥記)


母の手に抱かれたりし心地して大泉が池我廻り来ぬ


毛越寺の古代蓮

毛越寺の古代蓮
(2004年8月 佐藤撮影)


奥州の古刹に開く大輪の蓮散り初めし炎天の午後
2006.8.1 佐藤弘弥

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