813回目の
義経忌に


本日、2002年4月30日(もちろん実際は旧暦)は、源義経公813回目の命日である。享年は31歳であったから、義経公の年齢は今年で843歳ということになる。それにしてもその人生は、今年の桜の如くあっという間に咲いては散る見事な人生であった。

その義経公の最期の夜を描いた絵「永訣の月」が完成した。描き上げたのは、肖像画の巨匠村山直儀氏。その日、4月19日、村山氏より、電話があり、「間もなく絵が完成するから来ないか」ということだった。一仕事を終えて、流行る気持ちを抑えながら、アトリエに駆けつけると、その絵の変貌振りに、思わず視線が一瞬凍ったようになった。まるで違う印象がある。よく気が入るという表現があるが、それ以上の感じがした。原因は、義経公の周囲に雲のようなものが、すっと侵入して漂っているではないか。

「何ですかこの雲は・・・」と私は思わず言った。
すうと村山氏は、ニヤリとしながら、
「霊気というものかな」と言った。
村山氏の横には、まるで刀のように大ぶりの筆が二本立て掛けてあった。
「先生それで、この霊気を描かれたのですか?」
「そう、これで一気にこう引いたのさ」

村山氏は、今まるで人でも切ってきたような殺気で、義経公の首の前の雲を描く仕草をし、その絵筆を私の手に渡した。確かにその筆は刀のようにズシリと重い。どんな絵でも完成に近づくとそわそわすると氏は語った。それでも今回は特別らしい。魂のすべてを投入して描いた「永訣の月」が、もの言いたげに私に迫ってくるのを感じた。

そして何故かしらカントのいう「神の一撃」という言葉が思い出され、同時に宇宙誕生のイメージが浮かんだ。そこで誰かの手が、ぎりぎりまで圧縮された宇宙空間の一点に一撃を加える。するとそれまで暗闇だった宇宙は、光りに包まれて、もの凄い勢いで膨張を始める。我々の宇宙はこのようにして誕生したのであろうか。

そんなことを思いながら、義経公の前に漂うただならぬ雲をじっと見た。もはや説明は不用だった。義経公がじっと黙って高館を照らす月を見ている。その背後には義経公と運命を共にしようとする武蔵坊弁慶がいる。その野生の豹の如き眼差しの奥には、深い慈悲の心と知性が封印されているように見える。また描かれてはいないが、彼らの周囲には、最後まで、ひとりの武将を守って戦おうとする侍たちの息づかいが聞こえてきそうだ。

人間はいつかは死ななければならぬ運命にある。その運命を従容として受け入れられる人は稀だ。自分にはもっと別の運命があるはず。こんなはずではない。もっと違う運命の人生にしたかった。そんな後悔をしながら、人はとさつ場に牽かれてゆく牛の如くに死にゆくのである・・・。

あの聖者キリストだって、「父よ私を見捨てるのですか」と叫んだ。きっと義経公だって、同じだったろう。最後まで生というものに執着し悩み続けたに違いない。しかしその弱き自分と戦い、勇気を奮い起こして果てたからこそ人間として立派なのである。この絵「永訣の月」を見ながら、物言わぬ義経公に己の弱さと戦っている姿を見て涙が出た。平安という時代を己の武略の才で突き破り、まさに彼自身が神の一撃の拳そのものだったかもしれない。

義経公の前には、蓮の花が置かれている。この蓮は古代蓮である。その頃、奥州には、このような大輪の蓮が見事な花を付けていたようだ。自害した彼の枕辺には、むせ返るほどにありとあらゆる花々が手向けられ、その中心にはこの蓮が供えられていたことであろう。

本年843才になった源義経公に、新たな美しき肖像が誕生したことを記念し、その威徳を偲びたいと思う。最後に、芸術家村山直儀氏に深い感謝を述べる次第である。佐藤
 

 


2002.4.30
 

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