序文  千葉さんと私

 

 
千葉さんとのおつきあいはもう十四年になる。たしか昭和三十年にはじめておめにかかったのであると思う。その頃千葉さんは沼ケ森へ村人と一しょになってスギをしきりにうえていた。生産森林組合をつくって。それが私に共同生産体制への眼をひらかせてくれた。千葉さんはりっぱな人である。千葉さんの事業が、村人にスギを植えることをおしえた。私はどこへいっても千葉さんの話をした。

いま文化人類学者となっている米山俊直氏にも千葉さんの村で一年ほど調査してもらったことがある。私は東北の村をたくさんあるいたがその中で一ばん印象に残っているのは栗駒である。それは千葉さんにより印象づけられたと言ってもいい。

地方にこういう人のいる間地方は発展する。それは確信をもって言えることである。なぜならそうした人はその地を真から愛し、真から大切にしているからである。

村をほんとあたらしくしようとする人は同時にまた古いことをもよく知っている。千葉さんは栗駒山のふもとの人たちの古くからの生活を古老たちからききつたえて、丹念にかきとめて来た。そこにはいかにも誠実に生きた、しかもこの自然にとけこみ、この自然と哀歓を共にした人たちのいびきがが感じられる。
栗駒山は高い、人の目にもとまり都人の歌枕にもなった。しかし私はその山にのぼったことはない。千葉さんが植林している山までいって見たにすぎぬ。

その後もう一度この山をおとずれたとき、山のスギは見ごとに育っていた。昭和二十七年ごろ植えたものはもう間伐期に入りかけていた。山の下にはダムができて、水はよくたまってはいなかったが、周囲をめぐる道もでき、観光地になろうとしていた。

そういうかわり方よりも私の心を一ばん動かしたものは、ダムの一ばん奧に茶店ができて、そこで休んでいると、じいさんとばあさんが荷を背負ってやって来たことであった。もう八十才にもなろうか。それが山へ働きにいっている。桃太郎の話ではじいは山へ柴刈りにゆき、ばあは川へせんたくにゆくのであるが、栗駒のじいとばあとはともに山へ働きにゆきつづけて六十年も暮らしたのである。それでもまた仲がよく、ぴったりとよりそうて、しかもあくことがなかった。

千葉さんはそういう人生を見て来た人である。だからどうしてもこの村を、こういう人たちのためにいつまでも住みやすい村にしておきたいと思った。

ここにあつめた話もそうした愛情にみちたものである。そういう千葉さんの気持ちをこの何気なくかかれた話の中からくみとっていただきたいものである。

昭和四十三年四月七日

宮本常一

(文学博士・武蔵野美術大学教授・日本常民文化研究所理事)

 



 

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2000.01.11