Mr盛田に学ぶ

 
 
ソニーのモリタ(盛田昭夫)が死んだ。享年は78歳だった。モリタは戦後日本の経済成長の象徴だった。今やソニーは、ブランドイメージでコカコーラを凌いでいる。アメリカ人がそのように認めているのだから確かにそうなのだろう。
 
モリタとイブカ

モリタは、1921年(大正10年)、愛知県の造り酒屋の長男として生まれた。44年に大阪大理学部を卒業後、旧海軍技術中尉時代に後に盟友となるイブカ(井深大)と知り合い、戦後間もない1946年(昭和21年)に東京通信工業(現ソニー)を設立した。主に井深氏が技術開発、盛田氏がマーケティングと国際事業を主に担当した。

ソニー創業のエピソードが面白い。終戦後モリタはイブカと離れ、故郷の愛知に帰っていたが、1945年(昭和20年)10月6日の朝日新聞に、イブカが次のように書いたのを見たのであった。

「一般家庭に現在ある受信機でも・・手を加えれば・・短波放送を受信できる」この文章を読んで、24歳のモリタは、ビジネスになる、と確信した。早速イブカに手紙を書く。意気投合した二人は共同出資で、ソニーを創業したのであった。

しかしビジネスというものは簡単ではない。何度も失敗を繰り返しながら、日本で初のテープレコーダー(1950)を見様見真似で完成。次にはトランジスタに目を付けて、トランジスタラジオ(1955)を開発。これが馬鹿売れした。モリタは、1963年ニューヨークにソニーアメリカを設立自ら社長に納まった。世界のソニーはこうしてスタートしたのである。

ソニーのソニーたるゆえんはその独創的な商品開発力である。1979年のウォークマンの発売は、まさにソニーらしい商品であった。この発売秘話がまた面白い。開発チームの連中は、得意満面に役員会で説明した。確かに面白いが、果たしてこんな奇抜な商品が売れるのか、賛否両論が渦巻いて、なかなか結論が出ない。時間ばかりがむなしく過ぎた。そんな時、モリタが大声で言った。

「これは実にいい。第一大げさな機材をなしでも、素晴らしい音で、音楽が聞ける。これは一種の革命だ。しかもソニーらしい。我々はベンチャーだ。このような独創的な商品開発力こそ、ソニーなんだ」モリタの言うように、ウォークマンは世界的な大ヒット商品となり、もはやソニーの名を知らぬ人はいなくなった。今では、ソニーをを、アメリカの企業と思っているアメリカ人も多いという。それほどソニーのブランド名は、世界中に浸透しているのである。

モリタの売り込み方も実にユニークだ。けっしてアメリカに媚びを売るようなやり方はしない。彼はむしろ、アメリカのビジネスのやり方を、短絡的だと批判する。「5分後に答えを求めるような経営では、良い商品の開発は不可能」とまでその著書「メイド・イン・ジャパン」(1986年)で語っている。この本はアメリカでもビジネス書としてベストセラーとなった。その後のモリタはソニーの経営を後進に譲り、経団連副会長(1986)の役職につく。そしてあの石原慎太郎との共著「NOといえる日本」という本を出版し、アメリカ国内でも「アメリカ・バッシング」の本として、大いに物議を醸したのであった。

しかし意外にも(?)アメリカのメディアは、モリタの主張を概(おおむ)ね好意的に受け入れた。確かにモリタのいうことは一理ある。アメリカもモノ作りでは、ソニーのやり方、あるいは日本のやり方を学ばなければならない。こうしてモリタは、今年のタイムが選んだ20世紀の偉人の一人として選ばれたほどの知名度を得るに至ったのである。

今日本のビジネスマンに求められるのは、モリタの切り開いた独創性の経営を学ぶことである。つまり誰かが作ったのを真似る経営では、つまらないし、収入だってたかがしれている。人がまさかというようなユニークな商品を生み出し、それを世界中で売り歩く強い気持ちがモリタイズムというものだ。

今日本人に求められているのは、モリタの切り開いた精神性を受け継いでさらに発展させることである。つまり世界中の人間に対して、自分の意見を堂々と主張できるタイプの人間になることだ。ともすれば口べたの日本人は、仕方がないというような態度で、諦めがちだ。

モリタは逝った。日本ではその扱いが意外なほど小さいが、世界中のメディアは、トップニュースとして、その死を惜しんでいる。一人の男として、実に清々しい、サムライのような78歳の生涯であった。佐藤
 


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1999.10.4