箱 根でモネに逢う



佐藤弘弥


 
箱根ポーラ美術館開館五周年 記念

  「モネと画家たちの旅展を見る

 箱根のポー ラ美術館に行った。今、ここで、「モネと画家たちの旅」という展覧会が開かれていた。モネが大好きな私は、どんな作品が展示されているかも分から ず、ススキの穂の揺れる箱根の森の真っ直中にあるこの美術館に入った。


1 モネが感じとった近代化の波

モネの中では、もちろん「睡蓮」の妖気が漂うような美しさが際立っていた。だが、私は「グランド・ジェット島」(1878年)という作 品に最初に惹き付けられた。

その理由は、この絵にモネの感性の鋭さが滲み出ていると思ったからだ。流れる川の向こうに、工場地帯の煙突のようなものが見え、そこか らモクモクと煙がたなびき、白い雲と上空で、ひとつになっているように見えた。

ここにモネの直観が働いていると私は感じた。この絵には、やがて産業革命の浸透によって引き起こされる大気汚染に対する漠然としたモネ の不安があ る・・・。そんな気がした。そうして見ると、確かに重苦しい画面にも感じられてくる。川縁に立つ樹木の影が川面に黒く映っている。

今、世界中が、人間の近代化によって人為的に引き起こされたと思われる二酸化炭素の増加が、温暖化に拍車をかけ、人間そのものの、生存 が脅かされつつある。

私は、このモネの絵の中に、モネ自身が120年前に感じた不安が、現実のものとなって、人間そのものを襲っていることを思った。

芸術の持つ先見性というものをこの絵の中に思い、いきなりモネという芸術家の凄みを見せつけられた気がした。

 2 印象派の先駆け としてのモネ

モネは、その後、「印象派」と呼ばれる画家たちのトップを走る画家だ。その絵は、それまでの精緻に描く古典主義的な画法から、自分の目 に映った、そ の時々の印象を写し取ったような趣がある。世間は、モネが1874年に「無名会第一回展」に「印象・日の出」と題された絵が出品されたのを見て、ただあ然 とした。この絵をじっくり観賞した高齢の画家は、自分の眼鏡が曇ったか、それとも目が悪くなったのではないかと驚いた。この展覧会を、評論家のルイ・ルロ アは、侮蔑的な意味を込めて「印象派展」と呼び、それからモネの移りゆく光と色彩の変化を、大胆に写し取る画法は、一大潮流となっていくのである。

私はかつて、ある家の薄汚れた板壁の中に、「印象・日の出」をイメージしたことがある。夕暮れ時で、周囲から光が失われていく過程で、 いつも歩いて いる軒先の板壁が、モネの絵に見えたのである。びっくりして近寄って見ると、それは傷んでいて、微妙に色が変わっている板塀に過ぎないことにあ然としたの だった。

生の自然は移ろい行く光が織り成すイメージである。その中で、人の目には、人も木々も家も川も森も、網膜に映る景色が、曖昧なイメージ の変化の断面に過ぎないのである。

美というものを、視覚的に表現すれば、それは移ろいゆく光が見せる、その時々の生成変化である。私はモネが、イギリスの風景画家ウイリ アム・ターナー(1775−1851)などの絵画に学ぶうちに体得した自然を写し取る方法論(画法)であると思う。

それは今日の写真のように、完璧な順光の中で、人物や風景や静物を精密に写し取るのではなく、あえて逆光を使い、人の顔に影を作り、ま た逆光で見る「睡蓮」の曖昧模糊とした情景の中に、自分の心の揺れや感動をも、写し取ってしまうような方法であった。
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今回の「モネと画家たちの旅」という展覧会には、モネが1880年に発表した「セーヌ 河の日没、冬」という作品があった。これも非常に抽象的な作品で、タイトルがなければとてもパリのセーヌとは思えない。どちらかと言えば、片田舎 の小さな湖が池に夕日が沈みかけている絵にしか見えない。

しかしモネは、どんどんと暮れゆく夕日の沈むセーヌに佇みながら、青から白に、そして白から銀色に、銀色から金色に、金色から橙色(だ いだいいろ)と黄色に、なって、やがて夕映えが来るまでのつるべ落としの冬の日没の一瞬を見事に捉えることに成功している。


3 「ルーアン大聖堂」とモネの光解釈

もしかして、私にとって、今回の展覧会の最大の収穫は、「ルーアン大聖堂」の原物と出会ったことかもしれない。この作品を観た瞬間、強 い衝撃を受けた。それは「美しい」とか「素晴らしい」というものではない。それは「いったい何なのだ?これは」という謎だった。

はっきり言って、この絵は私の美意識をくすぐるような絵ではない。くすんだような薄いバラ色で描かれたこの作品は、題がなければ、教会 なのか、それとも他の建物なのか、ほとんど見分けが付かない代物だ。

モネは、これと同じ構図の作品を、33作描いたということを後で知った。移ろう光を追いながら、光が景色に及ぼす影響を、モネは執拗に 追い求めたの である。私ならば、33作の前に、「もういい」と言って飽きてしまっていただろう。モネの粘着質は、いったいどこから来ているのだろう。

評論家の小林秀雄は、「近代絵画」の中で、真っ先にモネを取りあげてこのように言う。

モネは、印象主義という、審美上の懐疑主義を信奉した のではない。 持って生まれた異様な眼が見るものに、或は見ると信じるものに否応なく引かれて行ったままであろう。不どんなに強い意識を持つとうと、又、これによって論 理的な主張をしようと、その通りに仕事ははこぶものではあるまい。モネに於ける最も個性的なものは、無論、誰も真似手のないものだったのだが、彼が歩き出 した地点、つまり彼が啓示した光に関する新しい意識というものは、新しい画家達にとっては、非常な影響力を持った事件の如きものであった。・・・光を浴び た「ルアンの寺院」は、時刻によって、化物の様に姿を変える。時刻によって、大気の裡に、オレンジとか青とかの主導的な色が現れるのであるから、風景を描 くとは、この主導的な色彩の反映を展開させる事だ。・・・光の壊れ方に気付いた時、画家は、物との相似性の観念をもう壊していた。この意識こそ、印象派の 洗礼を受けた画家達が、アカデミックな画壇や、これに慣れた絵画愛好者に鋭く衝突したものである。」(「近代絵画」新潮文庫 28−29 頁)

小林秀雄は、モネが光の移ろいがもたらす絵画への効果を、徹頭徹尾追求し、もはやこれ以上描くことはできないほどまでに、たったひとつ の「ルーアン 大聖堂」という構築物を描ききったモネという芸術家の異様なまでの執念に、19世紀から20世紀にかけての絵画史に燦然と輝く、印象主義絵画の夜明けを見 ているということができる。今では、印象派の絵画は、もっとも認知が進み人気のある作品群だが、モネが実験的に始めた頃には、いったいこれが芸術作品なの か、という素朴な疑問が専門的な評論家の間でもあったのである。

私たちは、評価の定まったモネを見て、「モネは美しい」とか「イイね」と言うが、モネは、当初から、そんなつもりで絵を描いているので はないという ことだ。彼の中には、光の移ろいの中に、既存の絵画にはない新しい作風かあるはずだ、と信じて自己の道を歩いてきたということが言えるのではないだろう か。


4 モネが志した永遠の一瞬とは?!

もっとモネという画家を知りたい。ポーラ美術館のモネの絵を見ながら、そう思った。モネの本質に迫るためには、虚心でなければ適わな い。なぜなら ば、どのような知識豊かな批評家でも、それは誰かのモネに対する論評というものを下敷きにして、自分の解釈を加えようとするからだ。私の方法は、まず生き た絵画と目の前で正対することから始まる。分からなくていい。どっちみち絵画の方から、何かをこちらに投げかけて来てくれる気がしてくる。だから、私は解 説ガイドのラジオなど借りる気はサラサラない。もしもあのような解説を耳元で聞かされたならば、その解説者の見解が、魔法のようにして、せっかくの生きて いる絵を規定してしまうであろう。

かつて、ジョン・レノンが、歌舞伎座に行った後に、インタビューを受けたテープを聴いたことがある。すると茶目っ気たっぷりのジョン は、インタ ビューそっちのけで、歌舞伎座で聞いたはずの、役者のセリフのイントネーションを、音楽のようにして、真似ているのだ。ヨーコが割って入って、ジョンが歌 舞伎のセリフの抑揚を気に入って真似ているのだと知った。ジョンは、歌舞伎の予備知識などいっさい聞かず、ただその歌舞伎座で催された歌舞伎の一切に浸 り、魅了され、影響されたのである。

それが悲しい人情劇だったか、それとも忠臣蔵の芝居だったかは知らない。しかし私は、ジョンが、ただひたすらに、歌舞伎の世界に入り込 んでいた、と いう一点に注目をする。私たちは、余りに自分の価値観というものを、使用することなく、誰かの批評や、もっともらしい解釈を受け入れ、人の言葉を自分の言 葉のようにして、しゃべっていることが多いのである。

モネにしても同じだ。どれほどの人がモネを見たかは知らないが、そのうちの何%の人が、モネという芸術家の凄さを感じただろうか。

モネは1926年、つまり亡くなった年に書いた手紙でこんなことを言っていたらしい。

私 はいつも理論は嫌悪してきた・・・。私がやったことといえば、直接自然を前にして、きわめて逃げ去りやすい効果に対する私の印象を性格に表現しようと努め ながら描き続けてきたということだけだ。ほとんどの人がおよそ印象派的でないわれわれの仲間が、私のおかげで印象派と呼ばれるようになってしまったこと は、きわめて残念なことだ・・・」(高階秀爾著「近代絵画 史」上 中公新書 104頁)

晩年のモネは、自ら日本庭園を設え、池に漂う睡蓮という花を獲得に偏執狂的なまでの執念を燃やした。最後には、それが蓮なのか、光なの 集合なのか、分からないほどの曖昧模糊とした作品にまでなって行った。

ある人は、晩年のモネは眼が悪くなって、見たままを描いたのではと言った。私も、箱根でモネを見るまでは、この説に賛成だった。しかし 今、私ははっ きりということができる。モネの光による幻想的な画風は、高齢による眼の衰えから来るものではなく、物事の本質にある、何か得体の知れぬ曖昧としたもの を、描ききりたいと、モネ自身が若い自分から思って来たからではないかと思うのである。

考えて見れば、印象派という言葉のきっかけを作った「印象・日の出」の時、まだモネは32歳であった。「ルーアン大聖堂」でも52歳 だったのだ。彼 の伝記などを見ても、50代前半から、眼が衰えていた、などという記述は見あたらない。とすれば、モネは、若い頃から、何か風景や事物が、ある瞬間見せる 曖昧模糊とした一瞬の風景に、永遠の時を見て、これを自身のキャンバスに刻みつけてみたい、という強い思いがずっとあったのではないかと推測するのであ る。

そうでなければ、とても「ルーアン大聖堂」のような33もの連作に挑む気にはなれない。モネは、今度こそ、今度のこそ、のつもりで、気 がついてみた ら、33枚のキャンバスを塗りつぶしていたのかもしれない。晩年のモネは、さらに凄まじい執念で、蓮と池の連作に取り組むことになっていく。モネをここま で駆り立てる蓮というものには、今回ポーラ美術館に展示されていた睡蓮の作品は、1899年(59歳)の「睡蓮の池」と1907年(67歳)の「睡蓮」と いう二作のみだった。晩年の蓮なのか、光なのか、分からないような作品ではなく、比較的具象的な作だった。ただそれでも、後者の作品には、池から立ち上る 蒸気のようなものが描かれていて、ただならぬ気配を感じた。

モネが、フランス画壇で始めた光への執着と固執は、19世紀から20世紀の世界中の画壇を席巻し、今日では上品でお行儀の良い作品と考 えられている が、モネが描こうとしたのは、どんなに眼を大きく開けても見えぬキャンバスの奥に潜ませた「何か」であったのではないかと思う。そうだ。上野の森の国立西 洋美術館に行き、晩年のモネに逢って確かめてみよう・・・。



2007,10,19 佐藤弘弥


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