宮柊二の平泉「歌日記」鑑賞



 
 

 
毛越寺

宮柊二(みやしゅうじ:1912-1986)という歌人がいる。新潟生まれで、若くして北原白秋の薫陶を受け、歌の道に入った人である。彼の第六歌集に「多くの夜の歌」(昭和36年秋刊)がある。その中に「みちのく」と題された二十三首の歌があり、明らかに平泉を詠んだと思われる歌が、十六首ほど収載されている。これを読んでいると、その時の旅の様子が、沸々と湧き上がってくる。おそらく心に浮かんで来た歌をそのままノートにつらつらとしたためたもののように思われる。まるでこれらの歌は一群の「平泉歌日記」の風情がある。

こんな歌から宮柊二の平泉紀行は始まる。

風過ぎし北国の山重なりてしずけき朝の影を置き合ふ

これは車窓よりの景色であろうか。季節は秋。十月も終わり頃、丁度、紅葉が山の高きから次第に里に下りてくる時分の早朝の景色が見えるようだ。歌人は、まだ眠い目を擦りながら、車窓の彼方ぼんやりと見ている。すると折り重なるようにして並んでいる奥羽の山波に朝日が射して陰影をつくっている。裾野に拡がる田園には、数週間前まで、黄金色をして風に揺れていた稲穂が皆すっかり刈り取られ、まるで太っちょの人のように田んぼの中に立ち並んでいる。歌人は、こうして秋の古都平泉にやってきた。駅から四号線を越えて、旧道を迂回し自らの足のみを頼りに毛越寺へと向かったのだろう。歌人はこの時、4数才の男盛りであった。

よりどころあらぬ虚しさつねのごと湧ききつつ行く毛越寺の道

きっとこの旅では、同行の者がいたとしても、それは平泉に詳しいような人物は傍らにはいない。宮という人物は、おそらく旅というものを、詳細な計画を立てて行くようなタイプの人間ではなかったはずだ。彼にとって本来旅とは、偶然の出会いと感傷であり、その余韻のようなものを歌として結晶させようとしている気がしてくる。

この旅がなされた昭和三十一年頃の平泉の駅から毛越寺へ至る道と言えば、本当に心許ないほど細い寂しい道であった。また舗装もなされていなかったはずだ。10月も終わりともなれば、駅から見える金鶏山や関山も、かなり紅葉が進んでいたと思われるが、そのことは歌に詠み込んではいない。歌人はおそらく目に見えぬものを探していたのかもしれない。ともかくこうして歌人は毛越寺の門をくぐり、真っ先に大泉が池に行く。そしてやおらノートを取り出して、次のような三首を詠んだ。

岸に逝く時のむなしさみちのくのいにしへ保つ池の中島
昼の星見えざる理由(わけ)も偲びつつ曇れる池の汀にぞ立つ
しげりたる凹地(あふち)の草は秋おそき曇の空の下に紅葉す

歌人は、見えない何ものかを池のほとりに立って探した。じっと目を閉じたかもしれない。ふっと星影が浮かぶ。何故昼間に星は見えないのか、などと思わず心で叫ぶと、この大きな池が、まるで天空のようにも思えたのであろう。目を開けると何も見えない。ただ池があり、池の中には中島があり、岸辺には無常な寂しさが漂っているのである。空を見上げれば、俄に重たい雲がどんよりとたれ込めている。池の周囲の木々は、それでも色とりどりに紅葉をしている。でも歌人は、やはり見えない何かをじっと探して、池のほとりに佇んでいるのであった。毛越寺を出ると、歌人はその隣にある観自在王院に行く。この寺はやはり毛越寺を創建した二代基衡の奥方が造った寺と言われている跡であり、当時は発掘調査もなされていなくて一面の草むらとなっていたのであろう。それでも礎石が草むらの影に在り、想像力逞しい歌人にとっては、何にも代え難い発見であった。焼亡した寺は無くとも、石が何かを歌人に語りかけてくる。

亡びたる観自在王院紅葉せし草に隠るる石も踏み行く
木伝ひて栗鼠が食むとふ樅(もみ)の実の青き剥(へ)ぎがら散りぼふを踏む
 

2 中尊寺

宮柊二は、次に中尊寺に行く。行程としては、観自在王院を北に伸びる古道の坂を上り金鶏山を左に見て花立廃寺跡を過ぎ、中尊寺に向かったと思われる。

中尊寺の月見坂と呼ばれる参道でこんな歌をノートに書き留めた。

杉の根の道に小暗く入り組める窪み窪みに雨水のこる

杉の古木が立ち並ぶ月見坂は、坂はいつ果てるともなくだらだらと続く。歌人は杉木立を道端を眺めながら、息を切らせて進む。天上からは木漏れ日が長く伸びて藪のそこかしこに光の焦点を当てている。上の歌は、窪みに昨夜にでも降った雨水が溜まってキラキラと眩しく光っていたのであろう。

関山中尊寺は、かつて大和と蝦夷を分かつ関所であった。それ故、中尊寺の寺名には、「関山」の名が冠されている。この地を敵味方に分れた無数の将兵、商人が夢を抱きつつ往来した。この「前九年五三年の役」と呼ばれる戦乱では多くの者が傷つき死んでいった。

その後、運命の定めに従って奥州の覇者に収まった初代清衡公は、荒れ果てていたこの平泉という夢の跡に、人間だけではなく鳥獣に至るすべての生命たちが平和裡に生き得る楽土を実現しようと志したのである。そして彼は奥州の特産物である黄金をふんだんに使ってひとつのモニュメントを創った。もちろん金色堂である。6m四方の小さな範囲に収まる阿弥陀堂だが、この金色堂には清衡公の平泉建都の思いがすべて込められていると言っても過言ではない。今は覆堂と呼ばれる囲いの中に鎮座しているが、往時には、中尊寺の小高い山の中央に眩しい日の光や月の光を反射しながら輝いていたと言う。

遣りがたき心足らふとあらねども北上川見ゆ衣川見ゆ

やがて歌人は、東物見に立って、北の大地に思いを馳せる。そこにはため息の出るような美しい眺望が広がっていた。ホンニョが立ち並ぶ秋の田んぼと左から右に流れる衣川、そしてすべての人の思いを包み込むように流れる大河の北上川。なだらかに伸びる束稲山の稜線。いくら見ても見飽きないような景観がそこにはある。しかし離れがたい気持ちを抑え、この絶景を目に焼き付けて、すぐにこの場所を去るのである。美とはそうした刹那の中にこそむしろある。

歌人はただ真っ直ぐに金色堂に向かう。本堂を過ぎ鐘楼を過ぎ弁天池を右に見て遂にその金色堂の前に立つ。おそらく歌人にとって、そこまで歩いた周囲の景色は目に入らなかったかもしれない。とにかく実際に金色堂というものを観たい。それはどんな感じのするものか、そのことばかりを考えて胸がわくわくしていた。

木々のかげ揺れをる土のかがやかに昼晴れてこし覆堂の前

毛越寺の大泉が池に立っていた頃、空は雲が覆いかけていたが、中尊寺に来ると杉の木陰から金色堂に秋の日射しが差し掛けていたのであろう。明らかに歌人は、覆堂の前に立って、その奥にある金色堂をイメージしている。思いの外覆堂が古く屋根も柱も焦茶色になっている。でもそれらのことは歌人にとってはどうでもよいことである。歌人の心の中では、往時、この金色堂が素っ裸のまま、この場に聳えていて、秋の日射しを浴び、皆金色に輝いている姿が見えている・・・。
 

3 金色堂で

そっと覆堂の中に入り、鈍い輝きを放つ金色堂をじっと観る。思ったよりは、小さいものだな、などと、一瞬思ったかもしれない。しかし少しして、そのお堂全体から来る圧倒的な偉容に、何か空恐ろしい亡者の執念のようなものを感じ、背筋に冷たいものが走る。それは自分の描いていたイメージとは、まったくかけ離れた不思議な浄土世界があったからだ。こんな時には、割と大人しい歌がふと浮かんで来るものである。

金の箔さむく匂ふとおもほゆるくらき奥処に仏を覗く

芭蕉の句に、「蛍火の昼に消えつゝ柱かな」というのがある。もちろんこの句は、「奥の細道」には納められていないので、知る人は少ない。確かに名句とは云えないかも知れないが、芭蕉の感性の鋭さがにじみ出ている作である。この句は、金色堂の中の螺鈿(らでん)の柱に浮び上がる妖しいまでの光の揺らめきを詠んだものだが、薄暗いお堂の中に入った時の得体の知れない恐怖感を美的に写し取った句と思われる。そして何か芭蕉の心が、一瞬凍り付いたようになっているのがよく分かる。同じような感覚を宮柊二という歌人も又持ったようだ。

古き代の金ややに紅し差し向くる灯にうかびきて柱かがやく

それ以上に言葉はなかった。妖しい光が歩を進めるたびに、螺鈿の柱に反射し、微妙に蠢(うごめ)くのである。もはやここまで来ると、金色堂というお堂がどの程度の大きさなのかなどと考える者はいない。浄土の世界そのままに無限に拡がる宇宙がそこにはある。

魂が抜かれたようになって歌人は表に出る。そして心を取り直し、中尊寺の宝物殿である讃衡蔵に向かう。そこには様々な宝物に混じって、初代清衡公の棺の中に納められていた赤木柄螺鈿横刀が展示されていた。横刀というのは、真っ直ぐな刀で、反りの入った太刀とは区別される。往時、清衡公は、この刀を大事にしていたのであろうか。柄の部分の使われている赤木という木は東南アジア産の堅材である。この貴重な輸入材を使い、細工には夜光虫の貝を用いてススキに蜂、桜などの日本的文様が象嵌(ぞうがん)されている。しかしこの宝物には刀の部分は何故か刀の部分はなく、寂しさのようなものが漂っている。武士の命である刀の部分が消えているのだから、それも当然だが。その近くには、清衡公が眠っていた金箔で覆われた黄金の棺と清衡公の御手に掛けられていた数珠も添えられていたのであろう。歌人は、亡者となった権力者藤原清衡公のご遺体は見ていないものの、800年余りの時を越えて、ここまで露わにされている栄華を極めた人物の現実に哀れを感じているのである。心の中で、歌人は南無阿弥陀仏と唱えたかもしれない。

清衡が棺のなかにのこりたる螺鈿横刀の柄もかなしき
見廻りてこころに痛し古人の入りそ棺も残る念珠も

中尊寺の細い参道を下りつつ帰路につく。ふと僧坊に目をやれば、秋の日を浴びてひっそりとしている。その庭先には百日紅の木が立っている。もちろん季節柄花は付けていない。歌人の心には、中尊寺という古刹での短い体験が、金色堂で見た螺鈿の柱の光のようにゆらゆらと蠢いている。それは一種のカルチャーショックであり、容易に整理の付くことではない。

くだりくる中尊寺みち僧房の庭ひそけくて百日紅立つ

何故か、歌人の心に、病の床にある老いた父の顔が浮かんだ。清衡公の思いが染み込んだ中尊寺の金色堂に来て、最後に浮かんだのは、どういう訳か、父の面影であった。歌人は、中尊寺の伽藍を創建した清衡公に哀れを感じた。確かに当時の伽藍は、そのほとんどが焼亡の憂き目に遭っている。しかしその中にあって金色堂だけは、皆金色の荘厳を今に残して凛として存在している。金色堂は、栄華を極めた一族の思いが放つ残照かもしれない、歌人はそんなことを思ったのであろうか。もちろんその思いとは、この平泉の地に極楽浄土を創るという祈りである。

・・・やがて歌人は、清衡公へ感じた強い憐憫(れんびん)の情を自身の父の労りへと向けた。そして中尊寺の売店で黒光りする南部鉄の風鈴をひとつ買って父への土産とした。

病む父にきよく音鳴るくろがねの風鈴ひとつ購(あがな)ひにけり

その風鈴の音は、きっと中尊寺の鐘楼の音がしたことであろう。もちろん鐘楼の音に清衡公が賭けた願いとは「苦しみを取り去り、楽を与えて、あまねく命あるものは皆は平等である。・・・鐘の音が地を動かす毎に無実の精霊たちを浄土の世界へ導きたいものだ」という中尊寺創建時に清衡公が起草させた「中尊寺供養願文」の祈りにあることは言うまでもない。了

佐藤弘弥
 

 


2002.9.16
 

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